十月も残り少なくなりました。雲のちらほらと暮れなずむ、のどかなのどかな夕暮れです。空の紅はもうだいぶ薄くなりまして、それでいて肌寒さはあまり感じられない、穏やかな秋の日暮どきです。ちょっと出歩く町並みが、人影を追って闇を迎え入れようとするのを、新しい灯しを連ねるみたいに、玄関やら居間やら二階の寝室から、それぞれに白いランプを照らし始めます。小っちゃな女の子が全力で走っていきます。うしろからは自転車で、お父さんと男の子が二人乗りで追いかけてゆくのです。女の子はすぐに抜かされてしまいました。けれども笑いながら自転車を捕まえようとして、三人で走りながらそばを通り過ぎてゆきました。僕は郵便局から一万円を降ろして来たのです。実をいうと財布も預金も真冬なみに淋しいのですが、それで何ということもないのです。僕はさわやかな肌寒さえ懐かしいくらいにこの夕まぐれを、心置きなく大気の香りを確かめながら、てくてく散歩がてらに帰ってゆくのです。夕飯はけれども豚モヤシにでもしようかと思います。豚バラがまだふた切れ残っていますから、今日の食費はわずか三十九円で済みそうです。あるいは四十七円かもしれません。いずれにしても安くて幸いです。ご飯はすでに買ってあるのです。それは真空パックです。それでいて胡椒もあるのです。
遠くでピンポンと呼び鈴の音がします。
「こんばんわ」
遅れて響く若い男の声がします。おそらく宅配便か何かを届けているところでしょう。しばらくすると玄関のドアが開いたとき、僕はすでにそこを過ぎ去っていたのでした。まもなく猫にすら出くわすことになりましょう。なぜならこのあたりは、飼い猫たちが鳴き声を緊密に、春先には騒がしいくらいの、狂騒をさえ奏でるスポットですから。
ありきたりがもし尊いなら、毎日が大切に思われるのなら、ありきたりでないものを手にしないだけの小さな勇気を、なぜ持たないのだろうと思います。どこかの居間から網戸ごしのテレビがちらちらと、陰惨をデフォルメしたニュース番組やら、雄叫びを張り上げた動物的なドラマやら、品格の疑われるようなバラエティーが、また繰り広げられようとしています。それはもう、普通に人を感動させることすら出来なくなって、挙動不審に画面を動かしたり、がちゃがちゃとフォーカスを子どもみたいに転換して、それが最新式だと思い込むくらい、稚拙な番組が目白押しなのです。そうしてそんな餌さえ取り払えば、この国の人々の生活も、感性も、のどかさも、数年前も十年前も、あるいはもっと昔から、大きく変わってなどいないばかりか、決して悪くなどなっていないようにも思われるのですが、ただその稚拙なものに毒された領域だけがいびつな広がりを見せて、いつわりの現代性をチープなイメージで飾り立てているのです。
もう十一月も近いというのに、網戸にも幸せを感じるくらいさわやかな夕暮れを、そんな騒音さえ消してしまい、コーヒーでも飲みながらぼんやり眺めたら、そんな人たちがわずかに増えさえすれば、どれほどよいことがあるような気がするのですが、人々はいよいよ考えることすら億劫になりはじめ、感性を豊かにすることは無駄な努力となって、乏しい四択くらいの感情に、還元されることをこそ望んでいるのでしょうか。
宅配便の車が過ぎてゆきます。先ほど玄関で呼び鈴を鳴らしていた、まだ若い配達員です。僕も本当は宅配便を待ちわびているのです。あるいはそれはもうとっくに配達し終えた、郵便局のバイクかもしれませんが、僕も封筒の送られてくるのを待ち望んでいるのです。その封筒には、きっと何も入ってはいないかもしれません。夢みる未来からのほんの小さな贈り物に過ぎないからです。けれどもそのようにして待っている自分を、卑怯者と罵ってはなりません。僕は僕なりの努力をしてきたのだし、半年修行のいかさま飯店のようには、簡単に済まされるものではないのです。僕は秋空を眺めながら、今晩もまたほんの数センチ、あるいはほんの数ミリを前進するための、愉快な空想に耽っているのです。
あるいはいつかあなたはこれを読んだとき、僕のだらけた夕まぐれの空想を知るかもしれません。そしてもはやそのとき僕は地上にはいないかもしれません。けれどもまた、ほんの数ミリずつ道を切り開いていったなら、いつの日か僕の言葉はどこかの誰かの、こころにそっと止まることがあるかもしれません。僕はそんなことを夢みているのです。夢みながらこうして歩んで行くのです。
バイクの物売りラッパが高く響きます。あれは豆腐屋さん……では、今どきないのかもしれませんが、それでも僕が幼いころに聞いた、響きとまるで変わらない音色なのです。そうして僕は、こんな首都圏のなかにあっても、ときどき焼き芋屋さんにさえ遭遇するのです。今でも遊びをする子らの笑い声にしたって、変わらずに公園から響いてくるのです。僕たちはそうしたあたりきをひとつひとつ、ただ未来に橋渡ししていければそれでいいのです。革新と保守のバランスをわきまえず、あらゆる慣習と伝統を蔑ろにして、人から人へと伝えゆく営みを、乏しゅうして我が物顔になって、どこの民族でもない奇妙な人々を、生み出す必要などないのです。そんなのは初めっから、特定の民族になれない共同体をこころざした、風変わりな大国がすれば良いことなのです。なぜならそこには初めから、伝えゆく伝統など存在しないからです。あるいはそれぞれの、個別の伝統に分離されてしまうからです。束ねるためにはどうしたって、愛やら勇気とかいう共通の感情と、公的義務とそれから、趣味という個性に収斂するしか、方針の立てようがないのであります。
僕は歩きながらまた脱線するでしょう。空はだいぶ闇さえ迫ってきました。それを慕って生まれゆく星たちが、乏しいながらもちらほらと、顔を覗かせるようになりました。西の空には三日月も、そっと顔を覗かせています。もっともあれが本当に三日月だかどうだか、僕はちょっと疑わしいのですが、三日月という言葉が必ずしも三日目の月だけを表している訳ではもとよりなく、そこには学術的用語と慣習的用語の、本質的な違いが含まれているのです。そうして僕たちの生活は慣習的用語でなり立っているものを、それを学術的用語で説明するばかりに、会話を干からびさせてゆくような愚しい行為が、近頃めっぽう増えてきたように思えます。これもまたメディアに毒されて、情緒と結びついた言語を、しだいしだいに切り捨てる行為には違いありません。そもそもあられや雹(ひょう)は、学術から生まれた言葉ではありません。人々の使っていた言葉を、後から大きさで区分けしただけのことなのです。その区分けがいつしか強権を振りかざして、今回のは雹で前回のはあられだとか主張しだしたとたん、人々はそれを正統だとばかりに勘違いして、
「ご覧なさい、このようにして説明されているのだから」
などと、慣習的な言語を非難し始めたのです。こうして無残にも慣習的言語は、学術的言語に取って変わられてしまったのです。取って代わられた累積が慣習的生活をすら脅かすとき、人々は画一化に安心するだけの、何か乏しいものに置き換えられてしまうことでしょう。
僕のマンションはもう近くなりました。月はまだまだ元気です。ようやっております。手を振ったからといって答えてはくれないけれど、彼は何千年も何万年も昔から、やっぱりあんな顔で地上を眺めていたのです。自分のスケールがあまりにも小さくて、僕はちょっと恐縮のいたりです。せめて靴音を高めて歩いて行きましょう。もうマンションが迫っています。財布から鍵を取り出して、ぐるり「カチャ」っと玄関をくぐり抜けましょう。また買物に行かなければなりません。僕の財布にはいま、一万二千円しかありません。郵便局には一万三千円くらいあります。これで今月はまだ一週間以上あって、僕は床屋にも行かなければならないのです。新聞屋も集金に来るのです。もちろんこれは、ツケには出来ない代金です。
もっとも、懸命に働いてお金がない訳ではないのです。ただ、ほんの数センチを進むためには、どうしたって時間が必要なのです。必要な時間を得るために、仕事をけちっているのです。それで貧乏で服さえ買えなくって、何年も同じ服で頑張ったりもするのです。それでいて生活に不満などないのです。夕月を見ればただただ嬉しくて、幼い頃みたいに、わくわくして眺めるくらいです。ただもし今病気にでも掛かったらと考えれば、それだけがちょっとは不安ではありますが、僕はみなさまにいつかお会いしてみたいと思います。ただそれだけが小さな小さな願いなのです。それだけをいまは夢みて、一歩ごとへの踏み足リズムを確かめているのです。いつかそんな夢から覚めるとき、それは僕が消えるときに違いありません。なぜなら僕はこの歩みを、生涯続けることをいまは胸に抱いて、この穏やかな秋の夕暮れを、てくてくてくてく散歩しているに違いないのですから。。
さあ、もう部屋につきました。早いものでしょう。さっそく窓ガラスを開ききって、空気を入れ直すことにいたしましょう。ところがガラリと開ききったとたんに忘れ蚊が、部屋の中に紛れ込んでしまいました。僕はこれを殺さなければなりません。殺生を咎めたって無駄なことです。僕の血を奪うものはやはり僕のかたきなのです。割り切ってあっけらかんといきましょう。譲れないことだって僕にはあるのです。攻撃を受ければ、立たなければならないことだってあるのです。
けれども手を叩いたら逃げられてしまいました。僕はずいぶん鈍重のようです。窓からあの夕月が覗いて笑っています。僕の部屋は西向きなのです。夏は日射しが差し込んで大変なくらいです。けれども洗濯物が午後日(ごごび)に当たるのは、ひとり暮らしにとってはむしろ好都合です。それにここは三階なのですから、蒲団だって陽当たり良好なのです。近くの家並みは二階ばかりで、隣の屋根がベランダのすれすれですから、僕はそこで猫と出っくわすことさえありました。本当に猫というものは、信じられないくらい身軽に二階の屋根にさえ、ひょいひょいと昇っては他人の部屋を、平気で眺めているものですから、油断のならないものだと思いました。
その屋根にはアンテナが伸びていて、朝になると今度は鳥たちが、この小さな部屋を覗いているのです。僕は彼らが大好きです。蚊は大嫌いなのですが、奴はどこかへ隠れてしまいました。僕は夜な夜な奴に刺されまくるに違いありません。そのときはまた、雌雄を決することになるかもしれません。
そろそろ記すこともなくなりました。僕の小さな夢のお話しは、これでおしまいにしたいと思います。ずいぶん脱線ばかりで、何が夢だったものか本当にお聞き苦しいかぎりです。まったく恥ずかしいようなつたない文章です。いつかもっと、比類ない作品をお見せしたく思います。まだまだこれからです。いのちの途切れ間なんか誰にだって分かりやしませんが、僕はもう少し歩んでいけそうな気配です。ですからそれまでどうか皆さんお元気で、機会があったらまたお会いしましょう。さようなら。
作成2009/10/23-10/31
2010/1/16