(朗読なし)
・まだ、下書きの作成中です。推敲はテキストファイル側でやるべし。(自己確認)
舞いあがる蝶のような喜びを求めて、人々は誰しも春を待ち望む。まるで恋人との夢にまどろむみたいにして、居眠りするような忘れ雪の窓辺から。
大学も二年目へ入ろうとしていた。そうして僕は、春を待っている。見たこともない誰かへの、期待でも膨らむみたいに。学校では屈託もなく、戯れていたけれど、満たされないような淋しさが、心のどこかに疼いているのだった。
もうすぐ三月。死に絶えたはずの枯れ野にさえ、いつしか若草が芽を伸ばし、彩りの花を咲かせる頃には、僕にも春が訪れるだろうか。そんな夢を見ながら、今は学校も中休み。
こんな日は夕暮れの窓辺から、下らない物思いに沈んでみる。誰かのシルエットを思い描くみたいに。見たこともない誰かのシルエットを。学校には女友達だっていたけれど、何気なく近寄ったり離れたりもしたけれど、僕にはまだ分からない、人を愛するということの、本当ってどんなだろう。だって僕らの付き合いときたら、いつもふざけあっては解消してしまうような、ファッションみたいなものだったから……
失いたくなはない思いひとつくらい、つかみ取ったことすら無いような気もするのだった。物足りなさが燻っている。ぼんやり暮れる夕まぐれ、本当の愛はどんな色かなんて、愚かなことまで考えてしまう。僕は何かに浮かされているのだろうか。もう春も近い。
けれども日が暮れれば、夜更けの寒さは相変わらずだ。知人との電話にも飽きて、学業はすっかり怠けきって、僕はベットに丸くなる。そうして不思議な夢を見る。二つの蝶がひらひらと、れんげ畑を舞っている。そんなだらけた夢だった。たわいもない風が吹いて、雲を遠くへ運んでいる。わたのような期待が舞い降りるみたいに、僕は不思議な思いに満たされるのだった。
毛布は暖かくて、Primaveraの足音が響いていくる。
輪舞にも飽きて宿りの蝶の夢
三月。ほがらかが、陽ざしを彩った。
学校はまだ休みだ。大学の休みの多さは、この国には不似合いだ。だから僕らは夢を見たり、遊びほうけたりも出来るのだけれど。
今日は知人の誘いはすべてボイコット。用事があることにしてしまう。そうしてひとり歩き。ちょっと公園にでも出かけたくなって、ポケットに手を突っ込んで、てくてく散歩を試みる。
闊歩する町並みは軽やかな気分に満ちていた。期待が膨らんでいくような、空の青さが心地よい。ときおりビル影に、冷たい風が吹き抜けると、冬が帰ってきそうな危うさが、まだ大気には残されていた。僕は気にせず歩いていく。
公園の入り口を潜ると、喧噪はすっと遠くなる。街なかにある憩いの広場。今日は平日だから、それほど人も多くはない。並木の影は冷たさを宿し、日だまりには温もりをたくして、コントラストの合間に息づいている、そんな遊歩道が心地よい。
ちょっと上着が恋しいくらい、立ち止まるとたんに肌寒い。僕はどこまでも歩いていく。矢印を頼りにして、池の方を目ざして、そうして池のまわりを闊歩する。ボートを漕いでいるのは、家族連れではなくてカップルだった。それを羨ましがって、向こうの方で鴉が鳴いている。誰しも手と手を触れ合うくらいの、そんな春には人恋しくもなるものだ。僕はぼんやり眺めながら、櫂を漕ぐ人のシルエットを心に描いている。僕の知り合いには、そのシルエットはいなそうだ。でも、きっとどこかにいる。今日も僕のことを待っているような気がする。自分はそれを探しださなければならない。そんな馬鹿なことを考えながら歩き回った。
あまりだらしないんで、靴音を空元気に歩き出す。花壇に咲いたすみれの花が、お辞儀を繰り返すのが愉快だった。けなげな花は嬉しいものである。広葉樹は鮮やかな緑を掲げている。すべてが生まれようとするこんな季節に、こころの底でかすかに疼くものはなんだろう。
うらら葉の誰に恋するこころかな
つい夕暮れまで、さ迷い歩いてしまった。仕事帰りの第一陣が溢れ出して、街中はものの匂いに溢れている。自分も次第に、お腹がすいてくる。ちょっとそば屋でもくぐってみようか。
しかし昼が軽食だったから、白い御飯が恋しくもなる。そうなるともう、恋人の面影なんかどうでもよくなってしまう。歩っているだけでも店に吸い寄せられそうな気分だった。ああ、腹が減った。旨そうだと思っているうちに、ますます人がごった返してくる。こうなったら、悩まずに暖簾をくぐってしまわなければ、永遠に街をさ迷う結果ともなってしまう。さて、どこに入ろうか。
人々の足並みには、冬のぎすぎすが抜け落ちて、ぼんやりした優しさが籠もるようにも思われた。無意味な煌びやかさと戯れる、ネオンランプさえ暖かだった。
不意に丼もの屋から、サラリーマンが二人飛び出した。ぶつかりそうに向こうへ消えてしまうので、何も考えないうちに、自分は出てきたところに吸いこまれてしまった。天佑(てんゆう)という言葉が浮かんでくる。やっぱり夕飯は丼ものに限る。蕎麦なんかじゃあ、二、三時間でまた腹が減ってしまうには違いない。
たちまち、
「いらっしゃいませ」
という声が響いてくる。それに合わせて腹がぐうと鳴ったんで、さすがに自分でも驚いた。もちろん誰にも聞こえやしない。騒がしさに救われたようなものだった。。
カツ丼には味噌カツと、大根おろしと、ピリ辛が並んでいる。至れり尽くせりの予感がしてくるんで、舌の赴くままに味噌カツを注文してみる。実はピリ辛にしようかと迷ったが、次の楽しみという言葉もある。味噌が美味しければ常連にだってなるかもしれないのだ。
ようやく到着するから、箸を割ると、沢庵と味噌汁がついている。さっそく一切れぱくついてみた。
旨い。これは悪くない。
思わず頬がほころんでしまう。
はっとして、あたりを見渡して、何気ない表情を整えると、思う存分丼ものを楽しんだ。もちろん大盛りである。お茶だって目の前に置いてあるから、カウンターの並び席とはいえ、大いにくつろげる。メニューの看板が掛けられているのを見ると、やっぱりおすすめのピリ辛が気になってくる。きっと近いうちにもう一度、ここに来る羽目になるな。そう思いながら、勘定を済ませるのだった。
「ごちそうさま」
外はさっきより軽やかだ。きっと自分の心情を反映しているに違いない。もう恋人の影も、こころのすき間も忘れてしまって、腹一杯に歩いていく。メールを告げる携帯が鳴ったが、開いてみようともしなかった。携帯を持っているのに、お前はよく音信不通になってしまう。それが友達のぼやきであった。人は常に、誰かと連絡を取りたいわけじゃない。ただ孤独を愛するみたいに、歩く街並みが嬉しかった。
空にはいつしか月が昇っている。ビルとビルの合間から。半分はスモックでおぼろになっているような、ちょっと憐れな姿であるが、それでも穏やかな佇(たたず)まいを見せていた。それを眺めているうちに、僕は不意に、公園でボートを眺めたことを思い浮かべた。
それがなぜかは分からない。不意に浮かんできたのである。わざと大股に歩き出すと、淋しさを思い出させるような夜風が、颯爽として通り過ぎていくのだった。
待つ人もあるかなきかを春の月
帰りがけに、ちょっと渋谷にまわってみる。CDを探す決心をしたからである。それにしても、蟻としか思えないくらいの頭数だから、こんな時間帯にはあまり近づきたくない気もする。しかしついでだから、降りることにした。
ここではぽっかり浮かんだ月のことなど、冗談にも見る人はいないらしい。すべてが地上を這い回っている。そんな街である。そうして人は商品みたいに、物色と戯れて歩んでいく。かと思えば、疲れやつれたような顔をして、サラリーマンのスーツの波が、ようやく軍隊行動から解放されて、駅の方へと呑み込まれていく。
CDはすぐに見つかった。見つかるはずだ。これほど膨大な在庫を誇っているなら、マイナーな小品でもなければ、探すのに苦労なんかいらない。そうしてついあちらこちらを眺めるうちに、時間はどんどん過ぎていってしまう。無駄なような、有意義なような、不思議な感覚に捕らわれた。
店を逃れると、また沢山のスーツ姿が押し寄せてくる。もちろん彼らは遊び人ではない。そうして、宵の渋谷は遊び人の街ではない。彼らは護送列車なみの詰め込みをされて、それぞれ首都圏の周辺部へと帰っていく、働き蟻の様相を呈している。人を動物のように扱った、戦時中の映像として放映したら、きっと誰もが同情を催すような、それはすさまじいぎゅうぎゅう詰めである。なんて書くと、自分だけは自由人みたいだが、自分もさっきそれに押し込まれながら、ここまで来たのだからおかしい。こんな生活が当たり前になって、しかも幸せだなんて思っていたら、実は人間としては病んでいるのではないか、そんな素朴な疑問まで湧き起こってくる。
もっとも、そんな感慨にのんびり浸っている余裕などない。僕はすでに何かに押し流されている。それにしても、若者の街だなんてどこから生まれた言葉だろう。このあたりはみんな、頭をスポンジみたいに疲れ果てて、家路へと向かう仕事帰りの人だかりであふれている。そうして飲みに向かう人たちよりも、真っ直ぐ駅へと逃れる人たちの方が、圧倒的に多いのだ。僕もいつの日か、彼らの仲間入りを果たさなければならないのだろうか。いまいち実感が湧いてこなかった。
若者たちの空間はもっと向こうにある。そうして今こそ遊び盛りだ。我が物顔で春を謳歌している。そうしてサラリーマンは疲れ果てている。過ぎ去りし夏の面影を、余生の仕事へと捧げるために、朝な夕なにこの道を行き来するのだろうか。
何かが間違っているような気もする。
しかたのないような気もする。
自分にはどうともならないことではある。
誰もが大きな装置の下で、懸命に右往左往しているだけのような気もしてくる。
また目の前で、化粧が服を着たような女を追い掛けて、奇抜なファッションが声を掛けながら走り去った。よくよく見ると、大した顔だちはしていない。振り向いた女も大した顔ではなかった。なんだか馬鹿馬鹿しい。なかなかドラマのようにはいかない。実に殺風景だ。
それが彼らの青春なのだろう。あるいは彼らは、やがてはシーズンが過ぎ去って、喜びが諦めに変わることを肌で感じ取って、このサラリーマンの姿を恐れるみたいにして、たゆまずの狂騒へと突き進むのだろうか。それとも単に、動物的な行動をしているに過ぎないのだろうか。
それはぱっと見、ありきたりのように思えて、それでいてどこか悲しい。自分は大勢の中で、一人しんみりした気持ちがして、誰も知らない月を見上げてみるのだった。
蛙(かわず)など知らず渋谷の雌借時
翌る日は花を買いに出た。
何のことはない、頼まれものである。友人が花を買いに行くのを恥ずかしがって、それでも彼女の誕生日に花をプレゼントしたくって、なぜだか僕の出番である。
花も買えないような軟弱野郎は、今に別れるに決まっている。けれども飯をおごるというものだから、それに釣られてしまった。書籍を三冊購入した帰りだから、散歩ついでにはちょうどいい。
小さな花屋は午後の日だまりの中。客なんてほとんどいない。僕がすっと滑り込んだら、
「いらっしゃいませ」
と明るい声がした。
レジの所に髪を束ねて清楚に見せた、エプロン姿の若い女性がいて、にっこりほほ笑んでいるのだった。ちょうど自分と同じくらいの年齢だったから、内心すぐに好奇心が湧いてくる。ようするに春先で浮ついているから、心がだらしなく反応するのだろう。丸顔で元気の良さそうな、屈託のない娘さんである。
僕は思わず見とれそうになって、慌てて花を探すふりをした。いや、ふりじゃない。本当に買いに来たんだった。しっかりしなくてはいけない。それにしても、誕生日に相応しい花なんて、自分には分かりっこない。
せっかくだから、あの子に聞いてみようか。まさか、声をかけるチャンスだなんて、露骨なことを考えたとは思いたくはない。しかし、思いたくはないながらも、そう考えたような気がしなくもない。そんな花屋の花選び……
下らないことを考えているうちに、中年の夫婦連れが、五百円束の菜の花と、千円束の菊を幾つか選んで、レジのほうへ向かうところだった。
ちょっとレジ側にまわって選んでいると、彼女は受け取った花束を丁寧に包装している。一心不乱の表情が可愛らしい。夫婦は、
「中田さん家(ち)も回れるかな」
「夕方になると道が込むから」
なんて話をしている。お墓参りでもするのだろうか。春の彼岸は、もう少し先のような気がする。
そういえば、そろそろ実家から電話が掛かってくる頃だった。今年も呼び出しを食らうに違いない。自分の田舎では、まだまだ歳事にうるさいのである。
彼女が会計に夢中になっているものだから、僕はつい花を眺めるのを忘れて、レジのほうを覗き込んでいた。明るい服装に黄色いエプロンが似合っている。そうして春みたいに陽気な表情を見せている。なんだか自分の心まで、暖められるような気持ちがしてきた。
菜の花をくるむ仕草もたばね髪
レジが終わったときに、彼女はおもむろに振り向いた。
「ありがとうございました」
と言った拍子に、眺めている僕を見つけ出したらしい。僕はのぞきの咎を負わさそうなんで、慌てて、
「ちょっとすいません」
と彼女に声を掛けたのである。
「はい」
すぐにレジを抜け出してきた。
もうお客さんは僕ひとりになっていたからである。
「実は女性が気に入りそうな花を、適当に買ってきて欲しいと、友人に頼まれたのだけれど、何かおすすめの花はありませんか」
と尋ねてみた。
「あなたの彼女じゃないんですか」
なんて気楽に冗談を言ってくるので、
「違います違います。僕には花をあげる人なんていないんです」
と馬鹿な答えを返してしまった。あんまり真剣に弁解するので、彼女は思わず吹き出してしまったらしい。かなり恥ずかしかった。それから、
「そうですねえ」
と言って、ちょっと悩んでいたが、
「カタクリの花なんてどうですか」
と指さした。なんでも、春を告げる花として、花言葉にも「初恋」なんて意味があるそうだ。
「そのかわり、五月頃になるともう枯れちゃうんです」
なんて不吉なことを言い出すので、ちょっと不安になった。だが、自分に花を買いに行かせるような友人には、ちょっと試練を与えたほうがいいような気もする。
「じゃあ、それにしましょう」
と決めてしまった。どうせいろいろ考えたって同じことだ。
「ありがとうございます」
彼女はさっそくレジへと持って行くから、僕は後から従った。束ねたうしろ髪が揺れている。
「それじゃあ、特別にリボン一杯つけておきますね」
なんて言ってくれるので、
「ありがとう」
と照れくさくなって頷いた。
包装をしていると、彼女は真剣になって手先に集中してしまうから、僕はそのあいだ、ついちらちらと彼女の表情を眺めていた。ちょっと弛んだ唇が赤いのは、けっして口紅の色ではない。彼女の生気が、自然に赤みを帯びたような色彩で、柔らかそうな春を彩っている気がする。自分は本気でそんなことを考えているのだった。
ようやく包装が終わったとき、会計を済ませた僕に、彼女はカタクリを手渡してくれた。
「この花は、昔はかたかごと呼ばれていたのです。カタクリの花だなんて言うと、何にも知らないで片栗粉を想像されるのも嫌ですから、最初からカタカゴの花と伝えて渡すのが、ちょっとこつかな」
なんて説明をしてくれるので、また恥ずかしくなってきた。
「分かった。そう説明しておくよ」
自分はようやくそれを受け取るときに、思わず彼女の指とかすかに触れ合ってしまい、その人差し指の指さきが、ずっと心に疼(うず)くような感覚にとらわれた。いったいどうしてしまったのだろう。慌てて、
「ありがとう」
なんて言いながら、そそくさとして店を逃れたのである。
後ろから、
「ありがとうございました」
と彼女の声が響いてきた。
かたかごを触れ合う指の渡しかな
カタカゴは友人の手に渡った。
ありがとうの感謝と共に。そうして僕は呆けてしまう。
「おい、どうしたんだ」
と注意されたのに、いつものような切れのある返事が出来なかった。あまり気乗りがしないんで、友人もあきらめて、もう一度挨拶をしてから、喫茶店を出て行ってしまう。薄情な奴だ。もっともこれから、すぐに彼女の元へと向かうはずである。
「頑張れよ」
自分はそれだけ伝えて、一人になったテーブルでぼんやり戯れている。また花屋のあの子の姿が心に浮かんでくる。あの日いらい、自分はどうしてしまったのだろう。
試しに、コーヒーに砂糖もミルクも入れないで飲んでみた。全然旨くなかった。これはすでに酸化している。ただの茶色い飲み物である。場所代だとあきらめて、ミルクを二つ分入れて、スプーンで混ぜてみた。するとまた、束ね髪のあの子の、菜の花をくるむ仕草が浮かんでくる。
喫茶店はまだ午前中だから、人影も少なかった。窓の喧噪には、朝らしいすがすがしさが残っていた。暇になったウェイターが、空のテーブルを拭き回っている。コーヒーが酸化しているんで、僕はさらにもう一つミルクを入れて誤魔化した。こんな味気なさでは、場所代にしたってサービスが悪すぎだ。片肘をつきながら、またもの思い。
「それじゃあ、特別にリボン一杯つけておきますね」
優しい声が、まだ耳に残っている。
それから、自分の指先を見つめていると、
かすかに触れたときの温もりが、浮かんでくる。
夕べから自分はどうかしている。花屋を出たときからすでにおかしかった。深く考えたりはしなかったけれど、さっきの彼女のイメージが、心に浮かんでくるような気がしてならなかったからである。
部屋に戻って、浴槽で一息入れているとまた浮かんできた。自分は慌てて頭を振ったのを覚えている。大学に入ってからはひとり暮らしのマンションだから、ぼうっとしていたからといって見つかる心配はない。自分は中学生の頃、ちょっとした片思いをしたときに、家族にすぐに悟られてしまったことを思い出して、ひとりで真っ赤になった。少年の初恋物語じゃあるまいし。花屋の娘に一目惚れじゃあ、小説にだって使って貰えないような不始末だ。まったくだらしない。
その日は何も手につかないとあきらめて、すぐに寝てしまった。そうしたら夢の中でまた、あの花屋の前を通りかかったのである。ある雨の昼下がり。僕はもちろん入っていった。
「いらっしゃいませ」
優しい声がして、見上げると彼女がレジからほほ笑んでいた。他のお客さんは誰もいない。あの人と僕との二人きり。自分は春さきのだらけた雨を逃れるように、傘を閉ざして、花屋の中へと入っていったのである。湿り気が、かえって花を生き生きさせるように、店のなかは植物の賑わいにあふれていた。それが殺風景な春雨の光景と、いちじるしい対照を描いていた。
「あら。昨日のかたかごの」
あの人は、屈託もない表情で迎えてくれる。
「もう、お友達に渡したんですか」
なんて尋ねるので、僕は気さくなふりをして、
「ついさっき、手渡して来たところです」
と答えるのだった。
それから不思議なことに、二人は知り合いみたいに話し始めた。するとそれに釣られるように、眺めているはずのもう一人の自分は、胸が苦しくなるような気持ちがするのだった。あの人の瞳が、澄み渡るみずうみのように思われて、すぐにでも打ち明けてしまいたいような感覚。あるいは自分は、告白をしようと思って、その花屋に訪れたのではなかったろうか。そんな錯覚にさえ囚われてしまった。
「あら、雨が強くなってたわ」
言葉に釣られて振り向くと、しとしと続きの春雨は、いつの間にやら本降りに入った様子である。
「雨宿りに、しばらくここで休んでいってもいいかな」
なんて自分は笑い返すのだった。
春雨の忘れがたみも恋心
夢を見てからというもの、僕のこころはふわついている。風船みたいにさ迷って、気がつくとまた、花屋のあの子のことを考えてしまう。
こんなに思い詰めたのは初めてだった。だって、一目惚れなんて偽ものの恋だって、自分はいつでも主張してきたはずじゃないか。
「ろくに相手も知らないで好きになるなんて、アイドルを好きなのと一緒さ。話をしてみなかったら、相手のことなんて分かるわけないじゃないか」
そう言って、悩める同級生をからかった事だってあったのに。誰が格好いいなんて女同士の話を聞くたびに、フィーリングまかせの不甲斐なさに、呆れたことだってあったはずなのに……
それがこんな浮ついた気持ちで、あの子のことばかり考えているなんて、自分はどうしてしまったのだろう。大学ももうすぐ二年目を迎えようとしている。それに付き合ったことくらい、自分だって何度もある。けれども、どれも遊びみたいに思われるのだった。恋なんてこんなものかなと、ようやく悟り始めたこの頃だったはずなのに、まるで初恋の少年みたいに、逆上せてしまうなんてどうかしている。
理性が感性に負けている。
それは自分にも分かるのだけれど、また一日、うわの空に過ごしてしまうのだった。
勝手に花屋のイメージが湧いてくる。僕はあの日以来、ずっとそんな毎日と格闘している気がする。そうして格闘しながら、ようやく気がついた。理屈で押さえようとしても、心が受け入れようとしないのである。こうなってしまったら……
こうなってしまったら、自分で行動して結論を見つけない限り、ここから抜け出すことなんか叶わないんだ。今日を思いわずらわせた春雨は、ようやくぽつりぽつりとあがり始めている。しかし今日一日を悩みきったからといって、明日になったらやっぱり悩みが待っているんだ。そうして明日をやり過ごしても、あさってだって同じなんだ。だったら、自分で決着を付けるしかない。
自分は傘を持って部屋を飛び出した。花屋へ向かうことにしたのである。雨はほとんど上がっている。傘をステッキみたいに振り回しながら、僕はどんどん歩いていった。
途中の高台のところから街を眺めると、ちょうど雲の途切れたところから、春の陽ざしが顔を覗かせた。その瞬間、七色の虹がはるかかなたへ向けて、みるみるうちに橋を渡していくのが見えたのだった。
僕は嬉しい驚きで、しばらく突っ立って眺めていた。何かいいことがあるような予感がする。幸せの予感が湧いてくる。僕は歩みを軽やかにして、花屋へ向かって歩き出した。彼女に告白をするために。
告白の渡る勇気も虹の橋
みんな日常生活の中でこそ、ロマンチックであることを忘れてしまったらしい。それをただドラマや小説の消費物として、眺め暮らすばかりで、乏しい生活を繰り広げて、それで満足している。
だけど、生活の中で演出をすることさえ出来なくなってしまったら、人としてのアイデンティティなんかもう何もないんだ。いまは人から指を差されるくらい、馬鹿なことをやってみたい。日常を彩ることこそが、本当の生きる意味ではないだろうか。
それを交互に冷やかしあって、台なしにしてはいけないんだ。そうしたら、もう口だけ動かすだけの、乏しい何ものかになってしまうに違いないんだ。
僕は臆病だから。このくらい思想で武装してからでないと、思い切った行動には出られない。ちょっと情けないようだ。それでいて一度浮かんだことは、どうしてもやってみなければ気が済まない。なんて融通の利かない性格だろう。
季節はずれのロマンチック。僕は花屋へと入っていく、
「いらっしゃいませ」
あの子がほほ笑んだ。彼女は今、客の応対をしている。だからこっちは見ていない。僕は花を選ぶようなふりをして、二、三人のお客さんが消えるのを待っていた。
雨上がりの小さな花屋だから、お客さんの誰も来ない時間が生まれるに決まっている。自分はそれを待っていた。もちろん花も真剣に選んでいる。選んでいるのだが、どれも同じ花にしか思えない。実家によく植えられていた、パンジーくらいしか、見分けがつかないので、いっそ切り花の百合などを探そうかと思ったが、どうしてもこの鉢植えのパンジーが呼んでいるように思われるので、そこから動けなかった。しだいにこれでなければならないような気持ちになってくる。僕は決心した。
「ありがとうございました」
彼女の声が響いてくる。店を見わたすと、もうお客さんは自分だけになっていた。今しかない。
鉢植えのパンジーを手に取ると、何気ないふりをしてレジへと持っていく。僕の顔を覚えていた彼女が、にっこりほほ笑んできた。
「あら。この間のかたかごの」
屈託もない表情で迎えてくれる。
「お友達はうまくいったんですか」
なんて尋ねて来るから、僕は何気ない風を装って、
「ええ、まだ付き合ってるから、うまくいったんでしょう」
と答えるのだった。 彼女は、
「この花も、やっぱりお友達?」
なんて、からかうみたいに聞いてくる。僕は思わず真剣になって、
「いいえ、僕がプレゼントするのです」
と答えてしまった。彼女はふうんといった表情でほほ笑んで、綺麗に包装をしてくれる。
「大きなリボンを付けてあげますね」
なんて、応援するみたいなことをいうので、ありがとうと答えるのが照れくさくて仕方なかった。頬が真っ赤になっているような気がする。どうかお客さんが入ってきませんようにと心から祈っていたが、幸い雨上がりだから、通りを行き交う人並みさえ少ない様子だった。彼女は器用に指先を動かしながら、
「雨が上がってよかったわ」
なんてささやいている。僕に伝えようとしたのか、自分に言い聞かせたのか、よく分からないような不思議な響きだった。その響きが、なおさらに僕の心拍数を高めてしまう。しっかりしろ。自分の心に言い聞かせてみる。
会計を済ませたとき、彼女が
「恋人へのプレゼントですか」
と尋ねるから。自分は思いきって口を開いた。
「違います。これから告白をしようと思って」
と口にすると、彼女はまあという表情でほほ笑んだ。
「今どき、花をプレゼントして告白なんて、ロマンチックですね」
とからかうから、「ええ」と頷いたのだが、僕はもともとがせっかちなものだから、僕はゆとりを持って応対をすることが出来なくなってしまい、
「ええ、ロマンチックです。実はあなたに告白をしようと思って、この花を買ったのです」
とつんのめるみたいにして、思わず口にしてしまったのである。
彼女は、ちょっとびっくりしていた。呆れている様子にも見えた。咎めているような表情にも思えた。でもここまできたら、すべてを打ち明けてから後悔する方が、はるかにマシなんだ。
「この間あなたを見かけていらい、ずっとあなたのことばかり心に浮かんでくるのです。ろくに話したこともないのだから、付き合う前に、一緒に歩いてみるだけでもいいのです。どうか受け取って下さい」
そう言って、買ったばかりのパンジーを、彼女が包んでくれたはずのパンジーを、そのまま彼女に差しだしたのであった。よくよく考えれば、間が抜けているような気もする。その時はそんなことなど、考えるゆとりすらなかった。
彼女のたばね髪がふさふさしている。ちょっとびっくりしたみたいで、瞳がぱちぱちしているようだった。それからつかの間、僕のことをじっと眺めている。
あるいは自分のことを、見定めているのだろうか。あんまり唐突なんで、あきれているだけなのだろうか。けれどもしばらく悩んでいた彼女は、パンジーの鉢を受け取ってくれた。
「パンジーの花言葉って知っていますか」
といきなり聞いてくるのでびっくりした。
「いいえ」
と答えると、
「私を思って下さいっていうの」
と説明するので、自分は頬は真っ赤になったに違いない。
彼女は頷いてくれたのだった。
それから、三日後。僕はあの虹の高台で待っている。近くには丸い顔をした公園時計が立っているので、二人の待ち合わせにはちょうどよい場所なのであった。。
待っていると、春風が街を抜けて、僕の心にまで吹き付けるような気分がした。きらきらするような住宅街が、春ののどかさに佇んでいる。やがた向こうから日傘が見えてきた。それは淡い桜色をして、あなたはそれをくるくる回しながら、大きく手を振るのだった。僕らの初めてのデートである。
パラソルを春めき回せば君の影