こんぺいとうの唄

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こんぺいとうの唄

インデックス

朗読1 夜の歌
朗読2 謎の本屋
朗読3 こんぺいとうの唄
朗読4 教室
朗読5 こんぺいとうの唄その2
朗読6 公園
朗読7 こんぺいとうの唄その3
朗読8 流れ星
朗読9 朝の歌

朗読1 夜の歌

 引出しの一番下から、空になった懐かしの小物入れを探して、そっと手の平にかざしてみよう。漆のように黒くって、おもちゃみたいなプラスチックの、僕の大切な大切な宝箱。そうして今では空っぽの、うつろになった小物入れ。折れ曲がり式の卓上蛍光灯をちょっと高くしてから、正面にある小窓のカーテンを半分開いて、がらりとガラス窓を開ききった。レストランの駐車場を照らすオレンジ色の下方ライトが、星月夜の営みを蔑ろにするみたいにして差し込んでくる。僕の勉強机は、ほんの窓辺にあったのだ。

 秋が更けゆくのだと思う。僕はスイッチョンやらリーリーと響く虫たちの、のどかな歌声に耳を傾てみよう。月は満月ではないけれども、今日は母さんが栗ご飯を炊いて、けんちん汁を作ってくれた。食後には柿まで食ったのだから、すっかり秋を堪能した気分になっていたのだ。ずいぶん遠くにあるような、十七夜くらいの蒼き光りが差し込んでくる。地上のライトには及ばないけれど、すがすがしい秋のランプである。

空のお星がこぼれたら
いくつもお星がこぼれたら
夜ふけにそっと降りそそぎ
大地にあたって砕けたよ

 懐かしい童謡を口ずさんでみた。これは『こんぺいとうの唄』である。歌詞は、夜空のお星がこぼれて小さなかけらとなって、地上の至るところに隠れんぼしているのを、見つけたならばきっと幸せの、願いも叶えられることでしょう、というものだった。子どもの頃、母さんがよく歌ってくれたっけ。僕は背負われながら、暖かに聞いていたことさえあるのだが、さすがにその頃の記憶は曖昧だ。ただ幼い頃、この歌とそっくりの夢を見たことがあって、僕はこの歌をお守りみたいして、今でも大切にこころに暖めているのだった。もう十年近く前の話しだ。それなのに夢の内容は決して色褪せなかった。

 ふと気がつくと、紅茶を入れたカップの湯気が、窓からの風に誘われてアップルレモンの香りを漂わせている。香りづけに一滴たらしたウィスキーが、何となく大人の雰囲気をかもし出している。それに一口つけて、ようやく真っ白なままのノートをめくって、勢いよくシャープペンシルを走らせた。微積の問題をあと五問、今日のうちに解いておかなければならなかったからである。

 僕は学校の勉強は嫌いだった。けれども数学だったら別である。こんなにパズルみたいで、ゲームみたいでおもしろいものはまたとない。誰だって自分がおもしろいと思ったことは、喜んで予習でも復習でもするのは不思議だ。その代わり英語はずたぼろである。言葉なんて必要に迫られて習得するものだ。外人もいない環境で、英語がペラペラしゃべれるようになったら、それはむしろ愚か者なんじゃないかしら。グローバルスタンダードなんか、僕の知ったことじゃあない。

 一問すらすら解いてから、置きっぱなしの小物入れを眺めてみた。すべすべと黒くって、四角くって、半分から上がぱかっと開いて、中は銀色で何にも入っていない、子どものおもちゃくらいの小物入れ。かつてはここに星粒のかけらが、三粒収められていたこともあった。それともあれは、おさない頃のまぼろしだったのだろうか。僕はまた『こんぺいとうの唄』を思い出して、ちょっと鼻歌みたいにして歌いながら、ぼんやり窓の外を眺めていた。秋の夜長をとぼけた調子で吹く風が、涼しい大気を伝えてくれる。紅茶の湯気はもうすっかり失われてしまったけれど、僕はようやく残りを飲み干した。またもう一問解いてみる。

 ファミリーレストランが出来るまで、窓枠より先ははるかに田んぼが続いていた。その中を行き交う国道が、ときおりヘッドライトを左右に押し流して、なだらかな曲線に田んぼを駆け抜けるばかりだった。初夏(はつなつ)のたびに、シャツをゆるやかに着つつ逢うみたいな、せせらぐ小川には蛍の光すら、風物詩となってまたたいていた。川はコンクリートに殺されもせず、田畑は埋めつくされることもなく、この二三十軒並んだ宅地の、僕の家を境目にずっと広がっていたはずの自然は、わずか十年あまりの歳月に朽ち果てた。こんなブリキの町並みに貶められてしまった。立ち尽くす商品看板は、住民の品性をでも代表するつもりなのだろうか。側溝に整備されたどぶ川には、もはやザリガニもいない、メダカもいない、蛍は亡ぼされた、子らの遊ぶべき場所すらもはやない。そして感覚とこころを結びつけるための遊びを奪われた子供たちは、視覚情報ばかりの娯楽に埋没してゆくのだろうか。だとしたら、それは人でなしを作り上げるための、国家的儀式には違いないのだけれど……。

 僕は相変わらずここでぼんやりと、憤慨ばかりを繰り返すのは幼い頃からの癖らしい。急に味気なくなってきたから、虫の響きに耳を傾けてみる。するとまたスイッチョンが鳴きだした。ここは二階だから、すぐ下から響いてくる。ゆっくりしたスイッチョンだから、あれはハタケノウマオイではなく、ハヤシノウマオイである。僕はちゃんと知っている。ようやく三問目に取り掛かった。

 救急車のサイレンが響いてきた。次第に大きくなって来るらしい。ついには窓辺から、赤い点滅灯が左から右へ、レストランの向こうを横切るのがちょっと見えた。たちまちドップラー効果がサイレンを下方変位させる。どこかで飼ってる愚かな犬が、何を誤解したか高いうなり声を張り上げる。あれはなんの儀式なのだろう。ちょっと哀しいようなうなり声だ。ふと買ったばかりの目覚ましを眺めると、もう十一時を回っていた。

 三問目は難なく乗り越えた。シグマやらログやら無意味なものばっかりだ。こんなことを言ったら、「現代技術の累積はその上に君臨せり」なんて、喚き散らす人もあるらしいけれど、僕にとってはやっぱり無駄なものである。そして無駄なところにこそ愛すべき点がある。クイズみたいな空っぽの面白さがある。現実離れしたような安らぎが見いだせる。なんて言ったらちょっと大げさだけど、あまり執拗に有意義性を訴えられてもかえって迷惑だ。しかし悲しいかな、好きということと得意ということは百パーセント連動しない。二三問解くとさすがに頭が重くなってくるのは避けられなかった。

 ノートをめくって、五九番と番号をふる。それからちょっと疲れ休めに、ノートの空いているところに人力車を落書きしてみた。これはコメットさんの輪タクなのかもしれない。それとも輪タクは、自転車で引かなくてはいけないものだったろうか。丁寧に車輪を重ね塗りしているうちに、学校で合歓子(ねむこ)さんと話したことを思い出して、回想するうちに数学問題はすっかり忘れてしまった。

 学園祭の打ち合わせで、今日は班ごとに出し物を決定する作戦会議が、学級会の時間を占領して開かれた。それで日頃あまり話したこともない合歓子さんと、話しをする機会が生まれたのであった。

「ねえ、なにがいいと思う」

と尋ねてきたとき、ついいつもの癖で、

「別に何でもいいんじゃない」

と答えると、たちまちそんなんじゃ駄目だよ、もっと積極的精神を持って学生生活を送らないとなんて、まるで姉さんじみたことを言い出すので、班じゅう思わず吹き出す結果となってしまい、僕はちょっとうろたえながら、

「じゃあさ、レトロブームなんて題目で考えるのはどうかな」

と、閃くに任せて出鱈目な説明を加えると、冗談のつもりがレトロの方に話しが纏まってしまったのである。とはいっても、僕が発言したのはその時くらいなものだ。実をいうと、みんなと一緒に何かをするのは、はなはだしく苦痛なのであった。

 運動会の練習でも何でもそうだ。彼らは決して、対象とされる結果を目標として効率的に行動を取るということがなかった。寄り道、抜け道、回り道、必要のない無駄話。まるで逸脱による時間つぶしを楽しむみたいにして、だらだらべったりに怠惰をむさぼっている。僕はそんなのは堪えられなかった。わざと無駄なことばかりを選び取って、感動物語を捏造して喜んでいるとしか思えない。そうでなくたって、この前の空缶採集のいかさまみたいに、本末転倒なことをしても全然気にも止めないのだ……

 せっかく思い出した合歓子さんの面影が穢れたみたいで悲しかった。レストランのオレンジランプを眺めるうちに、思わず溜息が出てしまう。僕がこんな性格であるから、皆にとって当たり前のことが当たり前に思えないから、自分はいつも疎外感にさいなまれているのだろうか。けれども、これがアイデンティティなのだとしたら、僕自身を犠牲にしてまわりと同化したとしても、その時の自分はいったい何者なのだろう。あるいはこんな馬鹿な妄想を、例えば合歓子さんが受け止めてくれることはないだろうか。あの熊さんみたいなつぶらな瞳で、僕を認めてはくれないだろうか。そんな思いが突然に湧いてきて、自分でも驚いて頭を振った。まったくどうかしている。初恋の少年じゃああるまいし。早いとこ四問目に取り掛かろう。

 その四問目が難関だった。僕はいらなくなった白紙に数列を書きまくった挙げ句、ちょうど頭の容量をほどよくオーバーして、まぶたが重くなってくるというお定まりの儀式に囚われた。なんて書くと妙だが、ようするに眠くなってしまったのである。何度か頭をうなずくみたいに落としかけて、そのたびにシャーペンを握り直した。しかしついに机の上におでこをぶつけたときに諦めた。これじゃあ頑張ったって無駄だ。手の下しようがないや。

 窓とカーテンを締め切って、僕は卓上蛍光灯を消した。部屋の明かりはそのままにしておこう。朦朧とする頭を休めようと、さっとベットに潜り込んでしまったのである。運が良ければまた起きて続きをやるかもしれないし、ぐっすり眠ってしまったら明日を迎えるし、どっちでも構わないくらいのものだ。蒲団の中でちょっと手をぐうに握って、まるで猫みたいにしてミイミイと枕を撫でてみる。こんな風に合歓子さんと戯れてみたい。僕は愚かなことをちょっと考えて、枕に頭をつけたとたんに、すっと眠りに引き込まれてしまった。そしてその夜は、不思議な夢に囚われていったのである。夢は学園祭の、出し物準備の続きから始まっていた……。

朗読2 不思議な本屋

探そう探そうそのひかり
お祈りしよう幸せを
手のひら握れば暖かく
願いを叶えてくれるでしょう

 懐かしい唄を口ずさみながら、暗かけの校門を逃れ出る。ヘッドライトが行き交う大通りを、学生たちが臨時停車のボタンに手を掛けたのだろう。横断歩道を我が物顔に渡りゆくところで、沢山の自動車が進みたいのをこらえて留まっている。学生たちの後ろ姿は、夕暮れに紛れて黒いシルエットとなって消えてしまった。慌ててその後を追いかける。歩行者信号がもう点滅していたのだ。

 渡りきると同時に排気音が激しくなる。帰宅恋しさのあまりアクセルを踏み込んだのだろう、車道はまたひとしきり賑やかになった。僕も出来ることなら家に帰りたい。こんなことなら書店で調べ物をするなんて言うんじゃなかった。どうせあいつらだって、僕が戻って来ることなんか望んではいないのだ。

 今日は学園祭の準備のために、同じグループの仲間たちが、遅くまで学校で調べ物をしたり、作業を進めたりしているのである。僕は教室にいてもすることが無いし、第一、話しだってすぐに尽きてしまうものだから、

「ちょっと書店までいってみる」

と言って、学校を後にしたのであった。あるいはクラスメイトはそのまま帰ってくれることを期待したのかもしれないが、僕としては最低限度のお付き合いをしなければ、学生特有の使命感を果たせないような気がした。もちろん図書館が閉まっているための代替手段に過ぎないのだが、本屋で立ち読みしたからってどんな情報が得られよう。たいして役に立たないのは知れきっていた。しかしまあ、本当に有用な書籍があったら、少しくらいなら自腹を切ったっていいだろう。それに書店というものは、暇潰しには最適なところである。

 通りはネオンと商店街を連ねた都会風のものではなかった。県庁所在地とはいえ、駅前からは大分離れている。だから住宅半分、残りはマンションやら、オフィスビルやら、ところどころに飲み屋や小物店のネオン看板が連なっているばかりである。淋しげな風がその合間を吹き抜けてくる。もうしばらくしたら冬支度さえ始まるくらいの、ちょっと涼しい秋の夕暮れだ。空が曇っているから、夕焼けもなく薄暗い。歩いて行くと、一件分の建物を壊した空き地があって、大きな看板がずれかけながら震えていた。カタカタ侘びしい音がする。さっきの学生たちの声が大きくなってきた。

 学校の離れにある第二自転車置き場にたむろして、冗談を言い合っているらしかった。男女入り乱れた笑い声が、すり抜ける僕のこころをドキンとさせる。いくら粋がってみても始まらない。僕だって本当は、あんな風にして笑ってみたいのだ。青春時代を謳歌してみたい。そんな情けない気持ちが湧いてくるので、慌てて大股になって、どしどし踏ん張ってそばを通り過ぎた。

 彼らは誰もが趣味を共有しているらしかった。携帯やらメールやらが並列回路の役割を果たして、学校教育とメディアの均質化政策だけでも、圧倒的に個性を剥奪しているのにも関わらず、たましいを喪失するための儀式を、楽しそうに謳歌しているとしか僕には思えない。だから音楽でさえも、彼らの趣味の遺伝は均質性をこそ指向していた。ようするに同じようなリズム、同じようなフレーズ、同じような和声の大量生産を、声の違いくらいで個性を主張し合って、歌詞の内容すらありきたり愛やら恋やら、いわばマンネリズムで満たし尽くしているのだった。たまたまクラシックが趣味だって同じことだ。別に怠惰のポップスより優れたものを求める欲求でもなく、つまりはどちらでも気楽に楽しむくらいの、安易な把握を越えることがなかったからである。そして彼らは、それをリベラルなのだと信じ切っているらしかった。現代アートとは、その安逸なリベラルが何の素養も高次な芸術を求める欲求もなく、ただ口先でべらべら語るだけで済ませるために生み出された、通俗的芸術のなれの果ての姿ではなかったろうか。

 やっぱり僕がおかしいのだろうか。こんな考えは、世間からずれきっていて、それで僕はいつでもひとりぼっちなのだろうか。それにしても右を向いても左を向いても、文化的ヒエラルキーがまったく形成されないのはなぜだろう。

 僕はただ彼らの同一的文化圏の惨めったらしさが恐ろしく、ここまで乏しくなってしまったら、あげくの果てに感情の失われたような喪失感を、現代的だと錯覚して空っぽじみたドラマやら小説を、讃えるばかりの集合体になり果てやしないかと、下らない心配をさえし始めるのだった。そんなのは人でなしの、石ころ文学に他ならないのに……。

 こんなことばかり考える自分は、結果としていつも爪弾きにあっていたようなものだった。もっともそれはひがみかも知れない。なぜなら彼らは僕をあからさまに阻害したことなどなかったからである。ただ僕の方で話していることがまるで分からず、のっぺらぼうの安っぽさで集合が迫り来るみたいで、ただただ不気味で恐ろしく、いつの間にか押し黙ってしまったに違いない。だから彼らの方でもどうしたって、自分を避ける傾向が表れるのは仕方がなかった。

 もちろん僕だって平気ではない。学生時代くらい仲間を求めたがる季節は、きっと生涯にないんじゃないだろうか。第一、あんな狭い教室に何十人もの人間が詰め込まれるんだ。かえってひとりぼっちの疎外感が恐ろしくなるのは目に見えている。動物実験にしたって陳腐な例題だ。けれども僕はできるだけ平然を装った。まだ若い情熱が負けん気を強くしていたから、それで毎日をやり過ごしているようなものであった。

 大通りの信号を一つ抜けて、それから右に折れると急に静かになる。車道の騒音なんて、家並みを隔てると存外に聞こえなくなってしまうものだ。ここはいつも登下校をする道であるが、その途中に大きな書店がある。大きなといっても都内の大書店を想像されては困るのだが、まあ、カテゴリーごとにコーナーを分割しうるくらいの、駐車場二三十台分の本屋だと思って貰えれば、そう間違いはないはずだ。僕はそこへ向かっているのだったが、いっそ家に帰りたい思いばかりが募ってくる。学校なんか戻ったってつまらないや。

 大通りを曲がったらネオン看板もまるでなくなってしまった。人影さえもふっと途絶えて、僕の悲しい気持ちを宥めてくれる。人ごみでひとりぼっちよりは、誰だってひと気のしないひとりぼっちの方がマシなんだ。靴紐が外れて黒靴に当たり始めたので、しゃがんでそれを結び直した。ちょうちょう結びとは、誰が始めに発明した結び方だったろう。そんなことを考えながら、感情を誤魔化しているらしかった。

 また歩き出す。暮れなずむ町の残光が、家々の屋根の紅色だの、二階建ての黄土色の壁を、まだかすかに映している。もうすぐ灰色から闇へと帰るであろう空は、雨好みの雲で覆われたままだ。草むらからは、リーリーうるさい虫の鳴き声やら、風と戯れる枯葉の響きが聞こえてくる。

 小石を一つ拾って、向こうの草むらへと放ってみた。ガサリと草を折るような音がしたから、試しにあの音はファの音かなと思ってみる。きっと淋しさを誤魔化すために違いなかった。もちろん音の高さなんか分からない。ソの音にも聞こえるし、シの音のにも聞こえる。絶対音感があったら、あれが特定の高さに言語化されてしまうのだろうか。そんなの才能じゃなくて、認知の誤謬じゃないかしら。そのうちうるさい虫の鳴き声で、さっきの響きは掻き消されてしまった。自分には音を把握する能力はないらしい。

 向こうからランプが近づいてきた。きまりが悪くなってさりげなく足を繰り出した。あれは自転車のヘッドライトだ。何気なく過ぎようとすると、リンと音がして目の前で止まった。学生服を着ている。おやと思うよりも早く、

「なんだもう帰るのか」

と話し掛けてきた。暗がりから浮かんだのは同じ班の男だった。

「もう持ってきたんだ」

こちらから逆に質問してみる。すると彼は「おう」と言いながら鞄を叩いてみせた。家から資料の雑誌を持ってくるといって、チャリンコで帰宅していたのだった。

「俺も本屋でちょっと調べてみようと思って」

「本屋でか」

彼は屈託もない調子で、

「本屋なんかで立ち読みしたって、たいした発見はないだろう。もし面倒だったら帰ったっていいぞ。みんなにはうまく言っておいてやる」

と退去を勧告してくれた。それに従って帰ってしまえばよかったんだが、学生時代の成熟しない精神が、かえって反抗的な態度を強めて、心をかたくなにしたのは残念だった。もっとも鞄を持ってきていないから、実はそのまま帰るわけにもいかなかった。

「いや、みんな残って遣ってるんだから、せめてこれだけは済ませてから帰ろう」

僕はそう言って、すたすた歩き出してしまった。彼は別に気にする気配も見せなない。

「そうか、じゃあなんか見つけてこい」

と屈託なく自転車を漕ぎ始めた。あまりさりげない様子なので、あるいは自分を帰したかった訳でもないのかなと、自分のひがみ根性が恥ずかしくなってくる。わずかでも調べ物をして帰らなければならないような義務感さえ、急に湧いてきたのであった。

 車線変更も危ういほどの小道は、しばらくすると二つに分かれた。どちらがメインだか分からない。左手は斜めに降っていて、そっちに向かえば帰れるのだが、そうもいかなくなった。すぐ先で書店のライトが路地まではみ出しているこちら側に足を進めよう。

 それにしても不思議なのは、なぜ大通りではなく、こんな鄙びた人影のないところに書店があるのだろう。都内のブックセンターなどとは比較にはならないけれども、決して個人経営のあばら屋書店ではないはずである。まあ、何でもいいや。僕は明かりの方へ近づいていった。

 駐車場まで出ると、なぜだかシャッターが半分閉じている。おかしいな。定休日は今日じゃないはずだ。しかも中では沢山の人影が、暢気そうに立ち読みをしたり、書籍を物色したりしているのであった。あるいは壊れて上がらなくなってしまったのだろうか。入るやいなや「閉店です」と言われるのも嫌だから、しばらく遠慮して様子をうかがっていたが、出てくるものは誰もいない。シャッターに張り紙でもしておけばいいのに。ようやく大丈夫だと思って滑り込むと、レジのアルバイトらしき娘が「いらっしゃいませ」なんて言っているから、安心して書籍を眺めだした。

 店は静かなものだ。本屋だから静寂なのは当然としても、あまりに物音一つしないのはちょっと不気味なくらいである。ひと気を忘れた倉庫にでも入ったような感覚だ。それでいてお客はあちらこちらに佇んでいて、みんなで黙々と立ち読みをしているのだった。ただ僕が歩くときの靴音だけが、コツコツと音を響かせる。それにしても人々の様子がちょっと変な気がする。どこがと尋ねられるとちょっと困るのだが、とにかく変である。まるでマネキンが読書を真似しながら置いてあるような違和感があった。動きが乏しくって、ぱっと見ると静止画のようでありながら、じっと見ていると少しずつ動いてくる。しかも動作が散漫としてはっきりしない。

 不思議な気持ちであたりをうろついていたが、次第に自分もそこに同化していくようで、あまり気にならなくなってしまった。さっさと書籍を見つけだして、こんな本屋からは離れてしまうに限る。どうせ僕のリサーチなんか役にも立たないのだし、調べたら学校に戻らなければならないのだ。そう思って書棚を歩き回るのであったが、奇妙なことに肝心の調査の内容を、どうしても思い出せなくなってしまったのである。

 おかしいな。そんなことってあるだろうか。ぼけの老人じゃあるまいし。忘れるなんて信じられない。けれども頭がぼうっとするようで、僕はだらだらと棚段をうろつくばかりだった。まあいいや、該当する書籍でもあれば、思い出すに違いないのだ。けれども物色するうちに、並んでいる本がいつもと違うことにようやく気づき始めた。

 別にカテゴリーが間違っている訳ではない。よれよれの中古品に置き換えられているのでもない。まして奇抜な雑誌が紛れている訳でもない。ただファッションコーナーは、まるで今の流行(はやり)からはかけ離れた、時代がかった服装ばかりが並べられていたし、自動車のコーナーには、骨董趣味のカーマニアが欲しがりそうなものばかり、巻頭カラーを飾っているのであった。料理のコーナーにはパスタや韓国料理なんてまるでない。和物がメインに並び替えられている。パソコン雑誌はコーナー自体がほとんどなくなってしまって、ようやく見つけたら、「マイコン」だなんて時代錯誤の言葉が連ねてあった。僕が生まれるよりずっと前の名称だ。

 びっくりしながら漫画の書棚に向かってみる。やっぱり全然違う。『風当たり良港』、『星くずのアウリスティケー』、『クカタチなんか大っ嫌い』、子供の頃に流行ったものばかりが、豊かに並べられているのであった。『機動剣士がんつむ』シリーズの最新刊もある。いったいどうなってしまったのだろう。レトロブームに乗っかって、今日を限りに古書を新刊みたいにして販売する書店に、様変わりしたとでもいうのだろうか。刷り直して販売するような斬新な商売が、はたしてあるものだろうか。シャッターが閉じかけなのは、作業が完了していない証しなのだろうか。そのくせ漫画はどれもこれもビニールで包まれていて、子どもの頃みたいに立ち読みをすることは叶わなかった。

 僕は何時間も立ち読みっぱなしで夕暮れになったあの頃を思い出した。しかし不思議な商売をレジに尋ねる気にもならず、懐かしいような面白みに任せて、そこらじゅうの書籍を手に取ったり、見開いたりして、しばらくは時間をさえ忘れていた。

 そうだ。今度は児童コーナーへ向かってみよう。幼き日の面影に巡り会えるに違いない。ほら、さっそく並んでいる。これは『からたちの村の小さな家』だ。妻を亡くしてから無口になった爺さんを、三人のいたずらっ子がついに笑わせる話しだ。こっちは『すっとんきょうの港町』、かたつむりの角を持った灯台から、見まもる海の男たちの話しだ。遭難して打ち上げられた漁船の舳先(へっさき)に、一匹のかたつむりが平然と、角を出してお日さまに照らされたとき、村人たちが歓喜するエンディングが印象的である。

 もちろん『かもめの礒吉』もある。言わずもがな『かもめのジョナサン』のパクリであって、ジョナサン・リヴィングストンの代わりに礒吉が活躍する壮大なストーリーだ。幼いころの自分は、なんだか宗教じみたジョナサンよりも、礒吉のほうがよっぽど好きだった。特に礒吉が一揆(いっき)を形成して、悪代官の鷹五郎に刃向かうシーンは、今でもよく覚えているくらいである。ああ礒吉だ、と思って開いてみたら、あの頃と変わらないくらいにおもしろい。礒吉が、

「やっぱり飛行は餌を捕るためにこそまずあるべきだ」

と悟り直すシーンは、ちょっと吹き出したくなるくらいコミカルに描かれていた。

 つい流し読みに読みきってしまった僕は、はっと我に返って絵本を戻した。たいした高校生である自分が、こんな所をクラスメイトにでも見られたら、黒板に落書きをされないとも限らない。ここはうちの学生のテリトリーであるから、制服を見かけないのが、かえって不思議なくらいであった。

 慌てて立ち去ろうとしたら、すみの平台が拡張されたところに、童話が目一杯に積まれていた。僕は何気なくゆき過ぎようとして、「あっ」と驚いて立ち止まってしまった。本当にびっくりしたのである。だってその書籍の作者が、自分と同姓同名だったのだ。僕の名前はこれでも風変わりな方だから、いかなペンネームであっても同じ名前が、この世に存在するとは思えなかった。題名には、『こんぺいとうの唄』と記されている。

 自分の名称をかかげた本を、どうして無視することができるだろう。僕はどうしても離れることが出来なくなって、おっかなびっくり童話を手に取った。そっと一枚めくってみる。目次を過ぎて、本文を……たちまち引き込まれた。だってこの始まりは、まるで幼い頃にみた夢そのままだったのである。そんな馬鹿なことってあるだろうか。この不思議な本屋。謎の児童書。僕は心臓をどきどきさせながら活字を追いだした。

朗読3 『こんぺいとうの唄』

「もういいかい」

「まあだだよ」

そんな掛け声と始まった隠れんぼでしたが、もうずいぶん長いこと僕は押入れの中に籠もっているようでした。ここは暗くって、隙間から差し込むひかりだって、ほんの僅かに過ぎないのですし、まるで奥のほうから闇が襲ってくるような恐怖に怯えながら、いっそ出ていって見つけて貰おうかと思うくらい淋しいのでした。すぐ頭の上にはささくれじみた横木が、僕を立ち上がれないようにしていましたし、何だか息をするたびに、空気が濁っていくような気もします。僕はふすまをそっと開いて、誰か来ないか、誰か来ないかと、そればかりを念じておりました。どこか遠くから声だけはするのですが、そしてみんなもう隠れんぼを止めて新しい遊びでも始めているような気がするのですが、備え付けの柱時計がチクチクとうるさいばかりで、誰ひとりとして僕を探しに来ることは決してないのでした。

 その頃から僕は、よく人に忘れ去られました。それは決して、友だちから憎まれたり、いじめられていたという訳ではないのです。どうやら自分は、居ても居なくてもあまり差し支えのない、人形か何かのように周りから見られていたらしいのです。ですから僕のことを忘れるのも、なにか悪意があってのことではなく、もう帰ってしまったかと勘違いされて、放置されるだけだったように思います。

 僕にだって小っちゃなプライドがありました。そんなことを認めたら生きてはいけません。子供は大変デリケートなたましいを持っていますから、もし自分がここに存在することをすら否定されたら、いったい何を喜びとして、この先歩んでいけば良いというのでしょう。僕はもう意固地になったみたいに、いつまでもその真っ暗闇に閉じ籠もっていました。どうだ、僕の隠れかたがうますぎて、誰も見つけられないや。今に見ていろ、ようやく見つけた鬼から、お前はすごいやつだと褒められるに違いないんだ。そんな必死の思いにすがりつきながら、泣きべそを掻くみたいにして、折りたたまれた布団の裾を指で絡ませながら、それでも音だけは立てないようにして、時計の秒針を百も二百も数えていたのです。

 またどれくらい時が流れたことでしょう。僕は座っていた布団にそっと横たわりました。もう外なんか出たくないや。ずっとここに閉じこもっているんだ。不意にもう誰とも遊びたくないような、誰も相手にしてくれないなら、僕だって相手にしないんだというような、すさんだ気持ちが溢れてきて、ほとんど泣きそうになりました。それを誤魔化そうとして、重ねられていたクッションを頭に挟むと、僕は静かに瞳を閉じたのでした。やっぱり時計の針が響いてきます。はるか遠くでみんなの笑い声がするようです。少し前までは僕の友だちでもあったはずの、けれども今では僕を捨ててなにか新しい遊びを始めた、つまりは仇どものはしゃぎ声に違いありません。仇なんて言葉が思い浮かんで、僕はよけいに悲しくなりました。こんな風に自分の性格がひがんでいるから、みんなに捨てられるのかとも思いました。それとも皆が僕ひとりを蔑ろにするから、僕のほうでも斜(はす)に構えるのかとも思いました。ようするにいろいろな感情が沸き起こって、お化けみたいにぷかぷかするものですから、ただもう考えるのさえ止めて欲しいと念じながら、頭を抱え込むように空っぽにして、布団の柔らかさを確かめるみたいに、おとなしくじっとしていたのです。けれどもほんの子供のことですから、僕はいつしか眠り込んでしまいました。そうしたらまどろむ耳元に、不思議な歌が聞こえてきました。

空のお星がこぼれたら
いくつもお星がこぼれたら
夜ふけにそっと降りそそぎ
大地にあたって砕けたよ

赤やブルーや黄緑の
ひかりみたいに砕かれて
みんなの寝ているその夜に
こっそりどこかに隠れたよ

誰か見つけてくれるまで
暖かそうなまたたきと
金平糖のかたちして
こっそりどこかにひそんでる

探そう探そうそのひかり
お祈りしよう幸せを
手のひら握れば暖かく
願いを叶えてくれるでしょう

 あまり懐かしい声だったものですから、僕は母さんがついに探しに来てくれて、僕を腕に抱きかかえてもう大丈夫と、優しく撫でてくれるのかと思い始めたら、急に涙がぽろぽろと止めどなくこぼれてしまいました。もう寝ていることさえ出来なくって、やっぱり真っ暗なままの押入れに、むっくと起き上がってみたのです。けれども、どうやら母さんではないようです。時計の針はチクチクと、無常な音を立てるばっかりでした。人の気配はまるでありません。僕はそっとふすまを覗き見しました。やっぱり誰もいません。静寂ばかりが広がっています。僕はもう一度聞き耳を立てました。するとなんだか押入れの奥から、カサカサ音がしてきます。急にお化けにあったみたいに恐ろしくなって、わあと叫んでそこから逃げ出しそうになりました。けれどもまた、あの歌が小さく小さく響いてくるのです。歌はカサカサのほうから聞こえてくるようです。その歌を聴いているうちに、急にこころが安心したようになって、僕はかえってそのカサカサのほうへ、布団をまたいで這って行きました。ちょうど昼休みに遊んだほふく前進のようなかたちでした。ずるずると体がこすれて、ものの触れるような音がしましたが、僕はもう隠れんぼのことなんかすっかり忘れてしまいました。歌を聴きながら奥まで行きつくと、どうやら突き当たりの側面から、まるで扉でもあるかのように、細くて長いひかりの筋が、あちら側から漏れだしているのでした。

 おかしいや。この壁の向こうはどうしたって、隣の家(うち)との境目じゃないか。この先はお外に決まってらあ。けれども細いひかりは、もっと奥の奥から差し込んでくるとしか思えません。僕はつい臆病を忘れて、好奇心が応じるままに、とにかく開けちまえと思って、その小さな壁を押してみたのです。

 音もなく壁が引き込みました。ちょうど押入れの向こうに、また押入れがあって、その向こうにまた押入れが続いていくみたいに、壁の抜けた真っ暗な通路が、奥へ奥へと続いているようでした。そんな真っ暗な洞穴へ、臆病者の僕が入っていけるはずなどないのですが、はるか遠くのあたりには、もやもやした不思議な明かりが、仄かに灯っているものですから、僕はまるで誘われた気分になって、ほふく前進を続けていったのです。

 ひかりが近づいてきます。おそらく三つ分くらいの押入れをくぐり抜けたでしょう。ようやくその正体が分かりました。それは小さな金平糖くらいのひかりの粒で、まるで菓子袋から飛び散った飴粒みたいに、小さな玉がそれぞれ床に散らばって、赤や黄色やオレンジや緑や、あらゆる虹の色彩をそれぞれ徴収したみたいに、懸命に輝き尽くしているのでした。その小さな小さなひかりの総体が、ぼんやりと霞みたいに浮かび上がっているのです。僕はそれを見ているうちに急にうきうきし始めて、もっと粒のほうへと這ってゆきました。

空のお星がこぼれたら
いくつもお星がこぼれたら
夜ふけにそっと降りそそぎ
大地にあたって砕けたよ

 僕はいつの間に覚えたのやらその歌を口ずさんでいました。もう目の前に何十も何百も転がっているきらめきを、きらめきとして一粒ごとに確かめながら、僕はついにそれを指先に、そっとつまんで手の平に転がしたのです。すると熱くはありませんでした。ヒンヤリとしたグミみたいな感触です。それなのに不思議なことに、こころのなかに優しい暖かみがあふれ込んできて、僕はもうひとりぼっちではないような温もりが胸一杯に広がって、みんなに忘れられてしまった悲しみなんか、遠くのほうへ飛んでいってしまいました。僕はもう嬉しくって、嬉しくって、今度は青いひかりの粒をつまみ上げて、手の平に転がして笑ったのです。

 またカサカサという音が響いてきました。僕はもう驚きませんでした。だってひかりの粒の合間を、何匹ものネズミの親子がちょろちょろと、愉快そうに駆けずり回っていたからです。大きいネズミは一匹でした。小さいネズミは沢山でした。まるで僕の先輩みたいに、そのグミを鼻に当てたり、シッポで転がしたり、立派な前歯でかじってみたり、ありとあらゆることをするのです。けれども金平糖は弾力性のあるゴム鞠みたいな柔軟性で、噛み千切られることもなく輝きをたくましくするのです。

 僕だって日頃だったら、ネズミの影に怯えて泣きだしたり、逃げ出したりするに違いありません。けれどもその時は、それが自分の仲間のように思えましたから、

「なんだい、そんなもの、食べたっておいしくないぞ」

とくすくす笑ってやりました。ネズミの親子はそれでもあきらめず、同じ所作を繰り返しています。僕はネズミのために、この金平糖を残しておいてやったほうがいいと考えました。だから自分は色の違う、赤、黄緑、それからお気に入りのブルーの金平糖だけを、自分の分け前としてそっと握りしめると、

「じゃあね、また来るよ」

とネズミたちに挨拶をしながら、やっぱり腹ばいになって、押入れの向こうへと戻っていったのです。

 隠れんぼのことはもう忘れてしまいました。もう一度だけ金平糖を確認してから、僕はえいっと押入れのふすまを開ききりました。するとあたりはもう暗くなり始めていて、家じゅうがひっそりしているのです。みんなはもう遊び疲れて家路へと急いだのでしょう。隠れんぼだって三軒も四軒もをまたいで繰り広げられましたから、ほどよく見つかりに行かなかった僕のほうに、かえって責任があるような気もするのでした。けれども、まだ母さんは帰ってはいませんでした。父さんの帰りが遅いから、僕は母さんがただいまを言うまでのひとりぼっちのしばらくが、ひとしきり淋しいのでした。しかし今日は違います。

 そっと開いてみますと、ほら、あの金平糖が、やっぱりそれぞれの小さな色の仕草をして、部屋のなかを照らせるほど気丈ではないけれど、僕のこころを優しく慰めてくれるのでした。それを握りしめると、母さんに守られているような安心が、胸いっぱいに広がってくるのです。僕はもう、どんな友だちから見捨てられることになっても、決して孤独になんかならないんだ。必死にみんなに合わせなくたって、本当に分かり合えるものが、こんなに身近にいるんだもの。急に心が跳ね飛びたいくらいウキウキしてきました。

 試しに一粒をつまんでみます。ふにふにしてみると、グミみたいに弾力があって、ゴムみたいに丈夫で、なるほどネズミたちが間違って食べようとしたのも、あながち仕方のないことではありました。これが袋に入ってスーパーにでも売られていようものなら、僕だって食べださないとも限りません。それが原因でお腹が苦しくなって、ぴかぴかとひかり出してしまったら、お医者さんはどんなに驚くことでしょう。父さんだって驚くでしょう。母さんは泣きだしてしまうかも知れません。けれども……

 きっと僕を捨てたあのいつわりの友たちは、みんなでそれを指さして笑うでしょう。彼らは何かしさえすればかならず笑うのです。全然おかしくないことだって笑うのです。そうして僕が笑いを返さないと、つまらない奴だといって罵るのです。よくよく観察してみると、なにも僕のことばかりを笑っていたのではありませんでした。ようするに彼らは、互いが互いを指さして笑いながらでないと、友情の確認が出来なかったらしいのです。そうして僕がその確認を怠るものだから、つまらない奴だとして爪弾きにするらしかったのです。僕はそれに気づいてから、よっぽど彼らの真似をしてへらへらしてみようとも考えましたが、けれども心のどこかに、そんなことまでして淋しさを誤魔化すんじゃない、そんな小さなプライドも湧いてくるものでしたから、僕は相変わらず愛想をふりまかず、おもしろくない時はひとりでぼんやりしておりました。

 またふにふにとグミを潰してみます。そのたびに輝き具合が変わるのです。僕はおもしろくなって、別の色も指先で試してみました。そのうちに、ああ、もう大丈夫だ。この金平糖さえあれば、こころが寂しくて潰れそうになったりはきっとしない。僕はもうひとりぼっちではないんだ。嬉しくなって、またさっき覚えたばかりの詩(うた)を、

空のお星がこぼれたら
いくつもお星がこぼれたら
夜ふけにそっと降りそそぎ
大地にあたって砕けたよ

と歌い出しました。

 そのうち母さんが帰ってきます。これを母さんに見せて良いものかどうか悩みましたが、見せたとたんに金平糖がさらさらと消えてしまうような心配もあって、僕はそれをそっとポケットに隠しました。ひかりが漏れないかと不安になりましたが、ズボンのあたりをどんなに眺めても、輝かしいものは決して見つからなかったので、僕はようやく母さんを出迎えるために、玄関まで走り出したのでした。

「お帰りなさい」

「ただいま、お腹すいたでしょう。今日は外でフライドポテトを買ってきたよ」

遅くなったお詫びに、好きな食べ物で機嫌を取ってくれましたので、僕はすぐに嬉しくなって、

「母さんありがとう」

と他のことをいっぺんに忘れたみたいに、ファーストフードの袋だけを見つけだして、居間のほうへ持ちだしました。後ろから母さんが、

「ちゃんと手を洗ってからになさい」

と注意します。僕は素直に頷いて、流しでじゃぶじゃぶやってから、一緒に入っていたコーラを手にすると、さっそくフライドポテトをやっつけに掛かりました。そうして食べているときは、金平糖のことなどきれいさっぱり忘れてしまったのです。

朗読4 教室

 段落の途中で童話を閉ざした。やっぱりそうだ。夢がそのまま記されている。でもそんなことってあるだろうか。誰かが夢を盗み出して、暴露本にでもしたとしか思えない。夢泥棒なんて、そんなの居るわけないじゃないか。おまけに執筆者が同じ名称だなんて。高鳴る鼓動を抑えて、僕はそれを小脇に抱え込んだ。買って帰らなければならない。続きを読まなければならない。そんな使命があるように思えたからである。

 一般のコーナーに戻ると、芸能雑誌を二三冊拾い上げて、これも合わせてレジへ持っていった。学園祭の研究課題が、昔のゴシップやら芸能人やらのネタを必要としていたのを、ようやく思い出したからである。レジの前まで来たとき、よもや古札(ふるさつ)しか運用しないのではないかと心配したが、レジは何のことはない、渡した千円札三枚を受け取ってお釣りを返してくれた。

「ありがとうございます」

愛想も見せないくらい事務的な紙袋を受け取って、僕は降りかけのシャッターをくぐり抜けた。あたりはすでに真っ暗だ。

 空は曇天のままだった。金平糖の夢を思い出したら、淋しかったあの頃まで一緒に浮かんできて、星あかりにすがりつきたいくらいの気分だったのだけれど、これじゃあ星なんか見つけられっこない。雲はいっそ雨でも降らせようかと企むくらい、薄れゆく町並みを覆い尽くしていた。わざと慌てたふりをして、空元気に両手を振って歩いてみる。虫の音が追っ掛けてくるようでなんだか落ち着かない。僕は早く大通りの騒音に近づこうとして、駆け出すくらいまで足を早めた。

 ヘッドライトが飛び込んできた。騒音が帰ってきた。ネオン看板がところどころに大気を飾っていた。こころを紛らわせるみたいにあの横断歩道を渡るとき、校門をくぐり抜けた二人の女学生とすれ違った。その顔には見覚えすらない。もう校門のプレートさえ見づらくなっている。校舎を見上げると、電灯が付けっぱなしなのは、三階の僕らのクラスだけになっていた。残りは真っ暗だ。特別に教室を開放して貰うために、担任が職員室で居残りをさせられているから、一階の入口付近にも、もちろんランプが灯されていた。

 正面から入るときに、やはり担任が机の上で、苦しそうにテストの採点を続けているのを発見した。今日の英語試験の答案合わせをしているに違いない。僕はその答案用紙に、

「ボブはグレートなたましいを持ってみなぎる情熱をありったけのパワーでぶつけたものだから、いかな巌のごときティーチャーであっても、情にほだされたことは想像に難くない」

と滅茶苦茶な誤訳を記しておいたから、あとで叱られるかもしれない。もっとも叱るったって、下らない小言をいうばかりだから、叱られたって構わないんだ。ただ赤点だけは、追試が面倒だから、僕も避けることにしていた。そのくらい僕は、何のために勉強をしているのかまるで分からなかったのである。

 仲間たちは文句を言うように思えながらも、結局はみんな楽しそうに勉強を続けている。それでいて何の目的もないのである。ただそれが学生生活だと決めつけにして、文句も含めて楽しんでいるとしきゃ思えない。けれども目的のないエンジョイだから、煮え切らないエンジョイだ。生ぬるいエンジョイだ。僕はどうしたらいいだろう。奇妙な嘘発見器をこころに備え付けられて、何を遣ろうとしても、誰と同化しようとしても、打ち解けようと試みても、「それはお前の本心ではない」と、発見器がビービー音を立てるばかりのこの僕は。結局いつまでたっても、彼らとは対極のところへ押しのけられてしまう。

 ようするに僕は、彼らをいくぶんか軽蔑していた。それでいて彼らと一緒に笑ってみたかった。駆けずり回って遊びたかった。それなのに袖の合った話しなどひとつもない。本当に彼らの話しといったら、びっくりするくらい同質的で、同じものを色彩だけで個性化するみたいに、周波数が一致するらしかった。だからすこしでも違ったことを呟くと、たちまち波長が狂ってしまい、一座が白けてしまうらしかった。合わせることも出来ずに僕は、傍観者みたいに離れから、学校を眺め暮らしていたのであった。

 それにしてもあいつらは、どうして平然と勉強なんか出来るだろう。本当の夢やら希望なんて、まるで持っていやしないのに。口先だけのイメージと、今のみの享楽と、娯楽やおしゃれやスポーツ談義、チープな音楽の誰がどうのこうのなんて、そんな違いが人の意志の違いになり得るのだろうか。僕にはなんの希望もない。未来に対する小さな願いすらない。だから勉強をする気にもなれないのだったが、かといって本当の希望を持っている奴など、僕はただの一人として知らなかったのである。

 階段を昇りながら、いつもの悲しい癖でまた憤慨している。これじゃあ駄目だ。永遠(とわ)のひとりぼっちだ。本当にどうかしている。なんでこんなに意固地になるのだろう。そう思うと情けなくなってくる。たちまち人恋しさばかりが募ってくる。階段を昇りきると、教室から漏れ出した明かりから、屈託のない笑い声が響いてきた。仲間に入れて貰うために頑張って話しかけてみようか。僕はそんな気持ちに打ちのめされて、早足で教室へと近づいた。

「あいつ、戻ってこなくたっていいよなあ」

さっきの自転車の男の声が響いた。胸がさっと冷たくなる。それから女の声で、

「うん。ちょっと面倒くさいよね」

というとみんなが、

「めんどい、めんどい」

と答えている。僕はその場に立ち尽くす。それから学園祭の班のリーダーの合歓子(ねむこ)さんの声がした。

「駄目よ、みんな仲良く学園祭がモットーなんだから」

「はいはい、リーダー真面目すぎ」

「合歓子ちゃん、俺もう眠子ちゃん」

この馬鹿な男は、おそらく眠る手真似でもしたのだろう、いちどきに笑いが起こった。僕は震えるこころをそっと落ち着ける。心臓に手を当てて、鼓動を確かめるようにしてやるのである。それから何でもなかったことになるまで、頭のなかを空っぽにするんだ。こんな技だけが得意なのは虚しい。まるでピエロみたいな気がする。けれども、ちょっと後ずさりして、改めて靴音を大きくしながら、ようやく今到着したみたいにして教室の扉を開け放った。

「悪い、なかなか見つからなくて」

五、六名のクラスメイトがはっとなって僕の方を見る。聞かれたかと心配する様子だったが、僕は知らない振りをまっとうする。こんな技ばかりが堪能になったら、人間もおしまいだと思う。

「おう、遅かったな。心配したぜ」

自転車の男は気さくを装った。そんなことは思ってもいないくせに。

 この男とは少し因縁がある。僕のことを好く思っていないのは明らかだった。それは少し前に開催された、学校間対抗「環境何とかフェスティバル」、何だったか名称は忘れてしまったが、彼はクラスの出し物を仕切っていたのだった。空缶を集めて巨大絵画を描いて、「ゴミ拾いの一歩もつもればゴッホかな」みたいな計画を、僕らは教師の提案で進めていたのだったが、時間が足りないからゴミ箱からもあさってこようという話しになった。そのとき僕が、それじゃあ主旨にそぐわないといって、クラスメイトからひんしゅくを買ったことがあったのだ。中でもっともひんしゅくを売りつけてきたのが、つまりこの男だった。意見は僕のほうが正しいものだから、結局先生が宥め役みたいになって、

「理屈だけじゃあうまくいかないこともある」

とか何とか誤魔化して、ゴミの絵はもっぱらゴミ箱あさりの缶でもって完成してしまった。それが環境優秀賞だか何かで新聞に紹介されて、ゴミ拾いの美徳が紙面を飾ったとき、僕はたまらなく嫌な気分だった。偽りをまっとうした後ろめたさを、なぜ教師も含めて誰ひとり感じないのだろう。まるでドーピングをして金メダルを貰って、欣喜雀躍するのと一緒じゃないか。プロセスが間違っているのだから、成果に対する喜びなんて、あり得ようはずがないのに。僕は本当に不思議でならなかった。もっともこの男はずいぶん優等生ぶっているから、表だって僕に不愉快を表明したことはない。それでいて、影でとやかく言っているものだから、僕はどうしても彼を好きにはなれなかった。

「こんな雑誌があった」

すでに袋から出しておいた週刊誌を、二三冊机に投げ出してみせる。すると一番に合歓子さんが、

「あら、よくこんな古い雑誌が見つかったわね。しかも新品みたい」

と屈託もなくほほえむので、僕はちょっと赤くなりそうだった。

「いや、たまたま家に眠っているのを思い出したんだ」

「なんだ本屋に行ったんじゃなかったのか」

自転車が言うから、

「思い出したんで、家まで帰って取ってきた」

と答えておいた。

 さっそくみんなは雑誌を眺めだした。今回ばかりは少しは役に立てそうだ。けれども僕は、さっそく手持ち無沙汰になってきた。ここで何をしたらいいか、まるで分からないのである。何もすることがないような気がする。また編集などに口を出したら、合歓子さんですらガッカリするくらい、水を差すようなことばかり言うのは明らかなのだ。だって僕には彼らの非合理的な、感覚的な遣り方は、いつも苛立ってしかたがなかったのである。それでいながら、打ち解け合って笑ってみたいというのだから、解(ほど)きようのない糸玉を弄んでいるようなものである。頭がこんがらがって、余計に辛くなってきた。僕は慌てて逃げるみたいにして、

「悪い、これから用事があって、あとはよろしく頼むよ」

気さくな調子でさっそうと、僕は自分の机の鞄を取り上げた。侘びしい空元気。自転車は内心大喜びに違いない。

「そうか、そりゃ残念だ。俺達に任せておけ」

と笑って見せた。しかし合歓子さんは、

「ええ、せっかく持ってきてくれたのに」

とちょっとガッカリしてくれる。僕は嬉しかった。本当は彼女のことが、遠くから仄かに好きだったのである。だって合歓子さんはひたむきで、正直で、それに決して人を馬鹿にして喜ぶことがなかった。みんなが誰かを愚弄して笑っている時にも、一人で何があったのかしらときょろきょろしているような人だったから、僕は少しだけ彼女に引かれていたのである。

「うん、悪い。また今度付き合うから」

僕はちょっと手を振って、威勢良く教室を飛び出した。実は寂しくてたまらなかったのだ。けれども、僕はあんな場所に居残って、一人でなすところもなく押し黙ってしまうのを、もう何度も経験していた。だからそれを回避するための方法だけは、しっかり身に付けていたのである。何だか侘びしい秘術のようでもある。あるいは人はそれを卑怯と罵るかもしれない。それでも構わない。ただ僕が淋しくて誰かを求めることは事実だとしても、もう一方で彼らを軽蔑しているのも事実には違いないのだ。天秤のバランスのどちらか一方がにせ物だって、決めつけて貰ったって報われない。僕は卑怯でもいいから、黙ってここを立ち去ることにした。どうせうまく行きっこないのは目に見えている。あまりの廊下の暗さで、こころがすっかりしょげてしまった。

 わざと階段を靴音で下りきる。じめじめした気分を追い払う儀式みたいに、空元気で学校を逃れるのがいつものやり方だ。靴を履き替えて外に出ると、職員室の明かりのなかで、担任が背中から肩を揺すっていた。採点も今がたけなわだ。場違いの椰子どもが、外からそれを見まもっている。校舎の色さえもう黒ずんだ。

 不意に合歓子さんの顔が浮かんでくる。この世にひとりくらい、こころの通う友だちが欲しいと思う。それが合歓子さんだったら、どんなに幸せだろうなんてぼんやり考えている。いいや、違う。僕は慌てて頭をふった。これは恋愛なんかじゃない。きっと違う。だって僕は、告白しようなんて思ったことは決して無いのだし、これから先だってそうさ。一緒に付き合ったところで、僕が真面目なことを口にするたびに、こころが離れていってしまうに違いないのだから。ああ、誰か本当の友だちが欲しいなあ。さっきのやせ我慢の反動で、惨めったらしい気持ちばかりがお化けみたいにぷかぷか浮かんできた。僕はもう家にすら帰りたくなくなって、近くの公園へ逃れることにした。

 学校の歩道を向こうに渡りきらないで、少し歩けば樹木を囲い込んだ鉄柵が見え始める。もう夜だから黒々しているが、街灯がところどころを照らし出している。ここは太平洋戦争中の陸軍駐屯地の一部が、博物館とペアになった公園であるから、それなりの大きさがあった。ずいぶん重そうな鉄の扉が半開きになっている。そっと滑り込むと、左右の樹木が覆い隠すみたいに、穢れた町の騒音とヘッドライトの照明を遠ざける。代わりに遊歩道の肌寒い外灯と、芝生を照らすみたいな膝のあたりの暖色照明が、ぽつりぽつりと照らし始めた。その真ん前には柵で囲われた人工池があって、ぐるりと色づいたイチョウ並木が、庭園気取りに控えている。そして水面(みなも)の真ん中には、弛(たゆ)まずに噴き上がる噴水が、様々なライトで色彩を変化(へんげ)させていた。イチョウの葉っぱは、散策の歩道脇に散らばっている。しかし清掃を怠らない歩道にも、宵の風に散らされた落葉が、ところどころでひらひら哀しげな舞いをする。踏みつけにしてもカサリともいわない。しっとり音もなく学生靴の犠牲になる。噴水は元気だった。近づくごとに響きが高まってくる。

 手すりに肱を掛けて、しばらくはそれを眺めていた。秋風がまた肌をさすように流れ込む。長袖のすそがすっと涼しくなる。並木のあたりからは虫の鳴き声もするが、噴水の音がずっと激しかった。風に運ばれた水しぶきが、ときどき顔にあたって冷たい。またライトがぱっと黄緑に変わる。高い柱はたちまちピラミッドじみた円錐形に崩れた。じっと見ていると中央だけ噴水が無くなって、今度は驚くほどの周囲から、中央に向かって消防車みたいな放水が始まったのである。すると中央部から真っ赤な噴水が飛び出した。ライトとのコンビネーション技だ。あれはもしかしたら火事を表現しているつもりかもしれない。制作者の細かいこだわりが感じられる。僕は近くのベンチに腰を下ろした。

 今日はどうしたというのだろう。下らない空想ばかりうしろから追いかけて来る。僕はここで頭を冷やさなければならない。けれども噴水を眺めているうちに浮かぶのは、また合歓子さんのほほえみばかりであった。いつのまにか、彼女が隣に座っている姿を描き始めている。目は噴水を追っているはずなのに、瞳のなかには彼女の仕草ばかりが浮かんでくる。いつしか僕は彼女と手を取り合って、それから本当に大切なことは何か、懸命に語り合っている姿をさえこころに描きだした。彼女は笑うとき、なんだろう、熊さんみたいな丸みを帯びた瞳が、優しさで満たされるみたいで、僕は空想にそのあたまを撫でてみたり、ちょっと肩に手を回したりしてみるのだった。けれども妄想であるのに、口づけを交わすことすら出来なかったのは、噴水のさみしさがかえって僕を純情にしたせいかもしれなかった。

 突然、樹木の合間から何鳥だかの声がしたので、慌てて振り向いた。カラスでないことは確かだけれど、小鳥らしくない鳴き声だけれど、鳥の種類は分からなかった。あるいは寝ながらの独り言なのかもしれない。ずいぶん人を馬鹿にしている。僕は思い出したみたいに、鞄にしまっておいたさっきの童話、『こんぺいとうの唄』を取り出して、そっと開いてみた。ちょうど真上に外灯が照らしているから、活字を追うことはたやすかった。

朗読5 『こんぺいとうの唄』その2

 僕の母さんは夕飯には決してテレビを見せてはくれませんでした。けれどもこれは偉いことだと思います。だって僕のまわりのみんなは誰もが、垂れ流しのようにテレビを眺めているらしく、だから父さんや母さんとお話しをする機会さえ、ずいぶん奪い去られているというのに、自分たちは与えられた娯楽に精一杯で、まるで気にも止めない様子でありましたから。けれども僕にだって大好きなアニメはあります。そんな時は食事が終わってから、録画を見せてもらうのが慣わしになっていました。特に今日は「パケットさんまかり通る」の最終回なのですから、見逃すわけにはいきません。しばらくはさっきの金平糖のことも、押入れの秘密基地のことも、ネズミのことも、きれいさっぱり忘れてしまいました。

「へい、親分、もうお時間でやんす」

一番弟子のコメットさんが人力車を降ろして控えています。もうエンディングが近いに違いありません。

「それでは、星へと帰ろうじゃあねえか」

パケットさんが乗り込みますと、「へい」といって人力車はいきなり空へと走り出してしまいました。まるでサンタクロースのトナカイさんのようです。けれども人力車は大気圏をくぐり抜け、そのまま地球を飛び出してしまいました。パケットさんが星に帰ってしまったのが悲しくて、僕はしばらくわんわん泣いているのでした。

 それからけろりとしてお風呂に入るときになって、僕はあの金平糖のことを思い出しました。慌てて部屋へ走り込んで、ポケットの中を調べてみますと、ひかりはまだ少しも損なわれてはいないのでした。

「すこしここで待ってるんだよ」

 引出しからお気に入りの小箱を取り出すと、真っ黒な蓋をぱかっと開いて、金平糖を静かにしまいました。それから部屋を出ようとしましたが、何だ不安になります。もう一度戻ってから蓋を開いてみました。輝きはみじんも衰えていません。ようやく安心してお風呂場に向かいました。今日は母さんは一緒には入ってくれませんでしたが、泡からおもちゃの飛び出る入浴剤がありましたので、僕はこれを風呂のなかに投げ込んで、何が出てくるかを楽しみにして待っていました。出て来たのはパケットさんではありませんでした。コメットさんのほうでした。ちょっと残念でしたが、一番弟子なのだからこれはこれで良しとして、コメットさんで遊んでおりますと、遠くでバタンと玄関の音がします。父さんが帰って来たのでしょう。僕は嬉しくって、

「お帰りなさーい」

お風呂場から大きな声を上げました。

「おう、ただいま」

といって父さんはお風呂場をちょっと開いて、

「じゃあ、俺も一緒に入ろうかな」

とすぐにお風呂へ入ってきましたので、見たばかりのパケットさんの最終回を父さんに説明してやりました。けれども金平糖の話しだけは、やはりしませんでした。

 その夜のことです。僕はまた例の小物入れを弄んで、中から取り出した優しげなひかりを、眺めているうちにうとうと眠くなってしまいました。けれども、もし金平糖が夢のようにして消えてしまったらと思うと、寝てはならないような気もするのでした。まぶたはだんだん重くなってきます。意識が遠くなる前に、僕は決断をせねばなりません。

 それは金平糖をパジャマのポケットにしまっておいた方がよいか、それとも引出しが安全かという、一世一代の問題でした。もしパジャマに入れておこうものなら、僕の寝相の悪さでは、三つが三つともゆくえ知れずにならないとも限りません。ようやく決心しました。灯火が消えませんようにとお祈りを捧げてから、僕はそっと三粒の蓋を静かに閉ざしたのです。けれども不安なのでもう一度開けてみました。三色とも穏やかなスペクトルです。また閉ざしました。そっと引出しに仕舞いました。それからベットに滑り込むと、あっという間に眠ってしまったのです。

 夢を見ました、パケットさんの夢でした。ある時、夜空に大きなほうき星が現れて、人々が天空の祭典に興じる頃、僕のもとに人力車に乗ったパケットさんが降りてくる夢でした。

「お前はなんでまた毎日くよくよ悲しんでいやがるんだ」

いつも見ているような口調で言うのです。

「だって、誰とも話しが合わないんだもの」

僕はつい泣きべそを掻いてしまいました。

「パパやママがよくしてくれるじゃねえか」

パケットさんは僕のあたまを撫でてくれましたが、僕はかえって泣きだしてしまい、

「だって二人ともいつも一緒にはいてくれないもの。みんな友だちと遊んでいるのに、ひとりで我慢するなんて辛いよう」

としゃくり上げましたら、

「よし、それじゃあ俺の子分を貸してやらあ」

といって、三つの星のかけらを僕に貸してくれました。

「ああ、これ知ってるよ。だって僕、押入れでこれ見つけたもの」

と僕が驚くと、

「だから、これがその三つってわけさ」

とこともなげに言いますので、思わず、

「じゃあ、いつか帰さなきゃいけないの」

と泣きそうになってしまいました。するとパケットさんは黙って頷いて、

「星屑の子分どもだって、お前さんと一緒さ。親元で暮らしてえ気持ちで一杯だ。お前さんが父さんや母さんのことが大好きなように、こいつらも親が恋しくてしかたがねえんだ。分かるな。しばらく友だちとして遊んでやって、別れの時には笑って送り出してやんなあ」

それから軽く頭を叩くので、僕は何度も何度も頷いて見せるのでした。

「へい、親分、もうお時間でやんす」

一番弟子のコメットさんが人力車を差し出しました。

「それでは、星へと帰ろうじゃあねえか」

僕が手を振ると、パケットさんは、

「あばよ」

といってほうき星の方へと帰っていってしまったのです。そこで目が覚めました。

 カーテンの外はもう明るくなっていました。小鳥がピチピチ鳴いています。ああ、朝が来たのか。寝ぼけながらに僕は、不安になって慌てて金平糖を見つけに行きました。すると三つはどれもが昨日よりも、ますます豊かなひかりを放って、指先でむにむにとなっておりましたから、僕はようやく安心しました。こんなか弱い輝きでは、おそらくまぶしい昼間には、すっかり掻き消されてしまうことでしょう。けれども僕は、それを学校まで持っていく決心をしました。離れるのが淋しくてたまらなかったからです。そのかわり決して無くさないように、ガチャガチャの空になったカプセルに入れて、それをさらに鍵入れにしまって、袋で包んで鞄に入れました。それから嬉しくなってキッチンまで走っていくと、もう父さんも母さんもすっかり起きているのです。母さんが朝食の準備をしている真っ最中でした。

「おはよう」

と元気に挨拶をして、僕がいつになく自分から起き出したので、母さんは何があったかと大いに驚いていました。父さんは黙って笑っていました。トーストの匂いがしてきました。僕は得意でした。

朗読6 公園

 まるで自分の夢を読み継ぐみたいに、僕は街灯の下で童話に引き込まれてしまった。すると

「ねえ、こんなところで何してるの」

とすぐ近くに声が響いので、思わず立ち上がりそうなくらい驚いた。慌てて見上げると、そこに合歓子さんが立っていたのである。

「あれ、学園祭の準備は」

ちょっと驚いてしまう。

「うん、先生が今日はもう終わりにしろって。追い出されちゃった」

合歓子さんはてへっとした表情になった。かわいい。なんだかうろたえてしまう。

「それよりこんなところに居たりして。本当は用事なんてなかったのね。またさぼるつもりだったの。ねえ、ねえ」

合歓子さんが真面目な顔で責めてくる。内心ちょっと嬉しかった。

「またってなんだよ」

知らない振りをしてとぼけると、

「だっていつも、みんなと一緒に何かするの嫌がるじゃない。すぐ帰っちゃうし」

「そうかな」

「そうだよ。缶集めのときだってそうじゃない」

「だって、あれはみんなで反則するからさ」

といったら、合歓子さんはちょっとほほ笑んだ。

「うん、あれは反則だったけど」

「けど」

「反則じゃないときも、やっぱり帰っちゃうよ」

「誰が」

もう一回とぼけてみる。

「あなたが」

合歓子さんはつぶらな瞳で見つめてくるから困る。つい真面目になってしまった。

「悪気はないんだ。ただみんなとは考えも噛み合わないし。うまく話しも合わせきれないから、だったら離れている方がましだと思って」

 僕は日頃隠していることをつい口に滑らせてしまう。けれども彼女は、別に嫌な顔をしなかった。急に笑い出したりもしなかった。ただしばらくふうんと考えている様子だったが、

「でも、いつも淋しそうにしているよ。本当は打ち解けたいんじゃないのかなあ」

いろいろ考えながら口に出すみたいにして核心を突くから、少し困ってしまった。

「そんな様子、見えるかな」

と聞いてみると、

「うん、見える。誰も気づいていないから大丈夫だよ」

と言ってほほ笑んでいる。何が大丈夫なのか分からない。けれどもやっぱり嬉しかった。つい正直に話しを続ける気になったのは、秋の公園の夜が、夏の忘れ物みたいな大気を包み込んだからばかりとは思えない。

「そりゃあ淋しいよ。誰だってひとりぼっちは淋しいに決まっているさ。特に大勢の中にいればね。けれども、本心はその中に溶け込みたいのに、どうしても入ることが出来ないというのは、なんというかな。半分は正しいけど、半分は違っている」

彼女は不思議な表情で見つめている。意味が飲み込めないのは嫌であるらしく、黙って続きを聞いている。僕は止めることが出来なくなってしまった。

「本当に自分は、皆が何がおかしくて話題に興じているのか、まるで分からなくなることが多いんだ。それで一緒にいることがたまらなく苦痛で、どうせ話しも合わせきれないのだし、無理をしてもちっともこころは満たされないのだし、余計にぽつんと阻害されているような気分になってしまう。けれども一人でいるのだってやっぱり辛くって、そうして自分にも誰かひとりくらい、本当に分かり合える友だちは居ないだろうかと、そう思えば淋しさばかりがあふれ出てきて、それをあなたに見つけられてしまったんだと思う」

 噴水はまたさっと噴き上がる。サーチライトが四方から黄色い光源を照射する。それでまた風が吹いてきた途端に、二人のところまでしぶきが伝わってきた。それにしても、こんなに内心をすらすらと人に話してしまうなんて、僕はどうしてしまったのだろう。こんなことを言ったって、みんなの嘲笑のネタにしかならないことくらい、よく知っていたはずなのに。この世のすべての人たちが、そんなネタを見つけたくって、うずうずしてはいなかったろうか。それともこれは、僕のひがみ根性に過ぎないのだろうか。

 僕は合歓子さんが笑い出しそうな気がして、不意に彼女の顔色を眺めたが、彼女はキョトンとした瞳でまっすぐに僕を見つめたまんまであった。

「それでいつも詰まらなそうにしてるの」

と尋ねられたんで、かえって急に照れくさくなってしまう。

「いや、別に、それほど大したことでもないんだ」

慌てて噴水のほうを眺めるふりをした。ようするにちょっと恥ずかしかったのである。

「あっ、雲がすこし途切れてきたよ」

合歓子さんが上を向いた。釣られて見上げると、厚く覆われていたはずの雲は急速に流れを変えて、さ迷いながらもようやくその隙間から、深き御空(みそら)が突き抜けて見え始めていた。

「本当だ。そんなに風が吹いている訳でもないのに。上空は激しいジェットで気層を駆け抜けるみたいに雲が追いやられるんだ」

そんな言い回しをおもしろがって、彼女が少しほほえんだ。

「星が見え出すかもしれないね」

と僕はこころから笑い返して、彼女に顔を向けてから、嬉しそうに空を見上げたのである。

「星を見るの、好きなの」

真面目になって覗き込むので、ちょっと瞳があっただけで恥ずかしくって、

「みなさんと話しているときよりはね」

と舌を出して茶化してしまった。

「ふーん、そうかなあ」

彼女は僕がやせ我慢をしているのを見抜いてしまったらしい。突然、

「ねえ、そうだ、私と話しているのもやっぱりつまんない?」

といちずに見つめながら尋ねてきた。僕は急にドキリとした。瞳を反らすのが、卑怯なことのように思われて、けれども言葉はつい軽薄に逃れてしまう。軽く首を横に振りながら、

「あなたと話していると、トテモオダヤカデス」

と冗談じみた外人さんの真似をして答えてみせた。それでも、

「本当?」

と聞いてくるから、思わず真面目になってしまった。

「僕は嘘なんか嫌いなんだ」

そう言って見返すと……あなたはいつの間にか空を見上げていた。髪の毛がふさふさと秋風にたなびいている。

「あっ、星が見えたよ」

とほほ笑んでいる。僕は照れくさくなって誤魔化すみたいに、

「分かった、学校の宿題があっただろう」

合歓子さんは

「なに?」

と驚いたみたいに顔を僕へと向き直った。

「五七五で何か作ってこいってやつ」

「ああ、あの国語の先生の。急にあんなこと言うんだもの、困っちゃうわ。でもねえ、実は毎年ああやって、生徒を脅かしているらしいの」

とクスクス笑いだした。やっぱりかわいいや。

「それで、何が分かったの」

と聞き直すから、

「一句できました」

と冗談をいってみる。

「本当に? どんなの」

「笑っちゃ駄目だぜ」

「あら、いいじゃない。笑っちゃっても」

「うん、まあ許そうか。『星くずをどんなドラマが夜長かな』っていうんだ」

「ほ、し、く、ず、を?」

彼女は指折り数えていたが、

「あら、ほんとだ。ちゃんと五七五になってるじゃないの。それで季語が夜長ってわけ?」

とやっぱり笑い出してしまった。実は宿題の季語例のトップにあったのが夜長だったのである。

「しょうがないじゃんか。季語なんて全然知らねえし。秋をそのまま入れるのは、禁止されてんだから」

と恥ずかしさのあまり口調まで悪くなってきた。

「うん、いいよ。いいけど、それで宿題ひとつおしまい?」

「そう、おしまい」

 それから二人で笑い出した。学校に通って、こんな幸せな気持ちになったことなどないような僕だから、ああ、今がいつまでも続いてくれたらと願ううちに、ふと例の『こんぺいとうの唄』を思い出して、自分の膝もとを覗き込んだ。すると彼女も釣られるみたいにして、一冊の本にまあるい瞳を向けたのであった。

「それは?」

と不思議そうに眺めながら、合歓子さんはベンチの隣にすとんと座ってしまった。服が触れ合いそうに近くなって、彼女のあたたかみが伝わってくるような気がした。何だかこころが痛かった。彼女はそんなことはまるで知らない。

「あれえ、子ども向けの本じゃないのそれ。ねえ、何々、そんなの読んでるの」

素直に差し出したら、ちょっと表紙を眺めていたが、

「あれ、あなたの名前が書いてある」

「うん、そうなんだ」

「まさか、これ書いたのって」

合歓子さんの瞳がますます丸くなったので、僕は慌ててかぶりを振った。

「違う違う。そんなわけないじゃんか。ただの同姓同名らしいんだ。ただちょっと、おかしなことがあってさ」

 僕は向かった本屋の不思議を話し始めた。合歓子さんは隣にいてただうんうん頷いてくれる。それだけのことなのに、こんなにも胸が熱いのはなぜだろう。あたたかな安心感が胸一杯に広がるのはなぜだろう。そうして、あたたかいはずの胸が、ちょっと痛むのはなぜだろう。どうしても、どうしても触れられないもの。それはあなたへの思いのすべて。清少納言なら、そんな歌を奏でるのではないだろうか。僕はよっぽどのぼせているらしかった。

「それであんな古い雑誌を手に入れてきたの」

普通だったら、そんな冗談あるわけ無いじゃないと馬鹿にしそうなところを、合歓子さんは懸命に聞いてくれる。僕は嬉しくなって、

「そうなのさ。僕もびっくりしたよ。ほら、ちゃんとレシートだってあるんだ」

と財布の中から取り出して見せると、そこには紛れもなくあの雑誌と、それから「ジドウシヨ」とカタカナで書かれた金額が、集計されて三百二十八円のお釣りとして計上されているのであった。

「ほんとう。ふしぎねえ」

覗き込んだ彼女の髪が指先に触れそうになる。しゃべりながらの吐息さえ伝わってきた。やっぱり胸が苦しいや。

「だろう。いったい何がどうなっているやら。僕にも分からないんだ」

「ねえねえ」

彼女はぱっと顔をあげると瞳をくるくるさせた。

「本当にこんなこんぺいとうの唄なんて童謡あるのかなあ」

「あるよ」

僕は日頃なら恥ずかしくって人前で歌ったりしないのに、それがひとりで口ずさむときみたいにして、すらすら流れ出たのは不思議だった。

空のお星がこぼれたら
いくつもお星がこぼれたら
夜ふけにそっと降りそそぎ
大地にあたって砕けたよ

赤やブルーや黄緑の
ひかりみたいに砕かれて
みんなの寝ているその夜に
こっそりどこかに隠れたよ

誰か見つけてくれるまで
暖かそうなまたたきと
金平糖のかたちして
こっそりどこかにひそんでる

探そう探そうそのひかり
お祈りしよう幸せを
手のひら握れば暖かく
願いを叶えてくれるでしょう

 途切れ間の星々に見まもられて、僕は最後まで歌いきった。彼女はキョトンとしている。

「歌うまいのね。びっくりしちゃった」

と熊さんの瞳で言うから、

「いや、そうか」

と慌ててそっぽを向いた。顔が真っ赤になっているのがばれそうな気がした。けれども噴水がまた、ピラミッドを演出し始めたので、僕らの表情は青白い照明に隠された。

「でも、パケットさんまかり通るなんてマンガ、聞いたこともないわ」

「そうなんだ。おかしいよね。僕だって、夢の中でしか見たこともないはずなのに、それが今こうして、ここに記されているんだから」

「それで、そのこんぺいとうの話しはどうなっちゃうのかしら」

途中までしか説明していないものだから、あなたは先が気になり始めたのだろう。

「夢と違っているかもしれないから、確かめるつもりで読み始めたら、あなたが来てくれたんだ」

「ふーん」

としばらく本を見つめている。

「ねえねえ」

彼女はまた瞳をかがやかせた。まるで目のなかにシーイングを変えて星が瞬くような感じだった。あるいはそれは、照らし出す外灯の反射に過ぎなかったのかもしれない。けれども僕にはその瞳が、好奇心まかせに勝手に活動を行っているようにさえ、つい思われたくらいである。

「せっかくだから残りを読んでよ。私も最後まで聞きたいよ。だって気になって眠れなくなるかもしれないじゃない」

と自分の長袖を引っ張り始めた。また彼女の頬が近くなる。僕の顔はますます赤らんだに違いない。心臓のどきどきする鼓動が、鼓膜にまで伝わってくる気がした。涼しいはずの体が、ほてるように熱かった。

「うん、それじゃあ、読んでみようか」

 外灯と噴水に照らされて、僕の真っ赤は君に見破られずに済んだのだろう。彼女は黙って頷いた。ちょっと安心して童話をしおりのところから開き直した。

「いいかい」

「うん。いいよ」

「ただし、朗読家じゃないんだから、もつれるかもしれないぜ」

「大丈夫だよ」

僕は活字を拾い始めた……。

朗読7 『こんぺいとうの唄』その3

 学校ではいつもとかわらずの変わり者でした。みんなが対象物を馬鹿にしながら喜ぶというあの独自の遊びに、付き合うことが出来なかったからです。けれども信頼して寄り添えるものが近くにあるということが、みっつの金平糖がいつもそばに居てくれるということが、僕をたまらなく安心させましたから、たとえば誰かが無視しようとするような場合にも、

「ちょっと、僕のこと無視するつもりかよ」

とはきはきと言い返すことが出来るようになりました。すると僕の考えも、ものの見方も以前とまるで変わらないのに、そんなちょっとした言葉一つで、僕はいつの間にかみんなよりちょっと大人じみた、先輩格の人物であるように思われ始めました。詰まらないはずのひと言が、頼りがいのある意見だと認められるようになり始めたのです。つまり僕は、一緒に遊べる仲間と見なされだしたのでした。

 金平糖はもちろん学校へ持って歩きました。なくしたときの心配のあまりに、家に置いておこうかと考えることもありましたが、留守中に泥棒でも入ったら大変ですし、近くでこころを暖めて貰えないとやはり不安でしたから、こうしていつでも持ち歩いていたのです。そうしてこのお守りは、袋の外から握りしめるだけで、淋しいときにも辛いときにも、僕を慰めてくれるのでした。

 学校が終わってから、あの押入にも何度かもぐり込んでみました。けれどもこちらはもう効力を無くしていました。金平糖を発見させる役割を終えたみたいに、壁を撫でるとただ薄っぺらな、木板がひやひやするばかりだったのです。ですから知り合いになれたはずのネズミの親子とは、もう会うことは出来ませんでした。ただときどきは寝ているベットの屋根裏からカサカサと音のすることがあります。それで僕はあいつらも元気にやっているんだと安心して、ほほえみながら眠りに付いたこともありました。そんなわけですから、僕は家に設置してあったネズミ駆除のための薬物を、こっそり無害なアラレにさえ替えてしまっていたのです。運のよいことにそれ以上ネズミは増えませんでした。それで母さんも、本気で駆除しようと躍起にならずにすみました。

 ところがある日の夕方、学校から戻りますと、僕は蒸し暑いのをどうにかしようと、そこらじゅうの窓という窓を開け放ちました。するとその窓のひとつから、あのネズミの親子が、ぱっと僕の横を駆け抜けたかと思ったら、外に向かって隊列を組んで行くのを目撃しました。逃れるときに振り向いて、何だか首を傾(かし)げるような仕草をしますので、僕は「おおい」と手を振ってみました。するとあいつらは仲良くみんなで、

「チューチュー」

と鳴き声をして、そのまま去って行ってしまいました。おそらくは家が清潔すぎて餌が足りなくなったのでしょう。それ以来彼らに会うことは決してありませんでした。

 その少し後のことです。僕はアラレのすり替えを母さんに見つかってしまい、たいそう叱られてしまったのです。けれども良いことをしたと信じていましたから、叱られてもかえって誇らしいくらいでした。ただネズミの話しだけは母さんにはしませんでした。その代わりあした学校へ行ったら、みんなに話してやるべきだと考えました。なぜなら母さんは、ネズミが大嫌いだったからです。ネズミと友だちだったことがバレたら、どんなお仕置きをされるかしれません。

 それにしても何という変わりようでしょう。僕は学校へ向かうのが楽しみになったばかりではありません。いつしかクラスのまとめ役にさえなっていました。いじめや諍いがあったときに口を挟もうものなら、以前なら散々な目に会ったものですが、今ではもう、僕が中立的な采配を振るうのを、みんなが期待しているのがありありと分かりましたので、僕はもう意固地になることもなく、自分の信じることを説明することが出来ました。それはまったく、不意に何が起ころうとも、すべてのクラスメイトにいきなり見捨てられたとしても、あの三つの金平糖だけは、決して僕を裏切らないという安心感がくれた勇気に他なりません。僕らがこころを羽ばたかせるためには、信頼できる愛情というものが、どうしても必要らしいのです。僕はようやくそのことを悟ることができました。

「母さん、学校でこんなことがあったよ」

以前と違って、学校のことを話したがるようになった僕を見て、母さんはおおいに喜んでくれました。それを後から聞いた父さんもこっそり喜んでいるのを、僕はちゃんと知っていました。時々またあの金平糖を取り出しては、ふにふにと光り具合を確かめてから、

「お前たち、本当にありがとう」

とささやいたりすることもありました。

 ところが人というものは、すぐに大切なものに甘えてしまい、それを当然のことのように錯覚してしまうものらしいのです。次第に僕は、金平糖を顧みなくなりました。机の上でもあんまり眺めなくなりました。一日中思い出さないことさえありました。ついには学校に持っていくことまで止めてしまい、黒い小物入れのなかに、そっと仕舞い込んでおくことが多くなりました。だって金平糖のおまじないがなくたって、僕は以前のようにくよくよしたりしない、大した少年になっていたのですから。

 ある夜、また夢を見ました。それはパケットさんの夢でした。

「おういぼうず、元気にしてっか」

ぞんざいな言葉であたまを撫でてくれますから、

「うん、ありがとう」

と答えました。

「そろそろ星のかけらを返して貰わねえといけねえ」

パケットさんはたちまち核心に迫ってきました。僕は急にうろたえました。まるで胸の中をスコールが通り過ぎたみたいになりました。つい安心しきって油断したばかりに、親友が僕を見かぎって去ってしまうような恐怖を覚えたからです。

「だって、まだ冬にもなっていないよう」

急にだらしなくなって泣きべそを掻いてしまいました。

「こらこら、すぐに泣き出すんじゃねえ。第一お前さん、最近はあいつらの顔だって見やしねえじゃねえか」

「それは……」

僕は言葉に詰まりました。友だちだったはずの金平糖は、黒いケースに入れられっぱなしになっていたのです。

「なあに。責めているんじゃあねえ。それはそれで大いに結構だ。お前は星くずなんかとずっと友だちのままじゃあいけねえんだ。それになあぼうず。あいつらにだってそれぞれ、父さんや母さんがあるわけだ。お前は幸せになれたかもしれねえが、あいつらはお前の幸せのために、必死になって親元へ帰りたいのをこらえているんだ。そのへんをどうか、分かってやって欲しいがなあ」

 また髪の毛を撫でるので、自分がいつの間にか金平糖を苦しめているという事実をようやく悟りました。

「うん、分かった」

泣きだしたいのを堪えながら、僕は何度も頷いて見せました。

「よし。お前さんはもう、星くずの仲間がいなくなっても、ひとりでもやっていけるほど強くなった。俺が保証してやる」

あたたかい手を差し出しますので、僕は精一杯に握りかえして、ありがとうの握手を交わしました。

「へい、親分、もうお時間でやんす」

一番弟子のコメットさんがいつものように人力車を降ろします。

「それでは、星へと帰ろうじゃあねえか」

僕はパケットさんに手を振ります。パケットさんは、

「あばよ」

と言うが早いか、ほうき星のかなたへと帰ってしまいました。そうして目が覚めました。

 始めに夢で会ったときと同じでした。はっとして顔を上げると、もう朝になっていたのです。僕は慌てて引出しから、黒い小物入れをそっと取り出しました。そして、もしかしたら本当はまだ、僕に未練を残してそっと隠れていやしないだろうかと思ったり、一粒くらいは僕を慕って居残りはしないだろうかと考えながら、ちょっと震える指先を勇気で宥めすかして、そっと蓋を開いてみたのです。けれども、もう中には、何も入ってはいませんでした。安っぽい銀色の内装ばかりが、きらきらしているだけだったのです。僕は小さな声でそっと、

「さようなら、金平糖」

と言うと、

空のお星がこぼれたら
いくつもお星がこぼれたら
夜ふけにそっと降りそそぎ
大地にあたって砕けたよ

いつもの歌を口ずさみつつ、寂しいのをひとりで我慢していました。けれどもやがて思い切ったという風にして、父さんと母さんの顔が浮かんでくるものですから、僕はさっそくおはようの挨拶をするために、食卓の方へと走っていきました。その日からはもう、金平糖がいなくっても、僕は立派な少年の道を歩き始めたのです。

朗読8 流れ星

 僕はそっと『こんぺいとうの唄』を閉ざした。合歓子さんとこころが一つになっているような錯覚があった。僕は思わず、

「あなたが僕の金平糖だったら」

とささやいてしまってから、自分の言葉にびっくりして顔を上げた。けれども合歓子さんは、さっきまでは確かにすぐ近くに温もりが伝わってきたはずなのに、もう僕の隣から消えてしまっていたのである。ただあの子の座ったはずのベンチには、一枚のイチョウの葉っぱが色づいて、ひらひらと風に合わせて踊っているばかりであった。

 胸が冷たくなって立ち上がった。二三度名前を呼んでみたけれど、まるで噴水の響きに掻き消されるみたいにして、うしろの樹木に吸い込まれるみたいにして、あたりはしんと静まり返ってしまうのであった。童話を鞄に突っ込むと、僕は全力で走り出した。

「合歓子さん」

自分の声が、びっくりするくらい悲鳴のように聞こえた。大切な人のシルエットを追い求めるみたいに、僕は外灯の下を駆け抜けた。噴水広場を離れて、膝のあたりを戯れる暖色ランプの脇を、芝生やお花畑の庭園を、それから子供たちの遊ぶはずのジャングルジムやら砂場やら、その向こうにある詩人の記念碑までも探しまわった。けれどもう合歓子さんの面影はどこかに消えてしまって、見つけることは決して出来なかったのである。友だちになってくれるかと思った合歓子さん。僕にほほえんでくれた合歓子さん。一緒に星を見上げた合歓子さん。僕は幼いころ母さんのシルエットを見失って、迷子になって泣きだしたときの事を思い出した。

 また遠くから噴水がひとしきり高まってくる。空へ突き抜けるほどの柱となって、すっくとライトに照らし出された。そのかなたには星がきらめいている。雲はもう、どこかへ立ち去ってしまった。町明かりに負けないようにと、ペガサス座の四角形が天を駆け抜ける。それからあれは木星だろうか、星座にまぜてもらえない一等星が、はぐれにまばゆい光を放っていた。

 僕はあの星のように一人っきりで、自信を持って生きて行かなければならない。金平糖なんかなくったって、きびきび歩いていかなければならない。そう思うと涙が出そうなくらい辛かった。せめて合歓子さんがあの物語みたいに、ほんのわずかの間でも僕のそばにいて、僕を支えてくれていたら……

 ぼんやり手すりにもたれて噴水を眺めていると、細くて丸い顔をした公園時計が、照明のなかにもうすぐ八時を告げようとしていた。もう公園も閉鎖の時間だ。僕はいまは警備員とさえ、話したくないほどの人見知りになっていたから、少しずつ喧騒が響いてくるのに任せて、鉄門のところをそっとくぐり抜けた。途端にヘッドライトの波がまぶしく車道に溢れかえる。僕は歩道を学校側へとぼとぼ歩き始めた。あるいは合歓子さんも、一足先にここを家路へと向かったのだろうか。それならせめて、ひと声掛けてくれたっていいのに。

 学校の前を通ると、職員室のランプはもう降ろされていた。校門が閉ざされている。担任が鍵を閉めていったに違いない。もう残っている者など誰もいないのだろう。自分だけが校門の前に立ち尽くして、黒ずんだ校舎を眺めているばかりだった。乗り越えて侵入したって始まらない。僕は歩行者用の押しボタンに手を触れて、ヘッドライトを総勢に押しとどめて横断歩道を渡りきった。それから車道に沿って数分くらい、あの狭い路地へと折れ曲がる。それは夕暮れに本屋に向かったいつもの裏通りであった。

 自転車とすれ違ったあの草むらでは、まだ虫たちの合奏が続いていた。ここは奥に葦原(よしはら)が続いているから、ヨシキリが鳴き誇る季節には、学校で野鳥観察を行ったこともある。初夏(はつなつ)を告げる頃には蛙(かわず)が歌いだす。冬でさえ小さな鳥たちの鳴声が、昼間から響いてくることがよくあった。僕はまた小石を拾って投げ込んでみる。虫の音がそれに釣られて小さくなる。ガサガサと枯葉の音がするから、その奥のほうをじっと眺めてみる。けれども暗くてよく分からない。あるいはどこかに、金平糖が転がっていやしないだろうか。そんな馬鹿なことを考えながら仰向くと、まばゆい光を放つあの惑星が、静かに秋を照らしているようにも思われた。ああ、合歓子さんは今ごろどこを歩いているだろう。みんなどうして、僕のまわりから消えてしまうだろう……

 とりとめもなくまた歩き出すと、道は二つになって分かれている。一方は斜めにくだって、一方は書店の明かりが道ばたを飾っている。今さら立ち寄る気にもなれなかったから、とぼとぼと坂をくだり始めた。早く家に帰って、ベットにでも潜り込みたい気持ちで一杯だったのだ。

 勢いでわざと靴音を高くしながら、坂道をくだりきったあたりから、少しずつ家並みがまばらになってくる。ところどころにすすき野が見え始める。電信柱の間隔をあけてぽつりぽつりと、白だか黄色だか分からなくなったような蛍光灯が、切れたり点滅したりしながらも、草野を細く照らし出している。刈り取られた田んぼの束ねられた三角形を、味気なく映すこともあった。ひとつの街灯をくぐり抜けるとき、僕はケンタウル祭の夜を真似してこんなことを考えてみる。

(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまはって、前の方へ来た。)

 ジョバンニを真似しながら大股で追い越してみると、影法師はそんな夢みたいな元気のあるものには思えなくって、味気なく僕を追い抜くばかり、侘びしい思いが胸に広がってきた。

 それにしても合歓子さんはどこへ消えたろう。話しがつまらなくて、うちに帰ってしまったのだろうか。あんなに楽しそうに話し掛けてくれたのは、彼女なりのうわべの優しさで、本当は僕なんかどうでもよかったのだろうか……

 いつしか日頃の自分に戻ってしまった僕は、誰も信じられなくなって煩悶した。靴音だけはこころが沈んでいても、リズムを保ってくれるのは不思議だ。淋しさを紛らわせようとして小石を蹴飛ばすと、向こうの電信柱でカチンと音を立てる。路地へは戻ってこなかった。また別のを蹴飛ばしてみる。今度は草むらにガサリと消えてしまった。何だかよけいに淋しさが込み上げてくる。

 わざと大きな息をして見上げると、ちょうど青白い流れ星が、願いを三回でも唱えられるほどの長いゆっくりとした軌道で、すーっと夜空を横切っていった。ひかりは大地まで向かうみたいに、水平線の森だか林のシルエットの中に消えてしまったのである。ああ、あんな流れ星が地表に打ちつけられたとき、星のかけらの一粒ぐらい、僕のためにどこかに転がってはいないだろうか。合歓子さんもあの流れ星を、いま帰り道で眺めたのだろうか。さっき流れ星が消える前に、あなたのことをお祈りすればよかった……。

 ある草むらの奥に三つの雑木(ざつぼく)が控えているのを見つけて、僕は何気なく立ち止まった。なにか奥のほうが霞(かすみ)がかった仄かさでぼんやり光っているような気がしたのである。まるで押入れの奥に浮かびあがったあの光。もしかしたら……

 慌てて道を逸れると、いきなり草むらに踏み込んだ。枯れ草がガサガサ音を立てる。すると次第に「ルルルル」と不思議な鳴き声が響いてきた。ああ、これはカンタンの鳴き声だ。むかし父さんから教わったことがある。このあたりはカンタンの縄張りなのだろうか。僕が進むにしたがって、声は周囲へと逃れてゆく。ぼんやりした霞が次第に明るくなってくる。それから枯れ草の合間に、ちらりと光る粒さえ見えた気がした。間違いない。僕は嬉しくなって、奥へ奥へと踏み込んだ。ぬかるみで靴が泥にまみれても気にならなかった。あの日の押入れの情熱で、ひたむきに幹を目指したのであった。

 樹木のまわりまで出ると、急に草かげがまばらになった。イガイガが一杯転がっている。どうやら栗の木だったらしい。そしてやっぱり。そこにはあの小さな小さな光の粒が、もう何十も何百も、まるで金平糖くらいの大きさでもって、そして互いの色彩を避けるみたいにして、灯しを連ねているのだった。蛍の真似をした黄緑色や、シリウスみたいな青白や、アルデバランのオレンジ色のひかりやら、太陽光を解析したプリズムのそれぞれを万遍なく、彩りに放ったみたいにして、僕の足もとに細かく細かく、栗の木にあたって粉砕されでもしたかのように散らばっているのであった。

 ああ、夢じゃあなかったんだ。『こんぺいとうの唄』は本当にあったんだ。祈りたいような気持ちになって、踏み付けないように気をつけながら、僕はそっと地べたにしゃがみ込んだ。指先でそのひとつをつまんでみる。するとあの童話に描かれたみたいに、ふにふにとしたグミのような弾力があって、ちょっといびつにしてみるたびに、色彩を変光させているのであった。手の平に転がしてみると、暖かさがこころまで広がってくる。ああ、この気持ちだ。幼い頃に夢で見た、あの金平糖の温もりだ。まるで最愛の人と触れ合っているような安らぎが、胸の奥まで染み込んでくる。誰かを抱きしめたみたいな、誰かに抱きしめられたみたいな、優しさでこころが一杯になった。しばらくは目をつむってそれを胸に当ててうずくまっていた。その場で泣き崩れかねないくらい、僕はひとりぼっちの荒野をずっと歩き続けてきたのだった。

 金平糖は自分ひとりのものではないのだから、僕はその中からたった三つだけ、夢のなかで選び取ったあの色を、そっと右手に握りしめた。赤と、黄緑と、それからブルーと……

 またカンタンが賑やかに鳴きしきる。僕は近くにあった小さな岩に腰を掛けると、ちょっと空を仰ぎ見た。さっきの流れ星が、ここに落ちたのだろうか。それでたくさんの蛍火が生まれたのだろうか。それとも合歓子さんが、星を降らせてくれたのだろうか。僕の考えはますますとりとめもなくなってきた。それでいて幸せな気分だった。手の平をそっと開くと、三つの灯火が、手の中でダンスでも踊るみたいにして転がっている。安心したみたいになって、僕はあの『こんぺいとうの唄』を口ずさんでみた。

探そう探そうそのひかり
お祈りしよう幸せを
手のひら握れば暖かく
願いを叶えてくれるでしょう

 もしも願いを叶えてくれるなら、僕にもたった一人でいい、思いの丈をすべて受け止めてくれる、最愛の人をお与え下さい。いや、そうではない。嘘を祈ってはいけないんだ。本当の願いを託さなければ。僕は金平糖をそっと握りしめて、それからそっとささやいた。どうか合歓子さん、あなただけがたった一人の、大切な大切な宝物、僕の本当の友だちに、そして本当の恋人になってくれたなら。今はただそれだけが、精一杯の願いなのです……

 そんな子供じみた祈りを、金平糖に向かって呟いてみた。すると金平糖は、まるでそれに応えようとでもするみたいに、いよいよ灯しを軽やかにして、それぞれに輝き勝ってみせるのだった。

 しかし僕はそれを眺めているうちに、だんだん意識が朦朧としてくるのを感じた。うっすらと心に霧が掛かってくるようで、何かを考えようとしてもうまく纏まらない。なんだか風景が、少しずつ色彩を忘れていくようで心許なかった。カンタンの響きが、水の中に籠もるように遠ざかっていく。そうしてようやく僕は悟ったのである。ああ、そうだった。こんな金平糖の話しがある訳がない。ここは現実の世界ではなかったんだ。ここは夢の内側の世界に違いない。けれどもいったいどこから夢に紛れ込んだのだろう。どんなに考えても思い出せない。微積の問題を解いて、救急車が走り抜けて、学校を出て本屋へ向かって、それから児童書を発見して、教室で阻害されて、公園で合歓子さんに逢って、でもそれらはみんな夢で、合歓子さんもやっぱりまぼろしで、僕に声なんか掛けてはくれなかったのだろうか。そうしてこの金平糖も、大切な人が佇んでくれるような安心感も、こころに染み渡るような温もりも、みんなみんな消えて無くなって、僕はある朝のどこかに放り出されるみたいにして、悲しく目覚めるのだろうか。

 そんなのは嫌だ。どうか、夢から覚めてもこのひかりだけは、僕から奪い取らないでください。記憶がとぎれないように瞳をぱちぱちさせてみると、金平糖の輝きがなんだか滲んで見える。こんな小さな幸せくらい、僕に残してくれて何がいけないだろう。いつの間にか頬からは、熱い涙が止めどなく流れていた。ひかりは次第にぼやけてくる。三つの色彩を水彩絵の具みたいにして滲ませながら、目の前に近づけながら僕はいつまでも泣いていた。もう夜空の星も、沢山の地面のきらめきも、みんな夜霧に包み込まれてしまったようで、ただ最後に残された金平糖だけが、三つの色を白濁に収斂させながら、ついには一つのぼんやりとした煙みたいになって、それもやがて見えなくなってしまうと、ついにあたりは暗闇に閉ざされてしまった。僕はもうその金平糖をぎゅっと握りしめながら、その粒の感触だけを頼りにして、わあわあと子どものように泣き崩れてしまったのであった。

朗読9 朝の歌

 ふっと意識を取り戻したとき、僕は小さく体を丸め込むみたいにして、ベットの中に放り込まれていた。電気は消されている。ようやく首だけ出すと、真っ暗な闇が広がっている。けれどもそこは、紛れもなく自分の部屋に違いなかった。

 すべてが終わってしまったような虚しさで、僕はおそるおそる蒲団から起き直った。しばらくは放心したように時計の針を聞いていたが、気がつくと握りしめた右手から、かすかに粒の気配がする。ぱっとランプが灯ったみたいな温もりが胸に伝わってきた。驚いた僕は右手をそっと開いてみる。するとどうだろう。夢の終わりに消えるかと思ったあの金平糖は、まだ三つの灯しを連ねて、穏やかにひかり輝いているのであった。こんなことってあるだろうか。赤と、黄緑と、それからブルーと。あんまり握ったものだから、押し込まれたみたいにくっついて、それでも色彩を競い合っているのだった。僕はもう一度握りしめて、胸に当てながら自分の鼓動を確かめてみた。いのちの暖かさが伝わってくる。ああ、夢から覚めても、金平糖はなくならなかったんだ。これでもう大丈夫だ。どんなに孤独が押し寄せても、けっして怯んだりはしない。この光の粒さえあればどこへだって、自分を信じて歩いて行くことが出来る。学校で話し相手がいなくたって、合歓子さんと仲良くなれなくたって、僕はけっして負けたりはしないんだ。

 ひとつをつまみ上げて、指先でむにむにと確かめてみる。ひかりが呼応して、明るさを変化(へんげ)する。穏やかな気持ちが溢れてくる。僕はようやく思い出した。たしか数学の問題を解ききっていなかったはずだ。

 起き直って部屋の電気を、それから卓上蛍光灯を点けて、ノートの上に金平糖を転がしてみると、まっさらなノートのページが、白い絨毯のように思えてくる。引出しからあの小物入れを取り出して、三つの金平糖を順番に、銀の底に横たえてみた。それから、

「いなくなっては駄目だぞ」

と呟くと、それに呼応するように、三つのグミが揺らめくのだった。僕はますます嬉しくなった。言葉が分かるのだろうか。そっと蓋を閉めたらまた不安になったので、もう一度蓋を開いて確かめて、ああ大丈夫だと思って、それからノートに向かった。すると不思議なほど軽やかに、難問がすらすら解けてしまった。やはり休憩を挟むのが一番いいようだ。頭がさっそうと回復するらしい。それともこれもまた、金平糖の不思議な力なのだろうか。

 僕は続けて五問目をやっつけた。これで今日のノルマは達成だ。実は学校の宿題でもなんでもないのだけれど、願いどおりの予定をこなすほど充実したことはない。僕はまた小物入れを開いてみる。三色そろってきれいに光っている。僕はもう一度、

「勝手に消えては駄目だぞ」

とささやいて、静かに蓋を閉めた。それから電灯を消すと、もう一度蒲団の中に潜り込んだのであった……。



 目覚ましのベルに驚いて起き上がると、もう朝だった。わざと遠くに置いてあった時計が、リンリン音を立てている。しばらくは意識を取り戻せなかったが、目をパチパチさせているうちに、ようやくそこが自分の部屋であることに気がついた。蒲団を押しのけて、ベットから転がるみたいにして起き上がると、目覚ましのスイッチをオフにする。すると秒針だけが静かにカチカチと規則的なリズムを打ち始めた。ぼんやり眺めると、七時を少し回ったばかりである。自分の右手が少し疼くような気がして、手の平を眺めているうちに、僕はあの金平糖のことを思い出した。たしか不思議な光の粒をケースに収めて、数学の問題を五問解ききって、電気を消して眠りに就いたはずだ。そんなことを考えていると、部屋の電気が点けっぱなしになっているのに気がついた。おかしいな。確かに消してから寝たはずなのに……

 頭がはっきりし始めると、現実の感覚が蘇ってくる。僕は部屋の電灯を消した瞬間に、はっと気がついた。そういえば、始めに眠りに就いたとき、電灯を点けっぱなしにしていたのではなかったか。慌てて机に歩み寄った。解いたはずのノートの問題を確かめるためである。

 そこには罫線だけのノートが、きれいに放置されていた。ただ人力車の落書きだけが、ノートの上の部分に丁寧に、暇潰しに描かれているばかりであった。解いたはずの四問目と五問目はどこにもない。やはり全部夢だったのだろうか。あんなにも必死になってすがりついたのに。星くずのかけらなんて初めからなかったのだろうか……

 まだ諦めがつかなかった。あるいはもしかしたら、僕たち日々の科学主義に毒されて、本当に大切な奇跡を見過ごしているだけなのかもしれない。あの夢のなかの金平糖は、まだ小さなケースのなかにちゃんと収められていて、僕に見つけて貰うことを、じっと待っているのではないか。

 慌てて引き出しから小箱を取り出した。黒くて安っぽい子どものおもちゃ。それは夢のなかで見たときよりも、もっと味気ない詰まらないもののように思われた。僕はそっと蓋を開けようとして、少し躊躇する。空っぽだったときの味気なさを思うとやりきれない。こころの準備が欲しい。丁寧にケースを両手で握りしめて、祈りを捧げるみたいに顔のあたりに掲げてみる。そんなに大げさなことじゃないんだ。三つの光の粒くらい、どうして残されていていけないだろう……

 けれども本当は分かっていたのだ。サンタクロースを夢見る少年じゃあるまいし、おままごと盛りの少女じゃあるまいし、そんなおとぎ話みたいな不思議が、現実世界にあるわけ無いではないか。ようやく開ききったとき、箱のなかには何も入っていなかった。ただ銀色の安っぽい内装が、キラキラと反射するばかりであったのだ。

 いっそ夢なんか見なければよかった。あんなにこころを揺すぶられて、揺すぶられて、最後の最後に味気なく裏切られるような、そんな淋しい夢なんか見たくなかった。こんな侘びしい木曜日の朝を、僕はどうやって過ごしたらいいだろう。学校へ行くのがたまらなく嫌だ。どうせ学園祭の準備で、悲しい思いをするに決まっているのだ。それにしても僕の金平糖はどこへ消えたろう。今日学校で合歓子さんを見ても、動揺せずにいられるだろうか。

 悲しい気持ちを追い払おうとして、部屋中のカーテンを開ききった。朝日が窓際に差し込んでくる。僕は窓を開いて、大気を精一杯に吸い込んだ。目の前のレストランには、まだ人の気配すらしない。空っぽの駐車場が殺風景に広がっているばかりであった。青空から秋風が吹き込んでくる。僕は情けない気持ちを追い払おうとして、自分の頬を軽く平手打ちしてみた。「しっかりしろ」と小さく呟いてみたけれど、気持ちは晴れなかった。

 ああ、やっぱり学校なんか行きたくないや。冴えない一日が繰り返されるに決まっているのだ。いっそ今日は仮病を使って休んでしまおうか。あるいはあの公園で、一日ぶらぶらしていようか。それにしても僕の大切な金平糖は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。そして合歓子さん、あなたはどうして僕の前から立ち去ってしまったのだろう。

合歓子さんへ

 あれから三日悩んだけれども、僕は金平糖の不思議な夢から貰った勇気を、夢のままに終わらせるのはやっぱり嫌でした。僕は自分がどれほど愚かなことをしていて、それが皆さんから見たら、どれほどからかい甲斐のあるような行為であるか、それはよく承知しているつもりです。それでも僕は、自分の見た夢のすべてを、あなたに読んで貰いたくて仕方がなかったのです。たとえ馬鹿にされても構わない。あなたに聞かせたくってたまらなくなったのです。

 夢のなかで巡り合うまで、僕はあなたを遠くから眺めて、少しくらいときめくことはありました。けれどもそれほどあなたに興味があった訳ではないのです。それなのにあの夢を見て以来、あなたのことばかりが気になって仕方ないのは、それは実際のあなたをではなく、自分の描いた幻想を、初恋の少年みたいに追い求めているだけなのかもしれません。しかし僕のなかにあるあなたのイメージは、今ではもう勝手に飛翔するばかりで、自分にもどうすることすら出来なくなってしまいました。

 だからどうしてもこの夢の物語を、あなたに聞いて貰いたかったのです。もちろんあなたは笑ってくださって構わないのです。ただ僕の小さな思いを、せめても軽蔑や嘲笑で満たすことなく、軽やかな冗談に聞き流してくださったなら、僕はそれで十分幸せなのです。それにちょっとひとりよがりかもしれませんが、あなたはけっしてこの物語を読んだからといって、僕に興味など湧かないにせよ、あざ笑ったり馬鹿にしたりなどは、決してなさらないと信じているのです。

 人から見てどんなにおかしくても、僕は懸命に歩んできました。そこに自分なりの誇りを抱いて生きています。ですからこんな手紙を差し出すのも、僕の良心に従っては、どうしてもせずにはいられないことだったからです。僕はあの夢を見てから、なおさらあなたのことばかりが気になりだして、今までだってろくに話しをしたこともないのだけれど……。

 僕はただせめて、少しでもこころを通い合わせることの出来るような、友人があったらどれほど幸せだろうと、願ってあなたにこの手紙を記すばかりです。そしてもしそれが恋人であったならば、僕のたったひとりの金平糖であってくれたならば、僕はどれほど大きな勇気を得て、空に向かって羽ばたくことが出来るだろうと、そう思ってあなたに手紙を記すばかりなのです。

 ずいぶん突然で、また勝手なことばかり書きました。本当にごめんなさいね。けれどもこころにくすぶるものを、今までみたいにそっと胸に秘めて、中途半端な孤独を愛するみたいな偽りは、自分のこころを裏切り続けるみたいで、僕はどうしても嫌だったのです。たとえ傷ついても望むがままに行動すべきだと考えたのです。あなたが好きです。あなたと話しがしてみたい。いまはただそれだけです。

 どうかあまり気になさらないで下さい。僕はこころの望みを果たしましたから、その結果がどんなものであれ、あなたに迷惑を掛けるようなことは決してありません。あなたは僕の傷つくことなんか、まるで気になさらなくたって大丈夫なのです。たったひと言だけのお返事でも構いません。あなたから手紙が届くことだけを、今は静かに待ち望んでいます。

 ではさようなら。今は夜も更けて、またウマオイが下の方で鳴きだしました。僕はこの虫の音が一番好きなのです。

秋の夜を恋わずらいと鳴く虫の
願いよりなお君が好きです

お休みなさい。



P.S.
 僕はこの手紙を彼女に送った。自分が普通の学生でないことはよく自覚しているつもりだったけれど、みんなの普通でないというところが僕にとって普通なのだとしたら、こんな突拍子もないことをしておいて、人から言われてようやくおかしいのかなと思い始めるくらいが関の山である。けれどもおかしいって何だろう。おかしいことは悪いことだろうか。あるいは僕たちだけが正しくって、他の誰もが間違っていることだって、本当にないと言い切れるのだろうか。今ではそんなことも、考えることだってあるのです。

 そうして合歓子さんもやはりみんなの言うところの、ちょっと変わった学生さんだったらしい。だって彼女はこんな風変わりな手紙に対して、送り主の僕がびっくりするくらいの、長い返事をしたためてくれたからである。そしてその時から始まった手紙のやり取りが、今でもずっと続いているのだから。

 僕らはメールもするけれど、本当に大切と思われることは、きっと手紙でやり取りしている。それは今でも変わらないのだし、これからもずっと変わらないだろう。僕たち二人は、人と人との緊密な関係には、ときどきは改まった手続きが必要なんだって、今でも馬鹿みたいに信じている。そうしてその馬鹿を掲げて、一緒に歩いて行こうと思っている。彼女とはもう、ずいぶん前から、友だちを通り越して恋人同士になってしまった。僕は高校を卒業して、もうすぐ大学も卒業する。そうして手紙を交わしていらいずっと、僕のこころは深い安らぎに包まれているのである。だから僕にとってあの『こんぺいとうの唄』は、決してまぼろしではなかった。手の平にあって願いを叶えてくれたあの三つの金平糖も、決してまぼろしではなかったのである。

 僕は改めて彼女にプロポーズをしようと思う。合歓子さん、あなたは頷いてくれるだろうか。あなたはいま、僕のベットに眠っているのだけれども……。

   (おわり)

覚書

プロトタイプ2009/10/19~10/22
全体~10/29

2010/1月

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