悲しい夢を見た。いつもと違う音色(ねいろ)で携帯が鳴り響いた。何の楽曲だかも分からない。まるでひぐらしの鳴き声が、抽象化されて器楽曲にでもなったような響きだった。学校から帰ってきたばかりの僕は、制服を脱ごうとするのを止めて、ちょっと驚きながらそれを取り上げる。こんなサウンドは内蔵されていなかったし、登録した覚えもなかったからである。出てみるとそれは病院からだった。母さんが父さんの危篤を知らせてきたのである。
その声は震えていた。もう回復の見込みのないような響きで、すぐに病院に来るように告げるのである。僕はびっくりした。だって昨日まで、容態が悪化したなんて話しは、まるで聞かなかったからである。
父さんはかねてより病院暮らしが続いていた。けれども特に重症というわけでもなかったので、すっかり入院生活に馴らされてしまい、容態が急変するなんて、夢にも思わなかったのである。僕はそのくらい毎日の生活を、学生生活を楽しむことばかりに費やしていたのだった。
しかし、母さんの声は切羽詰まって聞こえてくる。まるで薄着のまま時雨(しぐれ)に打ちのめされたみたいに、僕はしばらくは返答すら出来なかった。向こうから、しっかりしなさいと声がするので、ようやくはっとなって、
「すぐにそっちに行くよ」
と言った。はっきりと答えたつもりだったのに、驚くほど小さな声が出た。母さんは、姉さんの療養所に向かって、彼女を連れてから病院に来るようにと命令した。そんな震えるみたいな声を聞いたのは初めてだったから、僕は動揺を隠しきれなかった。
「分かった」
やっぱり震えるように携帯を切ったのである。
姉さんは父と同じ病気だった。一時はもう駄目かも知れないと言われたこともあったが、今では病院を出て、駅近くにある療養施設に移されて、穏やかなリハビリを続けている。今では外泊することも許されるくらい、症状も回復しているのだから、あらかじめ連絡さえ付けておけば、父の見舞いにだって行けるに違いなかった。
僕は外しかけたボタンを止め直すと、学生服のまま部屋を飛び出した。とにかく一刻を争うのだ。いろいろ入ったままの学生鞄も、そのまま持ちだして階段を駆け下りる。家の中はシンと静まり返っていた。帰ってきたとき鍵が掛かっていたから、今は誰もいないに違いない。緩みかけていた靴紐を結び直すと、勢いよく玄関から飛び出した。駐車場の方で乗用車の音がしたので、振り向くと叔父さんたちが買い物から帰ってきたところらしい。半開きの窓ガラスから、
「おい、どうしたんだ」
と訝しがるような声が響いた。きっと僕の顔は真っ青だったに違いない。すぐに事情を説明すべきだったはずなのに、あまり慌てていたものだから、
「出かけてきます」
と叫ぶがままに飛び出してしまったのである。
僕は親戚の叔父さんの家に間借りしていたのであった。母さんが父さんの病室に泊まり込むことが多くなったので、一人がちの家にいるのも物騒だし、料理だって出来ないのだからといって、叔父さんと叔母さんが勧めてくれたからである。だから事情も説明せずに飛び出してしまうなど、絶対に有り得ないはずなのだが、あるいは日頃世話になっている後ろめたさと、ある種の居心地の悪さと、時々親父ぶったことを言う叔父に対する反感が、刹那に沸き起こったためかもしれなかった。それにしたって、父さんの危篤を知らせずに走り出すなど、とても考えられないことである。叔父さんはさぞかし怪訝な表情をしていたことだろう。僕は本当に愚かであった。
バスはどんなに待っても一〇分くらいのものである。そして順調に向かえば程なく駅に到着するのだし、そこでタクシーを掴まえて、姉さんを拾いがてらに病院に向かえばいいわけだ。あるいは叔父のやっかいにならなくても、時間は変わらないと打算したのは、彼にだけは借りを作りたくないという、僕の賤しいこころであったのだろうか……
午後の日射しが強いから、バス停で息を切らして待っていると、すぐにグリーンの大型バスが滑り込んできた。すっとドアが開く。降りる者は誰もいない。慌てて乗り込んだら、運転手はそれを確認するまでもなく、たちまち扉を閉めてアクセルを踏み込んだ。僕は慣性の法則みたいにうしろに振られながら、後部の二人掛けを占領した。どうせガラガラなのだ。モーターを大して荒げるでもなく、バスは通りへと走り出したのであった。
肱をもたれるみたいにして窓を眺めると、昼下がりの車窓から日射しが差し込んでくる。父親の危篤など思いもよらないくらい、のどかな平日である。こんな穏やかな卯の花日和に、父さんはどこへ行くつもりなのだろう。空へと羽ばたく鳥みたいに、僕らを残して、遠くへ行ってしまうのだろうか。なんだか実感が沸いてこない。
ぼんやり町並みを眺めていた。まだ駅までは距離があるから、このあたりは都会とも田舎町とも片づかない。商店のビルやらマンションが、ソバ屋とかラーメン屋とか、小さな料理店を挟み込みながら続いているばっかりだ。それに建物の途切れ間には、小さな畑だってところどころに顔を覗かせている。眺めながらに呼吸を落ち着けて、ようやく療養所に連絡を入れることを思い出した。しかし携帯のアドレスを進めるうちに、姉の連絡先が入っていないことに気がついた。しまった。姉が病院から移るときに、ちゃんと登録をしていなかったのだ。
姉は病院にいる間は、部屋からの携帯使用が認められていなかったのである。もちろん起きてロビーに向かえば、患者だって使うことは出来たのだが、そんな面倒をする気にもなれないから、とうとう持たずに済ませてしまった。
「今どき携帯も持っていないのはアンモナイトくらいのものだ」
僕はそうやってからかったことすらあったのだ。だから療養所へ移ったとき、ようやく携帯電話を購入した姉は、
「これでもうアンモナイトも卒業だわ」
と不思議な冗談を返したものだった。僕が驚いて、
「なんだ、まだこの前のこと根に持ってたのか」
と笑い出すと、
「当たり前よ」
と怒った真似をしながら、携帯と療養所の番号を紙切れに託したのであった。ものぐさな僕は、それを学生手帳に書き付けたままで、まだ携帯に移し替えていなかったのである。そんなことはすっかり忘れていた。慌てて鞄を掻き分けながら、ノートの合間を探し始めた。どうやら学生鞄を持って来たのは正解だったらしい。
差し込む日射しが、鞄の中まで照らしてくる。ブレザーの肩が暑いくらいだ。まだ日が高いから、建物に隠される領域が狭いのだろう。今日は学校が半日だけだったので、昼食は学校で済ませたとはいえ、まだまだ午後は始まったばかりである。探しがてらに見上げると、車内は人影もまばらで、みんな眠たげな表情で佇んでいる。おそらく、ひと駅ふた駅の遊びに出かけたり、駅まで買い物に出かけるところだろう。ときおり自動録音のアナウンスが、
「お降りのかたはブザーでお知らせください」
と停車場(ていしゃじょう)の名称を告げるのだが、ブザーを鳴らす客はほとんどいなかった。屈託のないようなバスの中で、きっと自分だけが真っ青な顔をして、荷物をあさっていたに違いない。また鞄の中を探し始めた。けれどもどこにも見当たらない。間違いなくあるはずの手帳が、すっかり行方知れずなのである。
僕はこころの中で、
「ない、ない」
と繰り返しながら、あちこちのファスナーを開いたり、厚紙の底に指を挟んだり、急にズボンやブレザーのポケットに手を突っ込んでみたり、資料をまとめたファイリングケースを掻き分けながら、必死になって手帳を探し回っていた。
こんなに焦っていては駄目だ。手を休めてこころを静めようとした。連絡が付かなくったって大丈夫だ。療養所で説明をすればいいだけのことだ。父親が危篤なのだ、駄目だなんて断るはずがないじゃないか。こんなに慌てふためいたりして情けない。僕はもう高校生じゃないか。
窓際を眺めながら気持ちを宥めていると、まだ若いOL風の女性がふたり、ちょうど反対側で話しを始めたところだった。前に座っているから顔は見えない。けれども心を宥めようと思って、ちょっと耳を傾けてみた。すると葬儀に包む香典の金額について話しているらしかった。
「四とか九なんて入れっこないからいいんだけど、なんだか偶数もあまりよくないって言うでしょう」
「またあんた、ネットでいい加減に調べたんじゃないの」
「そうよ、いいじゃないネットでも」
「そりゃ別にいいけどさあ」
質問をする方の声が甲高いので、ちょっと落ち着かない調子である。
「私二万円くらいが丁度かと思ってたのに、偶数じゃ駄目なのかな」
「あら、二万円なんてジャストよジャスト、みんなやってるわ」
「でも大丈夫なの」
「底値最優先よ、そんなの」
「なにそれ?」
「さあ、とにかく心配ないから大丈夫」
僕はなんだか嫌な気がしてきた。そんな不吉な話しをするなと思いながら、また鞄のなかに手を突っ込んだ。そのうち二人の会話は、お札繋がりで二千円札の方に移ってしまったらしい。
「なんで。そんなお札見たことないよ。もう廃止されたんじゃなかったっけ」
甲高い方の言葉である。
「そうね、まぼろしのお札ではあるわ。たしか二千年記念か何かを兼ねていたんじゃなかったっけ」
「まだあるんだ」
「あることはあるけど」
「そうだ、どこかでいきなり使ってみたくない?」
声の低い方はすこし呆れた調子である。
「みたくない、みたくない」
「だって、あれ出したら、お店の人驚くよきっと」
「驚かせてどうするのよ」
「いいじゃない、驚いたところですんなりなんだから」
「すんなり?」
それから、あれがもし二万円札だったら、こんな末路は辿らなかったろうと締め括った。
やがて二人が静かになると、またバスの中はまたエンジン音だけになってしまう。忘れた頃に自動音声が、「次の停車場は」を繰り返すばかりだった。僕は父の危篤ことを考えるのが嫌だから、また鞄のなかをファスナーごと確認したりしていた。
バスが急にハンドルを切った。あっと思う間もなく、駅へ向かうルートを逸れてしまったので、僕はびっくりして立ち上がった。バスに飛び乗った際に、行き先を確認していなかったのを思い出したからである。思わず、
「降ろしてください」
と叫びそうになってしまったが、ようやく押しとどめた。
きまりが悪そうに上着を改めるふりをして、何でもないという風に席に座り直した。心配することなんかないんだ。市街地を左側に逸れるルートでも、せいぜい一〇分くらい遅れるだけで、あの駅に到着することは知れきっている。現に運賃表のパネルにだって、駅の名前が表示されているじゃないか。こんなところで降りたら、それこそ無駄に時間が掛かってしまう。今日はなんだか動揺してばっかりだ。もう少ししっかりしなければ……
「そうだ、母さんに連絡を入れて、療養所に伝えて貰った方がいいだろうか」
僕は今度は母の番号を表示して、通話ボタンに手を掛けようとした。しかしすんでのところで思い留まった。もし父さんが今、最後の瞬間にあったらどうするのだ。母さんが必死に名前を呼んで、僕らの到着を待っている頃かも知れない。とにかく療養所へは直接行けば済むことなんだ。それにしても、こんなことなら叔父さんに、話してから自動車で送って貰うんだった。それに叔父さんだったら、ちゃんと姉の電話番号も登録してあるに違いない。なにしろ律儀な人だから。
何だかいろんな事がごっちゃになって、叔父さんに連絡を入れることには気づかなかった。父さんが死んだ後のことを考えたら、急に行く末が心配になってきたからである。
父さんは入院しながらも、自分の医療費をはるかに凌ぐ給料を稼いでいた。だから今までは何の心配もいらなかったのである。しかしそれが途絶えたら、母さんだけでは、姉さんの療養費を稼ぎきれないかもしれない。あるいは僕も、ぐうたらの学生生活に別れを告げて、高校を中退しなければやっていけないかもしれない。いや、駄目だ。今どき高校くらい卒業しないで、どうやって生きていくことが出来るだろう。叔父さんは卒業するまで、支援してはくれないだろうか。ついさっき彼を邪険にしたことすら忘れて、そんな事ばかり考えていた。
バスの乗客は急に少なくなった。みんな左に折れるところで降りてしまったらしい。車窓からはもう屋根よりも、道路脇に近づいた竹林やら、初夏(はつなつ)の風を欲しがる稲田の緑が、まぶしく輝いて見えるくらいであった。光る風のささやきが、マズルカでも踊っているくらいの穏やかな午後を、僕はどうしてこんなに惨めな思いで迎えなければならないのだろう。なんだかやりきれない。しかしバスがブレーキを踏んだ拍子に、僕はようやく気がついた。
「そうだ。手帳に書き留める際に落書きした携帯番号が、どこかのルーズリーフに書き込まれていたのではなかったか」
確か数式の余白だったはずだ。あまりにも授業が詰まらないので、コラム欄に載っていたエヴァリスト・ガロアの肖像画を、落書きがてらに写し取っていたページだった。暇潰しに語呂合わせでも作ってみようと思って、数列を並べてみたのである。けれどもあまりにも眠くなって、語呂を合わせるまでもなく、そのままうつ伏せになってしまったのだった。こんな事なら完成させておけばよかった。さっそくケースの中をめくって、ルーズリーフを探し始めた。ケースの中はもうぐちゃぐちゃである。けれども気にしてなんかいられなかった。
自分だけが、締め切りに追われて資料をあさる姿は、さぞかしみっともない姿に映っただろう。またバスが停車して、数人が並んで降りていく。駅に向かうバスなのに、乗り込んでくる客はほどんどいなかった。僕は脇目も振らずにケースと格闘している。しかし手帳が見つからないのと同じように、ルーズリーフも行方不明になったままだった。
そのうち僕は、ネットで検索して、療養所の番号を調べることを思いついた。母の連絡に支配されて以来、思考が働くなっているのは、自分でも情けないくらいである。ケースを鞄に戻して携帯を開ききると、検索サイトを表示しようとした。
しばらく点灯していたサーフィンマークが、途切れて不意と圏外表示が現れた。まさか、そんな。こんな町中で圏外になるなんて。慌てて顔を見上げると、車窓の風景がまるで違っているので、慌ててまた立ち上がりそうになってしまった。いったいどうなっているのだ。窓辺には家並みどころじゃない、人の世らしき気配なんてみじんもなくなってしまったのである。
狭い往復車線の両側には、深緑が迫っていた。それも街路樹くらいの深緑じゃない。取り囲むような密林である。まるで秘境の温泉場に踏み込むみたいな樹林地帯が、辛うじて車線のところにだけ日光を通わせながら、どこまでも広がっている有様だった。開ききった前列の窓からは、新鮮な若葉の薫りと鳥たちの合唱が、ひとしきり大きくなって響いてくる。こんな天涯孤独のバスだけが、ひた走るような樹海が、僕の町にあるわけ無いのに……
とうとう頭がパンクしてしまったらしい。僕は鞄を握りしめながら、運転席まで飛び出して、
「すいません。すぐに降ろして下さい」
と叫んでしまったのである。もう五十代も半ば頃の、眼鏡を掛けた、毎日の仕事にはほとほと飽き果てたという表情の運転手が、横目に僕の狼狽を眺めまわした。
「こんなところで降りて、いったいどこへ行くつもりだね」
「それは」
としばらく口ごもっていたが、
「とにかく、町に戻らなければならないんです」
乗客が驚くくらいの声が出た。そうでなくても、みんな僕の方をポカンと眺めているのである。けれども構っている余裕などなかった。きっと顔色だってますます青くなっていたに違いない。運転手は、
「戻るって、こんなところで降りてどうやって戻るつもりだ」
あたりを見晴らせば近代化されているのは車道ばかり、対向車線だってがらがらで、追い越す車なんて探したくってもありゃしない。こんなところで降ろされたって、樹海に放り出されるのと同じことだ。僕はまったくどうかしている。
「こんなところで遭難されちゃ、えらい迷惑だ。そうでなくたって、近頃は何でもニュースにしたがるご時世だからな。まあ、とにかくそこに座りなさい。次の停留所で降ろしてやるから」
まるで面倒人を抱え込んでしまったみたいな呆れ顔で、運転手は僕の動揺を宥めてくれた。
「すみません」
急に小さくなったみたいに、最前列のひとり掛けに腰を下ろすと、
「急ぎの用なら、次の停車場(ていしゃば)からすぐのところにタウンの入口がある。タウンに入りさえすれば、タクシーだって掴まえられる。駅までだってそれほどの距離じゃない。これからバスで引き返すなんて馬鹿げている。分からないことは入口の右側にある観光案内所に尋ねればいい」
と丁寧に教えてくれた。僕はただ
「ありがとうございます」
と頷いて、早くバス停に到着しないか、それにしても、母さんが電話をくれてからどれくらい過ぎたろう、などと思って腕時計を眺めたり、圏外から復帰してはくれないかと携帯を開いたりしてみたが、アンテナの棒は戻ってはこなかったのである。
そのうち二人組のOLが、昭和じみた懐かしの歌を口ずさみだした。まるで昔のアイドルが、今はもう落ちぶれて、社会人として二人組のハーモニーを奏でたような、よく溶け合った歌声だった。僕はあくせくするのを止めて、大きく息を吸ってこころを宥めようとする。何かから逃れるみたいに耳を傾けると、聞き覚えのあるような無いようなフレーズが、ささやくみたいな優しさでもって、バス一杯に広まり始めた。
みなもに溶かした夢の頃
小石でくずしてみせたけど
あなたの寄り添う肩ばかり
暖かくってなみだ色
まぶたの奥の夢だけを
追いかけながらの季節さえ
別れをくだる櫂の音に
消されてゆきます今はもう
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
バスの乗客も運転手も、まるでそれが邪魔にならない様子で、聞くでもなく窓の外を眺めたり、指先のハンドルで拍子を取ったりしている。僕は幼い頃にボートに乗ったときのことを思い出して、家族四人の姿を浮かべて、ちょっとまぶたが熱くなるのを感じた。ほほ笑み合ったときの日射しが眩しかったような、そんな思い出だけはいつまでも朽ち果てないものだ。すべてが取り返せないという諦めばかりが、胸に広がってきて淋しかった。
あんなに君が手を振った
橋から見おろす友たちの
家路の笑顔も色あせて
宵に溶けゆくばかりです
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
二人はまだ歌っている。しかしやがて、木陰と日光とのチラチラする交替が途切れたかと思ったら、いきなり樹林地帯をくぐり抜けたので、二人は驚いたみたいに歌を止めて、車窓を眺めたらしかった。僕もびっくりして窓に乗りだした。だって、バスが左に大きくカーブすると同時に、両側に迫っていたはずの密林が、跡形もなく消え失せたからである。幅の広い川が、のたくるみたいに境界線上を流れていく。立派な鉄橋を渡りきると、もう緑なんかどこにもなくなっていたのである。
それは、レンガ造りの天日干しでもって家並みを築くほどの、地下水を求めて羊飼いがさ迷い歩くほどの、砂土(さど)と粘土質ばかりが続く赤茶けた砂漠地帯であった。まるでイスラーム圏のどこかの地方都市に、てくてく歩きの紹介がてらに迷い込んだみたいだった。
自分は父の危篤を聞かされたせいで、情緒不安定になっているのだろうか。それでこんな幻覚ばかり見せられるのだろうか。もう立ち上がる勇気すらも失って、唾を飲み込んだなり瞼(まぶた)をパチつかせていた。運転手に尋ねてみる気すら起こらない。だって彼は、これが日常茶飯事だといわんばかりに、鼻歌なんか口ずさみながら、長閑にハンドルを切っているのである。しかもそれは、さきの二人組のメロディーではなかったか。
僕は思わずバスの運賃表を見上げた。停車所の名前が、アラビア文字だかロシア文字だか、読めない文様に置き換わっている。終着駅すら謎の文字に化けていた。僕は思わずバスのなかを見渡した。乗客がみんなイスラーム系に入れ替わっていたらどうしようと思ったからである。しかし内側は日本のままだった。冴えなさ百パーセントのジャパニーズスタイルの中年や、さっきのOLの二人組やらが、うとうと居眠りをしたり、車窓を眺めたりしている。
偶然一人のおばさんと目があったとき、彼女はいきなり僕に頭を下げてきた。知り合いの様子でほほ笑んでいるので、僕も慌ててお辞儀を返したのである。あるいは母さんの知り合いだろうか。今までの醜態を、後から報告されたらどうしよう。そう思うと耳がほてってきた。
もっとも、熱くなったのは羞恥のためばかりではないようだ。冷房を強めたのが追っつかないくらい、気温が上昇しているらしかった。本当に砂漠に出てしまったのだろうか。ここは日本のはずなのに。やがて遠方に、両翼を広げてそそり立つような断崖絶壁が現れた。黄土色の高さで一直線に並んだ姿は、とても大自然が生みだした景観とは思えない。莫大な人手と歳月によって生み出された、都市を守る城壁のような規律を保って、どこまでも横に広がっていくのである。近づくにつれて、やせ細った草木(そうもく)や、サボテンじみた力強いトゲトゲの植物が、あちらこちらと顔を覗かせ始める。風が吹くたびに、茶色い砂埃が大気を変色させるらしく、不意に視界が遮られたり、ぱっと晴れ渡ったりするのだった。
「ほら、タウンがもうすぐだ」
運転手が独り言みたいにアクセルを踏むと、巨大な城壁が見る見る迫ってくる。近づくと驚くほどの高さがあった。覆い被さってくるような錯覚のうちに左折すると、バスは程なくブレーキを掛けて停車したのである。
「すぐ向こうに門があるから、そこをくぐって行くんだ。よっぽどの急用があるみたいだな。金はいいからとっとと行きな」
運転手が気さくに送り出してくれる。慌てて鞄を握ると、
「ありがとうございます」
と一礼をしてバスを駆け下りた。たちまちシューッと音がして、バスは脇を走り抜けていく。排ガスだけが僕を馬鹿にして居残っている。最後列の子どもが二人、おもしろがって手を振っていたが、とても挨拶を返す気にはなれなかった。
道だか砂場だか分からないほどの通りを、サボテンの並ぶのに任せてとぼとぼ歩き出した。もちろん人影なんか見つからない。生き物なんて存在しないのである。外気はもちろん、初夏(しょか)のさわやかくらいじゃすまなかった。湿気がない分いくらかマシだが、沖縄の真夏の昼下がりよりもっと暑い。右手にそそり立つ城壁は、百階建ての高層建築よりまだ高さがあるように思われた。しかし太陽の方角が違うから、影なんか作ってくれやしない。
門はすぐそこだった。ほんの百メートルくらい先に、まるでアケメネス朝ペルシアの首都模型から生まれたような立派な城門が、そこだけ朱(あけ)やブルーの色彩をたくましくして、来る者は拒まずといった態度で佇んでいるのであった。僕は少しだけ陽気になって歩き出した。冒険心(ごころ)にほだされて、自分の目的が損なわれていくような気分だった。あるいは父さんが危篤だなんて、悪い夢にうなされただけじゃないだろうか……。
ようやく巨大な門をくぐり抜けたとき、僕はタウンとの境界が、まるでエアカーテンみたいな風力で遮られているのを発見した。いきなり風が叩き降ろされたからである。外気を遮断する策略なのであろうか。そうして踏み込むやいなや、壁の内側には驚くほどの大都会、それも香港や、摩天楼じみたニューヨークの大都会じゃない、まぎれもなく日本のありきたりの都会の喧騒が、目の前に広がっていたのであった。振り返ると扉のかなたには、相変わらず砂漠地帯が映し出されている。それでいてこちら側は気温だって低いのだ。バスに乗り込んだときの初夏(はつなつ)に逆戻りである。こんな奇妙なことってあるだろうか。まるでペルシアの門を境に、時空が入れ替わっているとしか思えない。
運転手に言われたとおりに歩いていくと、すぐ右側に「観光センター」と書かれたビルが立っていた。扉をくぐり抜けると、沢山の観光客でごった返している。奥には窓口が並んでいて、人々は各種手続きをしたり、相談所に控えている様子であった。
「Welcome to」
なんたらかんたらと、聞き取りにくい英語が国際観光を掲げて、長々しい放送をたれ流している。入口付近には案内所もあったが、あまり人ごみが激しいので、並ぶ勇気も起こらない。どこかに観光ボードみたいなものは無いかと探して回ると、どうやら、水飲みやトイレに向かう自動販売機のコーナーのあたりに、大きなボードが備え付けられているようだ。さっそく駆け寄ると、デジタル表示の案内の周辺拡大図から、タクシー乗場らしいところを探し出して、大して確認もせずに観光ビルを駆け出した。とにかく今は一刻を争うのだ。
しかし僕は、この大都会を少し舐めていたらしい。地図ですぐ隣にあったものだから、ほんの二、三分くらいだと勘違いしてしまったのであるが、そこまでは歩いて一〇分以上の距離があったからである。おまけに人波に揺れるメインストリートは、駆け抜けることすら許してくれないくらい、ぎゅうぎゅうとした賑わいを見せている。
「しかたがないや、今さら慌てたって始まらない」
僕は気持ちを宥めながら、町並みを眺めつつ歩き始めた。
それにしてもここはどこだろう。こんな高層建築の群は、僕の町にはありっこないのに。両側から何十階にも連なったビルは、階下にレストランやらカフェやら、ブティックやら銀行やらを従えて、道延べに人ごみのかなたまで続いているのだった。不意に「いらっしゃいませ」という挨拶や、ビラ配りの男が近寄ってきたり、車道からクラクションが鳴り響いたりしている。まだ仕事の時間帯だから、淀んだスーツ姿の後ろ姿はあまりなかった。背広を着ていても、どことなく長閑な足並みである。そうして忘れかけたところにあの歌が、不意にファーストフード店の軒先から流れてきた。
みなもに溶かした夢の頃
小石でくずしてみせたけど
あなたの寄り添う肩ばかり
暖かくってなみだ色
また父さんの危篤を思い出して、急ぎ足になってタクシー乗場を探し求めた。しかし急ごうと思っても前には進まない。気持ちが焦るばっかりだった。
ようやく右手にタクシーと書かれた看板を見つけた時、僕は嬉しくなって入口に滑り込んだ。
「いらっしゃいませ」
コンパニオンが無機質な挨拶を投げかける。すぐにタクシーに乗り込もうと思ったのだが、入った瞬間に違和感を感じた。どうやら少し勝手が違うようだ。僕の知っているタクシーなんか一台も置いていなかったのである。
「パパ、あのかたつむりみたいなのがいいよう」
小さい男の子の声が響いてくる。振り向くと、受付から駐車場に向かって吹き抜けのフロアーに、沢山の自動車が並べられていた。
「駄目だよそんなの。ほらあっちにもっと格好いいのがあるぞ」
パパが指さす向こうには、豆腐を漆塗りで仕上げたみたいな、黒光りした自動車が佇んでいる。隣にはやせ細った二人乗りのバイクくらいの、それでもちゃんとボディで覆われた自動車が、三色カラーで並んでいる。あちら側には三輪車タイプ。どれもガソリンを使わない、新型自動車のたぐいらしかった。
「じゃあ僕これにすらい」
子どもが三色カラーの方に走り寄ったので、ママも釣られて、
「あら、これならいいかも知れないわ」
なんて喜んでいる。
「お客様、それは当店の一番人気のタクシーでございまして」
そばの店員が営業スマイルを振りまいている。その向こうには定年退職後をエンジョイするような夫婦が、漆塗りの豆腐を眺めだした。
僕は茫然として立ち尽くす。これはいったい何のお祭り騒ぎなのだろう。色彩と形態の不思議なコラボレーションアートを、タクシーの名義で集合させたとでもいうのだろうか。
「ほら早く乗るんだ」
さっきのパパらしき声がする。はっと眺めるとあの家族連れが、三色カラーの黄色と緑とに分乗して、坊やはまだ小さいものだから、お母さんの隣に腰を下ろしているところだった。やがて静かに扉が閉まると、二台は音もなく走り出す。ガスも出なければエンジン音もしないから、すっと前を通り過ぎた時のなめらかさは、カルチャーショックを起こすくらいの軽快さである。またその運転手が、不思議な制服を着こなしているのだ。コスプレなんて言ってしまうと露骨になるが、未来警察もののアニメのデザインから取られたようなキラキラした制服は、決して安い素材で作られた模造品ではなく、ほんまもんの高級紳士服を思わせる立派なものだった。見ると、待ち合わせの運転手らしき人物は、誰もがその制服を着て控えているのであった。
僕には何が何だか分からない。とうとう窓口に控えていた青年を掴まえて、
「ここは普通のタクシー会社ではないんですか」
と尋ねてしまった。その案内役らしい従業員は、また来たかという表情を見せながら、
「よく勘違いされるのですが、ここは近未来の燃料電池自動車で都内観光をするための特別タクシーなのです。ちゃんと免許を得て公道を走ることが許されているのです。まったくのところ、このような風変わりな自動車で町並みを楽しむことが出来るのは、国中探してもここくらいなものですよ。まだお客様に貸し出すことまでは、認可が下りていないのですがね」
質問と返答を繰り返す煩わしさを省くためか、尋ねもしないのに詳細を語りきってしまった。学生服の僕を軽蔑しないのは有り難かったが、燃料電池と言われても、いまいちピンとこない。
「燃料電池とは電気自動車とは違うのですか」
と質問したが、電池と自動車を比較してどうするのかと内心焦ってしまった。まあいいや、意味は通じるんだろう。
「燃料電池は電気を溜めておいて走るものではありません。水素を燃料として大気中の酸素を使用することによって、水を作り出しながら電力を取り出すという電池です。そうなるともう、今の電気自動車より圧倒的な効率を誇りますから、二酸化炭素排出抑制の決め手となるためには、どうしても一歩踏み出して燃料電池にまで至らなければならないのです」
青年は熱を入れて説明している。どこまで営業のためなのか、それとも本心なのか分からない。とにかく水素と酸素が反応することだけは分かった。まだ一つ気になることは、
「ところで、あの運転手の制服はなにか意味があるんですか」
と勇気を出して聞いてみると、
「ああ、あれですか」
青年はちょっと向こうを覗いた。
「ちょっとコスプレみたいで私は反対したんですが、けれどもお客様には人気があるようです。近未来の宇宙タクシーの運転手というイラストで、有名なファッションデザイナーが手がけたものですが、あんなものアニメの中に一杯ありますよ。とんだ金の無駄遣いです」
と急に素になって答えている。よっぽど気にくわないに違いない。僕は話しも尽きたので、
「なるほど、どうもありがとう」
と言ってその場を離れたのであるが、青年はすぐ近くの顧客を掴まえて、またいろいろと説明を始めるらしかった。あれは単なる話し好きに違いない。僕はなす術(すべ)もなく案内所を離れたのである。
ちょうど歩道へ逃れるとき、さっきとは別の親子連れが、黄色い石鹸入れみたいなタクシーに乗って、車線へ折れ曲がるところへ遭遇した。僕はまた父の危篤を思い出す。むかし遊んだおもちゃの自動車が浮かんできたからだ。けれども大切な人がどこにもいなくなって、面影に帰ってしまうってどんなことだろう。なんだか非常に恐ろしいことのような気がし始めて、僕は慌てて頭をふった。まだ決まった訳じゃない。危篤といったって、必ずしも回復しないとは限らないんだ。なにしろ日本の医療技術は大した水準なのだから。そんな風に感情を宥めながら、人の流れに身を委ねるように、とぼとぼとビルの合間を歩き始めたのである。
日盛りを跳ね返すビル群が、車道にまで折れ込むような谷間を、僕はどこまでも歩いているような気がする。交通量が多いから、ドライバーはみんな眠たげな表情である。次から次へと、絶え間なく行き過ぎる。あるいは信号に遮られている。なるほど、こんなに大気が穢されたら、気温だって上昇するのはもっともだ。燃料電池とやらにでも移り変わったら、都会の空気もさわやかになるのだろうか。そもそも緑があまりにも少なすぎるんだ。都市景観への鈍感さを突き詰めて生まれた高層建築が、無頓着に現代的と誤解されている都市構造は、どこの国にしたってあまりにも近視眼的なのではないか。僕はわざわざ関係ないことを考えながら、靴音に誤魔化して歩いているのだった。
あてもなく横断歩道を渡りきった所で、思い出したようにまた携帯を取りだしてみる。やっぱり圏外のままだ。なんで圏外マークが外れないのだろう。あるいはもう壊れてしまったのだろうか。僕はあたりを見渡した。
そもそも、なんでこんなパラレルワールドに紛れ込んでしまったのだろう。急に心細くなって立ち止まると、ちょうどベルトコンベアーから転げ落ちて、爪弾きにされたような寂寞が押し寄せてくる。僕は何かいけないことでもしただろうか。ただ必死になって、駅に向かおうとしただけなのに。あるいはあの時、叔父さんにひと言もなく、走り出したのがいけなかったのだろうか。叔父さんの自動車に乗せて貰ってさえいれば、こんなことにはならなかったのだろうか。だとしても、それがそんなに大きな間違いなのだろうか。まるで僕にすべての咎があるみたいに、こんなに苛めなくたっていいではないか。ああ、なぜあの時ひと声掛けなかっただろう。自分は心が歪んでいるのだろうか、黙って走り出すなんて、本当にどうかしている……
そうだ、どこかで公衆電話でも探して連絡を付けるんだ。今ごろ、病院では大変なことになっているかも知れない。自分まで行方不明になっていることが発覚したら、危篤の父さんにだって申し訳が立たないではないか。しかし、それにしてもここはどこなんだ。早く父さんのところへ向かわなければ……そうだ、姉さんのところへはまだ連絡が届いていないだろうか。母さんのことだから、きっと連絡を付けてくれたような気がする。僕がこんな体たらくでは、せめて姉さんにだけでも、父さんを見取って貰わなければ……
スクランブル交差点を折れ曲がると、ようやく公衆電話が置かれているボックスを発見した。ところがそこには若い娘が、楽しそうなほほ笑みで会話を続けているらしく、どんなに待っても受話器を置こうとしないのである。よっぽど扉を叩いてやろうかと思ったが、ようやく思い留まった。近くの量販店かデパートに入れば済むことではないか。少し落ち着いた方がいい。電話なんてどこにだってあるんだ。
僕はまた歩き出した。いつの間に覚えたのだろう、あの歌を一人で口ずさんで気を紛らわせながら。
みなもに溶かした夢の頃
小石でくずしてみせたけど
あなたの寄り添う肩ばかり
暖かくってなみだ色
まぶたの奥の夢だけを
追いかけながらの季節さえ
別れをくだる櫂の音に
消されてゆきます今はもう
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
ところがすぐ向こうに湖が現れた。水の気配に驚いて顔を上げると、水面(みなも)がはるかまで輝いているのだった。まるで高層建築の景観をそこだけくり抜いたように、道の片方が波止場じみた手すりになっていて、海まで続くようなかなたまで、巨大な湖が広がっていたのである。こんなところに大自然が残されているなんて驚きだ。僕は釣られるみたいに横断歩道を向こう側へ渡りきった。そうしてまたしても、電話のことを忘れてしまったのである。親の死に際を忘れてしまうなんておかしな話しだが、なんだか不安や動揺と無頓着な忘却が、交互に繰り返されているような感じで、こころのコントロールが効かなかった。
それにしても、ここは騒音に脅かされつつある市民生活に、潤滑油を与えるための憩いの場でもあるのだろうか。近づいてみると、いくつものボートが、漂う木の葉みたいに揺られて、水鳥たちがその周りを戯れたり、空のかなたに鳴き声だけを響かせたりしている。潮騒(しおさい)みたいな気配をすら、風が伝えてくれるらしかった。遠い彼岸(ひがん)のあたりには、こんもりと森林が広がっている。あちら側は樹林地帯と公園を兼ね揃えたセントラルパークの面持ちで、豊かな都市生活を飾っているらしい。
それにしてもおかしいな。こんな光景はずっと昔、どこかで見たような気がする……僕は手すりにもたれ掛かったまま、茫然として湖を眺めていた。見おろすと何の魚だか分からない、フナくらいの冴えない色をした二、三匹が、すいすい泳いでいるのが目についた。それがずっと深く潜っても姿を隠さないくらい、驚くほど水が綺麗なのである。まるで北海道のマリモの湖にでも迷い込んだような錯覚、と言ったらちょっと大げさだけれど、都会の湖の透明度ではなかった。あるいは、よほど優秀な循環システムが完備されているのだろうか。しかしここは池じゃないんだ。こんな巨大な湖を、大都会が透明に保っておくなんて、そんなことが出来るのだろうか……僕の考えは脱線してばかりだった。
向こう側のベンチのあたりで、子供たちがはしゃぎだした。二、三人で池に向かって石を投げ込んでいる。どこから持ち込んだのかと思ったら、少し先の花壇のところに、石が混じっているのを拾ってくるらしかった。誰が一番遠くまで飛ばせるかを競い合っているのだ。みんな腕力が発展途上だから、おかしいくらいに手元に落ちるのであるが、子どもらにしてみればそれで十分らしく、そのうち今度はベンチに乗って投げ始めた。僕はそれを見ているうちに、ようやくこの場所のことを思い出したのである。
慌ててうしろを振り向くと、巨大なデパートがどっしりと、湖を見はらすように控えている。やっぱりそうだ。ここは僕がまだ幼かった頃、父さんと母さんと、それから姉さんと一緒におもちゃを買いに来たときの、クリスマス商戦のあのデパートだったのである。
確かまだ小学校に入ったか、入らなかった頃のことだ。あの頃はまだ、僕らの家庭を台無しにするあの憎たらしい病は、父さんの元にも姉さんの元にも訪れなかった。僕らはクリスマスプレゼントを買って貰うために、わざわざ電車を乗り継いで、この都会のデパートまで遊びに来ていたのだった。サンタクロースがトナカイで降りてくるなんて出鱈目は教わったこともないから、僕らにとってクリスマスは、親からプレゼントを買って貰える行事と決まっていた。だからといって、子どもの喜びが半減したとは思えない。だってサンタクロースがくれるプレゼントより、両親から貰えるプレゼントの方が、よっぽど嬉しいに決まっているではないか。
そうだ、あの日僕は姉さんと、やっぱりこの欄干から湖を見はらして、大はしゃぎしてはいなかったろうか。もちろんこんな若葉の季節じゃない。なにしろ十二月だ。遊び盛りの少年だって、油断をすればくしゃみをするくらい、冬の寒さが募っていた。雪が降りそうなくらい、雲が厚く覆っていた。姉さんはあの赤い手袋をしていたに違いない。なにしろ大のお気に入りだったから……
懐かしい気持ちが溢れるのに任せて、しばらくは手すりにもたれ掛かっていた。けれども、何だか不思議な胸騒ぎがしてくる。僕はどうしても自分の感情をとどめることが出来なくなってきた。まるで走り出すみたいに横断歩道を向こう側に渡り直して、あのデパートに入ってみることにしたのである。それにデパートの中になら電話だってあるのだし、第一、連絡が付いたからって、どうやってここから病院まで辿り着けばいいのか、まるで見当も付かないのだ。もうどうしようもないや。そんな諦めが沸いてきて、僕を勝手な行動に向かわせたらしい。
子どものコーナーは七階にあった。エスカレーターでフロアーを確かめながら昇っていくと、学生服の自分が浮いてしまうくらい、私服姿と子供たちの姿が溢れかえっている。今日は平日だというのに、なんでこんなに家族連れが多いのだろう。泣き笑えしている子供の騒音で、小さなBGMなんかまるで聞こえなくなってしまう。僕はこんな大騒ぎの中で、かえって淋しい感傷に捕らわれながら売り場をふらつき出した。
そこにはおしゃべりな猫の縫いぐるみだの、「家族対戦」と書かれたテレビゲーム機だの、プラスチックじみた初号機だのいろいろなものが所狭しと並べられていた。透明な多面サイコロや、ツリー用の彩色電飾やらクラッカーが、お父さん用のワイングラスと一緒になってディスプレイされていた。実演コーナーでは泣きだす子どもの姿や、だだをこねて両親の袖を引っ張る女の子の、いつも変わらぬ姿もあった。それらが総勢に雌鳥小屋じみたどんちゃん騒ぎで、小売店の利益をワンシーズン飾り立てるみたいにして、大いなる活気を呈していたのである。それにしてもおかしいな。なんでツリーがあるのだろう。今がクリスマスシーズンであるはずはないのだけれど……
やがて沢山の人ごみに紛れて、ある四人家族の後ろ姿が目についた。はっと思って足を早めた。だってあの背中は……僕は高まる心拍数を宥めるみたいにして、子供たちを掻き分けていった。そうして何かを探すふりをしながら、そっとうしろに立ち止まったのである。やっぱり間違いない。後ろ姿だってすぐに分かる。僕はそっと耳を澄ませると、ちょうど男の子が、両親にだだをこねているところだった。
「だってどっちか一方だなんて選べないよう」
「みんな一つづつ買って貰っているんだろう。なんでお前にはそれが出来ないんだ」
その声にはっとなって、心臓が止まりそうだった。よく聞き覚えのある声だったからである。
「だって、二つなくっちゃ、戦えないんだよう」
男の子は、どうやらヒーロー物かなんかを選んでいるらしい。しかし何を買ったのか、僕はまるで思い出せなかった。そのうち女の子が、私の分で買ってあげてと言い出したので、母親がかえって怒り出してしまったらしい。
「お姉さんの幸せを奪い取ってまで、おもちゃが二つ欲しいの」
と叱りつけたので、とうとう男の子は泣きながら、
「ひとつでいいよう」
と諦めた様子だった。それから父親の、
「えらいえらい」
と宥めるような声が聞こえてくる。
彼らがレジに向かうのに合わせて、僕はわざとすれ違ってみた。やっぱりそうだ。それは紛れもなく、自分の家族に他ならなかったのである。みんなまだ若々としている。そしてあの小っちゃな男の子。それが、ここにいる僕だというのか。なんだか状況が飲み込みきれなかった。どきどきする鼓動の音ばかりが響き渡るのだった。
レジから戻って来た時、僕は思わず彼らの正面に立ちはだかった。呼び止めようと思ったからである。けれども声にならなかった。本当は
「父さん病気は大丈夫なのか」
と言いたかったのだが、声を掛けてはならないような気がどこかでしたのである。彼らは直立不動の僕を、場違いに惚けている学生とでも思ったのだろう、両側に分かれながらにすり抜けて、エスカレーターを降りていってしまった。
茫然としていた僕は、慌てて振り返った。エスカレーターを追い掛けて、彼らを見つけようとしたけれども、もう手遅れだった。こんな人ごみの中で、いったんはぐれた家族を見つけられるものではない。彼らは恐らく食事でも取るか、別の買い物にでも出かけたのに違いないのだが、遠い日の記憶だから、僕だってどこへ向かったかなんて覚えていなかった。先回りをして掴まえるなど、とても出来ない相談だったのである。
諦めて途中のフロアーに逃れると、着物のディスプレイされた和服のコーナーが、呉服問屋じみた店構えで、一角を占めているところに出くわした。ショーウィンドウのうしろには掛け軸で、
古き夜のみなだほどけば朝霧の
み影たれぞと消されしの露
という和歌が、ひと筆書きに水墨画と戯れている。しばらく文字を追っているうちに急に思い出した。
そうだ、あれが父さんのはずがないんだ。だって、父さんは危篤だったのではないか。錯綜した記憶が、過去と現在と、さっき出会った家族連れと、病院にいるはずの両親と、ごっちゃになって頭を駆け巡った。とにかく病院に行かなければならないんだ。もはや連絡どころではない、一刻も争うんだ。今ならまだ間に合うかも知れないではないか。
腕時計をひと目見たなり、僕はデパートを飛び出した。そして客を待つタクシーの一台を掴まえると、いきなり病院の名前を告げたのである。あまり慌てていたのであろう、運転手はちょっと驚いた様子であった。今はもう姉さんを連れて行くことすら考えられなかった。一刻を争うような気がする。姉さんへは、きっと母さんが連絡を入れているはずだ。それだけじゃない、叔父さんにだって連絡しているに違いないのだ。今ごろみんな病院に集まって、僕の到着を待ちわびているかもしれないではないか。
いつの間にか走り出したタクシーの中で、僕は父さんの無事を祈り始めた。けれどもタクシーのメーターがときおり回転するのを眺めていると、今度は突然財布の中身が気になりだした。人のこころなんて、まるで前後の辻褄の合わないものであるらしい。
中を確認するのはみっともない。とにかく一万円以上は入っているはずだ。だって二万円を下ろして買い物に出かけて、使ったのが六千円だったか七千円だったか、その後紙幣は崩していないから、一万三千円くらいは残っているはずである。もし足りなくなったらどうしよう。危なくなる前に降りた方がいいのだろうか。いや、それじゃあ間に合わない。病院まで行ってしまって、母さんに出して貰うしかない。それに、病院の名前を伝えたらすぐに走り出したところをみると、それほどの距離は無いのではないか。僕が知らないだけで、二つの町は隣り合わせなのかもしれない。それならやはり、姉さんを迎えに行った方がよいのだろうか……そうだ、携帯。
慌ててポケットから取り出すと、しかしやはり圏外マークは外れていなかった。あるいは家を出てから、ずっと壊れているのかもしれない。それとも叔父さんに声を掛けなかったから、基板がショートしてしまったのだろうか。僕はもう諦めて、使い物にならない携帯を、鞄の奥に押し込んだ。午後の町並みを眺めながら、取り留めもない思いに身を委ねて、病院の様子を思い描いたりしていた。距離のことを運転手にすら尋ねなかったのは、母さんから連絡を貰って以来、次々といろいろなことが起こって、思考が麻痺していたせいとしか思えない。僕はだんだん疲れてきたらしかった。
運転手の回したラジオのクラシック番組から、ベートーヴェンの交響曲第七番の二楽章が聞こえてきた。誰かがリクエストした、締めくくりの一曲らしい。イ短調で開始されるオスティナート型の導入が、朝霧に消えゆく人の悲しみを、暗示するかのように奏でだす。僕は父さんのことを思い浮かべた。彼はこの曲が好きだったのである。冗談街道を突き進むみたいなクラシックドラマによって、すっかり第一楽章が有名になってしまったけれども、この曲の粋(すい)は第二楽章にあるのではないだろうか。幼い頃より幾度となく聞いた旋律に揺られながら、中間主題が長調に移り変わる時のはっとする印象を、なんだか泣きたい思いで聞いていた僕は、車窓を眺めるうちにまたびっくりさせられた。
だって、大通りを左折した途端に、よく知っているいつもの並木道が、見慣れたコンビニの一角もろともに姿を現したからである。こんなことってあるだろうか。思わず窓ガラスに乗りだしてあっけに取られてしまった。ありきたり日常の町並みに、どうやって戻って来れたのだろう。どうしても分からない。夢にでもうなされているのだろうか。謎の門をくぐり抜けた時のように、いつの間にか、現世への扉をすり抜けたのだろうか。考えがまとまらずに、しばらくはあの店この店を、確かめながらにキョロキョロしていた。しかし、ようやく心を落ち着けてみると、今度は病院の方角ではない気がし始めた。運転手はちゃんと分かっているのだろうか。それにしても……
それにしても眠いや。二楽章ももう後半に近づいた。見慣れた町並みに安心したのだろう、なんだか頭が重くなってきた。ずいぶん疲れたような気がする。とんだ長旅だった。僕はいつの間にかうとうとして、意識が遠ざかっていくのを感じた。それは第三楽章の始まるより、前のことであったらしい……
うつろのうたた寝は、どれほど続いたのか分からない。ガチャリと左扉に音がしたので、僕はようやく瞳を開いた。すっと外気が流れ込んでくる拍子に、遠くで寺の鐘がひとつ響いてきた。眠たげに顔を見上げると、けれども病院じゃない。おやと思って外を眺めると、そこは自分もよく知っている、町中のとあるお寺の入口だったのである。
「病院じゃないんですか」
僕はびっくりして運転手を覗き込んだ。眼鏡を掛けた彼は、何を寝ぼけているんだという調子で、額のあたりを眺めていたが、
「なに言ってるんですお客さん。自分で墓参りをするからここに来るようにって説明したじゃありませんか」
彼は学生服の自分を少し軽蔑しているらしかった。けれどもその顔は、どこかで見たことがあるような気がするのだけれども……
「ああ、そうでしたか」
体裁を取り繕うみたいに一万円を渡すと、代金はちょうど実の家からここまでの料金と同じくらいだった。運転手が半額以上をお釣りに渡すので、「どうもありがとう」と行って外へ踏み出すと、バタンと閉まった扉から、タクシーは向こうの角へと走り去ってしまったのである。もう御用はありません、そんな様子であった。西日が二等辺三角形の定規くらいの角度で、入口の方角に差し込んでくる。ちょうどおやつ頃とか、暮待時(くれまちどき)とか呼ばれる時間帯なのだろう。僕は時計も確かめずに、寺の門をそっとくぐり抜けた。
ここは父方の墓所のある臨済宗派の寺院である。市中(いちなか)の寺としては驚くべき敷地を持つから、鐘撞堂(かねつきどう)に向かうのだって百メートルや二百メートルでは済まなかった。それであんな遠くから、鐘の音が響いてきたのだろう。なにしろこの西門は、鐘撞とは反対の方角にあるのだから。
僕は、滅多に来ない記憶を呼び起こしながら、わが家の墓所へと向かった。病院へ行くんだという気持ちはもうどこにもなくなっていた。状況に合わせてたましいに諦めを刻み込むみたいに、僕はもうすべてを悟りきってしまっていたのである。まるで僧侶の開眼みたいな面持ちで、おそらくはもうこの世にいない、墓の下に眠っているであろう父親の、墓参りへと向かうことにした。
御堂(みどう)を抜けて、桶に掬ってから重たくなった清水を揺らしながら、僕は砂利が消えて、石畳になっている墓道(ぼどう)を歩き始めた。もう古くなって砕けた一枚岩が、ところどころで抜け落ちたり窪みになったりしている。なるたけ土を踏まないようにして、奥に向かって横道が三本目。たしかここを右に折れて、ちょうどあの桜の木のあたりがうちの墓だ。とっとっと歩いて来ると、不思議なことに今まで忘れていた記憶が、ありありとこころの内に広がってくるのだった。
それは、父の亡くなった日の記憶であった。あの日、病室にはみんなの姿があった。姉さんも、それに僕だって死に際に間に合ったのだし、叔父さんと叔母さんの姿さえ、そこにはあったのである。姉さんも母さんも泣いていた。泣きながら父さんの言葉を聞いていた。最後には、僕も涙が止まらなくなってしまい、父さんから、情けない顔をするなと優しく諭された。お前は長男なのだから、しっかりしなければならない。母さんや姉さんを支えて行かなければならない。そんな言葉を聞いて、僕は何度も頷いて見せたのである。それから父さんは、母さんにありがとうと呟いて、静かに瞳を閉じたのであった。
火葬が済んだ時、必死に堪えていた母さんが、ぐちゃぐちゃの雑巾みたいになって泣き出した。まるで駄々っ子が暴れるみたいに、ありったけの声を張り上げて、僕らが周囲を気にするのもお構いなしに、床にうずくまってしまったのである。姉さんは真っ青だった。きっと自分ももうすぐ燃やされて、こんな味気ない白い骨にさせられて、みんなに竹の箸で骨を拾われて、納骨されることを思い知らされて、その場に倒れそうだったに違いない。けれども僕には、どうしてやることも出来ないんだ。僕はだらしない弟に過ぎなくって、姉さんの支えにはなれそうもなかった。鐘を鳴らした坊さんが、のど仏の骨がはっきり御仏に見えるから、極楽浄土で暮らせるとかなんとか言ったとき、僕はなんだか殴り付けてやりたいような衝動を覚えたのだった。
僕は墓の前に突っ立っていた。父さんの埋葬と共に黒光りする御影石に替えたから、古びた石並にあっても、わが家のだけは誇らしげに直立している。太陽がまた少し傾いてきた。早鳴きの蝉が、向こうの桜の木に鳴いている。ニィーと鳴いているから、あれはニイニイゼミに違いない。何だかうるさいほどにひとりぼっちだ。僕はひしゃくで墓を清めてから、入口で買ったマッチと線香で煙をまとわりつかせて、両手を合わせて静かに祈りを捧げた。花は買ってこなかったけれども、まだ入りたてだから飾りには事欠かない。それから横へ回ってちょっと墓石を撫でてみる。なんだか返事でも聞こえてくるような気がしたからだ。けれども、遠くから鐘が鳴り響いてくるばかりで、父さんの声は聞こえてこなかった。空でははぐれ雲が淋しそうに、ぷかぷか放浪するばかりである。
「なんだ、お前も墓参りか」
突然うしろから太い男の声がした。振り向くと、見たこともないずんぐりした中年が、母さんと一緒に立っているのだった。ちっとも冴えないどこかの政治家みたいな、典型的な日本風のおやじ顔だった。
「お父さんもきっと喜んでるわ」
母さんが屈託もなく、ずんぐりに向かって笑っている。僕はまるで状況が飲み込めなかった。思わず、
「母さん、そいつは誰だ」
と呟いた。その響きがあまりにも虚(うつ)ろだったのだろう。二人は見合わせたように笑い出したのである。
「なんです、いい年をして嫌らしいこと言わないの」
「そろそろ新しい父さんも認めてくれないかな」
と言い出すので、僕はびっくりしてしまった。そんなのは初耳である。だってまだ、喪服の期間すら過ぎていないではないか。なんだか穢らわしい。よりによってこんなみすぼらしいオヤジと……
しかしあまり急なことだったので、腹立たしさも反抗心も起こりようがなかった。だって僕が、今まで知らないなんておかしいではないか。そう思うと、自分が寝ぼけて大切なことを忘れているような気持ちが勝って、とても他人に向かって感情を転化するゆとりなど生まれなかったのである。辛うじて、
「いや、冗談だよ冗談。そんなの冗談に決まってるだろ」
と誤魔化すと、彼らは笑ったままで墓の掃除をし始めた。母さんの手には花が握られている。それでいて、父さんの事なんかまるで考えていない。隣のずんぐりと一緒に、幸せそうな表情をしている。僕は胸が張り裂けそうだった。
「悪い、これから友だちと待ち合わせなんだ」
ほとんど逃げ出すみたいにして、その場を離れたのであった。うしろの方から、
「夕飯までには帰ってくるのよ」
という明るい母の声が響いてくるので、僕は泣きたいくらいの淋しさで、とっとっと石段を踏んづけにして寺を後にした。二つ折れると街路樹が帰ってくる。人通りが帰ってくる。ビルの連なりが戻ってくる。僕はふてくされに歩き続けた。
まるで豚だ。離れるに従って、どす黒い憎しみが沸いてきた。なまじずんぐりのことを知らないものだから、憎しみは母親に向けられて、入道雲みたいに成長していった。僕は荒んだ自分の心が恐ろしく、息を荒くして大股になって歩いていった。どこへも行く当てなんてありはしない。ただ家にだけは帰りたくない気分だった。
まるで豚だ。まるで豚だ。でも母さんは幸せ。では父さんは。ああ、いっそみんな消えちまえ……まるでまとまりのない断片を、一歩ごとに呟きながら、人波を掻き分け掻き分け、ふて腐れに足を踏み出して、ずいぶん長い間、日暮近くの町並みをあてもなくさ迷っていた。
夕暮れの街路樹は哀しからずや。そんな詩を奏でたのはどこの誰だったろう。もうまるで忘れてしまった。けれども僕はまるで、坊や見てありぬみたいだ。ただ無邪気に淋しいや。そう思って立ち止まると、駅前通りは宵の喧騒のなか。空には赤らんだ雲がたなびいて、ビルの屋上の、居酒屋じみた提灯の列が風に揺られていた。駅からの送り迎えであろうか、沢山のヘッドライトが駅前ロータリーから吐き出されてくる一方で、市井の動脈を自認するバスだけが、並びながらも駅へと吸い込まれていく。僕はまた歩み出した。
父さん死んじゃった。母さん寝取られちゃった。僕はひとりぼっちになっちゃった。父さんはもういなくって、僕はにせ物の父さんから、学費などを有り難がって頂戴するのだろうか。けれども……
僕は急に姉さんのことを思い出した。姉さんはどうしているのだろう。またあの療養所に戻ったのだろうか。そうだ。携帯。連絡しなくては。
ところがはっと気がつくと、携帯どころではない、僕は鞄そのものを、どこかに無くしてしまっていることに気がついた。うしろのポケットに収められた財布だけが、辛うじて残されているようなものである。しまった、どこへやったろう。あるいは、タクシーの中に忘れてきたか。しばらくはキョロキョロしていたが、僕はまたそっと赤らんだ空を見上げた。そんなこと、どうだっていいじゃないか。ポケットに手を突っ込んで、ぶらぶらと歩いてみる。タクシーに忘れたのならば、きっと連絡があるに決まっている。第一、他の場所に置き忘れたはずがないんだ。タクシーに乗るときは確かに持っていたのだから。
みなもに溶かした夢の頃
小石でくずしてみせたけど
あなたの寄り添う肩ばかり
暖かくってなみだ色
まぶたの奥の夢だけを
追いかけながらの季節さえ
別れをくだる櫂の音に
消されてゆきます今はもう
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
僕はいつの間に覚えたのだろう。あの懐かしい歌を口ずさみながら歩いて行く。もう何度も口ずさんだことがあるように、今では思われるのだった。
あんなに君が手を振った
橋から見おろす友たちの
家路の笑顔も色あせて
宵に溶けゆくばかりです
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
商店街は宵の活気に包まれていた。眼鏡が陳列するウィンドーには、選びながら付け替える若いカップルがほほ笑んでいる。芳ばしい緑茶の香りが伝わってくると思ったら、急須のバーゲンワゴンが、店頭に飛び出している。ひとつ隣には臨時休業の看板が下がっていて、その先には黒人が、椅子に座ったままで何か歌っているらしかった。それが僕の歌の続きだと分かった時、ちょっと驚くと同時に、しんみりとした悲しみが包み込んできた。この黒人は、なんでこんな日本語の歌を知っているのだろう。どうしてこんなに淋しげな、抑揚を付けて歌うのだろう。
翼を忘れた水鳥も
紅(べに)に染まった僕らさえ
泣きたいくらいの淋しさに
別れの季節を知るでしょう
小石でくずした悲しみは
どこまで沈んでゆくでしょう
夢のかけらはゆらゆらと
僕をからかうみたいです
すっかり色を忘れちまった
ふたりわかれの帰り道
すっかり色を忘れちまった
ひとりぼっちの帰り道
僕は思わず立ち止まった。そこは覗いてみるとジーンズの店だったのである。照らしだされた棚並びに、群青やら紺やらがストックされて、のんびりした若者二人が、楽しげに選び直したりしていた。
「ヘイ、ヨッテッテヨ」
彼は歌いながらに声を掛けてきた。それなのに、歌が途切れないで聞こえてくのだった。あるいは僕が、頭のなかで補完しているせいだろうか。まるで、淋しさを紛らわせるみたいに……
「マタコンド」
僕は彼と同じように答えながら歩き出した。
「オボエトクヨ」
うしろから陽気な声が帰ってきた。どうせ忘れちまうに決まってるんだ。けれどもいつか、買い物に来てみたいような気もまたするのであった。歌はようやく最後まで終わったらしかった。
しばらく行くと今度は、年代に朽ち果てそうな壁をした文房具店が、積まれた文具にうずもれながら控えている。町から疎外されるくらいの古代主義も、ほんの数十年前には、市井(しせい)の華だったのかも知れない。月日が流れるのに合わせて、僕らの生活もどんどん押し流される。押し流されるうちに、住人だけが入れ替わっちまって、そうして大切な人の姿は、もう二度と見ることが出来ないんだ。
それにしても、僕はもう高校生なんだ。もっとしっかりしなければならない。父さんとも約束したじゃないか。そう思って、空威張りに、足音を高くして歩いてみたけれど、やっぱり気分は冴えなかった。どうせ家に帰ったって、あのずんぐりが父親面で控えているだなんて、そんなの耐えられるだろうか。いきなり殴りかかって、滅茶苦茶に張り倒したくなるに決まっている。だってあんな惨めな犬っころが、僕の大切な父さんの代用品だなんて、いくらなんでもあんまりだ。
せっかくの歌の悲しみは遠ざかり、また母さんへの憎しみが沸き起こってくる。それにしても、父さんがいなくなったくらいで、こんなにぐだぐだになってしまうとは思わなかった。僕はまるで子供のままらしい。もっとしっかりしなければ。けれども……
向こうから中年のサラリーマンが二人、歩道を邪魔するみたいに我が物顔で歩いてくる。僕はなんだか急に腹が立った。すり抜けざまに一人の腕のところに、思いきり肩をぶつけてやる。そいつは、
「痛っ」
と言って何するんだという様子で振り向いたから、ふざけんな馬鹿野郎とばかりに睨み返してやった。奴は急によそよそしくなって、「そうそう、さっきの話しですが」なんて誤魔化しながら、二人で慌てて立ち去ってしまった。なんだか自分が荒んでいくみたいで、余計に気持ちがむしゃくしゃする。
「おい、ごろつき」
うしろから聞き慣れた声がした。振り向くと、同級生の一人が笑いながら立っていたのである。
「なにむしゃくしゃしてんのさ」
とライオンみたいな金髪で寄ってくるから、
「なんだ、男ピアスか」
とぼんやり答えておいた。相手は、この野郎といった調子で睨みつける。
「その呼び方は止めろ」
「だって、ピアス付けてるぜ。髪もライオンだし」
「今時お前みたいなのが異常なの。これが当たり前なの、あたり前。分かるか?」
と、とうとう笑い出したので、
「いいんだよ、黒髪の方が目立たなくて」
と答えると、
「そりゃ地味すぎだって」
と横に並んで歩き出した。こいつは、もっとおしゃれをしろと僕に勧めてくるのであるが、髪の毛だろうと服装だろうと、とにかく面倒なのはごめんだったのである。しかしピアスが、
「今よお。お前の姉さん見かけたぜ」
と言うので僕は驚いてしまった。だって、姉さんは療養所にいるはずじゃないか。
「どこで」
と思わず質問すると、
「すぐ向こうのファーストフード店で。それがよお、変なオヤジと一緒だったんだよ。冴えない服着た奴と。それにしてもお前の姉さん、やっぱりかわいいよなあ。ねえ、彼氏とかいないのかよ」
「変なオヤジってなんだ」
「なんだって言われても、そんなの俺が知るわけねえじゃんか」
「そりゃ、まあ、そうだな」
僕はなんだか胸騒ぎがして仕方なかった。
「悪い、ちょっと様子見てくる。また明日な」
と言い捨てて、いきなり駆け出したのであるが、ピアスはアホかという調子でうしろから、
「こら、ちゃんと人の話しを聞いとけ」
と叫びがてらに、そのファーストフード店の名前を教えてくれたのである。
「サンキュー」
僕はやっぱり走り出していた。
グリーンランプのアルファベットが灯されたその店で、二人は入口のすぐ近くに腰を掛けていた。なんだか髪の毛がだらしなく衰えるくらいの中年が、姉さんと一緒になって笑っていやがる。なんであんな奴と遊び歩いているんだ。今すぐ中に入って引っ張り出しちまおうか。僕はすっかり凶悪な気持ちになっているらしかった。けれどももし、療養所の先生かなんかだったら、大変なことになる。あまり無分別を起こしてはいけない。荒んだ気持ちを宥めるみたいに、夕暮れの行き交う人波に押し出されて、休業お知らせのシャッターにもたれ掛かるように、二人の笑う姿をぼんやりと眺めていた。
居酒屋の客寄せが二人、騒がしいくらいにビラを配りまくっている。活気がいいんだか、アルバイトのヤケなんだか分からないような声で、「いらっしゃいませ」を連呼している。ずっと先のパチンコ店のネオンは、安っぽい看板を取り囲んで、点灯を巡らせる懐かしいものだ。あんな昭和期みたいなネオンが、どうして今ごろ息づいているのか、時代錯誤もはなはだしいくらいである。
そのうち姉さんたちが店を出てきたので、僕は静かにその後をつけ始めた。何だかいかがわしい雰囲気がしたからである。しかしまさか、姉さんに限って。妄想が駆け巡りながら二人を追跡する。母さんだってずんぐりとくっついていやがったんだ。姉さんだって分かるものか。しょせん女なんて、フィーリングで肉体を求めてさ迷っているだけなんだ。それとも自分が頼りないから、みんな他の男を求めてさ迷い歩くのだろうか。ああ、僕はいったい何を考えているのだ。空想にしたって滅茶苦茶だ。そんな思いがぐるぐる回って、二人の影をどこまでも追い掛けていくのだった。
そのうち二人は、メインストリートを狭い路地に折れ曲がった。いかがわしいネオン街が、安っぽいホテルのおしゃれな名前に連なっている。まさか姉さん、本当に。僕は鼓動が高まるのを感じた。あんな汚らしいオヤジに抱かれるつもりなのか。許せない。恐ろしいくらいの凶暴性が、抑えきれない憎しみとなって、沸き起こってくるのを感じながら、僕は注意深く距離を取って、二つの獲物を捕らえようとしていたのであった。
二人は、一軒のネオンランプの照明へと消えそうになった。今日一日、翻弄され尽くした怒りがかんしゃく玉みたいになって、僕は全力で駈け出していた。思わず振り向いた男の背中へ飛びかかると、縮めた両足から全身で蹴りをぶち当ててやったのである。男は情けない両手を突き出して吹き飛ばされた。奴の鞄がアスファルトにあたって、鈍い音を立てた。僕は奴の上に飛び乗って、ようやく仰向いたその醜い顔面のあたりを、自分のこぶしが粉々になるくらい目一杯に、何度も何度も打ちつけたのであった。姉さんの悲鳴が聞こえたけれど、僕はもう理性を失っていたらしい。ようやく気がついてみると、目の前には真っ赤にふくれたお化けが、動くともなく「助けて、助けて」とみすぼらしい有様で、辛うじて人間の言葉を口にするばかりだったのである。
うしろから姉が僕の名前を呼んだ。その声が震えていた。僕は立ち上がると姉の腕を思いっきり引っ張った。そしてそのまま走り出した。男は倒れたままである。うわ言みたいに「助けて」と呟いている。姉をぐいぐい引っ張ってその場を逃れると、姉は苦しそうに息を切らせながら付いてきた。けれども、僕は走るのを止めなかった。そうしてそのまま、僕らは別のホテルのネオン看板に飛び込んだ。どうせ家になんか帰れないんだ。もう知ったことか。姉はやっぱり黙って、引っ張られながらに付いてきた。
ホテルの部屋に入ると、僕は姉を糾弾した。激しく糾弾した。すると姉は突然泣き崩れた。父さんもいなくなり、母さんの心も消え去ってしまった。なんだか家族が消えてしまったようで淋しい。それに自分も火葬場みたいに灰になってしまうことを考えれば、恐ろしくって一人でいるのは耐えられない。もう何でもいい。誰でもいいから、ずっと一緒にいてくれる人がいなくっては、自分ひとりではこころを支えきれない。そういって床にくずれながら号泣したのである。
「これで何度目だ」
僕はまだ睨んでいた。まるで姉を追い詰めるみたいに追求したのである。
「まだ今日が始めて」
姉は泣き声の合間に途切れがちに答えたが、僕は信じなかった。女の言葉なんて、信じるものか。
「嘘だ」
と叫んだ。墓場での母さんの姿がちらついたからである。
「嘘じゃない。嘘じゃないの。だって療養所に連絡すれば、そんなのすぐに分かることじゃないの」
また肩を震わせている。
「本当か」
と僕は執拗に聞きただす。自分ながらにどうかしている。姉は黙って、首をこくりこくりと縦に振った。そうして、相変わらず泣いている。僕はその時、不思議な暴力的な感情を抑えることが出来なくなって、いきなり彼女の体に抱きついた。姉はなされるままになっている。
「そんなに男が必要なら、俺に抱かれろ。俺が姉さんを抱いてやる。ずっとずっと抱いてやる。だから他の奴に、あんな汚らしい中年に、体を売り渡すような真似はするな。そしてどこにも行くな。僕らもう二人ぼっちじゃないか。父さんはいなくなって、母さんは豚になって、もう僕ら二人ぼっちじゃないか」
姉さんの腕が、しっかりと自分の背中にしがみついて、甘い髪の香りが伝わってくるのを感じた。彼女は自分の顔を僕の肩に押し当てたまま、ますます大声を上げて泣きじゃくってしまい、そうして何度も何度も肩のあたりで頷いて見せるのだった。そうしたら、なんだか僕まで悲しくなってきた。父さんは死んじまって、母さんはにせ物になっちまって、だから僕らはもう二人ぼっちなんだ。そう思ったら不意になみだが止まらなくなってしまい、ついにはいつまでも肩を寄せ合いながら、その場で泣き崩れていたのであった。
だから僕ら、結局肉体関係にはいたらなかったんだ。二人で泣いているうちに疲れて眠りに就いてしまったらしい。気がついたらもう、朝の気配が伝わってくるくらい、カーテンの向こうは明るくなっていたのであった。二人で目を覚ましたとき、なんだか急にきまりが悪くなったものだから、思わずくすぐったそうに笑い合って、けれどもせっかくなので朝食などをゆっくり楽しんでから、ようやくホテルを離れたのであった。
「淋しかったら僕に電話しろ」
そんな台詞は、とても恥ずかしくって言い出せなかった。
それから僕は姉さんを療養所まで送っていった。ところが、療養所には警官がそっと控えていて、驚いた姉さんの静止する間もなく、僕はたちまち奴らに捕縛されてしまったのである。すぐにパトカーに引っ張られて、警察署まで連行されてしまった。療養所の先生が姉さんの腕を掴んでいる。一緒に行っては駄目だという意味だろう。そんなに心配するな。僕は姉さんにちょっと手を振っておいた。もうどうだっていいや。自分に非があるとは思えない。何も悪いことなんかないんだ。
しかし警官は丁寧だった。あるいは業務的といった方がふさわしい。僕には分かっていた。どうせ夕べぼこぼこにされた男が、自分を訴えたに決まっている。一通りの取り調べが済むと、僕は囚われの身の上となって、保護者が来るのを待たなければならなくなったのである。
どうせあのずんぐりが、父親ぶって現れるに決まっているんだ。喪の期間も明けてないのに、クローディアスに鞍替えするような母さんだって、本物の母さんだなんて思えない。とにかくあいつらの顔は見たくない。「みんな、消えちまえ」そう思って狭い部屋の中で頭を抱えていた。
「どうも申し訳ございません」
遠くから誰かの声がする。なんだか聞き覚えのあるような声だった。あれからまだ二時間くらいしかたっていないはずなのに。僕は驚いて入口に耳を傾けた。するとコツコツと足音が近づいてくる。巡査が
「釈放だ。迎えが来ている」
と鍵を開けてくれたのである。
「いきなり殴られたという話しだったが、よく調べると療養所から患者を拉致したとも取れる内容であるから、逆に追求したところ訴えは取り下げになった」
と尋ねもしないうちに適当なところを説明した。やっぱり業務的な口調である。しかし、それ以上尋ねる勇気はなかったから、ぶっきらぼうに警察官のうしろを付いていった。母さんの顔を見るのがたまらなく嫌だ。さっきの声だって聞き違いに決まっている。どうせあのずんぐりに決まっているのだ。
けれども、表に出たときに僕は立ち尽くした。本当に案山子みたいに立ち尽くすとは、あんな時のことを云うんじゃないだろうか。感情のひだが凍結したみたいになって、ただぼんやりしているのである。だってそこには、亡くなったはずの父さんが、元気そうに笑っているのだった。
父さんは僕に近づいて来た。そうしていきなり頬っ面を平手打ちにした。ピシャリといういい音が響いたんで、僕はようやく我に返った。警官は知らぬ振りをして、あっちを眺めている。父さんが引っぱたいたままの手で僕の肩を抱き寄せて、頭に手の平を当てやがるので、僕は不覚にも泣きだしてしまった。父はまた笑い出した。
「だらしない奴だ。高校生にもなって。さあ、帰るぞ」
僕はどうしようもなくなって、恥ずかしそうに頷いた。それから交番に頭を下げて、父に背中を押されるみたいにして、二人で歩き出したのである。父さんが生きていることが分かると、急に今までの行動がだらしなくて、情けないもののように思われて、なんだか照れくさくって仕方がなかった。
「父さん、病気はいいのか」
と、恥ずかしさを紛らわせるみたいに聞いてみる。
「悪かったらこんな所にいないさ」
父はやっぱり笑っている。夕べのことを思い出すと、頭が混乱して思いが定まらない。でも、あれはきっと、すべて夢だったんだ。父さんがいなくなるなんて、そんなことあってはならない気がする。
「どうだ、ボートにでも乗っていくか」
と言い出したとき、高校生にもなってボートなんてと思って、
「なんだ、そんな子どもが乗るもの」
とぶっきらぼうに呟くと、
「まあ、いいじゃないか。たまには」
そう言って歩き続けるうちに、すぐに公園の入口が近づいてきた。喧騒が途絶えて、森林が野鳥の声を掻き立てる。正門をくぐり抜けると、すぐ右手にはサイクリングのレンタルセンターがあって、これで公園を周遊することも可能らしかった。ボート乗り場は、その奥を折れ曲がったところにあるらしい。木造の鄙びた看板が、矢印がてらに説明を加えている。なんだか、幼い頃しばしば訪れたような懐かしさが込み上げてくる。僕らは湖の近くまで歩いて行った。
ボート乗り場のあたりには、ごろごろと岩を散りばめた水辺に、図々しいアヒルを筆頭に水鳥たちが泳ぎ回っている。もちろん鴨だっている。餌を求めて、人気(ひとけ)の多いところに集(つど)っているのだろう。照り返す日射しを受けて、あったかそうにぷかぷか泳いでいる。また奴らの羽根が四散する中にも、育ち盛りのひな鳥たちが、陸(おか)をはしゃぎ回ったりもしていた。どこかのカップルが、遠くのほうで餌をばらまいている。餌を与えていいものだかどうだか分からないが、ボートの従業員が咎めないのだから、禁止されてはいないのだろう。
受付で番号札を貰うと、桟橋には眼鏡を付けた中年が一人、鮮やかな青の制服で突っ立っている。従業員にこんな上質の制服を着せるなんて、外国みたいな公園だとちょっと感心する。しかしこの男の顔は、どこかで見たような気がする。はたしてどこで見ただろう……うまく思い出せなかった。彼は無愛想に番号札を照合すると、最低限度の注意を加えて、ボートへと案内してくれた。乗り込むときに舟がちょっと傾くのが何となく愉快である。それにしても、暇を持てあますくらいに客が少ないのは、平日の昼下がりのためだろうか。さっそく櫂に手を掛けて、父から先に漕ぎ始めた。僕も慌てて真似してみる。
「下手だなあ。もっと力を入れて漕ぐんだよ」
こんな元気な親父の姿を見るのは久しぶりだったから、思わずポカンとしてしまったが、
「よし」
と答えて、威勢よく水を掻き始めた。岸辺を離れるに従って、騒がしいアヒルの声が小さくなる。水は静かに波を打つ。他のボートはかなたに点在している。今日は子連れも少ないようだ。しかし遠くには、カップルの乗ったボートが浮かんでいる。
「お前も早く彼女を見つけて、一緒にボートを漕げ。男同士でボートに乗るなんてけったいこの上ない」
父さんは自分で乗せておいて僕を冷やかすから、
「いいんだよ。今は恋人募集中なの。募集中」
「だいたい気合いが足りないんだ。俺の若い頃なんかは……」
「なんかは?」
「いや、後で母さんに言われちゃたまらない。止めておこう」
「なんだよ、そんなの話すかって」
そんな冗談を言いながら漕いで行くうちに、僕ははるかかなたの対岸線が、都会の高層建築で満たされていて、誇らしげに君臨しているのを見つけて、おやと思った。
「あれ、昨日あっち側から、この湖を見ていたような気がする」
「学校帰りにいつも通るだろう。それとも別のルートで帰るのか」
「学校帰りって、こんな町並みは……」
と言おうとしたが、考えてもよく思い出せない。こんな都会が、自分の生きてきた環境にあったろうか。だってあのデパートは、幼い頃、何駅も乗り継いで、ようやく遊びに訪れたのではなかったか。
「ほら、この辺りがちょうど湖の真ん中だろう」
父が漕ぐ手を止めたので、僕も手を無理に動かさなくなった。実は大分疲れていたからである。それにしても、父さんはこんなに運動をしても大丈夫なのだろうか。また聞くと笑われそうだから黙っていると、鳥たちの鳴き声が甲高く響いてきた。船べりから湖を覗き込むと、やはり田舎の澄んだ湖みたいに、透明な水を湛えているのである。魚が下の方を泳いでいくのが、手に取るように分かる。しかし底はもっと深いのだろう、最後まで見渡すことはさすがに叶わなかった。
「この湖はmなんでこんなに澄んでるんだろう」
独り言みたいに呟くと、
「どれだけの税金をここに掛けていると思ってるんだ。この湖は町の誇りだ。それに公園の方でも、今年から『夢の灯火計画』だか何だったか、蛍の飼育を始めたところだ。水の穢れはこころの穢れって言うからな、大切なことだ」
そんな格言は初耳である。ぼんやりしていると、不意に向こうの水面(すいめん)まで滑空してきた鳶(とんび)が、ぱっと水を跳ね上げたかと思ったら、鮒くらいの魚が嘴に挟まって、逃れようと暴れるうちに空へと連れ去られた。見事な早業である。
「弱肉強食だ。誰だって次の瞬間の幸せなんて、分かりっこないからな。今をいのちと思って、精一杯に生きるしかない」
父さんは独り言みたいに呟いたが、ようやく思い出したという風に向き直ると、いきなり僕に向かって切り出した。
「それはそうと、なぜあんな事件が起きたのか、全部聞かせて貰わなければ」
父さんは真面目な表情になった。
「だから、あれは姉さんがあの男と」
「別にお前のことを責めているんじゃないんだ。俺がお前だってぶん殴ってやったさ。そうじゃないんだ」
それからちょっとまごついていたが、やがて思い切ったという風に、
「そもそもあいつは、何であんなことをしようとしたのだろう。聞いても泣いてばかりで教えてくれないんだ。それでいて、男のことが好きでもないって言うだろう。思わず引っぱたいてしまったが、どうも女の子は難しくてな」
「なんだ、姉さんまで引っぱたかれたのか」
僕は思わず笑ってしまった。
「当然だ。どれだけ心配したと思ってるんだ。帰ったら母さんからお小言だ。覚悟しておけ」
というので、ちょっとげっとなった。しかし久しぶりに屈託のない家族の生活に紛れ込んだみたいで、叱られても幸福だった。
「分かっているのか」
と父さんが困った顔をしてみせるから、
「すいません」
と思わず髪の毛を掻いて誤魔化しちまう。それにしても姉さんのことを説明しようにも、自分でもよく分からない。だって、昨日と今日との辻褄が噛み合っていないのである。僕は思わず、
「だって、父さん死んじまったんじゃないのか」
と尋ねそうになり、恐ろしくって口ごもった。まるで封印の呪文みたいに、唱えた刹那に現実となって、父さんが消えてしまうような気がしたからである。だって夕べ鐘の音が鳴り響いて、父さんの墓参りまでしたのに……
「姉さんがなんであんなことをしたのか、僕にも分からないんだ。だってたまたま友だちが、姉さんの遊んでいるところを発見して、僕が後を付けていったら、ホテルの中に入ろうとしていたから、つい頭に血が上ったみたいになって、そのあとはよく覚えていないんだ」
そんな風に誤魔化してしまったが、父は別に疑うでもなく、もう一度、
「女の子は難しいからな」
と繰り返した。それから、以前にも同じようなことがあったのかと心配する。
「もし抜け出していたら、療養所から連絡が入るだろう。心配すんなって」
そこだけは安心させてやることが出来たのだが、おかげで話しが、僕の所へ戻ってきてしまった。こんなことなら、もう少し不安を煽っておくんだった。しかもいきなり、
「お前は昨日家を出るとき、叔父さんに理由を説明していかなかったそうだな」
と言い出すので、僕はまた混乱してしまった。
「だって、それは」
だってそれは、危篤の電話に驚かされたからではなかったか。それなのに僕は、不思議な都会をさ迷っているうちに、父さんはとっくに墓石(はかいし)となってしまい、母さんはずんぐりと一緒になって、姉さんと僕は二人っきりさせられて。おまけにさ迷っていたはずの都会は、あそこに佇む町並みだったのではなかったか。それは確かに、叔父さんに連絡をせずに出て来たのは、間違いのない事実だけれども……
「それはじゃない。お前は叔父さんの行為にすっかり甘えきって、あの家に居候の身分でありながら、我が物顔で学生生活を謳歌しているんだろう」
父さんが睨めつける。僕にだって言い分はあるんだ。
「そんなの一方的だ。これでもずいぶん遠慮して生活してるんだ。だいたい元はと言えば……」
と言おうとして、やっぱり口ごもった。なんで病に伏した父さんが、こうして元気に僕を叱っているのだろう。さっぱり訳が分からない。
「そりゃ人の家だから、遠慮をするのは当然だ。けれども考えてもみなさい」
父が存外静かなので、僕は腹を立てる勇気すら沸いてこなかった。
「お前は夜の十時過ぎにもなって、連絡もせずに帰って来ることがあるそうだな。それで小言をいわれると、うるさいような顔つきをしただろう。けれども叔父さんたちは、出て行けとは言わなかったな。翌朝になると、ちゃんと朝食を用意してくれたんじゃないのか」
しまった、これについてはまったくその通りである。我ながら情けないくらい返す言葉も見つからなかった。
「それでいて遠慮だとか我慢だとか、ずいぶん子供じみた情緒だとは思わないのか」
父さんはあまり諭すつもりのないような口調になった。僕はこの口調でこられると困ってしまう。反発しようにも、反発心を削がれる口調であった。なんだか言われるままの悟りのような心持ちである。しかしこの時ばかりは、やり込められている自分がとても嬉しかった。とにかく父さんがこうして健在なんだ。それだけでどれほど安心するか分からない。どんなに学校で粋がって見せたって駄目さ、自分なんかまるで子供なのである。昨日今日で、すっかり晒されちまった。
「黙って出たのは悪かったって思ってるんだ」
自分は素直に語り始めた。父さんは黙って聞いてくれる。
「叔父さんにひと言でも声を掛けてさえいれば、あんなに次から次へと、おかしな事に巻き込まれずに済んだんだ」
僕は昨日のことを思い出しながら、やっぱりすべての発端である父の危篤にぶち当たってしまって、とうとう
「だって昨日、母さんから、父さんが危篤だって連絡が」
と言ってしまった。言ってしまってから、大変なことが起こるのではないかと心配したが、父さんは、何ごともなかった様子で笑い出したのである。
「おいおい、冗談は止してくれよ。俺は昨日だって仕事に出ていたじゃないか」
「だって、それじゃあなぜ」
なぜ自分は、自宅ではなく叔父さんの家に預けられているのだろう。父さんが元気なら、そんな処置を取る必要がないじゃないか。あるいは姉さんの療養所と、何か関係があるのだろうか。やっぱり思い出すことが出来なかった。
けれども、父さんの無事が確認されたので、僕はまるで堰を切ったように昨日のことを語り始めた。それは夢とも現実ともつかない物語であったが、父さんは危篤扱いにされたことを咎めるでもなく、ただ時々は質問を加えながら、まるでおとぎ話でも聞くみたいな楽しみで、耳を傾けているらしかった。しかし、そのうち、あまりにも不甲斐ないと思ったのだろう。
「なんだ、だらしがない。まるでぐだぐだの右往左往じゃないか。もっと大人になっているかと思っていたが、まるっきり半人前だ。おいおい、大丈夫なのか。もっとしっかりしてくれないと困るぞ」
そう言いながら、大笑いを始めてしまったのである。僕も話しているうちに照れくさくて、自分のだらしなさを思い知るばかりだったので、とうとう一緒になって笑いだしてしまった。その代わり、どこまでが自分の夢で、どこから姉さんに出くわして今に至るのか、そのあたりのことはまるで要領を得なかった。
「まあいい。療養所に行って、一日掛けてゆっくり話し合ってみることにしよう」
二人ぼっちになって姉さんと抱き合ったはずの僕は、やはり不得要領(ふとくようりょう)だったが、それですべてがうまく納まるのなら、別になんでも構わないような気がするので、
「そうしてよ。姉さんのことは僕には荷が重すぎるよ」
とすっとぼけてしまった。けれども一緒にホテルに入ったことは言わなかった。あれは僕らだけの秘密にしておくんだ。変な勘ぐりでもされたらたまらないや。けれども姉さんが話してしまったら、身も蓋もないのだけれど……
「よし、それじゃあ岸まで戻るか」
父さんが言うので、僕ははっと我に返った。姉さんには早めに連絡をしておこう。これ以上笑いものにされたのではたまらない。
僕らは再び櫂を跳ね上げた。軽やかな水しぶきが、頬に当たってすがすがしい。何の屈託もない生活に、久しぶりに戻れたようで嬉しかった。それから僕らは公園で食事を取ったり、夕方までぶらついてから、ようやくステーションへと向かったのである。
なんだ、やっぱり駅を使って帰るんじゃないか。なにが学校帰りの道だ。嘘ばっかり付きやがって。そう思うと、すっかり騙された自分がおかしかった。改札から階段を下りて、ホームの最後列あたりのベンチに腰を掛けて、二人で列車の来るのを待っている。別方面の列車が隣に止まると、沢山の待合客のほとんどが乗り込んでしまった。ベルが鳴って列車が走り出す。プラットフォームは急に人気(ひとけ)を失った。
「そろそろ時間だな」
父さんが呟くのでホームの向こうを眺めると、ほどなく列車がカーブを折れ曲がってくるのが見えた。そのままホームに滑り込んでくるらしい。静かに扉が開くと、ほとんど満員の乗客がすべて押し出される。ここは終着駅であった。そうしてちょっと点検をしたら、もう一度扉が開いて、今度は始発となるのである。
ベンチで点検の済むのを待っていると、急ぎ足の乗客たちは、先を争うみたいに階段を昇っていってしまった。またホームはひっそりとなった。僕らの他に待ち合わせもいないようだ。
ようやくドアが開く。二人は立ち上がった。人影の消えてしまった車内に、一番に乗り込むのは愉快なものである。僕は座席に座ろうとしてうしろを振り返った。ところが、父さんは列車に入ってこない。ちょうど入口のところに立ち尽くしているのであった。
「気をつけて帰れ」
そんなことを言いながら手を振るので、僕は慌てて入口まで戻った。不意にドキリとしたからである。
「なに冗談言ってるんだよ。一緒に帰るんだろ」
扉のところでわざと笑ってみせると、
「俺はここから帰ることは出来ないんだ」
と父さんは淋しそうな顔をする。
「なんだよそれ」
僕はよっぽどその手を掴まえて、引っ張ってしまおうかと思った。しかしボートの櫂と同じで、とても引っ張りきれるものではない。父さんは姉さんとは違うのだ。
「俺は向こうの世界には戻れないんだ。お前だって、もう分かっているはずだ」
と言うので、僕は背中に寒気が走るのを感じた。
「しかしお前たちのことは、こうして今日みたいに、どこにいてもきっと見守っている。それだけは忘れるんじゃない」
「待ってくれよ。そんな勝手な」
「お前はもっと大きくならなくっては駄目だ。これくらいのことでいちいち動揺せず、どしどし信念を持って進んでいきなさい」
「だって、父さん」
「いいか、分かったな」
発車のベルが鳴り響く。僕はいっそ、プラットフォームに飛び降りようかと思ったけれども、父さんが黙って僕の瞳を見つめている。その瞳の奥は、まるであの湖の澄み渡る水のように深くて、そうしておおらかで、絶対的なものに溢れているのだった。僕はその瞳に誓わなければならない。幼くだだを捏ねて、列車を降りたりしてはならないのだ。こころの奥底でそんなささやきが、勝手な行動を静止した。僕はいま父さんの息子として、独り立ちした言葉を返さなければならない。そうして答えたからには、どしどし歩いて行かなければならないのだ。
「分かったか」
父さんがもう一度念を押す。僕ははっきりとした声で、けれども本当は泣きたいのを堪えながら、
「分かった」
たしかにそう答えたのである。父さんが「よく言ったな」という表情でほほ笑みを返したとき、しかしもう一度ベルが鳴り響いた。列車の扉がスーッとスライドしたら、僕らはもう永遠に隔てられてしまう。そうして二人は顔だけになって、言葉を交わすことすら出来なくなってしまった。けれども僕はこれから、立派にどしどし歩いて行かなければならないのだ。
列車が動き出した。父さんがまっすぐに僕を見つめている。僕は大きく頭を下げた。もうお別れである。父さんが軽く手を振った。僕はもう涙を堪えることすら出来なくって、滲んだ窓ガラスから彼の姿が見えなくなるまで、懸命に手を振り返して見せるのだった。やがて小さな影がぽつりと消えて、僕はまた一人ぼっちにされてしまう。ああ、町並みをさ迷ったときと同じだ。そう思うと、淋しさで胸が潰れそうだった。けれども僕はもう怖じ気づくことなく、きっとどこまでも歩いてみせる。いつかこの足が折れるときまで、ひたすら歩き続けてみせるのだ。誰もいない座席にぽつんと腰を下ろして、そんな誓いを心に秘めながら、けれども今だけはまだ悲しみに任せて、束の間、涙を出任せにしているのであった。
「ほら、起きなさい」
不意に誰かの声がする。聞き慣れた声だ。誰だろう。薄く瞳を開くと、そこはありきたりの自分の部屋だった。まだどこが現実だか分からない。なにか途方もない夢を見たような気もするのだが、あんなに激しい葛藤を抱いたはずの母さんが、
「もう朝食の時間よ、早く起きなさい」
と言い捨てて部屋を出て行ってしまったのである。しばらくは心臓に手を当てて、自分の居場所を確かめようとしていた。小さな鼓動が伝わってくる。だんだん現実感覚が戻ってくるのに合わせて、くらくらする頭を、軽く揺すりながらベットから起き上がった。邪気を払うみたいにカーテンと、それから窓ガラスを開ききる。新鮮な大気が流れ込んでくるが、それは初夏(しょか)の若葉のそよ風ではなかった。萩も終わりの頃の、秋の大気であった。夢の面影を少しずつ紡ぎ合わせようとするが、あまりにも壮大で、あまりにも悲しくって、現実へと戻って来れないような錯覚から抜け出せなかった。けれども確かに、僕は父さんとプラットフォームで別れたはずなんだ……
急に不安になって、部屋を出ると、おはようがてらに茶の間に飛び込んだ。父はいつもと変わらず、ニュースを見ながら朝食を済ませているところだった。「おはよう」とぶっきらぼうに言葉を返してくる。病気らしいところはどこにもない。母さんはあの甲高いOLみたいな声をして、
「おはよう」
と答えている。眠いときにこの声を聞かされると、なんだかむしゃくしゃすることもあるのだが、夢の中で濡れ衣を着せて憤慨した手前、今日はなんだか照れくさくて仕方なかった。ただありきたりが懐かしくて、もう一度だけ、
「うん、おはよう」
と答えてから席に付いた。そして姉さんは……
そうなのだ。僕は一人っ子であって、姉さんなんて初めから存在しないのである。なんだか不思議な気分である。あるいは恋人のいない屈折した心が、夢の中で姉の姿となって僕に語りかけたのであろうか。クラスメイトにだってあんな子はいないのに……なんだかあの姉さんに、もう一度会ってみたい気もするのだった。
そして父さんはといえば、彼は病気なんかしたこともないくらい、今日も元気である。それに叔父さんに当たるような親戚だって、近所には住んでいないのである。いったい、なんであんな夢を見たのだろう。なんだか不思議でならない。けれども、
「お前、夕べうなされていただろう」
と父さんが突然注意した。
「よく知ってるな」
ちょっと驚いて答えると、なんでも、夜中にうなり声が聞こえたので、部屋を覗いてみたら、僕がうなされるみたいに、
「ここはどこだ」
とか何とか言っているので、試しに
「大丈夫だぞ」
と声を掛けてみたら、僕は急に大人しくなって、すやすやと寝入ってしまったのだそうである。
「まったく子供なんだから、だらしがない」
さっそく僕のことをからかいだした。しかし今日は、からかわれるのも、もっとな気がした。自分自身、赤面しそうなくらいの醜態を、夢の中で演じていたものだから、いくら内容を知らないとはいえ、当の父親から指摘されると、とても反発する勇気など起こらなかったのである。だからわざと無愛想に、
「いいんだよ、まだ子供なんだから」
と呟いたばかりであった。
父さんは一足早く仕事に向かう。「いってくる」と、ぶっきらぼうな言葉ひとつが残される。「いってらっしゃい」と答えた母さんは、僕の朝食を準備してくれる。朝食はいつもパンである。しかしジャムではなくバタートーストである。朝から珈琲なんかはけっして飲まない。朝は牛乳に決まっている。野菜だってちゃんと取る。僕はずいぶん健全な高校生らしかった。
しかし今朝は、自分がたまらなく未熟である気持ちから抜け出せなかった。もしこの両親に何かあって突然社会に投げ出されたとき、僕はちゃんと一人で歩いていけるだろうか。もっとしっかりしなければならない。あの湖みたいな澄んだ深い心を持って、僕はこれから歩いて行かなければならないような気がするのだった。なんだかここ数日は、夢の中の親父にも、現実の親父にも、頭が上がらないような気分で一杯だった。
(おわり)
(2009/11/3-11/27)
みなもに溶かした夢の頃
小石でくずしてみせたけど
あなたの寄り添う肩ばかり
暖かくってなみだ色
まぶたの奥の夢だけを
追いかけながらの季節さえ
別れをくだる櫂の音に
消されてゆきます今はもう
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
あんなに君が手を振った
橋から見おろす友たちの
家路の笑顔も色あせて
宵に溶けゆくばかりです
灯ともし頃のふたりの影を
雲は染まって眺めるでしょう
翼を忘れた水鳥も
紅(べに)に染まった僕らさえ
泣きたいくらいの淋しさに
別れの季節を知るでしょう
小石でくずした悲しみは
どこまで沈んでゆくでしょう
夢のかけらはゆらゆらと
僕をからかうみたいです
すっかり色を忘れちまった
ふたりわかれの帰り道
すっかり色を忘れちまった
ひとりぼっちの帰り道
2009/12/01