(朗読1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
朗読一
朗読二
朗読三
朗読四
朗読五
朗読六
朗読七
朗読八
朗読九
ヘッドライトの行き交うみたいな目映さ、天高くオフィス街の灯(とも)し連ねて、星空まで伸びきった竹林の競争みたいな、高層ビルのそそり立つ谷の合間を、渓流みたいにして僕らは走り抜ける。片道三車線もある大通りが、鉄の塊を転がすのに委ねるみたいにして、僕らはいったいどこまで向かうだろう。助手席の私はわいだめもない思いにひたる。ハンドルを握る眼鏡は、彼は背高のひょろ長だったから、運転席に座るといつも窮屈そうに見える。いっそ屋根のないカブリオレにでもした方が良さそうだが、こんな色白では、スポーツカーはとても似合いっこなかった。
「おや、月が出ているな」
その眼鏡が視線だけで合図をおくる。ビルの谷間を夕暮れの、忘れかけた水色が残っているあたりに、ほっそりした耳を傾けた姿で、月は眠たげに浮かんでいた。まるで「らうなんの耳朶(じだ)は蛍光をともす」とかいって、中也が歌い出しそうな月であった。
「三日月か。あんな細長の青白じゃあ頼りない。お前、もっと太らなくっちゃ駄目だぜ」
と後ろから茶髪が眼鏡のことを冷やかした。
「青白くて十分だ。お前みたいにこんがり焼いておまけに茶髪にしたのでは、どこの国の男か分かったものではない」
「おう、俺さまはインターナショナル美青年を目ざしてっからよ」
と茶髪が平気で答えるから、思わず笑ってしまった。
「いまどき、美青年ってどんな例えだ」
私が振り返ると、彼は平気で口笛などを吹いている。僕らの自動車は疾走する。まわりのヘッドライトを抜き去るでもなく、エコを標榜するでもなく、ラジオからニュースを垂れ流すでもなく、読み込んだディスクから流行歌が安っぽいドラムを高鳴らせる訳でもない。ただ静かに行き交うタイヤの音と、ときどき鳥の代わりに宵鳴きをするみたいにして、クラクションの響きが遠くから聞こえて、また躍動する排気音に消されゆくみたいに。少し橙じみた街灯を抜けるたんびに、僕らの顔が少しく照らし出されるくらいの夕暮れを、僕らは目的地へ向けて疾駆する。でも、その目的地はどこだろう。私がもう一度訊ねようとすると、
「そうだ、三日月で思い出したぜ」
と茶髪が手の平ひとつをポンと叩いた。こいつは茶髪のくせに、今どき漫画の中でも描かれないような仕草を平気でする。彼はある時それをレトロブームだと説明した。どうせまたそんな下らない話に決まっているのだ。しかし茶髪はさっそく核心に迫った。
「三日月がある日、こっそり満月に化けるって話を知ってるか」
私は思わず言葉を返し損ねてしまった。そんな民謡みたいな話が飛び出してくるとは思わなかったからだ。Enlightenment(啓蒙主義)をモットーとする眼鏡が、
「お客さん、ちょっと静かにして貰えますか」
とタクシー運転手の物まねをする。茶髪は、
「いや嘘じゃないって。そりゃ本当でもないけどよ。むかし俺が、両親のいない捨て子だってんで虐められたことがあってさ」
「誰が虐められたって」
と私が白い眼で眺めると、
「いや、本当だって。昔は俺も日陰者の人生を歩んでいたのさ」
「それが今ではこんなありさまで」
と眼鏡がからかうと、
「誠に面目もございません」
と茶髪が頭を下げてみせるので、また大笑いになった。それから茶髪は少し真面目になって、
「それでさ。俺が一人でめそめそしてた時に、施設のまだ二十歳くらいのお姉さんが話してくれたのさ」
茶髪は両親を知らない男である。あるとき施設の前にポイ捨てにされているのを発見され、そのままそこで育てられた。それで高校の頃まではそこから通っていたので、僕らも遊びに行ったこともあった。今では、彼ももちろんそこを離れて、ひとりで暮らしを始めている。
「姉さんが言うにはよお。普通の人は何気なくやり過ごしてしまうが、誰もが一生のうちに一度だけ、夕べの三日月が夜更けに合わせて太りだして、いつしかまん丸くなった不思議な月を見ることが出来るっていうのさ」
「それはまたずいぶん大胆なメルヘンだな」
私は少し興をそそられたが、
「荒唐無稽な夢物語だ」
と眼鏡は素っ気ない。
「それでさ、その満月にいのりを捧げることが出来たら、誰でもその願いを叶えられるっていうんだ」
「やはりな。大方そんなことだろうと思った」
眼鏡はやはり冷たい。
「お前はあんまり科学主義が勝りすぎだ。いいから俺さまの話を聞け」
「よし、お聞かせ願おうではないか」
運転席の眼鏡は、もちろん振り向くことは叶わない。私が代わりにちょっと振り返って、黙って話の続きを待っていた。
「それでよお、まだか弱き俺さまがさ」
「か弱き俺さま?」
「そっ、か弱き俺さまが、涙に濡れながら、それじゃあもし僕がお母さんが欲しいってお願いしたら、僕にもお母さんが出来るのかなって泣きべそを掻いたらさ、そのお姉さんがさ、俺さまの肩を優しく包んでくれて、そうよ、だからくよくよしないで歩んで行かなくちゃ駄目よって言うのさ。それから一緒になって泣いてくれたんだ」
「それでそのお姉さんに恋心を抱いたってオチだろう」
と私は得心した。
「まあ、そういう気持ちも少しはあった」
「やはり、そんなオチか」
と眼鏡もにやりと笑う。
「それでも、俺だって親父とかお袋とか、それがどんなもんだか、今でもたまらなく欲しくなることがあるんだぜ」
と茶髪が言うので、私はつい何とはなしに、
「親父なんて、そんなもんちっとも有り難いもんじゃないだろ」
と毒を吐き出すみたいな口調になってしまった。眼鏡がまたにやりと笑う。
「今度は隣で親父の悪口が始まってきた」
「お前は自分の親父を悪く見すぎだ」
何だか二人に攻撃されかねないので、私も先を続ける勇気がなくなった。気を紛らわせるために、鼻歌を歌って誤魔化しちまう。しかしこころの中では、久しぶりに自分の姉のことを思い出していた。彼女はちょうど十五夜の美しい月明かりの晩に亡くなったのである。その時、まだ幼かった私が泣きべそを掻いているのを眺めては、
「どんなに辛いことがあったなら、お月様に向かってお祈りなさい。わたしが精一杯の光を差し伸べて、あなたを照らしてあげるから」
そういって優しく頭を撫でてくれたのだった。茶髪が不思議な月の話などするものだから、ついその日のことを思い出したのである。そういえば姉さんのいた頃は、僕も今ほどは親父を憎んではいなかったような気がする。親父は海外に出張していて、姉の死に目にも、それから葬儀のときにも顔を出さなかった。以前からの不快感がはっきりした形となって私のこころに壁を作ったのは、あるいはあの日からだったのだろうか……。
そのうち行く手には巨大な、誰(た)がためこんな無駄な建造物を、黒光りする大理石のような滑らかな、磨き抜いた曲線で満たしてまるでドームのように、あるいはカタツムリみたいに横たえてみたのか、答えを見いだせないほど風変わりな公共施設が現れた。なぜ公共施設かと思ったのか。考えてみれば不思議な気もするのだが、私には確かにそう映ったのである。
施設からは沢山の人だかりが、ちょうどカタツムリの口から溢れて、ぞろぞろとスクランブル交差点の方へと向かったり、あるいは歩道へと折れ曲がったり、かと思えば信号から来た人たちが、口の中へと吸い込まれたりしていた。そういえば今日は何か、よほど重要な祭事か、あるいは国家的行事でも行われているらしかった。そしてそのことを僕らもよく知っていて、あえてコメントをする気にもなれず、それぞれに押し黙っているようだった。
やがて信号が点滅しながら、僕らの速力を緩めるとき、左手には広大な水面(みなも)が横たわっていた。それはまるで一万人態勢のプールのような、あるいは取り残された湖のような、墨汁で満たした巨大な硯入れのような、真っ黒な水をたたえたまま、町の灯りひとつを反射させるでもなく、ブラックホールみたいなただポツカリと、どす暗く浮かんでいるようだった。
「あれは何だろうな」
と私が指さすと、茶髪が、
「何か儀式でもしてるんだろ。沢山の人がいやがる」
と後ろから覗き込んでいる。人々は、プールならスタート地点があるあたりに厳粛に立ち尽くして、執り行われる儀式を見守っているようだった。その式典はきっと、あのミレーのオフェーリアの絵にある放心の祈りのような、亡骸を天に浄化させる葬儀のような、あるいは古代のノアの箱船にあやかって、人類の由来を確かめる無言劇のような、それとも教父たちがカトリックの教義を唱えながら、順番に水の上を歩ききる水上ミサのような、厳かな雰囲気に包まれているのだった。
僕はなんだか祈りたいほどの心持ちがして、それからひとしきり哀しくなったが、信号がまた青に変わると、隣の眼鏡は黙ってアクセルを踏んで、それっきり執り行われるべき祭典は、僕らには分からず仕舞いだった。
「あれ、どうしたんだろう。あんなところに人が立っている」
私が気がついたように指さすと、走る僕らのかなた先を、歩道と車道の間の街路樹にもたれ掛かって、おそらく十代半ばくらいだろう、髪の長い卵形の顔をした、かわいらしい少女が口を動かしているのが、街灯の下にはっきりと照らし出されたのである。
「何を呟いてやがるんだ」
茶髪が後ろから乗り出す。眼鏡はまるでその口の動きを読み取るみたいに、
「つまんない、つまんない、何かいいことないかしら、と繰り返し歌っているだけだ」
私が驚いて、「おいおい、本当か」と突っ込みを入れる間もなく、速度の速い僕らのヘッドライトは、彼女のすぐ前まで迫ってくる。その拍子に、
「あっ」
と眼鏡がハンドルを切って、車が大きく横に揺れた。娘さんが目の前のフロントガラスに飛び込んでくる。その顔は、何だか哀しみに満たされていて、弾き飛ばされながら祈る仕草みたいに、デフォルメされた近代画じみていて、心の奥に焼き付けられたような気がした。それからしばらくの間、僕は耳がカッと熱くなって、頭がくらくらとして、何がどうなったのかさっぱり分からなかった。
ようやく車が常態を回復してみると、振り向くかなたの娘さんは、まるでさっきと同じ姿勢で、街路樹にもたれ掛かって、ラアラアと何かを歌っているばかりなのである。おかしいな。私は自分の頭がどうかしたのかと、二三度首を振ってみたら、二人からいっぺんに笑われてしまった。
それからしばらくして、僕たちは目的地に着いたらしかった。間のことはよく覚えていない。まるで子供の頃、待ちわびるうちに眠くなって、はっと気づいたら目の前には海が広がって、僕たちもはや前後不覚に遊び惚けてしまう。あの瞬間みたいに、僕は自動車の中で記憶を失っていたらしかった。あるいはそうではなくて、あの不思議なプールの儀式が、あのカタツムリの建物が、あるいはほっそりと浮かんだ三日月が、僕の感覚をしばし凍結したのかも知れないが……どうにも思い出せないのだから仕方がない。覚えている限りでは、僕たち三人は、すでに長い行列の最前に並んでいて、振り向く人だかりの多さには、もうずいぶん苦しい思いをして待ち尽くさなければ、ここまで辿り着けなかったはずである。それがちっとも思い出せなかった。。
「おかしいな。俺、ちゃんと起きてたよな」
と茶髪を突いたら、
「お馬鹿野郎め」
と茶化されてしまった。青い制服と帽子をスチュワーデスみたいに着こなした若い女性が、
「いらっしゃいませ」
と手を差し伸べる。なんだろうと思ったら、眼鏡が黙ってチケットを一枚手渡した。受付はそれを千切ると半分を眼鏡に返して、
「一度入ったら、その扉からは戻れません、別の扉をお探し下さい」
と優しくパビリオンの説明をしている。これは何かのアトラクションに違いなかった。そういえば、あたりにも風変わりなパビリオンが建ち並び、日も暮れたというのに煌々と降りそそぐスタンド照明や、あちらこちらの建物を飾る、色とりどりの外飾電灯は、小さい頃親に連れられた、国際博覧会の賑わいを呈していた。
「あっれえ、これって何かの博覧会だったっけ。ねえ、何博?」
とまた茶髪を突いてみる。すると茶髪は、
「ほくほくと芋を包むぜアルミ箔(はく)」
と信じられないような宣言をする。こりゃ寒すぎだ。後ろに並んでいたお客さんまでも、「アルミ箔ですって」「信じられんな」と囁きだす始末である。茶髪はしてやったりの表情で笑っている。こんなことなら聞くんじゃなかった。眼鏡は知らぬふりを決め込んでいる。
ようやく手続きが済んで、僕らは奥へと案内された。するとそこには、今朝完成を迎えたばかりのような、煌びやかな彩色を施した玄関があって、その五六歩奥のところには不思議な扉が、群青に日だまりを混ぜた水色にあえて紺を上塗りしたみたいな、上質ペンキの香りの沸き立つみたいな、ただ取っ手とその上に光る鍵のようなハンドルだけが、白銀にきらめくような姿で控えていたのである。扉にはまるで、前衛アーティストが集結して、今となっては時代錯誤の、しどろもどろの現代アートをはめ込んだような不思議なパズル文様が、あるいは無意味な彫刻が取り込まれていて、それを適当に弄んでいるうちに、扉はおのずからパチンと音を立てて、開くための知恵の輪細工でもしてあるかと思われた。私は不意に、幼い頃熱中した『時計塔の秘密』とかいう物語の、隙間から骸骨を垣間見たような、からくり時計の仕組みを解明したような、そんな名探偵の情熱に満たされて、一番にハンドルに手を下そうとしたのであるが、その実扉はなんのこだわりもなく、受付の娘さんの手によって静かに、ハンドルを回すと歯車じみた仕組みが解(ほど)けるみたいにして、音もなく開かれたのであった。
私はちょっとだけがっかりする。そして同じくらい躊躇する。中がよく見えないようだ。しかし待ちきれなくなった二人が、背中から私を押し出したので、つんのめるみたいにしてなだれ込んでしまった。三人が入ると、「カチャリ」と小さな音がして、振り向けば扉ははや閉ざされている。こちら側には銀の取っ手すらない。まるで壁に戻されたブルーモノリスが、大胆不敵に笑っているようにも思われた。やはり入口からは戻ることが出来ないようだ。あたりを見回すと、僕らの他には誰もいなかった。
それは部屋とはいえないものだった。沢山の扉があって、それぞれは気まぐれな色彩で、アバンギャルドな文様を着飾っていた。私はキュビスム時代のジョルジュ・ブラックを思い出す。また扉もない向こうの部屋へと、手すりを流して導いた回廊やら、部屋の片隅をあえてぶち抜いて、広がる隣室を迎えたり、螺旋階段の上に非常口めかした扉が配置されているかと思えば、まるで床戸棚としか思えない、下へ閉ざす扉もあるといった有様だった。まるで迷宮と機能的生活を両立させようとしたもくろみが外れて、中途に放り出したような、秩序のない、それでいて決して破綻していない、出鱈目と英知の境目のようなそのパビリオンは、ある高名な建築家が悪夢にうなされた設計図のなれの果てみたいな、不思議な佇(たたず)まいを見せていたのである。
部屋と回廊の交わるあたりには、鉢植えの観葉植物や、郵便入れを気取ったオブジェがあったり、通行人の邪魔を決め込んだキッチンテーブル、赤い実を幾つも垂らしたサボテンじみた背高ノッポが控えている。そうかと思えば、天上の梁(はり)をむき出しに、サーキュレーターがゆっくり回るのに合わせて、釣り下げられた人形のブランコがゆらりゆらりと揺られたりもしていた。「ふらここ、千五百円」そんな値札が付けられたままになっている。
つまりはすべてがごちゃごちゃで、それでいてなぜかしら郷愁を誘い、全体は明るくて健全なのに、不思議な秋の気配が漂っているのだった。そして到るところに、沢山の扉が閉ざされていて、もう様々な模様やら、色や取っ手で個性を主張しているのであった。しかし茶髪は平気なものである。
「お宝発見、ナイスなパビリオン」
と明言してさっそくはしゃぎ出す。私にはとてもそんなものとは思えなかった。しばらくきょろきょろしていたが、ようやく落ち着いてパビリオンを探り始める。
特に際だって奇妙なのは、やはり勝手気ままの扉たちである。しかしすべての扉には共通項もあった。それは、黒地に赤で点灯させたデジタルボードである。扉の文様を邪魔したり、あるいは溶け込んだりしながら、それぞれの扉職人たちの、批評会場の唯一のルールのようにして、どの扉にもかならず一つ、このデジタルボードが備え付けられているのであった。僕らはひとつひとつ丁寧に眺めてみる。どうやらデジタル表示されているのは、横列に数字が十五桁、その後ろにアルファベットが三文字、それが共通の決まりらしかった。
「これはなんだろうな」
と私が訊ねると、茶髪は
「出鱈目の飾りだ」
とすまし顔である。そんな理不尽があってたまるかと、詮索好きの眼鏡が割って入る。
「この世にはいかなる数列あろうとも、必然のない数列はない」
と格言めいたことを言う。
「そりゃあいったい誰のことわざだ」
と茶髪が訊ねると、
「僕の座右の銘だ」
と眼鏡のレンズがきらりと光った。何かを解決しようとする瞬間が、彼一番の至福の時だったに違いない。さっそく身を乗り出すその姿は、病院で見かけたら若手の心臓手術の専門医かと思うくらいサイエンスじみていた。彼は片手に提げた小さな鞄から手帖とボールペンを取り出すと、
「まあ、すこし待ちたまえ、君たち」
と僕らを諭すみたいに、数列を採取し始めた。茶髪が、
「はい、待つであります。色白上等兵どの」
と訳の分からん敬礼をやる。私は思わず笑ってしまい、茶髪を見習って眼鏡に敬礼しておいた。眼鏡はよろしい、諸君、我が解析を待ちたまえ、というふうに頷いて、しばらくはその数列を、手帖の上で弄んでいた。ボールペンが、いろいろな数式を描き出す。
「エニグマじみたる情熱もあらばこそ」
などと、眼鏡は訳の分からないことを一人で呟いている。そのとき私は何となく、ああそうだった、彼はいつでも呟くみたいな話し方をしたっけ、と不意に思い出した。そう、彼は声を荒げたためしがないのである。そのくせどんなきついことも、平気で言ってのけるのだった。それが禍してか僕ら以外に友達もなかったが、彼はそれを苦にする様子もなかった。それでも……と私は振り返る。僕らはずいぶん沢山の時を一緒に過ごしてきたんだ。だからもし僕らが彼の前から離れてしまったら、いかな彼とて、きっと心震えるに違いなかった。つまり僕らは親友だったのだ。
もちろん眼鏡は淡白を装って、一生一緒に歩いてみたいなどとは、口が裂けても言うはずもなかったけれど、一方の茶髪は単純な冗談家だったから、年がら年じゅう、僕らの友情を宣言してはばからなかった。そうして僕はといえば、そんな話を真面目にするのは、やはりちょっと恥ずかしく、誤魔化してしまうことの方が多かったけれど、それでも僕ら三人、いざという時にはまったく冗談を挟まず、互いの本心をぶつけ合うような話を、幾度もしたことがあったはずである。
「分かったか」
茶髪が私を現実に引き戻す。
「三つのアルファベットだ」
用紙を覗き込むと、眼鏡の答えは簡単だった。
「アルファベットで変換すると、記されているのは年号だ」
「年号というと?」
私も口を挟む。眼鏡はにやりと笑って、
「西暦から秒数までの数列だ」
といって、手帖にまるで意味不明の公式をパズルみたいに組み替えて、
「例えばこの扉は、二〇〇九〇四二二〇六四二一五になる」
「つまり今年の四月二二日の……」
「六時四二分一五秒だ」
「あれ、ちょっとおかしくないか」
私は自分の指を折りながら数えてみて、
「数列は一五桁じゃなかったけ」
と訊ねた。眼鏡は平気なもので、
「最後の数字はアルファベットと組み合わされる」
と澄ましている。
「それで、何の意味があるんだ」
と聞き返すと、それはさすがの彼にも分からなかった。
分からないながらも僕らは探偵を始めることにした。茶髪は一番楽しそうだが、僕も次第にわくわくしてくる。まるで小説に出てくる探偵気取りである。まずは茶髪が扉の数字を採取する、一方で僕はこの建物の見取図を描ききる、眼鏡は通路を邪魔するようなこのテーブルに座って、数列の謎を究明する。そんな役割ができて、さっそく僕らは活動を開始した。それにしても不思議なのは…………そうなのだ、思い返せば、さっき並んでいた僕らの後ろには、ずいぶんな人だかりが、こんな数列と比べものにならないくらい、順番を待ちわびていたはずだったが、彼らはどうしてここに入ってこないのだろう。それとも僕らが答えを見つけ出すか、知らない間にタイムリミットが予選敗退を告げるまで、待ちぼうけをくらっているだけなのだろうか。あるいは僕たち迂闊にも、肝心なルールを聞き逃して、のこのこ入ってしまったのだろうか。
そんなことを考えていると、ようやくひとりの若者が、どこからともなく私の前に現れた。それは頭をスポーツ刈りにした中学生ぐらいの、血色のよい健康そうな肌黒の、つまりは茶髪の弟くらいな少年であった。彼は制服のままできょろきょろしながら、ちょっとすれ違いざま私に会釈するから、こちらでも黙って会釈を返す。すると彼は奥の部屋へと入ってしまった。そうだ、あの制服は見覚えがある。確か僕らのすぐ後ろに並んでいたはずだ。やはり順に入って来ているのだ。僕らだけではなかった。タイムリミットは大丈夫かしら。私は慌てて新しい部屋へと向かった。
今度は年配の爺さんらしき人影が遠くに見えた。爺さんの後ろからは婆さんが腰を折って、のこのこのこのこ付いていく。爺さんは無愛想で手も差し伸べない。しかし、二人の間には長い間に培った、愛情が仄かに揺らめいた。何だか人影が増えてきたようだ。僕らが躊躇しすぎなのだろうか。あんな数列を弄くっている場合では無いような気がし始めて、私は見取図を放棄してテーブルまで戻ることにした。
その途中、私は何人かの探検者が、めいめい好き勝手な扉を気まぐれに選んでは、何のためらいもなくその扉を開ききると、さっと威勢よく、あるいは年老いてよぼよぼと、向こう側へ潜り抜けてしまうのを見た。これも眼鏡に報告する必要がありそうだ。急ぎ足で戻ろうとすると、開け放しの奥まった部屋がひとつ、懐かしいような暖色灯を外へ洩らしているのに気がついた。
何気なく覗き込むと、そこはまるでパビリオンとは無関係の、個人の部屋みたいに落ち着いた雰囲気で、スラリとした黒髪の若い娘が、椅子に腰掛けては針を動かして、なにやらちくちくしているのであった。おまけに気軽な夏模様の浴衣を着こなして、お祭りにでも出掛けるみたいだ。この娘さんもパビリオンの探検家なのだろうか。針など動かしている場合ではなかろうに。そんなことを考えていると、彼女はふいにうしろを振り返った。それから、「ああ、あなただったの」というような、懐かしいような頬笑みを返すので、私は真っ赤になってお辞儀をする。すると彼女もひとつ頷いて、それから奥に控えている扉の方へ行ったかと思ったら、すっと扉を開ききり、もう扉の向こうへ潜り抜けてしまったのである。
おかしいな。あの人は誰だったろうか。かつての同級生とも思えないし……私が思い出そうとしていると、今度は先ほどの中学生が、向こう側の扉を開こうとしている。私は慌てて考えを止めて、気づかれないようにして近づいた。開いた向こう側を確かめたかったからである。けれども開かれた向こう側はまるで靄が掛かったみたいで、どうしても何かを認めることは出来ないのだった。
そのうち扉は閉ざされる。すると「カチャリ」という音がして、人が潜り抜けた扉は、まるで魂の抜け殻みたいになって、どんどん色彩が失われていくのだった。デジタルボードの表示は、初めはただ点滅を繰り返していたが、やがて数字を目まぐるしく変化させ始め、同時に耀き衰えていくありさまで、ついには光も損なわれ、まるで石版に刻まれた文字ででもあるかのように、扉と一体化した数列の刻みになってしまうのだった。そしてそれは紛れもなく、眼鏡が解読した暦の、刻み込まれたものに他ならなかった。
しかもよく見ると、取っ手も一緒に石化して、まるでオブジェみたいになっているではないか。これではもう通り抜けられっこない。私は念のために、他の扉でもこの現象を確かめてから、もはや見取図どころではない、慌ててテーブルのところへ駆けだした。しかし茶髪の方が一足先に戻って来たようだ。眼鏡としきりに議論している最中だった。
私を見つけた茶髪が、
「どうだ見取図は」
と聞いてくる。
「駄目だ、不思議なことに描こうとすればするほど、新しく部屋が広がって行くようで、おまけに階段まであって、下手に枝道にでも入ろうものなら、ここまで戻って来られないかも知れない。扉をどこも開けないうちにこの有様なのだから、全体像なんて分かりっこないよ」
と見取図を投げ出した。
「それより、扉を通り抜けた奴らを観察したんだ」
私が見てきたことを報告すると、眼鏡が
「するとどの扉を潜り抜けても、戻って来られない可能性が高いな。さっき受付が話していたのは、入口だけではなかったようだ」
「やれやれ、とんだ誤算だぜ。それじゃあお宝のありかどころじゃねえな」
と茶髪もがっかりする。
「いやいや、まだ諦めるのは早い」
眼鏡が、また黙々と解読を再開する。私は少し眠くなってきた。部屋は描きようもないのだし、茶髪もそろそろ飽きた様子で、私が諦めて近くの長椅子に腰掛けると、その向こう側の床にじかに腰を下ろした。少しまぶたを閉じていると、本当に眠り込んでしまいそうなくらい意識が遠ざかる。私は慌てて立ち上がった。こんなところで眠ったら、二人からどんなに茶化されるか分かったものではない。眠気を我慢して、テーブルに歩み寄って眼鏡の年号を見てみる。するとマイナスの付いたものまであるではないか。
「おいおい、本当に年号なのか。三八七二年なんてのもあるけど」
「一七三二年五月八日七時五六分なんて縁起のいいのもある」
「何で縁起がいいんだ」
と訊ねると、
「平方根だ」
と平然と答えるので、私は呆れてしまった。
「それで年号の意味は分からないのか」
と訊ねると、眼鏡の奥底から、
「ひとつだけ分かったことがある」
と瞳を輝かせた。茶髪が、
「もったいぶってないで早く教えろ」
と急かせるが、彼はいったん眼鏡を外して、ちょっと息を吹きかけてから、容赦なく袖でレンズを拭き込んだ。どうやら解説モードに入ったらしい。
「どうやらこのパビリオンは広すぎるらしい」
私の放棄した見取図をひらひらとさせる。
「そんなことはとっくに分かってるよ」
と私が反論する。
「まあまあ、話を聞こうぜ」
と茶髪がいつになく鷹揚に構えるから、私も頷いた。
「この広い建物においてだ」
「うん」
と私は目を輝かせる。
「この広い広い建築において」
「じれったいなあ」
「はてなく広がる建造物という事象において」
「それはもう分かったって」
「無限に広がる……」
「いいから、はやく次を述べろこら」
と茶髪が短気になると、眼鏡は顔をほころばせた。
「ここに記された扉の、ほとんどすべてには西暦が羅列となって記されているのだが」
と息を継ぐと、気の早い茶髪が先を急いで、
「分かったぜ、西暦とは違った別の扉があるってんだろう」
「ご名答」
「おい、それはどこだ。お宝か、ついにお宝発見か」
茶髪は目を輝かせる。目の輝かせどころが、茶髪と眼鏡とそれから私の場合と、それぞれに違っているから面白い。はたして私たちがお宝のためにここに紛れ込んだのだかどうだか、相当に怪しいものであるが、茶髪は机に大きく乗りだして、手帖を一心に眺めている。そこで眼鏡が朱筆を入れ込んだ。
それは驚異的な、手書きとは思えない精緻な丸であった。私は思わず脱線して、そちらに感心してしまったくらいである。もし彼が科学者であったならば、私はそれを職業病として讃えるだろう。それにしても……はて、その扉は、
「なんだ、すぐそこの扉じゃねえか」
と茶髪が指さした。おやと思う。それは群青に日だまりを混ぜた水色にあえて紺を上塗りしたみたいな、上質ペンキの香りの沸き立つみたいな、ただ取っ手とその上に光る鍵のようなハンドルだけが、白銀にきらめくような姿で、屹然としてそこに控えていたからである。それはまさに、この謎パビリオンに通されたときの扉そのものだったのだ。
それにしてもおかしいな。なぜ今まで気づきもしなかったのだろう。茶髪が呆れたみたいに、
「おいおい、最初(はな)っから、同じ扉を潜ればよかったんじゃねえのか」
と扉の方へ歩み寄ると、
「正解は遅れて遣って来るものだ。呆れるものを結果論という」
と眼鏡は高く構えている。私は気になるので、
「それで、この扉の数列は何が違うのだ」
と近づきながらデジタル表記を見つめると、
「うん、実は何も示していない数列なのだ」
と眼鏡は平然としたものだ。
「それは奇妙だねえ」
私は流し目に、全部白状しろと催促する。眼鏡はすぐ降参した。
「実は全部がエックスを示している。意味するところ無限なのだか虚無なのか、永久なのかも分かりはしない。とにかく他の扉とは断然違っている」
私はちょっと腑に落ちない。
「だけど、調べ尽くさない扉の中には、そんな扉があるかもしれない」
「おいおい、そんなことをしてたらとっくに落第生だ。お宝も夢まぼろしのごとくだぜ」
茶髪がとにかく潜っちまえという態度を取ると、眼鏡も珍しく意気投合して、
「いずれこのままでは、永劫ここから進めない。多くの人に先を越されたことではあるし、そろそろ決断の時ではある」
茶髪がそれに合わせて、
「賛成賛成」
と言うので、私ばかりがぐずってもいられない。
「分かった、それじゃあ扉を開けてみよう」
と答えると、三人は改めてその扉を見あげるのだった。
入口のドアにはあったのだろうか、この扉には確かにデジタルの列が組み込まれている。これが本当にエックスの列なのかどうだか、私には分からない。ただ眼鏡を信じるばかりである。ちょうど腰のあたりに、不思議なシルバーの取っ手が付いている。おかしいな、くぐった時には、取っ手もなくて、戻れないと思ったはずなのに……そう言おうとしたけれど、振り向けば二人が頷くので、私は意を決して、ハンドルを静かに降ろし込んだ。アバンギャルドな文様が組み合わせを変えながら作用する。やがてカチッと微かな音を立てて、扉がすっと開かれた。非常に滑らかである。まるで半自動の出入口のようであった。
「この仕組みは非常に込み入っているな」
と眼鏡が感心する。しかしいくら眺めても、仕組みは分からなかった。腑に落ちないように首を捻っている。茶髪が急かして、
「さあ、次ぎに行くぞ」
というなり、眼鏡を背中から押し出した。続けて私もすり抜ける。一瞬あたりが暗くなったように思われた瞬間、すり抜けた扉は「カチャリ」といって閉ざされてしまった。慌てて振り向くと、
「あれ、この扉、後ろ側には取っ手がないぜ」
茶髪が代表して驚いてみせる。なんだか不思議だった。だってそれは、この扉をはじめてくぐった時に感じたことではなかったか。けれどもそんな感慨は、もっと不思議な、目の前の光景に消されてしまった。パビリオンは都会のただ中にあったはずだのに、これはどうしたことだ。とても高層建築どころの喧騒じゃない。まるで工業団地の中間物流センターにおける、巨大倉庫のなれの果てだ。ただあちらこちらにフォークリフトが、置き忘れたみたいに眠っているばかりである。それにずいぶん薄暗い。
けれどもゆっくり眺め回すと、そこらじゅうに積荷してあるのは工業製品ではなかった。袋詰めのお米やら、ダンボールから顔を覗かせる野菜やらが、梱包されかかったり、箱から葱坊主の頭だけを覗かせて、奥の方まで気ままに並んでいるのであった。おや、あっちの奥はひときわ眩しいが、あそこは出口じゃなかろうか。それにしてもおかしいや、僕らがアトラクションを潜ったのは宵の口だったのに、照り映えるあの光は、どうしても太陽以外に考えられない。はてして夜は昼に帰りゆくものだろうか。それともあのパビリオンに並んだのは、やっぱり翌朝のことだったかしら……いや、やはり夜だ。茶髪が変な駄洒落で心胆を寒からしめたことを忘れるはずがないじゃないか。何が「芋の包みやアルミ箔」だ、俳句にだってなってやしない。すると茶髪が素っ頓狂な声で、
「あっれえ、何でか昼の野菜置き場みたい」
と思わずうわずった声を上げた。そのうつろな響きがあんまり変だったので、私も眼鏡も勢いよく噴きだしてしまった。まあいいや、どうせ謎のパビリオンなんだ、くよくよ考えたってしょうがない。茶髪の口調に合わせて、
「何でかねえ」
と答えてみる。
「やはり他の人は誰もいないな。そのうち来るのだろうか」
眼鏡だけは冷静である。とにかく、何でか分からないことも外に出てみれば分かることもあろうという話になって、三人は明るい方に歩みだした。コツコツコツ、足音がコンクリートにこだまする。倉庫は少しくひんやりとしている。それが出口に近づくにしたがって、蒸し暑さが募ってくるように思われた。
それにしても、茶髪はまだお宝を探すつもりでいるらしい。あちらこちらと棚を駆け巡っては、無断でダンボールをちょっとひん剥いたりしている。誰かがすっ飛んで来て、怒鳴りつけやしないだろうかと気が気ではなかった。眼鏡はといえば、彼は歩調が秒針みたいに正確で、靴音を高くしながら、まっすぐ出口に向かっていく。遅れた茶髪がようやく追い付いたとき、私たちは三人共に出口に立ち尽くした。
「これはおかしい」
と私が言うと、眼鏡は
「人の世に、おかしいことなどあり得よう訳がないんだが」
と首を傾げる。茶髪が、
「ありゃ、さっそうと都会が消えちまった」
と驚くかなたには、建物なんて何も見えやしない。燦々と輝く太陽の下に、一車線くらいの土草の田舎道が、両側に畑やら雑木林を抱え込んだまま、果てなく広がっているばかりであった。変わった鳥の鳴き声が、「ピキュリリー」と一羽はばたく。体が真っ赤だ。空が青いや。
「SFばかりにうつつを抜かす我々に、神々は罰を与えたもう」
眼鏡が訳の分からない感慨を述べる。
「いや違うぜ。お宝発見のパビリオンのことだ、相当の凝った作りになっているに違いねえ。建物ごと揺れる間もなく田舎まで移動したんだろ」
茶髪は、我が国の科学力も常識をも無視した、荒唐無稽なことを平気で述べたてる。それでも
「とにかく進んでみなけりゃ、何も始まらねえ」
という、茶髪のこれだけはまっとうな意見に従って、私たちは紫外線を気にしながら、真っすぐい道をてくてく歩き出した。田舎道てくてく歩き、雑誌にもそんなのがあったではないか。それにしても……こんなことなら日焼け止めでも持ってくるんだった。日射しが痛いくらいである。そう思っていると、眼鏡が手持ち鞄からさっとUVカットを取り出す。自分で塗ってから、僕らに回してくれた。
「まるでどこかのアニメのキャラクターみたいな鞄だなあ」
と驚いていると、
「まだまだ。もっといろんなものが詰まっている」
と眼鏡はすまし顔で先へ行ってしまった。慌てて後を追う。茶髪が小さな声で、
「やっぱりただもんじゃねえぜ」
というので、私も思わず頷いてしまった。振り向いた色白のノッポは、キランと眼鏡を光らせている。さあさあ、いかなきゃ、いかなきゃ。
日射しを恨むみたいに歩みを続けると、ようやく人の姿がした。焼けないための被り物をしたおばちゃんが二人、三つ並んだビニールハウスの隣の畑で、だらだらべったりに喋っているのである。はてな、こんな暑い中にビニールハウスかと思って近づくと、なるほどビニールの口からは、僅かばかりの冷気が漏れ出している。あまり熱いのを避けて、涼物(すずもの)を栽培しているらしい。茶髪がさっそく一声掛けた。
「すいません。ここどこですか」
訊ね方があんまり素っ頓狂なので、おばちゃん二人、大笑いになってしまった。それでも茶髪のおかげで、すぐに打ち解けてくれたのは有り難い。茶髪でもこんなときには役に立つものだ。ところが肝心の居場所はついに分からず仕舞いであった。何度訊ねても、
「ここはどこって、、ここはここさあねえ」
「そうだあねえ」
といって、掛け合ってくれないからである。私たちの質問を冗談だと思ったらしい。それにしても農作業の途中らしく、巨大な里芋の葉っぱが植えられている付近に、竹籠が三つ放り出してある。しばらく話をしていると、頭のてっぺんに太陽が来たのをふり仰いだ一人が、
「もうお昼だねえ。お前たちもよかったら食べていったらどうだい。すぐそこだから」
と言ってくれた。そういえば大分お腹がすいたようである。私はそれでも、どうして昼になるんだろうかとぼんやり考えていたが、茶髪だけでなく眼鏡までおばちゃんに付いて行ってしまった。おいおい、置いて行くつもりかよ。私は慌てて後を追う。茶髪が、
「どうした、暑さ呆けはまだ早いぜ」
と私をのどかに冷やかした。
「さあお食べ」
おばちゃんが勧める。どっちが作ったんだか分からないが、分からないでも困らないから「いただきます」と三人で頭を下げた。出された料理は懐かしいような、それでいて始めて見るような不思議なものだ。例えばメインの皿は、ニガウリと人参をベースにした野菜どもに、魚と肉の合の子みたいな動物性タンパク質を炒め合わせたものだが、言葉で説明しようと思っても、とうてい私の力では表現し得ない料理である。しかしあんまり美味しかったので、ご飯を三杯もお代わりしてしまった。その隣には、透明な寒天ゼリーのようなサイコロに、小魚が一匹乗っかっている小鉢もあった。
「これは琥珀の化石標本みたいだ」
眼鏡が口の中に放り込んでから、
「なるほど、エディアカラ生物群の味がする」
と訳の分からない感想を述べている。茶髪の方はもっと率直に、
「うまいうまい、こっちもグレート」
と箸をあちらこちらに振り回している。僕らがあまりにも食べまくり状態なので、おばちゃんたちは目を丸くしながら、
「あんたらどこから来たのか」
と質問する。代表して眼鏡が、
「空港から来ました」
と答えるが、これは来たとこ違いである。彼は真面目にピントのずれた答えをすることがたまにあった。一番酷かったのが、同級生の女の子が勇気を出して彼を誘ったときのことである。彼は色白だが背は高いし、顔もなかなかに整っているので、その娘さんは
「ねえ、今度の日曜日にどこか行きたいなあ」
と精一杯の勇気を出して言ってみたのである。それもいきなりではなかった。ちゃんと段取りを踏まえた上でのことだったのだが、眼鏡はその意図するところを汲み取ることも出来ずに、
「今週の日曜は晴れの予定だから、安心して出掛けたらいい」
と言って席を立ってしまったのであった。その女の子は後でずいぶん泣いたらしい。後で僕らに諭され、彼はようやく気がついて、むしろ驚いたみたいな顔をしていたが、因果な性格もあったものである。しかたがないのでもう一人のおばちゃんが、
「あんたら、、東京のもんかねえ」
と訊ねると、今度は茶髪の方が早かった。
「東京のものではないが、その付近のもんだ」
と言って皆を笑わせる。おばちゃんたちは
「それじゃああんたら、浜に泳ぎに来たんだね」
とようやく得心する。すると茶髪が間髪入れず、
「そうそう、そうだった。あんまり飯がうまいんですっかり忘れていたぜ。おいお前ら、はやく泳ぎに行かねえと、泳ぎには日射しばかりがいのちだぜ」
と立ち上がる。すると眼鏡まで、
「そうだな、せっかく下に海水着を履いてきたのだし」
と答えるので、私はおかしいな、いつの間に海水浴になったのかな、そういえば下に海水着、着ているような気がするな……とぼんやり思っていたのだが、思いながらも、そういえば昔やっぱり、僕ら三人で泳ぎに来たことがあったような気がしてならなかった。しかし私がそれを訊ねようとする前に、気の早い茶髪が、
「よし、さっそく泳ぎまくりに出発だ」
とおばちゃんに挨拶をして家を飛び出してしまったので、私たちも箸を置いて、
「おばちゃん、ごちそうさま」
「おばちゃん、ありがとう」
といって茶髪を追いかけた。すると背中の遠くから、
「帰りにもお寄りね」
という気さくな声が響いてきた。僕らは振り返ってちょっと手を振る。ちょうど遅れて戻ってきた別のおばちゃんが一人、玄関のところで二人と合流したところだった。きっと遅れた一人も昼食を済ませて、それから彼女らはお茶でも飲んで、またあの巨大な葉っぱのところへ戻るのに違いない。しかし僕らはそんなことに構ってはいられない。灼熱の太陽のもとをひと走りすれば、もうサンゴ礁の海が、それから真っ白な砂浜が、さざ波を立てて僕らを迎えてくれたからである。おまけに浜辺には人っ子ひとりいなかった。
「わあ、本当にサンゴ礁だと、波がぜんぜん無いんだ」
と私が、着ていたものを全部脱ぎ捨てながら言うと、なんだ、やっぱりちゃんと下には海水着を着こんでいたのである。冷静な眼鏡が、
「シャツは来ておけ、火傷するから」
と忠告する。茶髪はもう駈け出して海へと入ってしまった。私はシャツを着ろと大声で叫んで、茶髪のシャツを握ったままで奴を追う。それを丸めて投げつけてやったら、茶髪はサンキューと言って、ひと潜りしてシャツまで濡らしてから、着づらくなったシャツに袖を通すので、愚か者めが観念しろとばかりに、首が出る前に海水を散々にぶつけてやった。
「何しやがる」
とたちまちはしゃぎだす。そこへソフトボールくらいのゴムボールが飛んできて、後ろから頭をぽかりと打ちのめしたので、私は思わず「てへっ」とした変な顔になってしまい、それを見た茶髪から大笑いされてしまった。この野郎と思って振り向くと、やっぱり眼鏡が投げつけたのである。
「何だ、一人で浜で何してんのかと思ったら、こんなもん準備してたのか」
茶髪が眼鏡に向かってゴムボールを投げつける。私は復讐のために海水を投げつける。二方面作戦である。しぶきは日の光を浴びてきらきら耀き、眼鏡はあっという間に頭からずぶ濡れにされてしまった。ざまあ見ろ。それからふと気がついて、
「そんな眼鏡を付けてると、眼鏡焼けを起こすだろ」
と私が脅したから、彼は慌てて浜へ戻って、眼鏡を取ってから帰ってきた。
「顔が全然違うじゃねえか」
と茶髪がからかっている。すると彼はいきなりひと泳ぎ潜ってしまった。
「待て」
「捕まえてやるぜ」
と、私たちも後を追った。
私は泳いでいるときに、不意に、すさまじい車のブレーキ音を聞いたような気がして、慌てて海水から首を出した。遠浅の海だから、ちょっと立ち上がれば、もう胸のあたりまで海水から出てしまう。おかしいなと思って振り返ると、浜は灼熱の反射板みたいに白く、誰もいない裏の雑木林を、ただ海鳥だけが元気よく囀るばかりだった。そら耳かな。こんなところに自動車が来るはずがないや。あたりを見渡すと、砂浜の向こうに真っ赤な鳥居が立っている。
「あんなところに鳥居が見える」
と近づいてきた眼鏡に言うと、
「後で行ってみよう。由緒ある神社に違いない」
と生真面目なことを言う。しかしその時、潜っていた茶髪に足を取られて、眼鏡は海中にすっ転ばされてしまった。たちまち笑い声。眼鏡が茶髪を追って泳ぎ出すから、私もその後を追い始めた。空には雲の欠片もないや。ただ太陽に付かず離れずして、まだ半分にも満たない真昼月が、太陽神ヘーリオスを恋い慕うみたいにして追い掛けているのが目に付いた。誤算を恐れずにいえば、たぶん六日目くらいの月であろうか。僕は何かを思い出しそうな気がしたのだけれども、その拍子に誰かが足を引っ張るものだから、今度は私が海の中に投げ出されて、「待てこのやろう」と眼鏡を追いかけひと潜りした。
楽しくて時間だけが過ぎていく。けれどもおかしいや。これじゃあ前に三人で旅行したときと、まるで同じじゃないか。浜の方へ戻った眼鏡が呼んでいるから、二人で向かってみると、眼鏡は今度はカバンの中からシュノーケルを三本、それから水中眼鏡を三個取り出した。
「おいしすぎだぜ、なんでそんな用意周到なんだお前は」
と茶髪が喜ぶと、
「誰だって生まれ持っての性分を、変えることなど出来ないものさ」
と澄ましたものである。眼鏡の説明では、向こうの岩肌じみた海のあたりは、サンゴ礁が広がっているはずだから、これで海中散歩をするのだという。僕らは一も二もなく賛成した。ところが、そのサンゴ礁がである。ブラウン管や図鑑で見るのとは、まるで違っているのだ。サンゴの枝は尖ったものやら、柔らかいものまで千差万別だった。しかしその色彩ときたらどうだ。例えばエメラルドやトパーズといった、僕などは実物を触ったこともない宝石じみた光をそれぞれに放ち、その透明な色彩が織りなす綾みたいに、枝が張り巡らされていたのである。あるいは向こうには、ズングリした御影石みたいなごっつい奴も転がっていて、そちらはまるで紅玉随(こうぎょくずい)の滑らかさでもって、下にある漬物をででも漬けているようにも思われるのだった。
そんな合間を熱帯魚たちは、いよいよ満身快活に泳ぎ回り、僕らの足にまで纏わり付いてくるものだから、もう余計なことは何も考えられなくなって、僕らはひたすら感嘆して、水中散策しまくって、遊び暮らすうちに時間ばかりが早過ぎて、気がつけばいつしか夕暮れが、次第次第に近づいてくるのだった。不意に遠くで誰かが呼ぶような声がした。私ははっとして岸の方へと体をひねる。しかし浜にはやはり誰もいないのだ。ただ夕暮仕度(じたく)を始めた鳥たちが、「かえろかえろ」と鳴いているように思われるばかりだった。もう太陽もすっかり下り坂だ。かなたの水平線はもう近い。
私は大声で二人を呼んだ。また明日遊べるのだし、初日から飛ばしすぎては体がもたない。そろそろ潮時であった。私は浜へ上がって、尻から砂に腰を下ろした。眼鏡も茶髪も遊び疲れて、隣にどっかり座り込む。まだ角度の残る斜陽が、つつがなく水平線に帰る姿を、三人で眺めていたい気分だった。。
「あれ、前にもこんな風にして坐らなかったっけ」
と私は思わず口走る。しかし二人はまた始まったかとばかりに顔を見合わせて、
「少し日射しを浴びすぎたらしい」
とか、
「何度でも言ってやるぜ、今日が初めてだとよ」
といって笑っている。
「いや、冗談だよ冗談。それよりさ、いつかまた三人でここに来ようよ。例えば卒業旅行とかでさ」
と眼鏡の横顔を覗き込んだ。彼の顔はオレンジ色した光に照らされて、なんだかいつもと違う淋しさに包まれていた。茶髪が海風に吹かれながら、
「それはいい。ぜひ来ようぜ」
と声を掛けるが、眼鏡は黙って遠くを眺めている。茶髪がもう一度、
「なあ」
と顔を向けたが、それへの答えは避けて、
「今日はとても楽しかった」
といって、夕鳥が子らのもとへと戻りゆく空を仰いだ。
「おいおい、何だ何だ。俺さまと一緒には来たくねえっていうんじゃないだろうな」
と茶髪が肘で彼の肩を突く。
「そんなこと、あるわけがない」
と眼鏡は、遠く遠くを眺めるように答えた。
「お前たちと最後に出会えて、僕は本当に幸せだったと思うのだ」
私はあんまり驚いて、
「なに冥土の土産みたいなこと言っているのさ」
それから笑おうと思ったけれども、彼の横顔を見るとまるで普段どおりの、生真面目な静けさに満ちていた。私はまだ言葉が足りない気がして、ふさわしい言葉をあれこれ探していたのだけれども、眼鏡の方が先に語り始めてしまった。
「春は日だまりの暖かさの、永遠(とわ)にこだますると信じる季節だったから、人々は思うことすべてをさらけ出し、誰もが笑い合えると信じていた。己の善良性と堅き友情と、疑いなき親の愛情と、それから恋人と。裏切るものとて何もないと信じていた。そして誰もが幸福だった。」
斜陽は刻々と染まりゆく。滲んで水平線に迫る。いつしか西の空には沢山の千切れ雲が、オレンジ色した羊の群れみたいに、あるいは鰯の大群みたいに、仲良くあちらへあちらへと流されていった。
「前に話したことがあったろう。僕の父親は僕の幼い頃に死んだ。そして僕の母親は僕の本当の母親ではない。そうして僕は、今の母親の本当の子供たちに囲まれて、親の言葉付きからして一人だけ違うような生活を、ずっと送ってきたのだ。」
そうだった。あれは私が自分の親に対して熱弁を振るったときのことだった。うちの親父は無邪気な子どもを毒で満たすみたいにして育ててみせた。「人と人とは金の結びつきに過ぎない」とか、「俺の金で立てた家だから、お前は俺に逆らえない」とか、「だから家に友達を連れてきてはならない。ここはお前の建てた家ではないからだ」とか、まるで子どもの愛情を金槌で殴り倒す「もぐら叩きゲーム」みたいな教育を、親父は一言居士ばりに行ってきたのだった。僕はいつしか、彼に憎しみを募らせて生きるようになった。そして姉さんが死んだ頃から、もう奴とは口も利かないようになっていた。もし話すことがあっても、「はい」とも「いいえ」とも付かないような、とぼけた返事を返すことにすっかり決め込んでいたのである。
そんな憎しみを人に始めて打ち明けたとき、それを聞いて自分の意見を返してくれたのが、隣に座っている眼鏡だった。そう、あれは知り合って初めての夏休みのことだった。そのとき彼は自分の身の上を話し、私はまだしも幸せであることを諭したのだった。しかし私は私で、人の幸福や不幸は、そんな平均値や境遇の代償で計れるものではないと反論し、互いに言葉が止まらずあるいは喧嘩腰にでもなりそうな所へ、茶髪が割って入ってきた。
「親があるだけでお前らはまだしもましだ。俺なんか知らねえうちに施設に捨てられていた。だからお前ら、親なんて相手にするな。親なんかのために青春を費やすなんて人生の無駄だ」
彼が笑いながら屈託もない調子で言うものだから、私も眼鏡もこいつは敵わないという気になったのだろうか、その話はそれで打ち切りになってしまったのである。そしてそれからのことだ。茶髪が私たちを外に連れ回すようになったのは。それまで人と遊んだ記憶のなかった眼鏡も、そしていささか出不精の私も、彼に引っ張られるみたいにして、あの頃からよく三人で遊び歩いてきたものだっけ。誰もいない南の島に泳ぎに来たのも、まったくその延長線上に違いなかった。
私はそんなことを思い出していた。眼鏡はしばらく思いとどまっていたが、今日はどうしても言葉が堰を切って止まらないらしかった。ああ、あの時と同じだ。本当の彼は理性では抑えきれないパトスを、こころの中にマグマのように溜め込んでいるのではなかろうか。
「それでも継母は、僕に何の不自由もなく教育を施し、欲しいものを買い与えるくらいのありきたりの社会人だった。その口調や態度はともかくも、僕ひとりをいじめ抜くようなこともしなかった。だから僕もせめて無駄な面倒だけは掛けまいと、それだけを指標みたいにして、毎日を律するようにして幼い日々を過ごしていたのだ。毎日毎日、僕は笑いというものを知らないために、ブラウン管に溢れる奇妙な娯楽番組やら、デフォルメされた感情をぶちまけたアニメなどは恐ろしくて、いつも教育番組ばかりを、何かから逃れるみたいに必死になって見続けていた。その時だけは少しほっとするように思われたのだ」
「それで」
と思わず私は口を挟んだ。
「そんなにいろんな知識を持っているのか」
「うん。でももし知識が今のようなあり方ではなく、感情と結び付いた言葉であるべきだとするならば、僕のは知識ではなく、情報に溺れているだけなのかもしれない。僕にはこころが欠けているのだ」
「それは考えすぎだと思うぜ」
さすがに冗談で笑い飛ばす勇気も出なかったのだろう。茶髪の言葉もぶっきらぼうである。しかし眼鏡は話をやめなかった。
「夏になる前に雨がさんさんと降り始めて、誰もが難なく傘を開いてゆき過ぎるその雨に、僕はずいぶん濡れたものだから、僕はもう回りのみんなとは違って、すでに夏の暑さの先にある、もっと寂しい、もっと殺風景な、ほら、例えばこんな凪の後に訪れるべき風の哀しみさえ、僕はすっかり知ってしまったのだ。知識ではない。こころのかなたに見通してしまったのだ。」
感傷的な話し方になったときには、僕らはそれに合わせてやる。茶髪だって決して茶化したりはしない。それは僕ら三人の決まりであった。それぞれ性格は違っても、ときに雰囲気的な生真面目さに陥る傾向が三人にはあって、それが僕らを引きつけるみたいに、高校に入って同じクラスになってから、もう六年にもなろうというのに、相変わらず連れ添って遊び歩いている。卒業後の進路はずいぶん異なるのに、互いに本当の友人は三人しかいないように思われるのだった。そうだ、あのパビリオンにだって、誘い合って出かけたのではなかったか。それにしても……また一瞬、不思議な思いが頭をよぎる。僕らなんでこんな浜辺に寄り添っているのだろう。これじゃあ昔の思い出みたいだ。確かパビリオンの中であの扉を開いて……
そんな考えを断ち切るみたいに、突然裏の浜木から烏の声が響いた。何だか秋のような寂寞が押し寄せてくる。茶髪が眼鏡の顔を覗き込んだ。
「親の話はもう聞いたぜ。だとしてもだ、お前の世界は家だけじゃねえはずだ。家で得られなかったものを、家より広い新しい世界で見つければいいだけのことじゃねえか」
私も茶髪に同意する。そして何となく苛立って、
「そんな気持ちで生きてるというなら、さっき僕らと笑っていたのも、あれも嘘だったっていうのか」
とその横顔を覗き込んだとき、彼は寂しそうにそっとほほ笑んだ。
「いや、楽しかった。心からね」
「ほらみろ」
茶髪が両手を頭の後ろにまわす。海へ近づいた夕陽が綺麗だ。波がオレンジ色にじゃぶじゃぶ戯れている。
「あれはたしか小学校五年生の頃だった」
眼鏡の話はまだ続きがあった。
「ひとりの同級生が校舎から飛び降りたことがあってね」
私は思わずぞっとする。そんな話は始めてだった。
「僕はその同級生の一風変わった発言が面白くて、それで誰もが避けていたことだけれども、彼と真面目に話してみるようなことがあったのだ。その男はね、皆が言うには福笑いが慌てふためいて逃げ場を失ったような顔であり、女のかすれたみたいな上ずり声だったから、クラスの奴らは彼のことをあざけって、潰れダンゴムシなんて呼んだりしては、背中に落書きをそっと貼り付けてみたり、答案用紙を黒板に掲げてあざ笑ったりしていたのだった。そして先生までそれを注意するどころか、ただもうにやにや笑ったりしていた。
つまり彼らは、出来損ないのゴム鞠をでももて遊ぶみたいに、塾だの勉強だの、あるいは教師のしがらみだの、下らないことばかり押しつける社会に対して、鬱憤を晴らすみたいにそいつのことを、いわばみんなで磔刑に処して担ぎ上げ、その脇腹に言葉の槍を刺しては日常のつまらなさを、刺激に変えようとしていたのだった。それでも彼は泣きべそもかかず、ゴルゴダの上にあるような学校まで、したげられた鞄を重そうに掲げながら、はきはきと登って来ては、みんなの嘲笑を浴びながらその日一日を、何でもないように過ごすのが日課となっていたのだった。
そんなある日のことだった。その男が僕に悩みをぶつけて来たことがあってね。まるで思いがけないことだったから、僕は本当に驚いた。それから彼は突然泣き出してね。このままでは死ぬかもしれないなんて言い出すんだ。僕はなんだか興醒めした。皆のしていることは憎んでいたが、嫌だと言うことの出来ない彼の態度も、僕は決して好きではなかったのだから。
僕はその瞬間唐突に、なぜだか彼のことが猛烈に憎たらしく思えてね。それがどうしてなのか、今となっては、いや、どれほど時が流れても分からない。あるいはそれは、僕自身には解くことの出来ない方程式なのかもしれないが。そのとき僕は、人の生死なんて宇宙定理に照らせば何の意味のないことだから、どうしても生きたいのならば自分で解決しなければならないと、ずいぶん無責任なことを言って、彼を見下したまま家へと帰ってしまったのだ。僕は彼に友情を感じていたわけではない。ただ他の人と違って言葉を掛けただけであり、彼を虐めて楽しまなかっただけのことだから、彼から一方的に悩みなんか相談されるいわれはない。僕はそう思ったんだね」
「それでどうなったんだ」
その先はきっと分かりきっているくせに、私は訊ねるより他なかった。
「彼は翌朝、朝礼の時間に校舎の屋上から飛び降りたんだ。それはまるで、ピストルに合わせて飛び込んだ水泳選手のようだった。ちょうど校長先生が長話を始め、僕らが眠たく欠伸する、あの呪われた時間のさなか。誰かが「あっ」と声を上げて、空の近くを指さしたのだ。その声があまり切羽詰まっていたので、つい波及するみたいにして誰もが丸い校舎時計の上を、そう、校長先生までも話を折って、後ろを振り仰いだその瞬間だった。彼はまるで木の葉が吹き抜けの風に身を委ねるみたいにして、音もなく憎しみもなく、哀しみすらも感じられず、即物的なひらりと宙に舞い、しかし重力のしがらみからは逃れられず、頭から大地に引き寄せられて、次の瞬間にはもうグシャリというような、二度と聞きたくないような鈍い音を立てて、コンクリートに叩きつけられたのだった。コンクリートは真っ赤に染まってね。それから大騒ぎになった」
私は恐る恐る、
「それで責任を感じているのか」
と聞いてみた。しかし眼鏡が答える前に茶髪が、
「それは死んだそいつの問題だぜ。そんなことで責任を取ってたら、俺たちとても生きてはいけねえ」
とぶっきらぼうの中に愛情のこもった台詞を、まるで海に向かって投げかけたのである。眼鏡はただ、
「そうだな」
と言ってしばらく寄せ来るさざ波の、血の色に染まりゆく波間を眺めていたが、不意に思い切るみたいに、
「責任とかそういうことではないのだ。ただ僕は、僕という人間の中に、愛情というもっとも大切な要素が、まったく見いだせないことを、その事件で始めて思い知ったのだ。僕は本当にぞっとした。もし盛りゆく木の芽(このめ)の喜びみたいにして、人の幸せや哀しみがあるのだとしても、僕にはそれをただ観察する能力があるばかりで、その中で共に泣いたり笑ったりする心が、そして誰かを愛する心が、まったく抜け落ちているのではないか。僕は不意にそのことを悟ったのだ。
それから僕は前より一層ひとりぼっちになってしまった。親や兄弟の話すことが、同級生の話すことが、それどころか教師の話すことも、僕にはまるで理解しがたく、それを無理に合わせるのはなおさら辛く、絶えず大きな壁を抱え込みながら、その壁は永遠(えいえん)にこころに宿り続けることを考えれば、僕は真夏の太陽の下を闊歩している時でさえ、不意に真っ暗な闇に襲われるような気がした。そうして僕は、夏が来る前にもはや、みんなとはまるで別の道を歩み始めてしまったのだ。
だから僕の心に夏はない。小さな春だけはあって、ほんの少しの希望や期待も存在したはずだけれど、その先に夏と思えるような、若葉の伸びゆくような季節は、僕のこころの中に、何一つ存在しなくなってしまった。そして夏を知らないままに、僕は埋葬されるための暗い小道を、まるで秋の夜長の深まるなかを、とぼとぼとぼとぼ歩き続けているような気配なのだ」
その時、彼の顔は真っ青だった。心の底からにじみ出る闇に負かされて、たましいが悲鳴をあげて泣いているようにも思われた。けれども……
「それじゃあ、俺たちと一緒に遊んだ日々は、今日あんなに笑いあった思い出は、どうなんだよ。全部が偽りの感情だったとでも言うのか」
と茶髪がいきり立つ。そう、僕らはあんなに一杯はしゃぎ回ったりしたはずじゃないか。それでいて一人ぼっちだったなどと、僕らに対して宣言するつもりなのか。私もそう言ってやりたかったのだが、短気な茶髪にその言葉を取られてしまったのであった。
「楽しかった。心の底から楽しかった。お前らは僕のたった二人きっりの友達だ。世界中でただ二人だけ、心の闇をさえさらけ出して、それでも見くびられたり軽蔑されたりしないですむような、安心してすべてを委ねられるような、つまり友情というもの。そう、僕の本来もっとも苦手とするような感情なのに、それが今は心地よい風となって、僕には大切なもののように思えるのだ。だから今日は本当に楽しかった。これは決して嘘ではない」
私は不意に泣きたくなった。彼の顔とは反対の方を向く。
「別れ話みたいなこと言うのはやめろよ」
眼鏡はひとり静かに立ち上がった。
「けれども。僕はこうして遊んでいる時が楽しいほど、僕がこうして、お前たちから始めて教わった笑いの渦に身を委ねようとすればするほど、僕の胸のうちのまるで正反対のどす黒い何かが、不意にこころの闇を叩き起こすのだ。起きろ、起きろ、お前はどこへ逃れるつもりだ。そう言って僕を叩き起こすのだ。もう理屈とか心理とかではない。一度心に真っ黒な散弾銃を撃ち込まれると、どんなに足掻いても逃れられない罠となって、幸せを望むひたむきな心を、どんどん食いつぶして行ってしまうとしか思えない。それで僕は終局のところはその苦しみに打ちのめされて、この先もそれに打ち勝つ見込みはまるでなく、ああ、虚無というのはなんと寂しい荒野なのだろう。僕にはもう耐えられない。どうか許して欲しい。僕ら友情を感じた心に免じて、最後の最後まで僕を友として送り出して欲しい。これが僕の本当の幸せなのだと、お前たちだけはどうか分かって欲しい。僕はもう解放されようと思うのだ。そして……」
彼の目には涙が一杯溜まっていた。そんな表情は、僕ら今まで見たこともなかった。そして僕の目にも、それから茶髪の目にも、やはり涙が一杯に溜まって、ひと言でも口を利いたら、それが堰を切って流れ出しそうに思われ、僕らはそれぞれに言葉を飲み込んで、互いの顔を見つめ合っていた。海鳥がまた遠くで鳴いている。まるで悲鳴のようだ。波の音はもう、本当に湖みたいに弱められて、じゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ浜に寄せてくる。裏の樹木を揺らす風がひとしきり吹いて、ざわざわざわざわ泣いているようにさえ思われた。
「僕が今ここを旅立っても、それが僕にとって幸いであることを、お前たち二人だけはきっと…………」
眼鏡が手を差し出した。私は震えるのを隠してその手を握り返した。その手は長くて細くて頼りなさげで、それでも暖かさばかりが募るように思われた。いのちが揺られる灯火みたいな、小さな脈が震えていた。僕はもう胸が一杯になり、行くなと叫んで捕まえたいような衝動で、でも口に出しては何も言えなくて、溢れる涙が止まらなくなってしまい、ただうつむきながら嗚咽していた。それから茶髪が手を握り、「馬鹿野郎」と言って、その隣で泣いていた。しかし眼鏡の手は、まるでひとりでに解(ほど)けるみたいにして、うつむいた僕らの手からすり抜けしまったのである。
「お別れだ」
彼の最後の言葉が、僕らの耳元に響いた。驚いて顔を上げるともう、彼は僕らが駈け出してもすぐには追い付けないほどの遠くにあって、いつもと変わらない規則正しい足並みで、砂を蹴るようにして歩いて行くのであった。ああ、その先には、さっき泳いでいる時に見えた、あの真っ赤に燃えるような鳥居があったではないか。彼は鳥居の前で振り返った。それから満身のさようならを僕らに伝えようとして、大きく大きく手を振るのだった。
僕らはもう我慢できなくなって、一心不乱に浜を駈けだした。彼の名前を叫びながら、どうにか奴を思い留まらせようとして、鳥居へ向かって走るのだが、足はまるでもう思うように進まず、水銀のプールをでも掻き分けるように動きが取れなかった。その間にも眼鏡は流れる歩道に運ばれるみたいにして、鳥居の向こうへ消えてしまったのである。
風の音が途絶えたみたいな静寂。そしてかなたから不意に、「カチャリ」という小さな音がひとつ、僕らの耳に飛び込んできた。僕らは思わずぞっとした。顔を見あわせて、重い砂を必死に蹴り上げて、転びかける足を無理に繰り出しながら、ようやく鳥居の朱色を潜り抜けた瞬間、
「あっ」
と声をあげて、僕らは立ち尽くしてしまった。
小さな社(やしろ)の賽銭箱の向こうに構える扉は、木造格子のひなびた扉ではなかったのだ。群青に日だまりを混ぜた水色にあえて藍を上塗りしたみたいな、上質ペンキの香りもまだ立ちのぼるみたいな、取っ手とその上に光る鍵のようなハンドルだけが、白銀にきらめく姿をして立っていたのは、立っていたのはあの、僕らをここへ導いた、そしてあの謎のパビリオンの入口にあった、デジタルの不思議な扉に違いなかったのである。
慌てて駈け寄って、どんなに叩いてみても、彼の名前を呼んでみても、しかしそこにあるべきドアの取っ手は、まるでオブジェの修飾にでもなったようで、分かつべき隙間すら見いだせなかった。ただちょうど目線のあたりに、電光掲示板の煌めきみたいな数字とアルファベットがまたたいて、まだ少し生命を保つみたいに、数字を移し替えていたかと思ったら、ついにある数列を示したまま、プレートの光と透明度は急速に失われ、まるで墓標に刻まれた刻限みたいに、彫り込まれた石版となってしまったのである。そしてそれはまさに、今の時刻を刻み込んだに違いなかった。
私たちはもう馬鹿みたいに扉を叩き、扉を叩いては彼の名前を叫んでいた。けれどもそれはもはや扉でもなんでもなく、まるで壁に戻されたブルーモノリスが、社(やしろ)の中に立ち尽くすばかりだったのである。
扉を叩くうちに不意に耳鳴りがして、あっと思った瞬間に、私は激しい目眩を覚えた。また後ろから激しい車のブレーキ音が鳴り響いたからである。茶髪も私もほとんど同時に振り返ったが、そこには今まさに水平線へと浸りゆく、どす黒い朱(あけ)に染まった太陽が、歪んだ表情と滲んだ血痕を垂れ流すみたいにして、僕らの浜辺まで鈍いひかりを放つばかり、風の音さえもはや、聞き取ることは出来なかった。
「どこかに泊めて貰わなくちゃな」
茶髪が呟くみたいに振り返った。
「月が出ている」
空には、もう半分より顔を太らせたような月が、青い光で僕らの影を映し、夕暮れもそろそろ夜の帳(とばり)を下ろすのだろう。二人は浜へ出た道をとぼとぼ引き返した。それから昼間のおばちゃんの家を探そうとしたけれど、もう影も形も見あたらなかったのである。
おそらく道を間違えたのだろう。とんだ誤算だった。迷子の僕らをからかうみたいに、両側のサトウキビ畑がざわめいた。遠くの亜熱帯じみた樹林は今や恐ろしいくらいに黒ずんで、僕らはどこかに集落はないかと、あぜ道小道をなるたけ大きい方へ、大きい方へと曲がっていった。何だかたまらなく悲しい気分で、誰が作った歌だったろう、私は中原中也の「湖上」の一節を口ずさんでいた。
ポツカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
そのうち轍に沿った道が折れ曲がると、その向こうには不思議な集落が、ポツカリと月に照らし出されるみたいに、何だろう、真っ白な道ばかりが集落を浮かび上がらせるみたいにして、僕らの前に佇んでいたのである。
「急ごう」
僕らは少し嬉しくなって走り出した。踏み入れると、それは恐ろしく真っ白な砂粒で出来ており、道の両側にはごつごつした軽石をつみ重ねた、腰あたりまでの低い石垣が連なっていた。その向こう側へ、それぞれの家の敷地が広がり、南国の樹木を茂らせているようだった。木陰からちらちらと漏れる窓明かりが、人の世の暖かさを僕らに伝えてくれた。それから風鈴がひとつちりんと鳴って、ふと仰ぎ見るとさっきの月が、やはり太り気味に見下ろしたまま、ただぶっきらぼうに控えているのであった。
「どこかに宿か何かないかな」
私と茶髪は、きょろきょろしながら迷路じみた小道をさ迷っていたが、ようやく一軒の石垣の入口に、「民宿」と書かれたプレートがぶら下がっているのを発見した。誘われるみたいに奥へと入ってみる。少し歩くともう玄関だ。
「すいません」
「ごめん下さい」
ベルを鳴らしながら奥の人影を呼んでみた。すると人影が近づいてくる。ほどなくガチャリと鍵を開ける音がした。擦りガラスの格子じみた扉が、がらがらと横にすべって開ききる。しかし出て来たのは、年配の女将(おかみ)さんではなかった。まだ十代半ばくらいの、はきはきした顔立ちの娘さんであったのだ。もう高校に入ったか入らないか、体が美味しそうに変わりゆく途中の、スラリとした背の高い、髪の長い卵顔をしたその少女は、南国らしくない白い肌と、ほほ笑んだときのえくぼが印象的だった。浴衣などを着こなして彼女は、「こんばんわ」と私たちを迎え入れてくれたのである。
私たちが訳を話すと、他にお客さんもいないのだから、どうぞ泊まって下さいと、こともなさげに奥の部屋へ案内した。まだ新しい畳の匂いのする六畳ぐらいの部屋で、そこに荷物を置いた僕らは、また娘さんに呼び出されるみたいにして、民宿の一番広そうな部屋、といってもわずか十二畳くらいの、細長いちゃぶ台を真ん中に据えた、暖色灯の優しい茶の間へと案内されたのであった。
二人ぼっちのお客さんのために、沢山の料理が並べられている。昼間のおばちゃんといい、ここの住人はよほどもてなし心に溢れた人たちに違いない。それにしても、さっきから娘さん以外の人影を見ないのはどうしてだろう。屈託のない茶髪が一足先に、
「他の家族の人はどうしてんだ」
と娘さんに質問した。
「だあれもいないよ」
と娘さんは笑う。
「だあれもいないよって、まさか、こんな広い家に一人で住んでいるのか」
「うん。そうだよ」
「それで民宿なんか開いて危ないじゃないか」
「どうして。全然平気だよ」
そんなことを言っても、これだけの料理はどうしたのかと私が訊ねると、
「これは裏のしげ婆さんが作ったの」
と平気な顔をしている。お母さんはと訊ねると、
「死んだよ」
と言う。お父さんはと訊ねると、今度は、
「あんな奴のこと。知りたくもないわ」
強い口調で言い返すので、私は思わずどきりとした。しかし茶髪は気にも止めない様子で、さっそく料理に箸を伸ばして、皿のものを探るのに懸命になっている。
「こりゃうめえ。何だ、これはいったい何の肉だ」
と話を折ってしまったので、娘さんも笑いだして、
「それは肉じゃなくって、お魚よ、お魚。それも緑色のびっくりするくらいの熱帯魚なんだから」
と食べ物の方にそれてしまった。熱帯魚や料理の話をしている間にだいぶ打ち解けてくる。茶髪が屈託もなく答えるものだから、誰でも思わず長年の友のような錯覚に陥ってしまうのだった。思えば私と始めて会ったときも、彼はこんな調子だった。楽しくなってきた娘さんは、久しぶりに人に会ったみたいにはしゃぎだした。それから急に思い出したみたいに、
「そうだ、家にお客さんのために用意した花火が、まだ残っていたんだった。せっかくだから全部上げちゃおっか」
と戸棚の方を探り出した。
「そりゃいいぜ、花火絶好調」
と茶髪が立ち上がって、
「ほらほら、いつまでも食ってるばやいか」
と私が残しておいた最後の春巻を口の中に放り込んだ。
「ああ、何すんだよ。せっかくそれを楽しみに今まで生きてきたのに」
と私が絶望じみた声を上げるので、思わず三人とも笑いだした。私は何か大切なことを忘れかけているような気がどこかでしたけれど、まあいいや、とにかく今を楽しまなくっちゃ。娘さんもこんなにかわいいのだし、茶髪に奪われるくらいなら、僕だって一か八かのチャンスに掛けるくらいは、勇気を出さなくてはならないかもしれない。とにかく、この花火が勝負である。そんな初恋じみた感情さえ、不思議と沸いてきたのであった。表へ出るとさっきの月が、僕ら三人を照らしだす。
「あれは九日月だわ」
と娘さんが手をかざすので、
「そんなに眩しいわけがねえ」
と茶髪がからかうと、
「あら、じかに九日月を見ると、九日様に祟られるのよ。あなた知らないの」
と脅すから、茶髪は慌てて手をかざして眺めだした。僕は嬉しくなってきて、
「ポツカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう」
とまた歌い出す。流行(はや)りての歌だから、他の二人も歌い出して、僕ら三人ラアラアいいながら砂浜へと浮かれ歩くのだった。
不意に白砂が広がって、波打ち際へと続いている。おやっと思って顔を上げたら、夜の浜辺が静かに横たわっていた。それは不思議な浜辺だった。海がぼうっと明るいのである。それもただ明るいのではない、七色の蛍光液が混ざるとも知れず、分かれるとも知れず、色彩を移り変わらせながら、静かに静かに灯し揺らめいているのである。僕らはそれが何であるかを確かめようとして、すぐ目の前が光っている岩場まで走り寄った。
波のところを覗き込むと、昼間の宝石みたいなあのサンゴたちが、まるでホタルのように、鼓動みたいな光を放ち、ぱっと明るくなったかと思ったら、息を吐くみたいに細くなって、それぞれが勝手気ままに明滅を繰り返しているのだった。それがサンゴごとに特徴的な色彩があるものだから、勢力に合わせるみたいに海のひかりも移り変わり、遠くからまとめて眺めると、波間は不思議な色彩で仄かに照らし出されているらしかった。しかしもっとかなたに広がる海はもう、七色の勢力図すら区別がつかなくなって、巨大なさかずきに溢れる光りの帯となって、白波がひときわ立つあたりまで、続いていくようにも思われるのだった。それは、振り仰げば陽炎(かぎろい)の立つごとき、夏の大三角を貫く銀河の煌めきと呼応して、天と地を分かちて流れゆく大河のようにさえ思われたのである。九日月がそれを眩しそうに眺めているのだった。不思議なことに、月の明かりがまるで、星のまたたきを遮っていない。ほとんど宇宙空間じみていた。
「始めて見るでしょう。サンゴが光るなんて。これは蛍サンゴって言うのよ。サンゴがね、まるで蛍と同じ原理でまたたきながら、熱帯魚たちの遊歩道を、夜通し照らしてみせるのよ」
と笑った娘さんは、我を忘れて眺望する私たちを指で突っついた。
「花火、、花火」
と催促する。その花火はやはりどれもこれも、見たこともない風変わりなものばかりだった。
「これが南国スタイルかな」
と私は小声で茶髪に聞いてみたが、茶髪も首を傾けて笑っているばかりだ。とにかく面白そうな奴がいいや。私はまん丸な目玉みたいなのを手に取ってみる。
「それはイクリマナコだわ」
といって娘さんがマッチをくれる。イクリマナコとは何のことだか分からない。茶髪は、鬼太郎の親父みたいだといって娘さんを笑わせている。とにかく導火線のところに火を点けて、砂のあたりに放ってみた。
するとどうだろう、突然火を噴き出したイクリマナコは、空へと昇るロケットみたいに跳ね上がったかと思ったら、背高ノッポの頭上ぐらいの位置で空中に留まりだした。下へ噴出する炎が、重力と釣り合っている様子だ。それがしばらく続いたかと思ったら、今度は火花を散らす枝垂れ柳といった風情で、光の筋を無数に垂らすみたいにして、白い粒がまるで滝のように流れ始めた。
やがて粒の色は赤へと変わり、赤から黄色に、黄色から緑に変化(へんげ)し、私たちが目を丸くして眺めていると、イクリマナコは最後にパンと小さな音を立てて、真っ赤な火炎となって己(おの)が首を、砂浜に落として絶え果てた。
「綺麗だねえ。こんなの見たこともないや」
と驚くと、
「そうでしょう。花火だったらここが世界一だわ」
と娘さんは自信たっぷりである。さっそく次の花火を差し出す。
「これはタカノハトカ」
今度は砂浜に置く奴らしい。
「やっぱ変わった名だぜ」
と茶髪が浜に備え付けて、
「星降夜(ほしふるよ)君となぎさの花火かなってか」
とムリやり覚えさせられた句などを呟きながら、すっとマッチを擦った。海からは美しいくらいに、蛍サンゴの光が寄せてくる。導火線は、ぱちぱち赤みを帯びてくる。そのうち筒から炎が吹きだした。今度は青白い煌びやかな閃光が、駆け抜ける隼のごとく次から次へと、空へ向かって吹き上げられたのである。そこまでは普通の花火であった。
ところがである。吹き上げられた閃光はたちまち消えべきところを、高きところに集められた光の雲となって、どんどん成長を続けてゆくのであった。いまや砂浜は、まるでここだけが昼に戻されたかのような眩しさとなった。天変地異に驚いた蟹が、ちょっと向こうでカサカサ逃げだすくらいである。
すると今度は、光の雲は何に気分を害したものかさっと黒ずんでしまい、浜はまたたく間に闇へと戻されてしまった。たちまち曇天に雷鳴が轟くみたいに、稲光とごろごろした恐ろしい響きが、喧嘩みたいに閃光を放ち始めたのである。僕らが茫然と眺めていると、稲光は白から青へ、青から黄色へと移り変わり、最後の稲光がひときわ鋭く放たれたかと思ったら、浜はすべての音を忘れたみたいに静まり返った。そして見あげる僕らのもとへ、白い粉雪みたいな光の粒が、蛍みたいに明滅を繰り返しながら、静かに静かに降り募りだしたのである。僕らは本当に驚いてしまった。
二人があんぐりと眺めているのを横目に、娘さんは愉快そうにほほ笑んだ。私は舞い散る粒を手の平に落としてみる。するとそれは暖かさも冷たさもなくて、二三度燃えるいのちみたいに明滅していたかと思ったら、雪が解けるときの不思議なまじないみたいに、ふっと大気のなかへ消えてしまった。これが本当に花火だろうか。
僕らはこんな不思議な花火を飽きることなく眺めては、互いに嘆息したり、娘さんに集落のことを訊ねてみたり、彼女が持ってきた水筒から、ジャスミンの香りのするほうじ茶みたいな飲み物を、貰って喉を潤したり、まるでここだけ時を忘れたかのような幸せに浸っていたが、私は不意に立ち去った眼鏡のことを思い出して、何だか哀しくなってきた。
「あいつ、なんで一緒にこなかったんだろう」
そう呟くと、けれどももう、茶髪は私の言葉などには構ってもおらず、娘さんとばかり親しそうに話すのだった。茶髪が花火の名前をからかって下らない冗談を言うので、娘さんも笑いながら茶髪ばかりを相手にし始めた。
私はなんだか無性に淋しくなってきた。眼鏡だって茶髪だって、それからこの娘さんだって、みんな勝手に行っちまえばいい。僕はひとりだって泣いたりはしないや。どこまでだってはきはき歩いてみせる。なんだか心が少年に戻ってしまったみたいで、私はそんな不思議な感傷に捕らわれて、それからああこんな気持ちは、『銀河鉄道の夜』の走る夜汽車の中の、ジョバンニの感傷ではなかったかしらと思い出してみたり、その物語を幼い頃、姉さんに聞かせて貰ったことを浮かべたりしながら、それでも移り変わる花火はやはり美しくて、そのうち見とれるみたいにまた心を弾ませて、ふと空を仰ぎ見すれば、九日月は少しだけ西へ傾いて、満天の星空は花火よりももっと静かに、しかしずっと雄大な光を、僕たちに投げかけるばかりだった。僕は何だかくよくよした心が恥ずかしく、慌てて頭を大きく振って、
「なんだよ、二人ばかりで盛り上がって」
と笑い声の方へと帰っていった。娘さんは、
「あら、ごめんなさい。お詫びに、この花火をあげるね」
と細長い線香花火のようなものを私に手渡した。それから茶髪にも手渡し、自分でも一つ手に持つと、
「これはね、ヒトヨミツルっていうのよ」
といって順繰りに火を点してくれた。そう、それはまさに線香花火だった。それなのに、いつもの線香花火とは全然違っていた。火玉からはパチパチと音を立てながら、小さな花が咲いては散り、咲いては散りするのだけれども、それは一つの色ではなかったからである。ちょうど僕ら三人が囲んで三つの火花を散らすとき、その一つが赤く火花を散らせば、もう一方は黄色く散らし、残りは青白い火花を散らす。もしそのうちのどれか一つが、気まぐれに火花を赤から緑に移せば、それに合わせて残りの二つも色を違(たが)えるのだった。それが、初めはゆっくりと繰り返されていた。しかし次第に変化を激しくして、次々に色を移し始めたかと思うと、ついにはどんな色彩もお構いなしになって、七色の火花が分け隔てなく咲き誇り、それはいつ果てるともなく、ますます盛って行くのであった。
「あいつにも見せたかったな」
不意に茶髪が呟いた。私はなんだか急に泣きたいのを堪えるみたいに、黙ってひとつ頷くばかりだった。それなのに娘さんは理由を尋ねもしないで、すべてを知り尽くした巫女さんみたいな神妙な顔で、私たちの顔を眺めるばかりなのだ。
その時、小さな三つの玉はとうとう同じ色の花を散らし始めた。それは銀河の流れる青白ではなく、蛍の好きな黄緑でもなく、もっとあたりきの夕焼け色であったけれども、そっとこころを暖め合うみたいな、あの線香花火独特の優しさに溢れていた。僕ら三人、こうしていつまでも花火ばかりして、遊んで暮らせたらどうだろう、娘さんも身寄りがないようだし、茶髪だってないのだし、僕だって家にいても少しも楽しくもないのだから……もしこの二人が恋人を宣言するのなら、僕は居候だって構わない、決して二人の恋の邪魔はしない……。
私は暖かさと淋しさが火花で入り交じったこの瞬間に、そんな取り留めもない思いに耽っていたが、線香花火ももう終わりに近づいてきた。飛び散る火の粉は次第にやせ衰えて、ついに三つの玉は音もなく砂へと落ち、それなのに玉はまだ燻ったまま、朽ちることなく紅色の光を、まるで蛍サンゴの鼓動みたいに、ゆっくりゆっくり明滅させていたのだけれども、それもまたしばらくのこと、ついにはその光もそっと砂へと帰ってしまい、すると浜辺はもう、九日月が照らし出す白砂と、海と星との光だけになってしまうのだった。
「花火はもう終わり。さあ皆さん、もう戻りますよ」
娘さんがお母さんじみた言い方をする。私たちは素直に従った。浜を出るとき振り向くと、蛍光塗料を溶かした海の光が、別れを惜しむみたいにして揺れていた。それを見ながら不意に私は、そういえば母さんはどうしているだろう。いつも立ちふさがる親父の後ろにあって、僕の親父への憎しみの影に控えている、あの静かな人は。
そんな想いが束の間こころに寄せてきたが、もうどんなに眺めても浜の静けさが募るばかりで、淋しくなって振り返るともう、二人の影はずっと遠くを歩いているのだった。さようなら、蛍の浜辺。私はなんだかお辞儀をしたいほどの心持ちがしたが、それも見られたらまた恥ずかしいし、できるだけ颯爽として足早に二人の後を追ったのである。。
風が吹き抜けた気がして、夜中に目覚めると、寝ていたはずの茶髪の蒲団は空だった。つま先立ちしてそっと抜け出すと、奥の襖のあたりから、心細そうな光の筋が漏れてくる。僕は廊下が響かないように注意しながら、そっと襖の近くへ寄り添った。声が聞こえてくる。娘さんの声だ。
「人の心なんて簡単に壊せるわ、そしたらもう二度と戻れなくなってしまうもの」
僕は思わず立ち尽くす。ただちょっと茶髪はどうしたのか覗こうと思っただけなのに、飛んだところに出くわしたみたいだ。そのまま静かにどす黒い柱のところにもたれ掛かって、息を殺して聞き入ってしまった。その場を立ち去ってはならないと、こころの中で誰かが囁いた気がした。
「だから私は父が憎いの。私のこころを殺したあいつが憎いの。でももう、そんなことどうでもいいくらい、殺風景な淋しさがこころの中に溢れてしまって、もう私はどんなに歩いてみても、どんなに笑ってみても、花火をしていても、もう本当の幸せにはなれないんだって、そんな思いがかたときも私から離れないの」
「だったらよ、俺と一緒に行こうぜ。一人だったら寂しくてたまらない道だって、俺たち一緒にずっとずっと歩いて行こうぜ。俺はお前のためだけを思って、どこまでもどしどし引っ張って行ってやる」
茶髪が日頃見せない真面目な声を熱くした。
「だってあなたは」
「俺だって同じだ。別に心を殺されたとか、そんなんじゃねえけど、何でかなあ、昔を思い出したって、施設の壁の色ばっかり浮かぶんだ。そりゃあ、あそこの人たちは本当によくしてくれた。俺はこころから感謝している。だがやはりそこは施設であって、本当の家庭じゃねえんだ。俺はいつもこころの奥底が殺風景で、殺風景から逃げ出したくって威勢ばかり、楯突く見たいにふんぞり返ってみたんだが、髪だってこうして染めてみたんだが、なんだかよく分からねえ、やっぱり殺風景は殺風景なまま、こころの奥に横たわってんだ。別に消えちまいたいほどの欲求が、沸き起こるわけじゃあねえけど、なんでだか急に、みんな馬鹿馬鹿しくなっちまうのさ」
「それは私とは違うわ」
「そりゃ違うだろ。人の心の隙間なんて十人十色さ、ってこれは友達の受け売りなんだが。そいつもよお、今日の昼間、ひとりで消えちまいやがった。あのとき本当は俺、一緒に連れて行ってくれって、本当は叫びたかったんだ。だけど……」
「連れがいたから?」
私は何か冷たいもので撲たれたような寒気がした。
「あいつは俺の親友だ」
「見れば分かるわ。おかしい」
「そうだな。おかしいな」
「でもそれじゃあ、やっぱり私とは行けっこないわ」
「そうでもねえ。あいつの厭世は純粋な憎しみとか怒りの世界であって、いわば若気のいたりみたいなもんだ。こころの闇とか殺風景とかじゃあねえのさ。だからよ、あいつは生きて幸せになれる男なんだ。俺たちと一緒に来させちゃいけねえ奴なんだ。どんなに淋しくてもよ」
私の心臓はどきどき震えていた。何を訳の分からないことを話しているのだと、大声で襖を突き破りたくてたまらなかった。そのくせ棒になったみたいで、足が動かなかった。声も立てられなかった。
「もし、お前が生きる喜びに満ちて、どうしても戻りたいって言うんだったら、俺はもうどんなことをしても、なんていうかさ、秩序とか定理とか難しいことは分からねえけど、秩序の装置をぶち壊してでも、俺はお前をもとの世界に戻してやる。でもそうじゃねえ、あんな世界には戻る気がしないっていうのなら、だったら俺と一緒にどこまでも行こうぜ。お前とは今日知り合ったばっかりだけど、俺は一目で相手のことが分かるんだ。いや、嘘じゃねえよ。お前は絶対俺とうまくいく。俺さまのお墨付きだ。いや、その、何のお墨だかは知らねえけど、とにかくお墨付きさ。だからお前が嫌でないなら、俺はずっとお前の隣にいてやる。だから…………」
不意に襖の向こうから、必死に堪えていた娘さんが、崩れ落ちるように嗚咽するのが聞こえてきた。私はいつの間にか、大黒柱のところにもたれて、もはや床に尻餅をついて二人の話を聞いていた。膝を抱える自分の手の平が、恐ろしいくらいに冷たかった。
「本当に一緒にいてくれるの?」
「間違いねえ」
「あの人はいいの?」
「あいつは、いっしょに連れて行っちゃ駄目なんだ」
「友達だから?」
「そうだ」
「わたしは?」
「お前は俺の恋人だ。それじゃ駄目か」
それからきっと、二人は口づけを交わし合った。私にはそのように思われた。何だか分からず涙が頬をつたい、それがいつまでも止まらなかった。声だけは出すまいと、必死になって口元を押さえていると、不意に遠くの柱時計が鳴り響いた。午前零時の鐘の音(ね)だ。
「ボーン、ボーン」
即物的な音が十二回、規則正しく鳴り渡る響きに、私は心臓が飛び上がらんばかりに驚いた。まるで何かの拍子に、最愛の人を手に掛けてしまったみたいな恐怖にも似ていた。なぜだか、私にはそう思われたのである。そして最後の「ボーン」に合わせるみたいにして、不意に「カチャリ」という、あの、扉の閉ざされたような音が遠くでしたのである。確かに聞こえたのである。
私はもう我慢できずに、いきなり立ち上がると光の漏れる襖を破るように開け放った。二人の姿を確かめようとしたのだ。でも、本当は分かっていた。そこに二人の姿はきっとない。二人の姿はもうどこにも無く、ただ小さな六畳部屋の奥まった向こうには、あのダークブルーの扉が、恐ろしいモノリスみたいにして、私を睨み付けているばかりだったのである。群青に日だまりを混ぜた水色を今や闇に塗り直したみたいな、ペンキの香りももはや感じられないような、取っ手とその上に光る鍵のようなハンドルだけが、白銀にきらめく姿をして、例のデジタルの数字を振りかざして、あの扉が控えていたのである。
ぞっとして扉に近づく私は、蛇に睨まれたみたいになって震えていた。しかし、ようやくハンドルに手を掛けてみても、その取っ手はオブジェの一つになったまま、分かつべき隙間もなくなって、ただちょうど目線のあたりに、電光掲示板の煌めきみたいなめまぐるしさで、数字とアルファベットが移り変わっていたかと思ったら、ついにある数列を表したままプレートの精気は失われ、まるで墓標に刻まれた刻限みたいに、石版となって彫り込まれた。それはまさに、午前零時を記していたのであった。取り残された私は、誰もいない部屋が怖くって、ただもう扉をどんどん叩きながら、何度も何度も彼の名前ばかりを叫んでいた。けれども茶髪の笑い声も、娘さんの嗚咽も、あるいは彼女の優しいささやき声も、どんなに耳を澄ましても、もうどこからも聞こえてこないのだった。
私は恐ろしくなって走りだした。四方が闇に包まれたみたいで、胸が真っ黒だった。真っ直ぐの廊下から玄関へ飛び出して、ガラス戸をがらがらと開くときの響きは、夜更けをつんざく悲鳴のようにさえ思われた。私は逃れるみたいに、庭を蹴って小道へと駈けだしたのである。
集落は花火の頃よりもっと静まり返っていた。ちらちらとする窓明かりとて一つもない。寝静まったしげ婆さんの家だって、もう闇に呑まれるほどどす黒くって、それなのに、月の光ばかりはひときわ明るく、白砂の道を照らし出しているのだった。私は狂ったピエロみたいに砂を蹴って逃げてゆく。影が馬鹿にするみたいに踊りながら付いてくる。気がつけばいつしか、あの花火の浜まで逃れてきたのであった。
サンゴの灯しはまだ消されてはいなかった。星はいよよ悲しく、風が大気を揺らすのにおののいて、瞬きまさるに違いなかった。肌寒くなった両袖を抱え込むように砂を踏むと、小さな寄せ波がさっと広がって、歩み寄る私の足もとにまで、ひんやりとした潮をたたえてくれた。仰ぎ見ると月はいよいよ丸みを帯びて、十五夜を目ざして太ってゆくらしかった。私はなぜだか不意に、ああそういえば、明日は十三夜だったなあと、なぜだかそんな気がしてならなかった。そして、もう足が濡れるのに任せて、淋しく寄せ波にしゃがみ込んだのであった。
すると何だろう、青い光がちらちらと波打ち際にきらめいた。おかしいな。よく見ると蛍サンゴとは違う。もっと自分で動き回る動物のようだった。瞳を凝らせば、青光りした不思議な頭がひょいひょいと、波と陸(おか)との境目あたりを、砂の中から覗かせたり、また砂の中に隠れたりしている。それはまるでムツゴロウみたいな、ぬるぬるした生き物らしく、彼らがちょっと突き出るたびごとに、砂から青光が生まれるみたいに見えるのだ。そんな青白い煌めきが、等級の低い星が遠く連なるみたいに、波打ち際に沿って瞬いていた。それでいて海は蛍サンゴの仄明るさで、遠くリーフあたりの波は月に照らされて、白い炎を掲げて燃えるようにも思えるのだった。空を見あげれば、夏の星座たちはもう西に退場し掛かって、ペガサスだのカシオペアだの、ペルセウスの物語が東の空で始まりつつあった。
不意に風が吹いて、後ろの樹木の夜鳴鳥が、梟じみた低い声を上げる。カランと音がしたような気がして、ふと視線を落とせば、私の横にはガラスの小瓶がひとつ、蓋に守られるみたいにして転がっていた。なんだか急に、「月夜の晩にボタンが一つ、波打際に落ちてゐた」という歌を思い出して泣きたくなり、そっと指を差し伸べてみる。すると小瓶はまるで重さの感じられないくらい軽いのだ。色彩を削り取られたラベルが、指先で触れた拍子に剥がれ落ちて、透明ばかりのガラスの奥には、空気すらも入っていないように感ぜられた。それでいて何か、大切なものを伝えるために、こうして流れ着いたもののようにも思われ、私はそっと蓋を回してみたのである。指先がひんやりとする。明らかに温度が違っている。やっぱり何か入っているのだ。でもそれは何だろう、しごく大切なもののようにも思われるのだけれども……。
蓋は砂に落ちた。光るムツゴロウたちが慌てて砂の中に引っ込んだ。私は瓶を確かめてみる。しかしどんなに覗き込んでも、逆さにしてみても、ちょっと指を突っ込んでみても、匂いを嗅いでみても、それはほんの空っぽの瓶のまま、何も答えてはくれなかった。私はそれを月に透かしてみたり、指先で揺すってみたけれど、瓶はからからと音を立てるでもなし、まるで羽毛一枚くらいの軽やかさで、光を受けてきらきら輝くばかりだったのである。おかしいな。そっと耳に当ててみる。
すると突然、誰かが耳の奥で、私の名前ばかりを呼んでいるような気がしだした。もっと耳をそばだてると、ほら、やっぱり誰かが呼んでいる。でも、よく知っているはずのその声が、どうしても思い出せない。眼鏡の声だろうか。いや違う。彼の声はこんなに激しいはずがない。茶髪の声だろうか。いや違う。彼の声はこんなに図太いはずがない。そして太い声の後ろには、もう一つかすかな声が響いて来るらしかった。それは女の声のようだ。
私が聞き耳を立てると、不意に頭が痛くなるくらい、急に耳鳴りがし始めた。あっと思った瞬間、またあの車のブレーキの音が、烏が敵襲を恐れて発した牽制みたいに、あるいは夜更けに火事を告げるサイレンみたいに、まるで私の耳をつんざくみたいにして鳴り響いたのである。私は思わず瓶を取り落として、両耳を塞いでよろめいた。激しい衝突音に打ちのめされて、飛び散ったガラスの破片が体を貫き、燃え盛る炎が広がるような、激しい幻覚に襲われた私は、その瞬間、フロントガラスに舞い上がった娘さんの、あの茶髪と一緒に僕を捨て去った、あの娘さんの姿を垣間見たのである。それは泣きながらほほ笑むような諦めの表情にも似ていた。私は頭を抱えたままその場に倒れ込んだ。倒れながら、あれは何だろう、あんなに遠くの波間に、リーフの白波のあたりに、誰かのシルエットが見える。それはしきりに私を呼んでいるように思われたけれども、もう私にはそれが誰であるのか、何を叫んでいるのか、まるで分からなかったのである。
寂しい夢を見た。もう誰ひとり居なくなったあのパビリオンに、始めに入ったあの建物に、私はただひとり連れ戻されていた。そうしてちょうど三人が勇気を出して、歩み出したあの扉の前に、ぽつねんとして立っていたのである。けれどもその扉はもはや石化した灰ででもあるように、あの鮮やかな彩色も前衛的な彫刻も何もなく、ただのっぺらぼうな石版となって、黙って私を見下ろすばかりだった。それだけではない。あの豊かな修飾を着こなした、モダン建築の粋を極めたような華やかさの、心おどるような迷宮はもはやそこにはなく、あれからもう何十年、いやもう百年の歳月が流れたのだろうか、今や朽ち果てた廃墟ばかりが、どこまでもどこまでも広がっているのだった。あんなにあった扉には、あの頃の電光板の面影とてなく、錆びついた蝶番(ちょうつがい)から崩れ落ちそうなブリキの、朽ちかけたドアとなって並んでいるばかりだったのだ。
天上からは鉄骨が折れそうに突き出し、壁には破れかけた壁紙だの、亀裂の入ったタイルだの、ひび割れたコンクリートの醜い姿があった。埃を被った床に崩れ落ちているのは、ああこれは、僕らが数式を究明した際の、眼鏡のためのテーブルではなかったか。もはやすべての色彩は失われ、セピア色に掠れたスナップ写真みたいに、廃墟ツアーのアルバムみたいに、パビリオンは静かに死に絶えていた。
突然天井で、悲鳴みたいなサーキュレーターが、ギギィギギィと哀しげな歌を始めた。僕は思わずぎょっとなる。床に転げ落ちたブランコの人形が、怨めしそうに眺めている。怖くなって歩き出した。足を踏み出すと、埃がいやらしく舞い上がる。何かが不意に飛び出して、もう心臓が止まりそうに硬直した。けれどもそれは一匹の鼠であり、向こうもよほど驚いたのだろう、しどろもどろになって逃げ去ってしまったのである。
不意に冷凍庫にでも閉じ込められたような恐怖が湧いてきて、僕はまるで鼠みたいに走り出した。出口はどこだ。こんなところにいたくない。はやく出してくれ。急き立てられるみたいに駈けだしたのである。扉をひとつ開き、次の扉へとひた走り、向かいに現れた扉を捕まえて、必死になって開ききる。しかしどんなに扉を開いても、どんなに駆け下りても、残骸の山を乗り越えても、何も変わらぬ廃墟ばかりが、果てなく続いていくばかりだった。どこへ向かっているのかも分からず、どこへ向かったら良いのかも分からず、僕は真っ青になりながら逃げて行く。扉はむかしの機能を失って、閉じることもなく口を開ききったままで、それどころか触れたとたんに蝶番が外れ、驚くほどの砂埃と悲鳴を立てながら、目の前で息を引き取るのだった。僕はもう気が狂いそうだった。それとも私は、すでに気が狂っていたのだろうか。血眼になりながら、むき出しの錆びた鉄板の上を逃れていくと、曇りガラスをはめ込んだ扉が見える。あんな扉は今まで見たことがない。あるいはもしかしたら。私は狂乱の姿で走り寄り、躊躇せずに扉を開け放った。そして開け放ったままの形で、まるで化石のように硬直してしまったのである。
それは出口ではなかった。それはポツカリとした奈落に渡された、赤く錆びきった吊り橋であって、ちょうど二つの建物を、採石現場の工場をつなぐ作業通路みたいにして、朽ちかけの鉄の姿を晒していたのである。隙だらけの鉄板の下には、真っ黒な闇が広がって、どんなに瞳を凝らしても、見つめきることが出来なかった。黒ずんだ工場の外壁が、両側から私を押しつぶそうとする。距離にして百メートルぐらいはあるだろうか。私は恐ろしさで唾を飲み込んだ。しかし、もううしろには引き返せなかった。誰かが向こうで呼んでいる。どうしてもそう思えてならなかったからである。不意に錆鉄の鎖がギギイと響く。気味の悪い生暖かい風が、砂漠みたいに吹き上げてきた。ここはもはや、黄泉の世界なのかもしれなかった。
意を決して踏み出した。一歩ごとに鎖が揺れ、鉄板が鈍い音を立てる。干からびた自転車の急ブレーキみたいな響きが、ギギイギイと鳴り響く。二三歩繰り出すとたんに床が落ちた。私は必死に鎖に掴まりながら、頭の中が恐怖で灰色になってしまい、しばらくは吊り橋と同化していたに違いない。
するとまた、耳の奥の方で何かが聞こえてきた。たしかに誰かが呼んでいる気がする。行かなくては。生きて辿り着かなくては。私はまた吊り橋の向こうを目ざし始めた。
ようやく真ん中まで来たときだった。少し油断した一歩が鉄板と共に崩れ落ち、私は腰のあたりまで奈落に投げ出され、辛うじて両手で鉄板を挟み込んだのである。ところがその片方は、衝撃に耐えきれず左手と共に谷間へと崩れ落ち、私は右手の宙ぶらりんを残された鉄板に抱きしめるみたいにして、取り残された最後の木の葉みたいにして、ぶらんぶらんと体を揺すった。
吊り橋がギギイギギイと鳴り響いて、私を振り落とそうとする。もう気が変になったのだろうか、私は人の声とは思えない、「ああ」に濁点を付けたような奇声を張り上げながら、あわあわあわともがき苦しみ、ようやく上半身まで助け起こしたところ、錆びた鎖の二三本がぶちぎれて鉄板の上に、ガシャンとぶち当たって悲鳴を上げた。堪(こら)えきれなかった床がまた一枚、奈落の底へと落ちてゆく。私は硬直する。けれどもどんなに待っても、奈落の淵から音は返ってこなかった。破れた服の間から、裂けた肌の真っ赤な鮮血が流れ出る。シャツは錆で赤茶けて、泥水に落ちた芋虫みたいにみすぼらしかった。
私は必死になって全身を橋へと乗り上げた。ようやくほっとして、仰向けに寝転んだその瞬間。私は鉄板がいっぺんに全部崩れ落ちたような恐ろしさで、ぎょっとなって硬直してしまった。まるで鼓動と脈とが瞬間冷凍されて、血液のポンプが停止したような恐怖だった。見上げる天空のかなたには、建物の隙間から暗闇が空へと広がっていて、そしてそこには、今まで何度も見かけたあの月が、見るたびに太っていったあの月が、今やまん丸な十五夜の姿となって、静かに私を睨みつけていたのであった。
それは鈍い鈍い光だった。まるで黄砂に遮られた哀しみに捕らわれて、建物と一緒に朽ち果てたみたいに、紅殻色(べんがらいろ)の土塊(つちくれ)となって、月は私を睨みつけていた。それなのにまわりの空は、まるで漆をぶちまけたみたいに、奈落と同じポツカリとした闇なのだ。僕はがくがく震えだした。もうなりふり構わずに、落ちて死ぬことも考えられなくなって、這いずりゆく醜い芋虫の姿をして、ずるずるずると鉄板を這い渡った。ようやく向こうの鉄の踊り場に体を転がしたその瞬間である。ガシャンガラガラと激しい音が鳴り響くと同時に、砂の城がさらわれるみたいにして、その吊り橋は僕の前から崩れ去ったのであった。あるいは僕はしばらくのあいだ、瞳を見開いたまま気を失っていたのかもしれなかった。
ああ、誰かが僕を呼んでいる。私はまた起き上がった。洪水に出口を求める鼠みたいに、よろよろよろよろ歩き出す。建物へと滑り込み、赤茶けた階段を螺旋状に降りてゆく。カアンカアンと足音だけが響く。遠くからカアンと返ってくる。踊り場ごとに扉があって、僕はそのどこかに知り合いが隠れていて、僕を救い出してくれやしないかと、大声で「誰か、誰か」と叫びながら、ひとつひとつ扉を覗いては、諦めきれずに中に躍り込んでみるのだったが、部屋はどれもこれもが空っぽのまま、まるで囚人の使い残した独房みたいに、小さなベットが一つ朽ちかけているばかりだった。
ただ抜け出したくって、抜け出したくって、誰かに逢いたくって、仲間がひとりでも欲しくって、僕は自分を置き去りにした眼鏡や茶髪のことさえ怨めしく、全身蒼白で滲み出る汗は氷のように冷たく、ああ、私は生きたままここに埋葬され、永遠にさ迷い続けるのだろうか。すでに自分の髪毛は真っ白で、顔もしわくちゃの老人なんじゃないだろうかと、そんな恐ろしさに打ちのめさながら、「助けて」「誰か、助けて」と大声で叫び、折れそうな足を繰り出しては、また扉ひとつを駆け抜けた。
ああ、と私は絶句する。瞳孔が見開いたまんまになる。その扉の先には、回廊が果てなく続いていて、そこには何百という、いや何千という扉が、横一列に整列して私の方を睨めつけているのであった。私は腰が砕けたみたいになって、心が生き埋めにされたみたいになって、開いた扉からよろめくみたいに、背中から後ろの壁へと崩れ落ちた。しばらく私は、廃墟の一部となっていたに違いない。けれどもまた、遠くの方で声がする。私は呼ばれる限り、いのちの限りは走らなければならない。
開かずにやり過ごしたむこうの扉まで、よろめく体を壁で支えながら歩き出す。ノブにそっと手を掛け、懸命に押し開いた。しかし、ああ、やはり駄目なのだ。やはり空っぽの部屋なのである。恐る恐る踏み込むと、ベットの向こうにもう一部屋あって、扉のないところを曲がり抜けると、部屋の奥には扉が控えている。私は行かなければならない。また扉を開ける。するとまた狭い階段が続いていた。始めに駈け出したときと、何も変わらない殺風景の中で、私は狂乱のピエロとなって走り出す。もう影すら追ってこない。ずきずきと足が痛む。吊り橋を逃れるときに突き刺した肩のあたりから、生ぬるい血の臭いがする。それでも私は走るのを止めなかった。
奥に進んでいるのか前に戻っているのかも分からず、よろめくままに扉を放ち、ギイイという悲鳴にはこころ震わせ、逃げ出すみたいに次の扉を潜り抜け、空っぽの部屋の空っぽのベットの、脇をすり抜けてはまた開き、現れた階段を登りきっては開き、右に折れては開き、駆け下りては開き、錆びては崩れる扉の呻きが、ギギイイバタリ、ギギイイバタリ、鳴り響くたんびに両手で耳を塞ぎながら、仕舞いには朦朧として何も浮かばなくなってしまった。それでも私は灰色の頭の中で、ようやくはっきりと悟ったのである。どんなにひたむきに扉を抜けても、吊り橋を泣きながら渡っても、出口など見つかりっこないのだ。これは友に見捨てられた私に対する、無限懲罰の極刑かなにか、恐ろしい断罪の儀式には違いなかった。シーシュポスが岩を頂上に据え置こうとするたびに、岩が転がり落ちてくる業罰みたいに、あるいは賽の河原の、ひたすらに積み続ける供養塔の業罰みたいに、何かおぞましい罰が私にくだされて、ちょうど彼らがその行為から逃れられないように、もしいま自分が走るのを止めたなら、私は永劫に真っ暗な奈落に落とされて、今よりももっと恐ろしい地獄が、目の前に広がっているに違いなかった。そう思えばただひたすらに怖くって、怖くって、足を止めることは出来ず、あるいは次こそは、きっと次こそは、と取っ手を握りしめる間に、いつしか両手には真っ赤なマメが、赤茶けた血の色をして滲みだし、惨めなくらいボロ雑巾じみていて、もう痛みも分からない。手を見ないようにして、開け放たれたままのドアを慌ててすり抜ける。誰もいない廃墟。色あせたがらくた。人の暮らした名残とてない。ただ自分の足音だけが、逃れきれない背後から、のっぺらぼうの姿をして追いかけてくる。そんな『置いてけ堀』じみた恐ろしさで、僕は振り向くことすら叶わなかった。
今やもう、声さえ出せなくって、涙さえも出なくって、胸のうちにはポツカリと闇がへばり付いて、ただ「助けて」「助けて」とそれをばかり、足掻き続けているうちに、どれくらい足掻いたのだろう、ある扉を思いきり開いた刹那に立ち尽くした。ぎょっとする悪魔から墨をぶっかけられたみたいに、絶対零度の呪いで貫かれたみたいに、私は凍りついてしまった。
だってあれは、小さな部屋の、小さな真向かいに、僕を軽蔑するみたいに、僕をあざ笑うみたいに睨み返しているのは……睨み返しているのは、今まで仲間を次々に奪っていった、あのデジタルボードの扉であったのだ。奴はもはやブルーではなかった。すっかり漆黒となったモノリスの姿で、すべての音を吸い込むみたいにして立っているのであった。私は自分のこころが砕け散る音を聞いた。それは、パリンとプレパラートが砕けるみたいな、はかない微かな響きであった。心はこんなにも弱いものかと、朦朧と悟ったような気がした。その扉は群青に日だまりを込めた水色を、悪魔が漆黒で塗り潰したみたいな、剥げかけのペンキももはや土に帰るみたいな、終末の姿を僕に晒していたのである。憎しみの姿を込めながら。それなのに取っ手とその上に光る鍵のようなハンドルばかりは、白銀にきらめく姿を今なお残していて、それでいてあのデジタル数列は、昔と同じように活動を続けているのだった。
僕は知っていた、それはすべてを葬るための終わりの扉。ただ私を土へ返すためだけに、もっとも効果的な場所に置かれた、悪魔の埋葬儀式に他ならなかったのである。そう、これでお仕舞いだ。私はすべてを観念した。こんなに頑張っても、吊り橋を必死に渡っても、何の意味もなかった。初めからあそこで待っていればよかったのだ。あんなに走ったりして……左手が血を流して真っ赤だ……こんなに頑張った自分が惨めだ……ようやく一歩、そして一歩、また一歩足を進める。靴の中もヌルヌルする。どうせ血だらけなのだ。体中がずきずきする。もうずたぼろだ。まるで濡れ鼠だ。もう終わりにしよう。すっかり疲れてしまった。足音が哀しみでコツコツと笑うみたいだ。馬鹿馬鹿しいや。
私は不意に、眼鏡の規則正しい足音を思い出した。そうだ、あいつらどうしているだろう。どうせなら眼鏡や茶髪と一緒になって、ずっと遊んで暮らせるような世界へ行けたらいい。僕たちなんでこんなにも詰まらない、味気ない世界に生み落とされてしまったのだろう。生まれてきたのが間違いだったのかもしれない。そうだ、僕らの世界にはきっとあの娘さんもいるだろう。今度は四人で毎日毎日、あの不思議な浜辺で泳いだり、夜になったらイクリマナコを上げたりするんだ。娘さんは茶髪に取られてしまうかもしれないけど、僕らもうずっとずっと、どこまでも友達であり続けるんだ。何だかこころが熱いや。胸がいのちを灯しているのが分かる。自分のどきどきする鼓動が伝わってくる。ああ、涙が止まらない。頬からこぼれ落ちては、なぜこんなにも流れ出るのだろう。扉は無機質に、裁判官のようにして私を睨めつけている。僕を生きたまま処刑するために。いいだろう、僕はもう決してひるんだりはしない。最後の勇気を振り絞って、私は震えながら銀色のハンドルに手を掛けた。するとその手に、不思議な光が差し込んできたのである。
おやと思って顔を振り仰ぐと、天井の崩れ落ちかけた隙間から、あの鈍い紅殻色の満月が、必死に僕のことを照らしているのだった。あっと思った。何だか分からない。突然目眩がして、それから大声で繰り返される自分の名前に驚いて、月の光が瞳のなかに拡散して弾けて瞬いたかと思ったら、まるで男と女の叫び声が、耳の奥の悲鳴みたいにして私の名前をばかり、あんまり叫び続けるものだから、僕は思わず目眩を起こし、目の前が真っ白になり、ドアから手を放して、耳を塞いでうずくまった。その瞬間である。またあのブレーキが突然鳴り響き、それからヘッドライトの光が、フロントガラスに娘さんの舞う哀しみが、それから僕を呼ぶ男と女の声が、もうすべてがごちゃごちゃになって頭の中に響き渡り、何も分からなくなって僕はただ、嫌だ、こんなところで死にたくない、死にたくない、死にたくないと祈り続けているうちに、その場に倒れ込んで気を失ってしまったのである。意識が遠のくさなかに私は見た。僕を照らし出す満月が、今や鈍い褐色の光を打ち破って、ああ、あれはまるで初夏の息吹みたいな、魂の情熱みたいな、願いを叶える希望みたいな、健全な真っ青な光となって、私にすべての光を注いでいるのだった。
ふと目覚めると、僕は六畳くらいの部屋に眠っている。青い畳はまだ張替えたばかりに新しく、いい香りを放っていた。あれと思って、ぼんやり瞳を開く。この部屋はまるで、茶髪と一緒に泊まったあの部屋……いいや、ここは、そうだ思い出した、ここは僕が幼い頃に住んでいた、自分の家の奥まった部屋ではなかったろうか。部屋はまだ薄暗い。今は朝だろうか。遠くでシューッと薬罐(やかん)の沸く音がする。ちくちくと少しうるさい時計の針がする。山椒の香りが漂うような気配がする。落ち着いた灰色障子の向こうから、曇天くらいの光が差し込んでくる。僕は恐る恐る蒲団を抜け出して、襖ひとつをそっと開いてみる。そして立ち尽くした。だってそこには、もうとっくに亡くなったはずの、ああ姉さん、姉さんが優しく座っているのだった。姉さんは気軽な夏模様の浴衣を着こなして、それからせっせと指を動かして、針仕事をこなしながら僕の泣きべそを見つめていたのである。
「どうしたの。怖い夢でも見たの」
とにっこりとほほ笑んだとき、僕はもう今までのこころが一遍に崩れたみたいになって、わあっと彼女に抱き付いて、まるで生まれたばかりの坊やの姿をして、ひたすらに愛情ばかりが恋しくて、人のぬくもりが恋しくて、大声でわあわあ泣きだしてしまったのであった。姉さんは優しく僕の頭を撫でてくれる。それから、いつかそう、何度も聞かせてくれたものだっけ、昔聞いた子守唄をやわらかな声で、穏やかなフレーズで歌ってくれるのだった。
泣かんとぅーやらさーしゃんせぇ
十五夜お月さん見とりょーねえ
それは日本語みたいだけれども、まるで大陸の言葉のようにも聞こえ、聞いているうちに泣き疲れてしまた私は、ようやく安心するみたいにして、いつの間にか彼女の腕の中で、ただぐっすりと眠ってしまったのだった。
それからまた、どのくらい過ぎたろう。僕はまた、自分の名前が必死に呼ばれているのに気がついた。声は二人いるようだ。男の声と女の声と、そうだった、何度も僕を呼んでいたっけ。ああそうか、ようやく思い出した。この声は、あいつの……
僕はうっすらと瞳を開ける。ああ、やっぱりそうだ、そこにいるのはあの憎たらしい親父と、それから、いつも後ろに控えているあの母親と、二人は気がついた私に乗り出すみたいにして、ベットの横で涙を垂れ流しにして、惨めな泣きっ面で僕を呼んでいるのだった。
それにしてもおかしいな、こんな光景は。親父が僕のために泣いていやがる。ひどい夢もあったものだ。それにここはいったいどこだろう。僕はベットに固定されているような気がする。動きたくても動けない。天井には蛍光灯が二本備え付けられているけれども、今は必要ないらしく、明るい部屋の中で消されたままである。天井も壁も、すべてが真っ白な部屋だ。二人は僕がぼんやり瞳を見開くと、抱きつかんばかりに奇声を上げて、けれどもまだ僕に触れてはならないらしく、名前を呼んだり頷いて見せたり、ベットの向こうで互いに抱き合ったりしている。でもなぜだか体中がずきずき痛む。なんだか手には包帯が巻き付けてある。足が固まって動かない。どうしたのだろう。あんなに廃墟を駆け巡ったせいだろうか。それとも、あれはすべて夢の中の出来事で、これが現実の世界なのだろうか。でもおかしいや、こんな光景は。親父が馬鹿みたいに泣いていやがる。僕がこんなに、こいつに愛されているだなんておかしいや。
なんだかよく分からなくなって、おぼろげにあたりを見回すと、そこは病院の個室に違いなく、ちょうど差し込んだ太陽が、ベットの近くに日だまりを作っているばかりだった。私はふと、あの月はどうしたろう、あるいは僕の願いを叶えてくれたのだろうか、これが僕の願いであったのだろうか、でも月はどこへ行ってしまったのだろう。そんな取り留めもない思いに満たされながら、ふと見あげた備え付けの棚のところには、清楚なユリの花が数本、白く小さく揺れていて、窓辺からそよぐ風に挨拶を返すみたいに、花瓶の中で優しくお辞儀を繰り返している。私は命のあることが不意にたまらなく嬉しく、急に目頭が熱くなって、親父の前で涙を見せるのは嫌だったけれども、けれども今だけは泣いても構わないような気がした。それから僕はただもう熱い涙が伝うのに任せて、二人と一緒になって泣きだしたのであった。涙はとめどなく流れ、いつまでもいつまでも止まらなかった。
こうして私は一人で戻ってきた。私が息を吹き返したのは、あの一夜に太る満月の神秘だったのだろうか。それともあいつらみんなが、ただ僕のことをばかり、この世界に戻そうとして、僕が扉を潜り抜けないように、ずっと見守ってくれていたからなのだろうか。それは僕にも分からない。後から聞いた話では、あの日、夕暮れの三日月の車道で、僕たちの乗った車は、飛び出してきたひとりの少女を除けきれず、少女をフロントからはじき飛ばして、ハンドルを切ったまま運転席の、右寄りから照明の柱に突っ込んで、それでも止まりきらずに横転し、ニュースに流されるほどの大惨事を引き起こしたのだそうだ。ひかれた少女と僕ら三人は、ただちに病院に担ぎ込まれたが、まず眼鏡の心臓が停止して、それから茶髪と少女の心臓が停止し、それから僕の鼓動も一度止まりかけて、医者からもう駄目かも知れません、覚悟して下さいと、つききりの両親に連絡が入り、親父らはひたすら私の名前ばかりを呼んで、何とかして私をこの世に呼び戻そうと、何時間も必死になって見守っていたのだという。すると僕の険しい顔がつかの間、何を見たのか優しいほほ笑むような顔になったと思ったら、止まりかけていていた心拍が、不意に再開して、確認を取った医者が「取りあえず大丈夫でしょう」と言って、それから三日三晩私は眠り続けていたらしい。四日目の朝、私が何か呟くようにしているのを見つけた両親が、またひとしきり名前を呼び続けたところ、僕はようやく瞳を開いたのだそうだ。そのとき僕はただ両親と泣き明かしながら、「夢の中で姉さんに会ったよ」とだけ呟くと、また深い眠りに落ちたらしい。順調に回復した私が病院から離れたのは、もう一ヶ月も入院した後だった。
僕は元気になった後、葬儀には出られなかったけれども、線香と花を持って眼鏡と茶髪の墓参りに出かけた。僕はこれを一生涯続けることだろう。ずいぶん長いこと手を合わせたままで、胸のうちを熱くしたのを覚えている。ひかれた少女は、車に飛び出したのは少女の方であったとはいえ、彼女の父親は私の顔など見たくないと言って、だから金銭問題だけで片が付いてしまった。それで見たくもない顔を見ずに済んだのだが、けれども私は今でも信じて疑わない。この少女を殺したのは僕らを乗せた車ではなく、その父親に違いなかったのである。そして私はと言えば、前よりほんの少しだけ生きていることが嬉しくて、あんな憎らしかった親父とも、ときどきは話をするようにさえなってきたばかりである。まだまだこれからだと思う。ともかくも歩んで行こうと思う。せっかくあいつらの守り抜いたこの命一つで、どこまで行けるか、何が出来るか、それは分からないけれども、僕はもうどしどしどしどし歩いて行って、あいつらの分まで、どこまでもどこまでも生きてやろうと思うのだ。ああ、もうすぐ日が暮れて、今夜は十五夜だ。月が昇ればまばゆい光のかなたには、あいつらがきっと花火を揚げたり、月の海で泳ぎあったりしながら、僕のことを見守っているに違いないのだから。
(終わり)
2010/1月