コンチェルト

(朗読なし)

コンチェルト

二〇三号室

  ね 君 なにを 思うの
  そんなこと 分かりません
  夢を見ましょう 虹の向こうまで
  思いはうしろから
  付いてくればいいのさ
  プリズムをかざしたなら
  七色のひかり笑うよ

  ね 君 どこへ 向かうの
  そんなこと 分かりません
  夢で逢えたら 虹をあなたまで
  届けてみたいよな
  憧れもあるのです
  プリズムに託したいな
  あなたへのひそかな思い

 二〇三号室。あなたのヴァイオリンがメンデルスゾーンのコンチェルトを奏で始める。学生がお決まりの名曲を演奏するのは当然のことだ。ピアノの音は大きいので、僕は精一杯までピアニッシモにして、伴奏を務めなければならない。始まりからテンポが狂ってるって、あなたは先生から注意されていたっけか。

「ほら、また早くなった」

「うん、そうかなあ」

「そうさ、それにしても」

 それにしても、ちょっと不思議だ。テクニカルコースは難なくこなせるのに、穏やかにストレートな表現が、うまく噛み合わないのはどうしてだろう。あるいはそれは、二人の波長がぴったり一致していないせいなのだろうか。僕はどうやら、馬鹿なことを考えているらしかった。

「本当は、歌って合わせてみるのが、一番いいんだけれど」

「歌ってって、声楽で?」

「そうそう。なんか歌詞でも付けてやろうか」

「ええっ、これに歌詞つけるの」

「Ja, ich schreibe einen Text」

(ヤア、イヒ シュライベ アイネン テクスト)

 好い加減なドイツ語で答えてみせる。早川先生の授業を、半分眠りながらに覚えたものだ。自分を表す「ich」(イヒ)はまだしも、三人称が男なら「er」(エア)で、女なら「sie」(ジー)だとか、本当に訳が分からない。英語がいかに効率的な文法だったか、寝てばかりいた高校生時代をうらやむくらいのものだ。そうでなければ、ローマ字読みと戯れていられる、イタリア歌曲の授業のほうが、どのくらいマシだか分からない。

 それにしても、早川先生は、僕のことばかりよく指名する。質問されると黙ってうな垂れてしまう生徒が多いのを、僕が出鱈目にでも答えてくれるのを、いい相方が出来たとでも勘違いしているのだろうか。漫才コンビじゃあるまいし。そうだとしたら、迷惑な話しだ。

「なにそれ、いきなりドイツ語なの」

彼女は目を丸くしている。どうせドイツ語の勉強なんて怠けているのを知っているから、

「Trocken beerenauslese」

(トロッケン ベーレンアウスレーゼ)

と答えてやった。これはドイツワインの格付けの名称である。

 僕が知っているのは、しょせんこんな言葉だけなのさ。本当は「カビネット」とか「シュペートレーゼ」とか、色々あるのだけれど、名前だけ覚えたって、買って飲むのは「カビネット」くらいのものだった。それでも、実家に戻ると、まるで価値を知らないデパートが、結構な年代物を二千円とかで平気で販売していることがある。そんな当たりに出くわした時は、まるでグレードの違う酒でも飲んでいるような、変容をとげた熟成の味わいを楽しめることを、僕は大学生ながらによく知っていた。クラシックには、焼酎では駄目なんだ。ワインこそ、世界で最高のアルコールに違いない。

 ……話しがそれてしまった。どうせ彼女は、ドイツ語なんて怠けているのだし、ワインなんか興味も無さそうだったから、僕が普通の文脈を答えたとでも思ったのだろう。それが、ちょっとおかしかった。

 けれども、小さな背をしてほほ笑んだときの愛くるしさと、はきはきと物を言い合えるような性格が、僕にはなんだかフィーリングが合うのであった。僕は知らないふりをして、

「素敵な歌詞が出来ましたって意味さ」

と滅茶苦茶なまとめをしてしまう。

「ふうん。どんな歌詞」

会話が繋がってしまうから面白い。

「いいですか。ちゃんと覚えてくださいよ」

と冗談を飛ばすと、彼女は慌てて楽譜の横に手帳を開きだした。変なところで真面目なのが、ちょっぴりチャーミングだ。

「出だしからね」

「うん」

「夢で会えたら君と二人。照れくさくって言えない思い」

彼女は必死になって書き記している。

「伝えられたならいつの日か、口づけ交わす日もありますか。そなんな思いも、もどかしく燻る胸のうち、いつか叶えよと願います」

何とか書ききったようだ。僕は変な勘ぐりをされる前に、つい、

「たしか初演の時に、ヴァイオリニストのフェルディナンド・ダヴィッドが冗談で付けた歌詞だったよ。もちろん僕の翻訳だけどね」

と出鱈目を口にしてしまった。あるいは狼少年として、いつか糾弾される日が来るかも知れないが、ようするに照れくさかったのである。ちょっとだけ、彼女へ引かれるような思いがあると、見抜かれるのではないかって……

「ダヴィッドって、たしかヴィターリのシャコンヌが、本当は彼の作品じゃないかとか、改作したんじゃないかってウワサのある人よね」

 さすがにヴァイオリン科、よく知っている。先生にこんな歌詞を知ってますかなんて質問されたら、後で困ってしまうと気づいたら、急にからだが熱くなってきた。

 まあいい。済んでしまったことだ。それに見栄っ張りの先生だから、知っているなんて澄まし顔に答えるに決まっている。

 すっかり忘れていたけれど、彼女は、前の試験ではヴィターリのシャコンヌを弾いたんだった。まだ伴奏を頼まれるより前の話だ。この作品は、今となっては、バロック時代のヴィターリの作品では無いだろうとされているから、学生たちの間では「ニセシャコ」と呼ばれている。しかし「偽」の名は冠していても、繰り返す低音旋律のたびに高まっていくような情熱が、次第に我を忘れていくような作品となっていて、なかなかに隠れた名曲なのだった。もちろん、セバスチャン・バッハのように精巧なものじゃない。その代わりパッションの表出においては、ちょうど息子のカール・フィリプ・エマニエール・バッハの多感主義が乗り移ったような、霊感の沸き起こる瞬間が確かにあるように、僕には思えるのであった。ちなみにバッハの有名なシャコンヌは「ホンシャコ」とは呼ばれない。無伴奏だから「ムバシャコ」である。ほとんど寿司ネタの世界に近かった。

「はい、さっそく歌ってみましょう」

「ちょっと、本気なの」

「当たり前じゃん。テンポを保つためには、実際に歌ってみるのが一番。さっそく伴奏するからさ」

「わ、ちょっと待ってよ」

彼女は慌ててヴァイオリンを置いた。

「音程が出ないところは違っててもいいから、とにかくテンポに注意して。よろしく」

僕はさっそく、弱音ペダルを踏みながら伴奏を開始した。わずか一小節半で歌が始まってしまうのである。

 彼女は見事だった。音程もしっかりしているし、不自然なところがどこにもない。テンポだって全然早くならないのである。どうしてヴァイオリンだと走り出してしまうのか、かえって不思議なくらいだった。彼女の音楽センスには、いつも感心させられるくらいのものだ。

「おかしいねえ。歌だとちゃんとテンポが保たれてるよ」

と聞いてみると、

「そうかなあ。ヴァイオリンも同じように弾いているつもりなんだけど」

「いや、やっぱり早くなるんだ。ちょっと馬鹿みたいだけど、何度か歌をあわせて、それからヴァイオリンに戻ってみよう」

と先生みたいに指示を出すと、

「はーい」

と素直に頷くのであった。

 二重サッシの窓の外から、イチョウの枯れ枝が殺風景に覗いている。冷たそうな風が吹き抜けているのだろう。ときおり震えるように揺すられるのだった。ここは二階だから、鉄筋コンクリートの向かい側の、そそり立つような校舎が、目の前にそびえている。それでも中庭には、樹木が立ち並ぶくらいのスペースがあって、見下ろすとちょっとした、庭園みたいになっているのがオシャレである。夕暮れになると、大正時代のガス灯みたいな、暖かいランプが灯るのがお気に入りだった。日が当たりにくいものだから、池には氷が張っている。そうして後期試験まで、あと二週間に迫っているのだった。



 ようやく第二主題まで進めたとき、僕らは休憩を入れることにした。今日はいわば部分練習だ。学生同士だから、一歩ごとに踏みしめるように合わせていく。一分の二拍子の声楽曲みたいな足並みである。

「ねえ、ピアノの方は大丈夫なの」

 彼女が、ヴァイオリンのメンテをしながら聞いてきた。

「全然駄目、代わりに弾いてよ」

 彼女は、副科で演奏するピアノが、なかなかうまいのである。小さい頃は、ヴァイオリンと一緒にやっていたのだそうだ。

「お母さんが、ヴァイオリンだけやっていたらヤクザ者になってしまうってピアノをやらせたの」

と、冗談とも真面目ともつかない口調で教えてくれたのを、僕は思いだした。

「私が弾いたら落第しちゃうよ」

「うん。俺が弾いても落第しちゃうんだ」

「なにそれ。伴奏だってちゃんと弾けてるじゃない」

「だって、この前も、もっと音量さげろって注意されたし」

「まあ、伴奏だから」

「ピアニッシモこそ匠(たくみ)なりってね。ささやき声くらい難しいものはないんだ」

「つい、熱が入ると大声になっちゃうのは、私にもあるわ」

 彼女はピアノの隣りまでやってきて、それから譜面を覗き込んだ。僕はなんだか急に照れくさくなってしまう。

「それにしてもやっぱりホ短調は名曲だな。こんなルーズな甘ったるいメロドラマ調なのに、全体の構成が保たれてる第一楽章にしたって、他に類をみないよ」

「ねえ、それって褒めてんの」

「当然。最高の賛辞じゃないか」

「そうかなあ」

 彼女は、なんだか白い目で見つめている。一言居士(いちげんこじ)の僕の性格は、すでによく知られていたのである。

 遠くからトランペットが響いてきた。試験前だから、いろんな部屋で合わせが行われているのだろう。あれは確か、フンメルのトランペット協奏曲だ。ベートーヴェンよりルーズな構成が、ロマンの息吹を奏でるうちに、やがてはメンデルスゾーンらが登場する、準備が整えられていったのかも知れなかった。

「そうだ、せっかくだから、試験が終わったら二楽章も合わせてみようか」

不意の思いつきを装って聞いてみる。実は前から考えていたことだった。

「いいわよ。試験さえ終われば、こっちのもんだわ」

もちろん、追試なんてことにならなければ、こっちにもんである。

「でも、まずは、打ち上げをしてからだな」

「じゃあ、またみんなで飲み会だね」

 僕ら、音大生なんだから、もうちょっとおしゃれな店に向かえばいいものを、サラリーマン御用達(ごようたつ)の居酒屋ばかりに通うのは、島国精神の宿命なのだろうか。

「ひと休みしたら、また合わせてみよう」

 僕はちょっと疲れたので、二つ並びの横長机のうえへ仰向けに寝転んだ。そのまま転がっていると、彼女が冗談に、自分のジャケットを掛けてくれる。後期試験だから、暖房が効いているとはいえ、外気の冷え冷えが伝わってくるようにも思われた。西日が下りつつあったから、部屋には照明が灯されていた。

 ふわりと暖かいものが覆い被さったんで、僕はなんだか照れくさくなってしまう。わざと眠ったふりをして、横になったままとぼけていた。

 扉を叩く音がする。ヴァイオリンの同じ門下生が、様子を見に来たらしかった。ぐるりとひねって、厚い扉を開ききる。これは音もれのしない扉である。

「ねえ、どう、うまくまとまった?」

 年中ブーツを履いているエスカレーター組だ。この音大には附属高校があって、そこから上がってきた同門のヴァイオリン科である。

「ねえ、聞いてよ。歌わされたの」

と彼女がぼやき始めた。

「何それ、新手のいじめ?」

僕は知らない振りして、横たわったままでいる。

「そうなの、いじめなのいじめ。それよりそっちはどうなの」

「うん、ラロのスペイン交響曲が」

で言葉を切ったので、なんだと思っていると、

「踊るプヨ状態に」

と訳の分からないことを言い出した。それから二人で大笑いしている。あるいは、ゲームの『ぷよぷよ』で、泡がさ迷うくらいに混迷を深めている、といった意味かも知れない。

 ブーツのやつ、変な言葉を発明するな。

 こっちまで吹き出しそうになってしまった。二人共よっぽど壷にはまったらしく、しばらくは笑い声ばかりが響いてくる。それにしても女というものは、実によく壷に陥るものである。そんなことだから、だらしない男に掴まったりしてしまうのかもしれない。とは言え、僕もおかしい。薄目を開くと、いつの間にか彼女が近くに迫っていた。

「ねえ、ちょっと踊るプヨ状態、聞きにいってくるね」

と言い出すので、

「じゃあ、ここで休んでる」

と二人を送り出したのであった。

 正直、集中しすぎて頭がショートしそうだ。ちょっとだけ睡眠が欲しい。僕は何ごとにも、延々と続けるのが苦手なタイプである。スタミナがないなんて、馬鹿にしてはいけない。集中しているときの活動は、皆さんにだってそう簡単には負けないのだ。

 はてな?

 皆さんって誰だろう。

 僕は誰に話しかけてしまったのだろう。

 そんなことを考えながら、だんだん頭がぼんやりしてくる。人生とは眠りさなかを夢見てまわる、走馬燈(そうまとう)のようなものである。はたしてそれは、誰の格言であったろうか……

木造校舎

  ね その 指を ください
  つかの間を 踊りたいな
  肩抱き寄せて 夜が更けるまで
  打ち明けることなど
  やっぱり出来ないから
  吸い込まれそうな瞳
  ずっとずっと眺めている

 淋しい夢を見た。

 僕はいつの間にか、小さな木造の音楽学校に紛れ込んだ。

 不思議なことだ。今どき音抜けのする、こんな間抜けな、木づくりの音楽学校なんてあるわけがないのに。

 いつものように練習室の鍵を借りていると、二階のチェロの響きがそのままに、受付に伝わってくるらしかった。受付では数人の生徒らが、練習室を探しつつたむろしている。かと思ったら、その実おしゃべりを繰り広げているばかりだった。

 やっぱりおかしい。こんな校舎じゃ、ピアノなんか弾いたら騒音だらけで、手の施しようが無くなってしまう。それがまるで土曜日でもあるかのように、学校はどことなくひっそりとしている。ただチェロの音ばかりが、のたくるみたいに響いてくるのだった。

 鍵は二〇二号室。二階の端の部屋である。もちろん二〇一号室だって存在する。しかし、今では楽器置き場にさせられているから、たとえピアノを弾くだけでも、相当の覚悟が必要だった。滅多に使われることもないのだから、二〇二号室が隅(すみ)だと考えても差し支えない。たとえ隣室を借りる人がいても、音は片方だけですむわけだ。

 そんなことを考えながら、階段を上がると、廊下は静まり返っている。チェロの音はどこかに消えてしまった。何気なく二〇三号室の前を通り抜けた。すると、午後の日射しが反射したような煌めきがあって、はっとしてガラスの向こう側を眺めたときに、あの子がヴァイオリンを弾いているのであった。急にヴァイオリンの響きだけが、こころの中にまで伝わってくる。

 けれどもその響きは、メンデルスゾーンのコンチェルトではなかった。それに、さっきとは服装さえも違っている。なんだかベージュの落ち着いた基調で固めて、ファッションを組み直したように思われた。髪の毛もココアモカっぽい。なんていっても、どんな色がココアモカなんだかよくは知らないのだけれど、前に姉さんが、同じような色をココアモカって呼んでいたような気がする。それにしても、練習している曲はなんだろう。聞いたこともないような曲だ。

 難曲のシベリウスではないし、空っぽの知名度を誇るブルッフでもない。チャイコフスキーやらブラームスではなおさらない。いったい誰の曲だろう。今までに聞いたこともないような、不思議なフレーズを奏でている。

 第一、ピアノ伴奏すらないその練習を聞いていると、すでにバッハの無伴奏みたいに隙がない。それでいて響きは後期ロマン派の、例えばスクリャービンが長寿をまっとうして、無伴奏バイオリンのためのパルティータでも作ったような、神秘的な輝きに満ちている。不思議な気分で覗き込んだら、彼女が演奏を止めて、大きく手を振り始めた。

 僕は扉を開く。それはガラガラとした、昭和初期の長屋みたいな、時代錯誤のスライド式だった。辛うじて二重になっていて、音を遮ろうとしているが、かなりの響きが筒抜けに廊下まで響いてくる。練習室の壁は、小学校の放送室にあったみたいな、穴ぼこだらけの吸音装置で覆われている。木造とはいえ、防音には気を使っているらしかった。

「ねえ、今のなんの曲?」

 気になって尋ねてみたけれど、彼女はほほ笑むばかりだった。

 遠くから、金管楽器の収拾のつかない騒音が、束になってがなり声を上げている。ガラス窓から眺めてみると、向こう棟の大きな集合部屋に固まって、オケの練習をするために、管楽器の連中が群れをなして、思い思いの練習を繰り広げているらしかった。

「あんな騒音の中で、よく練習が出来るな」

「ピアノ科だから珍しく思うだけでしょ。オケの練習でそんなの気にしてたら、ぜんぜんやっていけないよ」

「そうなんだ。オケでなくってよかったよ」

「また、そんなこと言って」

と笑っている。

「ねえ、それよりさっきの曲弾いてよ。始めて聞くよそんな曲」

「あら、名曲中の名曲じゃない」

 そうだっけか。僕は首を傾げた。やっぱり思い出せそうにない。

 あなたはヴァイオリンを取り上げると、首で挟み込むみたいにして構えてみせる。それから右手の弓が弧を描きだす。すると彼女は、どこにでもいるような女の子から、すっとプロの演奏家みたいに生まれ変わってしまう。僕はその瞬間が好きなのだった。

 向かい校舎の窓ガラスには、木漏れ日がイチョウの影を映して、陰影をキラキラさせるばかりだった。集合部屋の管楽器の人影が、おとぎ話の人形みたいに動いている。まるで人間らしさだけを抜き取って、魔法によって影絵にでもしたように思われた。けれども、わずかに聞こえてくる金管の響きさえ、もう今は、ヴァイオリンの音にかき消されてしまう。

 彼女の右手の動きが、しだいに情熱を帯びてくる。和声が不協和音の連続を、果てなく続けるうちに、ついに協和音の地位を獲得したみたいに、延々とパッセージを繰り広げるのだった。

 不意に豊かなメロディーが調性で始まったとき、まるで日だまりを思い出したように、僕ははっとなって立ちすくんだ。つい、あなたの瞳を覗き込んでしまう。けれどもあなたはもう、すっかり音楽のなかに埋没してしまって、僕の視線にすら気づかないらしかった。

 パッセージがまた情熱を増してくる。終わりに向かって、抑えても抑えても抑えきれない願望が、相手を求めてやまないパトスみたいに、燃え上がってくるこの曲は、愛の賛歌なのかもしれなかった。僕はそんなことを考えながら、息もつけないくらいの高揚感を、確かに感じているのだった。



 ようやく曲が終わると、けれどもあなたは、やはり曲名を教えてはくれなかった。また僕らの、下らないおしゃべりが始まる。

「ねえ、東山先生なんとかならないの」

「うちの先生がどうかしたのか」

 東山先生は、ピアノ科全体の主任である。

「だって、副科のピアノなのに、全力レッスンなんだもん。付いていけないよ。それに」

「それに?」

「なんだか怖いわ。ハリセンみたいで」

「ハリセンって、なにさ」

「やだ、のだめよのだめ」

 また「のだめ」か。なんだか不思議なくらい、うちの音大生のあいだでは「仮面」と「のだめカンタービレ」が流行っている。「仮面」とはもちろん「ガラスの仮面」である。はたしてあれを読んで、表現力が身につくのかどうか、相当に怪しいものだけど、残念ながら、自分はよく内容を知らないのだった。

「のだめっていわれても、読んだことないし」

なんて答えると、そんなの音大生じゃないと言わんばかりに糾弾してくる。

「いや、なんか流行ってると読みたくなくなるっていうか」

そう言い返すと、今度は、

「そういうかたくな態度じゃ、若いうちからおじいちゃんだよ」

と責めてくる。それから仕舞いには、

「貸してあげようか」

なんて答えるので、肝心の東山先生の話から、すっかり遠ざかってしまった。

「それより、うちの先生がどうしたのさ」

と尋ねると、彼女はようやく思い出したらしい。

「そうそう、いつも怒ってるみたいじゃない。何も言い返せないっていうか」

「そんなことないよ、何でも言い返せるって」

「嘘。そんなのあり得ない」

「おまけにおしゃべり好きの先生だから、うまく会話を逸らしてやると、レッスンをすっぽかすことだって簡単なんだ」

「それ本当。ねえ、どうやってやるの」

彼女は本気で実践するつもりなのだろうか。

「駄目だよ、ピアノの話か、そうでなかったら写真の話か、それとも万年筆の話か……」

「ヴァイオリンの話は?」

「はい、残念でした」

彼女は膨れている。

「しょうがないじゃないか、ピアノの教授なんだから。そんなこと考えるより、練習しろ、練習」

 すると彼女は、僕があまりにも図々しく接しすぎるから、先生の方でも叱るのを忘れて、友達感覚でしゃべり出してしまうんだと結論づけた。

 ちょっと不思議だった。自分自身では、ちょっとくらいは「人間失格」を見習って、恥の多い人生を歩んでいるつもりなのに、まるで我が道を、躊躇なく突き進んでいるように見られてしまう。帰りがけの居酒屋さえも、僕が諸悪の根源となって、レッスンに励もうとする皆さまを、飲み屋に誘い込んでいるような印象であるらしかった。けれども自分は本当は、心のなかにいつも小さな壁を、他人に対して感じているような気がする……

 また向こうの校舎から、管楽器の練習が高まってくる。一緒に音を合わせるのだろう、学内演奏会も、秋の前期試験が終わったら、すぐそこにまで迫っているのだった。

「やだ、わたしも練習しなきゃ」

 ようやく思い出した。

 学内演奏どころではない。僕らには試験が迫っているのだ。

「そうだった、そのために鍵を借りてきたんだ」

 それじゃあ、おしゃべりは試験が終わってから、打ちあげの時にしよう。そんな話になって、僕は二〇三号室を逃れ出た。それから二〇二号室の鍵を開ける。スライド式の二重ガラス。彼女のヴァイオリンが響いてくる。自分もピアノ譜を取り出した。

後奏曲(こうそうきょく)

 ところがそれは、フランツ・リストの「超絶技巧」ではなかった。スクリャービンのピアノソナタでもなかった。何だか分からない、見たこともないような楽譜である。表紙を眺めてみると、スヴァトノーチェク・コルトニンツキーと記されている。これは……誰だろう?

 なんとなくロシアっぽい。けれどもまるで聞き覚えがない。あるいは、彼女なら知っているだろうか。けれども自分のやっている曲を、尋ねに行くのはおかしいし、馬鹿にされるに決まっているから止めにした。椅子に座って改めてページをめくってみると、これはソナタやエチュードではない。日本語に翻訳するところの、「後奏曲(こうそうきょく)」と記されている。

 「前奏曲」を独立したピアノジャンルにしたのは、ショパンだったか、シャルル・ヴァランタン・アルカンだったか、ロマン派の授業を曖昧に聞いていたので、なんとなくはっきりしない。しかし「後奏曲集」なんていうピアノ曲のジャンルは聞いたことがない。

 もっとも、後奏曲という楽曲自体は存在するから、エリック・サティあたりなら、そんな曲集を出版しても良さそうな気もするけど……

 それにしたって、僕はもうこれを、ずいぶん練習したはずである。なにしろもう試験直前なのだ。それがまるで思い出せない。不思議な心持ちで譜面をめくっていたら、我らが東山先生の文字で、

「フォルテ!」とか、

「弱音ペダル」とか、

いろいろ書き加えてあるところに出くわした。最近の日付まで記されている。「試験」と書いてあるから、これが課題曲に違いない。それなのに、どうしても思い出せない。先生のレッスンさえ浮かんでこなかった。

 首をひねったまま鍵盤に指を乗せてみる。すると、知らない曲なのに指先が勝手に動き出した。驚いた。すらすらと曲が再現されていく。次の音さえ分からないはずなのに、譜面なんか見る必要すらないのである。

 まるでつかの間、自分が天才になったような気がした。曲に耳を澄ませば澄ますほど、指は自由自在に動き回るのである。それも自分のスキルを完全に凌駕している。ちょっとぞっとするくらいの戦慄を覚えた。

 それにしてもこんな楽曲があるだろうか。

 まるでさっきのヴァイオリン曲みたいに、聞いたこともないようなメロディーライン。解析出来ないような不思議な和音の響きが、綿々と連なっている。かといって後期ロマン派とも思えない。減七(げんしち)でも、増四(ぞうよん)でも、ましてや無調でもない。これはいったい、なんの響きだろう?

 その分からない響きが、バスのオスティナートの反復のたびに高まっていく。左手が同じフレーズをバスに奏でるのに合わせて、響きの層が厚く成長していくように思われた。。まるでバロック時代の楽曲を、ネオロマン主義の和声に編み込んだような楽曲である。それでいて、立ち込める霧のように神秘的な、ひんやりとした心持ちがする。まるで氷上の大陸にうごめく、オーロラでも見ているような錯覚にとらわれた。圧倒的な名曲だ。コルトニンツキー。どうして今まで、こんな偉大な作曲家を知らなかったのだろうか。

 ところが、最後のコーダのところでつまずいた。どうしても指が動ききらないのである。おそらくは、ここが難問であるに違いない。あるいはそのためにこそ、自分は鍵を借りてきたのだろうか。

 それにしても、楽曲は十分くらいで終わってしまう。どうしてもこの場所をクリアしなければ、僕の追試は決定したようなものだった。ミスタッチなら許される。けれども、完全に立ち止まって、ポカンとなってしまったら、採点は無残なまでに落ちてしまう。自分としても、そんな結末だけは避けたい。打ちあげだって出来なくなってしまうではないか。

 自分は、しばらく楽譜を眺めていた。

 おかしい。こんなのは無理だ。どうしたって、指が届かない。だって、二本の腕では足りないところに、音が記されているのである。かといって、分散和音を促しているようにも思えない。こんなのは初めてだ。だって、これは四手用の曲じゃないんだ。

 あるいはこれは、左足を鍵盤のところまで持ち上げて、演奏するというあの禁断の秘術を、解禁したピアノ曲なのだろうか。西欧社会では、マナーの問題から、調性を破壊することは許されても、足で演奏することだけは、決して許されなかった。そんな伝説を乗り越えるためにあえて登場したのが、我らがコルトニンツキーの「後奏曲」だとでもいうのだろうか。僕には分からない。おまけに東山先生は、ここにはなんの指示も記していないのである。

 しばらく首をひねって、あれこれと指示記号やら、下にある英語の注釈を眺めていた。しかし高校時代にサボりすぎたためか、ろくに意味さえ分からない。

 まあいいや。

 僕は投げやりな人間である。分散和音化して演奏するのには向いていないとは思ったが、とりあえず分散和音に音をずらして、最後まで弾ききってしまった。くよくよしたってしかたがない。試験前にはもう一度レッスンがある。そこで追求してやれば済むことなんだ。

 隣から、またヴァイオリンが聞こえてきた。ようするに僕がピアノの練習を中止したから、周囲の音が聞こえてくるのだろう。ここらでちょっと一休み。

 窓辺に近寄ってみると、色づき始めたイチョウが美しかった。ちょうどお手頃な二階部屋だから、西日に照らされてきらきら光っている。二重サッシを開いてみると、澄み渡るような風が吹き込んできた。大気はまだまだ暑いけれど、向こう棟の金管の響きが、急に大きくなって、うるさいくらいだった。

 何気なく窓枠のテーブルを眺めると、緑色のノートが置かれている。なんだか見覚えのあるノートだ。懐かしいような心持ちがするのはなぜだろう。

 しばらく考えていたらようやく思い出した。たしか中学生の頃、同じようなノートに密かに落書を記していたっけ。今どきこんな時代遅れのノートなんか、売られている訳ないのに……いったい誰が忘れていったのだろう。

 何気なくめくった時に、思わずどきりとした。

 そんなことってあるだろうか。

 だってそれは、紛れもなく自分のノートだったのである。こんな特徴のある字体は、自分以外に書けっこない。「た」と「な」の区別がしづらくって、全体がやせ細っていて、すらすらと流れていってしまいそうな文体……

 それなのに、書いてあることが、まるであの頃のことではなかった。字体もあの頃のものではなく、今の字体そのものだ。慌ててページをめくっていると、大学に入学した時のことが記されている。

「今日は入学式。男子は学年にわずか二〇人あまり。全員おまけみたいに隅の方に追いやられる。男女比率が高校の頃とまるで違うので、ちょっと違和感。みんな着飾っている。僕らはもっぱらスーツで、下らない話を聞かされるのは、高校時代と変わらない。ただオケが演奏を繰り広げるところだけが音大らしかった」

なんて、取り留めもないことが記されている。いったいどうなっているのだろう。

 しかも、その内容は、自分が決して記さないような、厭世的なことばかりなのである。

「都会とか田舎とか関係ない。個体の密度が高くなりすぎたら蟻と一緒だ。必ず同質的な行動を突き進む」

なんて憤慨をしているかと思ったら、

「汚い夕日と、ヘッドライトの群れ。その時、人はものへと還元される」

なんて嘆いているページもある。僕はこんなこと、記した覚えなんかないのに……

 コルトニンツキーの「後奏曲」と一緒だ。身に覚えがないうちに、勝手に記されたノートの落書き。まさかこれは、出会ってしまったら死期も近いという、噂に名高いドッペルゲンガーが書いたものなのだろうか。

 僕は慌てて頭を振った。そんな非科学的があってたまるか。それとも寝ているあいだに、夢遊病者みたいに記してしまったのだろうか。それにしたって、二〇二号室に放置されている理由が分からない……

 心拍数が高まってきた。自分は椅子に腰を下ろすと、改めてノートを読み始めた。たしかに自分の体験ばかり、自分が記しそうもない感慨とセットになって、つらつらと書き連ねてあるのだった。



「東山先生のレッスン。怠惰の練習を極めたので、どうにかサボろうとして、ひと声かけてみる。初めのひと言ですべてが決まってしまう。
『そういえば先生、この曲のCDを買おうと思うんですが、誰の演奏がいいでしょうか』
と言うと、うまく引っ掛かってきた。こうなったらこっちのものだ。話の途切れそうなところで、
『でも、その演奏はずいぶん古いスタイルですけれど、参考になりますか』
なんて、合いの手を入れていくと、五分が一〇分、一〇分が一五分と過ぎていく。とどめに、先生は誰の演奏が好きなのですか、と尋ねると、おおよそ三〇分あまりが、会話のうちに過ぎてしまった。ほっとすると同時に、ちょっと後悔する。次回はちゃんと練習をしてから望まなければ」



 なるほど。こんなレッスンじでは、ピアノが上達するわけがない。それにこの部分は、今の自分が記したような内容だったので、ちょっと苦笑いしてしまった。

 考えてみれば、大学に入るまではずいぶん練習を重ねたはずなのに、いつの間にか、手抜きの人生を歩んでいるような気がする。学校の雰囲気に毒されたせいだろうか。それとも、そろそろ限界に気づき始めただけなのだろうか。ノートを眺めながら、ついこっちまで改まってしまった。

 まあいい。これからはもう少し練習に励もう。ちょっと心を入れ替えながら、どんどんページをめくっていく。ひとつ気になることがあった。ほら、ちょうど彼女から、伴奏を頼まれたあたりから、執筆のトーンが色調を変えていくのが分かる。まるで恋に苦しむ青年みたいだ。

「伴奏の片づけの途中、ついあの人の指に触れてしまった。暖かさが胸に残る。二人のこころが、通い合ったような瞬間」

そんな恥ずかしいことまで、惜しげもなく記されている。それは僕だって、ちょっと指に触れたときのことを、忘れたわけではなかった。しかし、恋が芽生えるほどの、大した事件でもなかったはずなのに……陰ではこんなに思い詰めていただなんて……ちょっと顔が赤くなるような気がした。

 こんなノートが練習室に放置されて、誰か読んだりはしなかったろうか。急に不安になってきた。彼女のヴァイオリンは、相変わらず向こう側から響いてくる。今はカデンツを弾いているところらしい。分散和音の特徴的なパッセージが、反復進行の和声に支えられながら、しだいに高まっていく。僕はちょっとうろたえながら、最後の落書きを探してみた。何か分かるような気がしたからである。

 だんだん日付が近づいてくる。ついこの間、伴奏者としてレッスンに付き合ったときのことも記されていた。

「冒頭がかみ合わないのは、僕と彼女の周波数が、完全に一致していないせいかも知れない。それにしても、そんなピアニッシモで演奏が出来るものか。伴奏者への要求が厳しすぎだ」

 シューマンくらいのロマンチックでなければ書けないようなことが平気で記されている。その数日前には、

「コルトニンツキーの後奏曲。完璧な演奏。これ以上練習の必要もない。これより伴奏に専念」

 なんて自分を褒めているところもある。

 どうやらノートの中の自分は、曲の最後の部分さえ、難なく演奏しきっているらしかった。それだけではない。伴奏譜の方がよっぽど簡単なはずなのに、伴奏に専念なんて書かれている。恋にのぼせ上がっているに違いないのだ。

 しかし、何気なく次のページをめくったとき、思わずノートを取り落としそうになってしまった。

 だってそこには、今日の日付が記されているではないか。

 そして、長々とした日記がつづられていた。

 そんな馬鹿な。やはりこれは、ドッペルゲンガーの仕業なのだろうか。それにしたって変だ。自分が練習室を借りる直前まで、ここで落書きをしていたとでもいうのだろうか。

 ヴァイオリンの響きは、今まさにクライマックスを迎えようとしている。なぜだか急に、彼女が恋しくなるような気持ちがした。今すぐ隣室へ駆け込んで、話がしたいような淋しさで一杯になる。こころの中がいつもと違う。自分はどうしてしまったのだろう。こんな日記にそそのかされて、疑似恋愛に陥るような年齢でもないはずなのに……

 僕は、日記の最後の部分を読み始めた。

ノートの記述

「夢のなかであの人に会った。あの人はお気に入りのヴァイオリン曲を奏でていた。木造校舎の一室で、僕らは屈託もなく語り合っている。ちょっと練習の邪魔をしてやろうと、僕が彼女の部屋へと押しかけたからである。

 彼女は小柄だった。屈託のないほほ笑みを見ているだけで、僕の心は慰められる。もちろん僕はいつも通り、さり気ない仕草をして、屈託のない話をするのが精一杯なんだ。

 そうしてこころの奥には、ぬぐい去れないような違和感が燻っている。

 人と触れ合えないような違和感。隠し通してきた苦しみを、誰かに受け止めて貰いたいような淋しさが、なぜかしら彼女と話していると、大きく膨れあがってくるらしかった。

 そうしてまた、不思議な感覚にとらわれる。

この子の笑顔を、ずっと眺めていたような。

けれども眺めるほどに、切なくてたまらないような。

……なぜこんな近くにいるのに、

この人は自分のものにならないだろう。

 生まれてからずっと、人とはまるで分かり合えず、独りぼっちで歩いてきたような悲しみが、ぷかぷかと心の深みから浮かび上がってくる。

 ああ、でもこの人だって、僕がわずかでも闇をまとった姿を、真面目な表情でありのままに提示してみせたら、たちまち何かを恐れるみたいに、遠くへ逃れてしまうに違いないんだ。

 そんな苦しみを隠しながら、僕はいつまでだって冗談を続けてみせる。だからあなたは気づかない。ただ僕を友達みたいに思って、ひとりの男としては見てくれないんだ。でも構わない。僕はいまが幸せなのだ。ここは夢の中らしい。僕はそのことを知っている。そうして、夢だけは人のこころを傷つけない。翌朝の透明な涙は、映画のなかで流した涙みたいに、人の心を慰めてくれる。決して突き刺すようなことはしない……

 もしそうだとしたら、

僕は今この場所で、

あなたへの思いのすべてを、

伝えてしまってもいいのだろうか。

 彼女が優しく受け止めてくれたなら、僕はもう独りぼっちではなくなって、嬉しくってその手を握りしめ、どこまでも駆け出してみせるのに。それはきっと穢れなんか知らないような、日だまりの大草原に違いないのだ。

 僕は都会なんか嫌いなんだ。単純に考えたって、一定数より密集させた人間は、動物的な傾向を強めるに決まっているじゃないか。社会システムの方が、人間同士の能動的な活動より、優位に作用するに決まっているじゃないか。

 でも、あなたは都会っ子だ。

 街で遊んでいるのが楽しいという。

 やっぱり、僕らはうまくなんかいかないのだろうか。わずかでも心をさらけ出したら、急に遠くへと羽ばたいてしまうのだろうか。

 夢のなかでさえ、屈託からは逃れられきれなかった。それでも悲しみは遠ざかり、突き刺すような痛みは宥められ、無邪気な会話の向こうには、イチョウの葉っぱが舞い続けている。

 こんな穏やかな二人ぼっちを、一緒に歩んでいけたならどうだろう。僕らは木造校舎の住人となってしまい、夢に取り込まれたまま、はしゃいでいられたらどうだろう。

 僕はそんな思いに耽ったり、あるいは二人の会話を、遠くから眺めているような錯覚にとらわれたり、不意にあなたの笑顔に驚いて、慌てて答えを返したり、つかの間、幸せの時を過ごしているのだった。

 それでいて僕は、こんなに近くにいるあなたの、肩に触れることすら叶わない。

 埋められないような心な防波堤。それだけが寝ても覚めても、僕のまわりを被っているような気がしてならない。どうしてなんだろう。あるいはこれは、自分の悲しい本能なのだろうか。

 でも、ここは夢の中。

 苦しみさえも抽象化されて、すべてが秋色に溶け合って、木造校舎の懐かしさに、癒されていくような夢の中。二人ぼっちの世界。あなたの鼓動が、こんなに近くてリアルなのに、それでいてどこかおとぎ話めいている。そんな矛盾を楽しむみたいにして、無頓着に息づいているような、そんな不思議な夢の中。

 だとしたら僕は、今すぐあなたの肩を抱き寄せて、思いのすべてを打ち明けてしまってもいいのだろうか。そうしてあなたが僕のことを認めてくれて、二人は柔らかな口づけを交わし合う。もしそうなったら、夢からはかなく覚めた後だって、僕はその優しさだけを胸に、穏やかな気持ちにだってなれるような気がするのだけれど……



『ねえ、私の伴奏頼まれてくんないかなあ』

 あの日のあなたがこころに浮かんでくる。

 不意に目の前に現れた、あの丸い瞳。それが、淋しい僕のこころを奪い去ってしまった。何気ないふりをして、さりげなく尋ね返してみる。

『何の曲をやるのさ』

 するとそれは、学生の試験曲の定番、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトだった。

『なんだメンコンか』

『なによ、メンコンを馬鹿にする気なの』

 彼女は、訳の分からない憤慨を始める。ほとんど初対面のはずなのに、夕べの友達みたいに話してくる。そういうことが、僕には羨ましくってならなかった。

『こんどの試験曲なのよ。前に伴奏してくれた子、課題曲が難しすぎて、伴奏どころじゃなくなっちゃって』

『試験曲の伴奏ねえ』

 もちろん僕はその曲をよく知っていた。冗談で人と合わせたことさえあったくらいだ。

『じゃあ、ちょっと試しに合わせてみようか』

『今すぐに?』

『あたりまえじゃんか』

『じゃあ、引き受けてくれるってことでいいの』

と彼女が心配するから、

『まあ、いいことにしようか』

なんて答えてしまう。彼女は大喜びで、

『じゃあ、練習室の鍵を借りてくるね』

そういって、受付へと向かったのであった」

不思議な詩

 僕は、ノートから目をそらした。

 そうだった、あの日あなたは、まだろくに練習すらしていないのに、ずいぶん器用な初見でコンチェルトを弾ききって、僕のこころを捉えてしまったのだった。たしかに有名な曲だから、フレーズくらいは覚えていたには違いない。さらってみたことだってあるのだろう。けれども初見で、カデンツのところまで弾ききってしまうとは、僕は思っても見なかったのである。

 だけど、ちょっとおかしい。たしかメンコンの練習は、かじかむような冬の季節に、暖房を高めながら合わせたはずではなかったか。そして冒頭のメロディーをうまく合わせきれなくて、彼女に歌わせてみたことさえあったのに。

 それに、いま彼女が練習している謎のヴァイオリン曲。あれこそが今度の試験曲ではないだろうか。僕は伴奏なんか頼まれもせず、コルトニンツキーの後奏曲と格闘している。このノートの中と、今の状況が、ぴったり一致していない。

 不意に、隣りのヴァイオリンが聞こえなくなる。どうしたのかと思っていたら、ほどなく、彼女が練習室の扉を叩き始めた。わあいと手を振っている。

 思わずノートを隠しそうになってしまう。しかし、僕はそれほど愚かではなかった。さもなんでもないという風に、ゆっくりノートを鞄の中へ仕舞い込んで、それから手招きをしてみせる。不自然なところはどこにもない。彼女はがらがらと扉を開くのだった。

「おじゃまするね」

と入ってくる。ちょっと不思議そうな表情をしているので、心を読まれているのかと心配になった。大丈夫、おかしなところはどこにもない。自分は気さくを装って、

「あれ、練習はもう終わりなのか」

と聞いてみる。すると、

「そうじゃなくってさあ」

なんて覗き込んでくるのである。

 あるいは「何を隠したのよ」なんて言われそうな気がしたが、そうではなかった。彼女は、

「さっきのピアノ曲、いったい何の曲なの。聞いたこともない」

と聞いてきたのであった。

「ああ、これか」

自分はようやく安心した。それから楽譜を叩いてみせる。

「だって、さっきヴァイオリンの曲名教えてくれなかったしなあ」

とからかうと、

「ええ、だって知ってるのに、わざと聞いてくるのかと思ったから」

なんていい訳している。けれども彼女が改めて、

「あの曲はね、スヴァトノーチェク・コルトニンツキーの無伴奏ヴァイオリンソナタの第一楽章よ」

というのでびっくりした。自分の曲でさえ謎なのに、ここにもまたコルトニンツキーが出てくるとは思わなかった。だからどちらの曲も、同じようなフィーリングに取り憑かれたのか。あまり驚いたので、知ったかぶりをする勇気すら無くしてしまい、

「ねえ、そのコルトニンツキーてどんな作曲家なんだろう」

と思わず尋ねてしまった。

「それがねえ、先生に聞いてもよく分からないのよ。とにかくまぼろしの作曲家なのよ。まぼろしの作曲家」

「いや。まぼろしの作曲家って言われてもなあ」

「だって、音楽辞典にも載っていんだもん。発見されたばかりなのかなあ。ねえ、なんか知らない?」

「こっちが聞きたいくらいだよ。実は、さっき弾いていたピアノ曲も、そのコルトニンツキーの作曲なんだ」

「いまのが?」

「それも、後奏曲集なんて、耳慣れない楽曲だから不思議さ」

「だって、あんなに弾けるんだもん。練習と同時に、作曲家についても調べてみたんでしょう」

 さすがに練習した記憶がないとは、口にする勇気が出なかった。

「やっぱり、調べても分からなかったのさ」

と誤魔化してしまう。

「東山先生は教えてくれなかったの」

「うん、やっぱりまぼろしの名曲とか言ってたっけ」

なんだか、実も蓋もなくなってきた。

「じゃあ、やっぱり埋もれていた作曲家なんだわ」

と彼女が言うから、

「たぶん、ロシアの作曲家で、共産主義の犠牲に処されて、名声が抹殺されてしまったんじゃないかな。それが今頃になって、評価され始めたんだよ」

なんて、もっともらしい説明を加えてしまった。

「それにしても、不思議な和声だわ。ちょっと最初のところ弾いてみてよ」

 何気なく椅子に座ったら、知らないはずのその曲が、やっぱり自由自在に指先から生まれてくる。自分のスキルを遥かに超えて、指が超絶技巧のダンスでも踊るような動きを見せた。あまりの素早さなので、彼女も目を丸くして、

「そんな難しい曲が弾けたんだ」

なんて覗き込んでくる。その瞳があまりにも深いので、また自分は照れくさくなって、

「まあ、本気を出せばこんなもんさ」

と冗談にしてしまった。どうして指が動くのか分からないなんて、嫌みったらしくて言えなかったからである。

 それにしても自分は、ささいなひと言でさえ、あれこれ推し量った上でないと、口に出せない悲しい習性があるらしい。本当は、感じたままを伝えたいと思ってはいるのだけれど……

 彼女は、譜面台から楽譜を奪い取って、しばらく眺めていたが、

「そうだ、英語の解説。ちょっとくらい読めるでしょう」

「読めるでしょうって、読めないさ。英語なんか苦手だし」

「だって、この間、何だかぺらぺらしゃべってたじゃない」

「あれは、ドイツ語だよ。ドイツ語」

「そうだっけ」

 彼女は、結構な腕を持っているのに、留学の希望とかは無いのだろうか。あっちへ行ったら、どうしたって語学の勉強が必要なのに。それは自分くらいのピアノ科だったら、国内に籠もって一生を終えてしまうから、語学なんか必要ないのだけれど。

「じゃあ、いちおう読むだけは読んでみるか」

 後ろの解説をめくってみると、横文字がびっしり埋まっているんで、途端にくらくらしてきた。ちょっと目眩の真似をして、頭を変な風に揺すってみせると、それがよほど可笑しかったのだろう、

「ちょと、なにそれ、目眩なの」

といって、彼女はまた吹き出してしまった。ぷよぷよ以来の壺にはまったらしい。わざと同じことを繰り返して見せたら、ますます笑いだすので、だんだん自分でもおかしくなってきて、最後は二人そろっての大笑いになってしまった。あるいはノートの自分は、こんな幸せの瞬間ばかりを、求めて苦しんでいるのだろうか……

 英語の解説はさっぱり分からなかった。

 ただスウェーデン生まれのロシア系の作曲家であり、やはり共産主義の時代に、不遇の生涯を余儀なくされたらしい。ショスタコーヴィチとの交友のことも書かれていた。つまりは彼と同世代の作曲家である。

 光と影、名声と絶望。イデオロギーと弾圧。僕は海外での演奏活動を閉ざされた天才ピアニスト、アナトリー・イヴァノヴィチ・ヴェデルニコフのことを思い出す。政治指導部のお気に召さない音楽を作曲したり、演奏したりするだけで、生命の危機にさえ晒されなければならなかった、ソビエト時代の孤高の英雄。そしてグレン・グールドとヴェデルニコフだけが、二十世紀のあまたの演奏家の中で、次世代に名を残すべきピアニストなのではなかったか。

 そんなことを考えながら、ちっとも分からない解説を眺めていると、自分の課題曲である『後奏曲第八番』のところに、我らが東山先生の落書きがしてあるのを発見した。どうやら、英語解説の詩をもとにして、日本語翻訳を試みたものらしい。おそらくは、曲のイメージのプロトタイプにでもなっているのだろう。面白そうなのでちょっと朗読してみることにした。

  ああ、あなたの、ほほ笑みよ
  答えなんか求めはしない。
  それより、どうかお手をください
  虹の、虹のかなたには大空
  恋は羽ばたくに決まっているのさ
  ああ、こうなったらもはや
  プリズムではあるまいかこの恋は
  思いはすこぶる君のもとまで

 あんまり仰々しくって、あんまりたどたどしいんで、彼女がまた思いっきり吹き出してしまった。

「なんだよ、せっかくうちの先生が翻訳したんじゃないか」

と注意してみせると、

「だって、思いはすこぶる君のもとまでって、そんなのあり得ないよ」

といって大受けしている。困ったものだ。

 けれども、これは相当にひどい翻訳である。僕はもう一度、彼女のために朗読してみた。彼女は笑っている。しかし唱えているうちに、自分でもおかしくなって吹き出してしまった。

「たしかに、これはひどすぎる」

「ほんと、先生才能ありすぎだよ」

といって、「すこぶる君のもとまで」のところでは、笑いすぎで収拾がつかなくなってしまったのである。

「だけど、これは先生の訳が悪いんで、元の詩のせいじゃないと思うけどな」

 ようやく心を落ち着けると、僕はちょっとだけ真面目になって、しばらく原詩を眺めていた。これはどうやら、ある種の拡大法を採用しているらしい。

「やっぱり、翻訳が拙いんだよ。ほら、英語の詩を見てみろよ。センテンスの幅が、徐々に大きくなっているだろう。いや、単語ごとにじゃないよ。意味ごとの幅がさ。これはその技法をくみ取って訳さなくっちゃ、それもすこぶるなんて変な日本語を使わないで、スマートに翻訳しなくっちゃ駄目なんだ」

「だって、日本語なんかにしたって、意味がないじゃない」

「そうでもないさ」

 僕はしばらく考えていたが、東山先生の落書きの隣に、

  あ また 君が 笑うよ
  答えなど いらないけど
  手をつなぎたい 虹のかなたまで
  恋はいつの間にか
  大空を羽ばたいて
  プリズムで解析した
  この思い君へ届けよ

と記してみた。

「ほら、これだと、原詩とはちょっと拡大のおもむきが違うけど、一字ごとに字数が増えているのが分かるだろう」

 彼女は首を傾げて、

「あ、また、きみが、わらうよ」

と指折り数えていたが、ちゃんと最後まで数えきってから、

「あれ、本当だ。そんなのおかしいよ。ねえ、なんで、なんで数がそろっちゃうの」

とキョトンとしている。

「まあ、なんていうか、才能ってやつかな」

とすっとぼけてしまった。褒められたので、頬が赤くなりそうだったからである。

「もっとも、うちの先生の翻訳のさらに翻訳だから、原詩とはずいぶん意味が違っているだろうね」

それでも彼女は感心して、なぜだか手帳を取り出して、

「ちょっと、記しておくね」

なんていって、懸命に記している。

 何でも書き付けるのは、彼女の癖らしかった。そんな仕草を見ていると、ふわふわした髪の毛が気になってくる。さっきまで、あんなノートを読んでいたのが災いして、彼女へのありきたりの感情が、不自然なまでに高まっているのかもしれない。まるで初恋の少年に引き戻されたような錯覚で、胸がどぎまぎしているらしかった。

 そんな動揺を隠すみたいに、

「それより、練習しなくて大丈夫なのかよ」

と尋ねてみる。すると、手帳を閉ざした彼女は、

「いけない。あと三十分しか練習できない。どうしよう」

と嘆き始めた。

「大丈夫だよ、また借りて来ればいいじゃないか。どうせ次の借り手なんて、いないと思うけどな」

「そうよね、でも心配だから、先に記入してこなくっちゃ」

といって、慌てて二〇二号室を飛びだしてしまった。彼女は快活だ。飛び出すときのバイバイの手の平がかわいかった。



 しばらくは取り残されたようになっていたが、頭を振って譜面を眺め直したりした。本当に今日はどうかしている。不思議なノートを読んだり、あんな詩に出会ったせいで、彼女への憧れのようなものが、デフォルメされてしまったのだろうか。初恋の中学生じゃあるまいし。冷静にならなければ……自分は練習を再開した。

 しばらくすると、ヴァイオリンの響きが帰ってきた。練習室の延長は出来たのだろうか。また初めから、あの曲を練習するらしい。二人そろってコルトニンツキー。不思議な巡り合わせ。恋をつづったノート。そして、拡大法の恋愛詩。僕はこの詩に、「プリズム」という名称をつけてやった。原詩の題名を調べようとすらしなかった。だって、こんなに形が変わってしまったら、これはもはや自分の詩ではないだろうか。

 しばらく練習を続けていると、また疲労が襲ってくる。どうも疲れやすいのは、自分の大いなる欠点だ。ぼんやりピアノの向こう側を眺めているうちに、不意にあのノートのことを思い出した。たしか読んでいる最中(さいちゅう)に彼女が来て、そのまま鞄にしまっておいたはずである。

 最後まで読み切ってしまわなければならないような気がして、そっと鞄から取り出してみる。たしかヴァイオリンの伴奏を引き受けたところまで読んで、彼女が扉を叩いたのではなかったか。ぱらぱらとめくってみると、該当箇所はすぐに見つかった。

ノートの落書その二

「そうだった。あれはちょうど、四週間前のおなじ曜日だった。僕はいつわりの言葉にも疲れ果て、帰宅列車の人混みに紛れては、なぜこれほどの人だかりが密集して、つまらなそうな表情をしながら、みずから志願して都内へと通うのか、理解もつかないくらいヘトヘトになってしまったのだっけ。

 列車をひとつ乗り越したのに、座席に座ることも許されず、吊革に掴まりながら眠るみたいにして、がたごと列車に揺られて帰っていく。

 ようやく部屋に辿り着いたら、もう練習する気力さえなくなって、今日のレッスンの復習すらそっちのけにして、風呂に入って眠りに就いてしまったのだった。そうしたら夢の中に、あなたがほほ笑んでいたのである。

 伴奏を頼まれた僕は、初見でメンデルスゾーンを合わせてみることにした。

 やっぱりこの二〇三号室。冒頭の伴奏を奏でるやいなや、ヴァイオリンのメロディーが飛び込んでくる。はっとする瞬間。不思議なくらいに息があった。初見のお遊びに過ぎないはずなのに、僕らの周波数はぴったり一致するらしい。こんな気持ちのこもった伴奏をするのは初めてだったから、つい嬉しくなってしまった。あなたへの関心が、急に高まってくるのが分かる。軽く通してみた後で、僕らの何気ない会話が始まった。

『あれ、まださらってないんじゃなかったのかよ』

『うん。まだこれからなの』

『その割には、ずいぶん弾けるんだな』

『そりゃあ、有名な曲だから、音取りくらいされてるって。それより、なんでそんなに伴奏出来ちゃうの』

『才能だって言いたいところだけど、実は前にちょっと合わせたことがあるんだ』

『なんだ。じゃあ、ちょうどよかったね』

『そうかな』

 よくよく考えると、何がちょうどよいのか分からない。しかし自分は、もう引き受けることに決めてしまっていた。伴奏をやって面白かったという経験が、ほとんど初めてだったからである。こんなにフィーリングが合うなら、専属の伴奏者に志願したっていいくらいだ。さっそく、

『正式の初合わせはいつにするのさ』

と尋ねたら、彼女は、

『そうねえ。練習しながらだから。例えば、来週の同じ曜日なんかどう』

と答えている。

『じゃあ、それで決まりだな』

 それなのに邪魔が入った。手帳に書き留めようとしたら、不意に時計のベルが鳴り響いたのである。

なぜ、どうして練習室なのに、時計のベルが鳴るんだ。

だってこれは、自分の部屋の時計の響きじゃないか。

 そう思ったとたん、彼女の顔が急に遠ざかった。

 駄目だ。待ってくれ。もっと話しがしてみたいのに。そんなことを思っているうちに、その日は、夢から覚めてしまったのであった。



 味気ない思い。あの子の余韻が燻っている。

 ひとりぼっちのベットに残されたものは、彼女へのなごり惜しさと、満たされないような憧憬と、実際のあなたを見かけたときに、普通に話せるだろうかという、ぼんやりした不安だった。だって現実の彼女は、僕に伴奏なんか頼むでもなく、不思議な和声のヴァイオリン曲を弾いているのである。それに二人は、みんなと一緒のときに会話を交わすくらいの間柄で、友達といえるかどうかさえ、あやふやな関係に過ぎなかった。

 だけど今日はあの曲のことを、ちょっとだけ尋ねてみようか。本当は夢のことを尋ねてみたい気もするのだけれど……



 次の日は夢は見なかった。その次の日も。

 僕は二、三日すると、再会の約束なんかきれいに忘れてしまった。そうして相変わらず、学校へ行くのは気が重かった。ただ、現実の彼女を見つめる機会が、前よりも少し増えたような気がする。いつになく声も掛けてみた。その答えが暖かかった。

 ちょうど一週間たったベッドの中で、また木造校舎の夢を見た。沸き上がる期待にそそのかされて、僕は階段を駆け上がる。彼女がいるような予感がしたからである。

 フロアーを上がるとヴァイオリンが響いてくる。やっぱりそうだ。僕は二〇三号室へ急いだ。期待ばかりが膨らんで、胸がはち切れそうな気がした。そしてあなたは、やっぱりこの練習室で、ヴァイオリンを弾いているのであった。いつまで待たせるのよ、そんな仕草をして、向こうから手を振ってみせる。僕は扉を開く。二人っきりの時間。メンデルスゾーンのコンチェルト。

 不思議な気持ちがする。現実で会ったあの子とおなじ外見なのに、まるで別人みたいだ。それともこの人はただ、僕の夢の中にだけ住んでいて、僕が来るのを待ちわびているのだろうか。そんな心地よい空想に耽っていた。

 それからまた、練習のひと休み。僕はあなたの瞳を眺めながら、生き生きとする唇にこころ奪われながら、何気ない答えを返しているのだった。

『うちの先生から、メンデルスゾーンの伴奏を引き受けたのか、なんて言われたんでびっくりしたよ』

『ああ、この前の副科のレッスンのときに、伴奏を頼んだことを言ってみたのよ。だってほら、少しは会話で誤魔化せるかも知れないじゃない』

『なんだ。そんなこと実践してたのかよ。それでうまくいったのか』

『それが、全然駄目なの。やっぱり私じゃあ、誤魔化しのセンスがないのかなあ』

そんなことをぼやいているから、

『メンコンの伴奏譜って、冒頭のピアニッシモが大変らしいですね、なんて先生が引っ掛かりそうなところに導かなくっちゃ駄目だよ』

『ええ、そんな器用な真似出来ないよ。今度お手本見せてよ』

『どうやって見せるのさ』

そんな下らない会話を繰り広げているのだった。



 けれどもまた、不意に時計のベルが鳴り響く。

 あっと思った。僕はせっかくの幸せを打ち破られるみたいにして、また現実世界へと戻されてしまったのである。やり切れない淋しさで胸が潰れそうだった。

 それから先週。また同じ夢を見た。きっかり一週間後のことだった。僕らは笑い合っているうちに、いつもだらしなく時計に呼び戻される。そうしてベットの上にポカンと呆けてしまう。自分は愚かだった。学校に遅れたって構わないから、目覚ましなんか止めてしまえばよかったのだ。なまじピアノのレッスンの日だったんで、その勇気が出なかった。それに、まさか本当に一週間ごとに夢で合うなんて、本気で信じてはいなかったのである。

 そうしてまた一週間が過ぎ、今日も二人は夢の中。目覚ましはもう切ってしまったから、邪魔するものは何もない。そうして僕は一つの思いを胸に、彼女に会うために眠りに就いたのだった。

 コンチェルトは完璧になってきた。プロにだってひけは取らない。あるいは試験でトップに立つことすら、たやすいように思われた。もし彼女がリズムを踏み外すことがあっても、すぐに呼び戻すことができる、そんな自信さえ心に浮かんでくるのだった。

 そうしていつものひと休み。

僕らはまた話し始める。

僕らを邪魔するものは何もない。

今日こそ彼女にすべてを打ち明けるんだ。



 夢とか現実とか、もうどうでもいい。
自分にとってはただ彼女だけが、
夢の中の彼女だけが、
本当に必要な女性なのだから……



 ああ、いつまでも今が続いてくれたらいいのに。この瞬間だけが、永遠へと還元させられて、現実世界なんか消えてしまったらいいのに。そうしたら僕は夢の住人となって、二人ぼっちの幸せを謳歌できるのに。

 そんなことを考えていたら、不自然なくらいに思いが高ぶってきて、いつか夢から覚めなければならないことが、たまらなく辛いことのように思われてくるのだった。僕はもう堪えきれなくなって、冗談なんか終わりにして、すべてを打ち明けてしまいたくなってしまう。

『ねえ、どうしたの』

 僕はつかの間、ボーッとしていたらしい。あなたが下から覗き込んでくる。その背は低いから、誰かが守ってやらなければならないんだ。そんな子供じみた感情まで沸き上がってくるのだった。

今日は本当にどうかしている。

けれどもここは夢の中なんだ。

誰もがこころを乗り越えられる夢の中なんだ。

自分はもっと、自由に羽ばたいたっていいのではないか。

『ひとつ、質問があるんだけど』

勇気を出して尋ねてみた。

『なによ』

彼女の言葉はいつもまっすぐい。

『実はさ。気になっていたことがあるんだ』

『うん?』

『誰か付き合ってる人とか、いないのなかって』

 僕はよほど不器用らしい。伝えよう思ったら、今度はなんの予備も掛留(けいりゅう)もなくなってしまい、いきなり切り出してしまったからである。

『誰が?』

『あなたがに決まっているじゃないか』

 丁寧語なんだか、ぶっきらぼうなんだか、口調までおかしくなってきた。まったくだらしない。けれどもあなたの頬が、ちょっと赤らんだような気がして、それに釣られて僕のこころまで、またどきどきし始めるのだった。

『なんでそんなこと聞くのよ』

 彼女はわざとはぐらかす。

 僕はそんな変化球に対処する能力をなくしてしまった。

 ストレート勝負を期待するバッターの愚かさで、台詞ばかりを振り回している。

『もしいないなら、伝えたいことがあるんだ』

彼女の口もとがほころんだ。僕はきっと、不自然なくらい生真面目な顔をしていたに違いない。まるで熊が睨み付けるみたいに、相手の瞳を覗き込んでいるのだった。彼女はひと言、

『いないよ』

とささやいた。

 心拍数が早くなる。ここで伝えられなければ、一生後悔するに決まっている。逃げるな。一生に一度くらい、自分で幸せを奪い取って見せろ。日頃の自分ならあり得ない、不思議な感情が溢れてきた。まるで、初恋の中学生がつんのめるみたいになって、

『それじゃあ、僕と付き合わないか』

そう口にしようとしたのであった。



 けれども、夢というものは味気ないものである。そうして残酷なものだった。それはいつだって、目覚めという殺伐とした儀式によって、たちまち断罪されてしまう。つまり僕の告白は、肝心の一刹那に、携帯の響きによって中断されたのであった。

 せっかく時計のタイマーを止めておいたのに、いつもの朝を告げるみたいに、遠くで携帯が鳴り響いている。自分はそれを耳にするやいなや、しまったと思った瞬間に、彼女の姿がすっと遠のくのを感じた。

 待ってくれ。

まだ告白が済んでいない。

自分が耳をふさいで携帯を逃れようとした途端、

不意に目の前が真っ暗になった。

 ばっと跳ね起きる。何かをつかみ取ろうと思って、手を伸ばした向こう側に、現実世界が待ち構えていたような味気なさ。すべてが即物的なたたずまい。カーテンがほんのり明るんでいる。憎たらしい携帯は、自分が睨みつけている間に、ようやく鳴り止んだ。それはまるで、恋の成就を妨げるために、誰かが放った刺客のようだった。真ん中からへし折ってやりたいくらい、怒りが込み上げてくる。自分はようやく立ちあがると、カーテンを開ききったのであった。

 ガラス窓を開いてみる。

 鳥のさえずりが朝の歌を奏でている。置き時計は八時三十分を回っている。すべてが侘びしいものに思われた。

 何もないベランダ。置きっぱなしのサンダル。殺風景な部屋の壁紙。落書きのないカレンダー。すべてが無表情。空回りした風車のむなしさ。

 窓を閉めた拍子に、あの人の表情が浮かんでくる。こんな風に別れてしまったら、もう会うことなど叶わないかもしれない。一番大切な瞬間に、彼女を置き去りにしてしまった。夢のなかで再会することなんて、二度とあり得ないのだろうか……

 せめて答えが聞きたかった。今すぐ眠り直したら、あの練習室に帰れるだろうか。しかし、瞳はすっかり冴え渡って、もう夢の世界へは戻れそうになかった。

 だらだらと服装を着替えながら、楽譜の準備を整える。

 ようやく朝食を取ったとき、紅茶の香りが漂うばかりだった。学校であの人を見かけたとき、平気な顔が出来るだろうか。僕はちょっと自信がない……」



 ノートの文字はそこで途切れている。

 なんとなくこころが落ち着かない。

 これで終わりかと思って次のページを開いたとき、自分はまたどきりとさせられた。

 だって最後の部分には、あの「プリズム」と同じスタイルの詩が、さっき記した落書きを真似するみたいに、すらすらと書き記されていたのであった。そんなことって……

  ね 君 なにを 思うの
  そんなこと 分かりません
  夢を見ましょう 虹の向こうまで
  思いはうしろから
  付いてくればいいのさ
  プリズムをかざしたなら
  七色のひかり笑うよ

  ね 君 どこへ 向かうの
  そんなこと 分かりません
  夢で逢えたら 虹をあなたまで
  届けてみたいよな
  憧れもあるのです
  プリズムに託したいな
  あなたへのひそかな思い

 二つのスタンザが、なめらかな筆記で記されている。躊躇なく、すらすらと書かれたものらしい。だってこれはさっき、下手な翻訳を真似て作った詩と、まったくおなじ構成ではないか。意味だって呼応しているとしか思えない。

 信じられない。

 そんなことってあるだろうか。

 謎のピアノ曲、風変わりな和声、不思議なノート、記した覚えもない落書き、そうしてプリズムの詩……

 僕は「プリズム」の詩を楽譜から探しだして、ノートと照会してみた。心拍数が高まってくる。二つを見比べていると、まるで隠されていた歌が、大気の中から生まれてくるみたいに、すべての像が一つに結ばれた。慌てて書き留める。ノートの最後にひとつの詩がすらすらと記されていくのだった。

 それを何度も唱えているうちに、あの人への思いが溢れてくる。自分の潜在意識のつかみ取れないパトスが、詩の姿となって具現化されたような心持ち。隣で練習しているあなたへの思いが、まるでヴァイオリンのメロディーに波長を合わせるみたいに、留めがたい波となって打ち寄せてくる。

 僕はノートを閉ざした。

気分が高まって、もう練習なんか手につかない。

だって、答えはいつだって、行動の中にしかないのではないか。

 僕はノートを置き去りに、練習室を飛び出した。

 あの子のヴァイオリンは、カデンツをさらっている所らしく、何度も同じフレーズを繰り返している。自分にはもはやそれが、宿命を暗示するようにすら思われるのだった。もう音の途切れるのを待ってなんかいられない。

 いきなりガラス戸を開ききる。

 二つもある扉がまどろっこしくってならなかった。僕があまり強引にスライドさせるので、扉はガラガラとすごい音を立てている。彼女が驚いた表情で、ヴァイオリンを止めて眺めている。僕は駆け込むみたいに、彼女の前へ立ち尽くした。

「あれ、練習飽きちゃったの?」

 動揺になんか気づいてはくれない様子である。そんなさり気ない言葉が、なおさら情熱を掻き立てるように思われた。自分は思わず、

「練習の前に、伝えることがあってさ」

と切羽詰(せっぱつ)まった答えをしたのであった。それでもやはり、彼女は気づかないらしい。なんの屈託もなく、

「なによ」なんて聞いてくるばかりだった。

 自分にはもう突き進むしか、
道は残されていないんだ。

「実はさ、前から言おうと思っていたことがあって」

 後へは引けない。

 あのノートの執筆者みたいな、情けない内側に籠もりきって、うじうじと悩み抜いて、影で嘆いているばかりなんて、あまりに意気地がなさすぎる。あんな引きこもりの果てに、ようやく告白をしようとするから、手遅れになってしまったに違いない。思い立ったらすぐにでも行動に移さなかったら、チャンスを逃がしてしまうに決まっているのだ。

 それにしても、自分があれほど思い詰めていたとは、ノートを読むまでは気づかなかった。だらしないのは自分だって一緒だ。きっとあのノートは、ひそかな思いが、結晶化して生まれたものに違いない。そしてノートの日付は今日で途切れていた。すぐにでも思いを伝えなかったら、ノートの結末になってしまうのではないか。

 それにあの軟弱な執筆者が、自分の影の部分だけを集めたものだとしたら、それを乗り越えることこそ、自分に与えられた試練なのかも知れない。勇気を見せろ。そんな言葉さえ、心の底から沸き上がってくるような気がした。

 それなのに、彼女は、

「また詩でも浮かんだの」

なんて暢気に笑っている。

 こんな切羽詰まった表情に、どうして気づいてくれないのだろう。

 でも、彼女はいま誰とも付き合っていない。それを僕は知っている。まだ伴奏を引き受けたばかりの頃、冗談で、

「男なんかに伴奏を頼んで大丈夫なのかよ。彼氏が嫉妬するぜ」

とからかったら、

「そんなの居ないから大丈夫だよ」

といって、何の屈託もなくほほ笑んでいたのではなかったか。

 それならばきっと……

「大切な話なんだ」

「うん。じゃあしっかり聞くね」

彼女は冗談みたいに返してくる。

相手のペースに巻き込まれて、つい折れそうになってしまう。

 しっかりしろ。あんなノートのだらしなさが、自分の本性だなんて情けなさすぎる。自分はもう大学生なんだ。まるで初恋物語じゃないか。ようするに高校を卒業するまで、ピアノの練習ばかりに打ち込んで、女性になんか関心がなかったものだから、こんなだらしないことになってしまうのだ。

「実はさ」



 ところが自分は、よほど間の悪い宿命を背負っているのかもしれなかった。勇気を出して告白をしようとした瞬間、いきなり彼女が近寄ってきたからである。じっと自分の瞳を覗き込んでくる。おでこが触れそうなくらい近づいたので、自分はびっくりして、告白どころではなくなってしまった。

 彼女の瞳を覗き返す。何が起こったか、解析がつかなかったのである。すると彼女はすっと腕を伸ばして、いきなり僕の右手の裾を掴んで、ぐいぐい引っぱり始めた。されるがままの腕が、ゆらゆらと揺れている。

「ねえ」

「どうしたんだよ、よせって、そんなに引っぱるなよ」

 動揺した声になってしまった。

 それでも彼女はぐいぐいを止めないのである。僕はつい、告白のことなんか忘れてしまって、彼女の手を掴まえようとした瞬間、彼女がいきなり、

「ねえ、起きてよ」

と言いだした。

はっと思った。

「ほら、起きて」

それから右手を引っぱりながら、何度も僕の名前を呼び始めたのである。

 駄目だ。

 これじゃあノートの二の舞だ。もうちょっと待ってくれ。せめて告白だけはさせてくれ。味気ない殺風景に引き戻すのだけは止めてくれ。

「よせ」

 自分が彼女の手を振り払おうとした途端、けれども力を入れたはずの腕から、たましいは抜け落ちていくのだった。

二〇三号室。

彼女のほほ笑み。

湖のようなその瞳。

すべてが遠ざかっていく。

遠くにきらきらとしたイチョウの葉が舞い落ちる。

それが最後だった。

いつもの練習室

「ねえ、起きてってば」

はっとして、瞼(まぶた)を見ひらいた。

「あれ、ここは?」

まるで状況がつかめないままキョトンとしてしまう。

「ここはじゃないでしょ。本気で寝ないでよ。練習しなきゃ駄目じゃない」

「練習?」

 僕はあたりを眺め回した。

 ここは……そう、メンデルスゾーンのコンチェルトを合わせていた……いつもの、お気に入りの練習室。僕らの二〇三号室。鉄筋コンクリートの、空調さえ完備した現代建築の、防音あらたかな練習室。木造校舎なんて夢まぼろしの、僕らの音大の冬の一ページ。

 味気なさで押しつぶされそうだった。ようするに告白は出来なかったのだ。自分はさっきの夢の記憶をしばらくさ迷っていた。さっきの出来事を回想していた。それからようやく我に返って、ちょっと苦笑いしてしまう。いったい何をやっているのだ。こんな一途な恋の夢に浮かされるなんて。

 そう思いながら彼女を覗き込むと、すぐ目の前にいるものだから、びっくりした瞼をぱちぱちさせている。

「なに。どうしたの」

「いや、ちょっと夢を見たんだ」

 ようやく起き直って、何度かあたまを振ってみると、ピアノの譜面台にはメンデルスゾーンの伴奏譜が載せられていた。もちろんコルトニンツキーの「後奏曲」なんてあるわけがない。自分は不思議な気持ちがした。あの曲だけは、心に残っているような気がしたからだ。

 思わず椅子に座り直して、鍵盤に指先を触れてみた。指が勝手に動き出しそうな気がしたのである。けれども曲は浮かんでこなかった。指は一本たりとも、鍵盤を動かそうとはしないのだった。

 おかしい。あんなに演奏していたのだから、いくら夢だって、出だしくらい弾けても良さそうなのに。ただ霞掛かったイメージだけが残されて、それがどんなフレーズを奏でていたのか、具体的なことはまるで分からなくなっているのだった。

「ちょっとどうしたのよ」

 僕がコメディチックな行動をするので、彼女はちょっとうけているらしい。

「いや、夢のなかで難曲を弾きこなしていたんだ。それもまるで聞いたこともないまぼろしの名曲でさ、コルトニンツキーっていう作曲家なんだけど」

 まるで作曲家が実在するような口調だったので、彼女は思わず吹き出してしまった。

「やだ、そんな作曲家いるわけないじゃないの。まさか、演奏できるかと思って、試してみちゃったわけ」

「悪いか。だって、もし弾けたらみっけものじゃんか」

「それは、みっけものだけどさ」

「そうだ、たしかノートもあったんだ」

 思わずそう呟きながら、ピアノ台にうち捨ててある鞄を引き寄せた。

「ノートってなに」

「それがさ、知らないうちに自分が落書きしたノートを、夢のなかで見つけてさ」

と探しながら答えたら、彼女はあきれてしまったらしい。

「ねえねえ、本当に鞄に入ってると思ってるわけ」

 どうやらいつもの冗談で、からかっているだけかと思われたらしい。そうはいかないよといった表情を見せている。けれども自分には、あのノートが実在するような気がしてならなかった。

「いや、冗談だよ、冗談」

 ようやく笑ってみたが、また彼女の瞳を見つめると、不思議なくらいあの瞬間の情熱が、鼓動の高まりと一緒に打ち寄せてくるような錯覚にとらわれた。おなじはずのこの人が、寝る前の時とは違って見える。そんなことって……

 僕はまさか、あんな夢にそそのかされて、純情少年みたいな思い込みで、彼女に恋をしてしまったのだろうか。そんなだらけた恋愛小説、今どき無料で配ったって誰も読まないというのに。それとも、今までそっと隠してきた憧れが、夢を触媒にして紅色に染まってしまったとでもいうのだろうか。



「なんだか、変わった夢を見てたみたいね」

彼女がくすくすしている。

自分のキョトンとした表情を見つけたからに違いない。

何気なく答えを返そうとすると、

「ねえ、本当は、私の夢を見てたんじゃないの」

といきなり切り出したので、本当に驚いてしまった。

瞳を通じて、心を盗まれたのだろうか。

思わず、「どうして」と尋ねると、

「だって、私が戻ってきた時に、いい気持ちで寝てるからあ」

 彼女は順に話してくれるのだった。

 それによると、友達の「踊るプヨ状態」を確かめてから、おしゃべりを済ませて戻ってくると、僕がうとうとしながら、何かを呟いているのを見つけたのだそうである。

「試しにそっと近づいて、聞き耳を立てていたら、いきなり私の名前を呼んだんでびっくりしちゃった」

続きを聞こうと待ち構えていたのだけれど、いつまでたっても何も言わないので、じれったくなって袖を引っぱってみたという話しだった。



 間違いない。

僕はきっと、あなたのことが好きでしかたがなかったのだろう。

こころの奥底から、不思議な憧憬が込み上げてきた。

伴奏をするのがこんなにも楽しいのは、そのためだったんだ。

 それを知らない振りして、誤魔化すみたいに隠してきたのは、自分自身があのノートの主人公みたいに、小さなわだかまりを抱えていて、それを乗り越えきれなかったためなのだろうか。もしそうであるならば、僕が告白すべき場所は夢のなかなんかじゃない、この現実世界の二〇三号室でこそ、あなたに告白すべきなのではないだろうか。

 理屈になっているんだかいないんだか分からない。

 まるでコルトニンツキーの作曲みたいな、不思議な情熱が溢れてきて、自分の心を捉えてしまったらしい。すると、あの夢の中の自分や、ノートの主人公のためにも、今こそ告白を果たさなければならないような、非論理的な使命感まで湧いてきて、心を支配してしまったようで、自分は思わず言葉がつんのめりそうなくらいに動揺した。

 しかし、夢の中のような醜態を演じるわけにはいかない。自分は改めて大きく深呼吸をしてみた。彼女は不思議なくらいゆったりと、僕が話し掛けるのを待ってくれているらしい。

「夢の続きをしようと思うんだ」

「夢の続き?」

「そう、夢の続き。僕の見た夢をあなたに話そう。僕は夢の中で、ある木造校舎に紛れ込んだ」

「今どき木造校舎なの」

「うん。自分でも驚いたけれど。まるで昭和初期の音大みたいな雰囲気だった」

「ずいぶん変わった夢ね」

「それだけじゃないんだ。その校舎にもちゃんとこの二〇三号室があって、そこにはあなたがヴァイオリンを練習していたんだ」

「なんだ、だから私の名前を呼んじゃったわけ」

「うん、でもそれだけじゃない」

 自分は夢の話しを、ひとつひとつ丁寧に話してみるのだった。彼女は黙って頷いてくれたり、いろいろな事を尋ねてきたりする。それに合わせて、こころが不思議な安心感に包まれていくのが分かった。それから僕は、あの不思議なノートのことを、切羽詰まった疎外感のことを、あなたとお揃いのコルトニンツキーの事を、それからプリズムという詩のことを、冗談に茶化すこともなく、ひたむきに話しきったのであった。

「だから、ここで今、代わりに伝えようと思うんだ」

と告げたとき、あなたは急に頬を真っ赤に染めた。

 それから目を逸らすでもなく、笑って誤魔化すでもなく、真っ直ぐに見つめ返して、黙って頷いてくれたのであった。僕はもう迷うことなんかなにもない。ただはっきりと、

「一緒に付き合って欲しいんだ」

 それだけを伝えてしまって、あなたの唇が動くのをどきどきしながら待っていた。柔らかな頬が赤らんでいる。けれども彼女は、恥ずかしくって話しをそらすみたいに、

「すこしロマン主義の傾向があると思ってたけど、びっくりするくらいのロマンティストだったのね」

とからかうのだった。

「今頃気がついたのか。ベルリオーズに負けないくらいのロマンチックなんだぜ」

 僕は照れくさそうに答えてやった。

 彼女はようやくほほ笑んだ。

 それから、どぎまぎする少年少女みたいに、二人はつかの間見つめ合っていたが、ありったけの勇気を出して、

「ロマンチックなんだから許してくれよな」

といって、彼女の肩を引き寄せた。本当のロマン派はみんな行動力があるものなんだ。そんな馬鹿なことを考えながら……

 彼女が瞼を閉ざす。それからただひと言だけ、

「許してあげる」

と呟いた。

 唇がそっと触れ合うと、柔らかな甘さが伝わってきた。それは中学校の頃の冗談のキスの味ではなく、本当のファーストキスのような味がした。そうして、夢からずっと続いてきた解消されない思いが、ようやく満たされたような安心が、胸一杯に広がってくるのだった。

「ねえ、そうだ、夢のなかの不思議な詩ってまだ覚えてるの」

 あなたは、思いついたみたいに尋ねてくる。自分は不思議なことに、あの詩のフレーズだけは、はっきりと覚えているのだった。

「うん。音楽は消えてしまったのに、プリズムの詩だけは記憶に残っている」

 ファイリングケースからルーズリーフを取り出すと、しばらく考えていたが、あの拡大法で作詞されたプリズムの歌を、すらすらと書き付けた。

「プリズム」
  ね 君 なにを 思うの
  そんなこと 分かりません
  夢を見ましょう 虹の向こうまで
  思いはうしろから
  付いてくればいいのさ
  プリズムをかざしたなら
  七色のひかり笑うよ

  ね 君 どこへ 向かうの
  そんなこと 分かりません
  夢で逢えたら 虹をあなたまで
  届けてみたいよな
  憧れもあるのです
  プリズムに託したいな
  あなたへのひそかな思い

  あ また 君が 笑うよ
  答えなど いらないけど
  手をつなぎたい 虹のかなたまで
  恋はいつの間にか
  大空を羽ばたいて
  プリズムで解析した
  この思い君へ届けよ

  ね その 指を ください
  つかの間を 踊りたいな
  肩抱き寄せて 夜が更けるまで
  打ち明けることなど
  やっぱり出来ないから
  吸い込まれそうな瞳
  ずっとずっと眺めている

  あなたが好きでたまりません
  そっと打ち明けてもいいですか
  頷いてくれると知っていたら
  まだしも鼓動を宥められるのに

「これをあなたに捧げよう。僕らの今日の思い出のために」

なんて馬鹿なことを言ってほほ笑むと、彼女はまた真っ赤になって、

「時代錯誤のロマンチックだわ」

と答えてくれた。

 それから僕たちはまたそっと口づけを交わす。

「そうだ、もう一度くらい試験曲の合わせをしなくちゃ」

 ようやく思い出したみたいに、二人がコンチェルトを合わせてみると、今ではそれが当たり前なくらい、冒頭のメロディーとピアノ伴奏とが、おなじ周波数を描きだすのだった。それはまるで溶かし絵の具の親和性みたいに、絡み合うひとつの甘いメロディーとなって、僕らのこころにまで響いてくる。なんてだらしない旋律、甘ったるい愛の歌、メンデルスゾーンのロマンチックのコンチェルト。僕はそんなことを考えながら、まるで夢のなかの名演みたいにぴったりと、二人の第一楽章を合わせきるのだった。

      (おわり)

覚書

前半1/3作成2009年中頃
残り作成2010年3月頃-2010/3/24完成

2010/3/22掲載完了

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