アール・デコ展

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アール・デコ展(ART DECO 1910-1939)
ーきらめくモダンの夢

開催期間ーーー2005/4-16-6/26
開催場所ーーー東京都美術館(上野)
・21世紀を飾るアール・ヌーヴォー展に続いてアール・デコ展が開催されたのは誠にふさわしい限りであり、つい浮かれて出かけてしまった分けです。

主旨

 19世紀末に曲線修飾的精神を持って送り出された熱い情熱、すなわち、工芸品、建築、ポスター、衣類、宝石類などは悉(ことごと)くに芸術であると宣言し、人々が崇(あが)め奉(たてまる)る芸術ではなく、人々の生活に密着した生活芸術こそが新しい芸術である。そんな潮流が裕福層をターゲットに「自然の不可思議」を主題にして沸き起こったようなアール・ヌーヴォーの熱気に続いて、20世紀初頭、急激に発展する科学技術や飛行機、自動車、電気器具、さらにショッピングセンターやシネマや数多くの雑誌、ラジオ、スポーツ観戦、さらにジャズなどの新しい音楽といった、様々の新しい価値観に呼応するように、「人工的な機能性と幾何学的合理性の方が遙かに優れている!」と叫びながら沸き起こったような、新しい芸術トレンドであるアール・デコが登場した。あたかも、大量生産の画一的機能性に思う存分飲み込まれ、もう一方の芸術的方面は幾分冷静な流れとなって、現在まで連続的に進行している商品と結合した芸術が、分裂する前の一時期、今日インターネットが取りざたされるような熱気を持って、社会現象として「モダンな遣り口のスマートな修飾芸術、昔の曲線的修飾漲るまどろっこしさよりも、遙かに現代的ですごっく格好(かこ)いい!」という情熱的な高揚を見せ、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に横たわる20世紀第2次世界を駆けめぐったのだ。交通と通信の発達はこの芸術を世界中に発信し、アール・デコは新しいものに憧れ邁進する先進国、及びそれを追い掛ける途上の国々を走り抜け、アール・ヌーヴォーを越える勢いで世界規模のモダンスタイルの源泉となった後、さらなる機能性と大量生産を美的価値とする次の傾向に取って代わられていった。修飾的芸術性と現代的機能性、大量生産的価値観、このきわどい一線に生まれたような芸術運動は、まるで憎しみ合う「合理性」「修飾」の家柄から生まれた2人の男女が、互いの名前を無頓着に叫び合いながら、神父さんを呼んで勝手に神秘のご結婚をしてしまう、もしそんな例えが存在するならば、最もアール・デコ様式を旨く言い表したものかも知れない。アメリカ20年代な作家でお馴染みのスコット・フィツジェラルド(1896-1940)は、「偉大なギャッツービー」を書きながらリンドバークを羨む大衆的作家の先駆けだが、「大戦中に行き場を無くして溜まり溜まった熱狂のエネルギーが引き金になって」アール・デコが生まれてしまったに違いないと、ボルステッド法(1920-33)で酒を飲むことは勝手だが販売は禁止な筈のグラスを傾け酒場で考えてみたそうだ。フィッツジェラルドは素敵にアメリカ野郎だったが、まさにこのアール・デコ的な美的価値は、ヨーロッパの借金を悉く引き受けて莫大な金利を貪りつつ急激に拡大するアメリカと、その大衆的な起爆力「アメリカの20年代」と深く関係して、ヨーロッパ生まれのアール・デコ的価値観の最大の消費国もまたアメリカだったのである。アール・デコがヨーロッパとアメリカを中心にしてと語られるとき、それは一方でフィッツジェラルドが「世界中どこに行ってもアメリカから逃れられない」と叫んでしまったアメリカ大衆的文化の隆盛と表裏を一体にしていたのである。
 さて、第2次大戦後しばらくの間は「修飾は罪悪である」と雄叫びを上げる新しいトレンドが沸き起こっていたが、戦後の一目散(いちもくさん)な邁進(まいしん)を立ち止まった1960年代に、何だか機能性ばかりで何もないのに寂しさを覚えて、後ろを振り返ってみると、何だか2つの大戦の間に一つの芸術運動のトレンドがあったのを見つけて、その修飾的価値感が大変愛(いと)おしく思われるので、「修飾芸術(アール・デコラティフ)」への関心がにわかに高まって、そのメインイベントとなった、「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)略してアール・デコ博覧会から名称を頂戴して、アール・デコ様式と当時の様式を命名して見たら、21世紀初頭には、アール・ヌーヴォーと共に、新しい源泉をくみ取ることの出来る数多くの過去のスタイルの仲間入りを果たすまでにその意義が成長した。おめでとう、アール・ヌーヴォー、おめでとう、アール・デコ。君たちはもはや、人類の共通財産になったのだ。(やっぱり、不可思議な文章を模索する積もりだったのか、君って奴は。)

序章

 1966年にパリで開かれた「1925年の時代」という展覧会の副題に「アール・デコ/バウハウス/スティール/エスプリ・ヌーヴォー」と掲げられた時「アール・デコ」の名称が人々の間を駆け抜けた。このアール・デコは、従来芸術の建築、絵画、彫刻、それから最近芸術の仲間入りを果たしたばかりの修飾芸術に対して、さらに新しい芸術一味である写真、映画、ファッションなど20世紀芸術と互いにもつれ合いながら、「現代現代愉快愉快」の精神を漲(みなぎ)らせ、前代のアール・ヌーヴォーよりもスマートで直感的に把握できる明快さを持ったスタイルを送り出した。
 序章の展示はジャック=エミール・リュールマン(1879-1933)の「化粧台」(1925)に始まっているが、見所はオレンジ色したイノック・ブルトンの「砂糖菓子壺、ジャズ」(1928-30)と、新しい題材である電話をかける女をモチーフにしたポーランド人タマラ・ド・レンピッカ女史(1898-1980)の「電話Ⅱ」(1930)である。

2.影響源

 その後で地下一階部分は、影響源が順番に紹介されて行くという構成になっていた。
1.エジプト
・1922年のツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーター以後のエジプト熱によって、ルイ・カルティエ(1875-1942)とその兄弟達がエジプト美術愛好家の情熱を宝飾に持ち込んでみた。
2.古典主義
・芸術トレンドが、少しばかり形式美とスマートさから離れる度に、その反作用として沸き起こるギリシア・ラテンへの回帰の精神は、フランスで世紀末芸術の反動として次第に強くなり始めた。ここではギリシアの赤絵式陶器と一緒に、20世紀初めに宝飾からガラス工芸に乗り移ったアール・ヌーヴォーでお馴染みのルネ・ラリック(1860-1945)の花瓶が展示されていた。
3.アフリカ
・始め前衛芸術家達が大騒ぎし始めたアフリカ芸術熱は大戦前から沸き起こるアフリカ美術「アール・ネーグル」収集熱を生みだし、後にアフリカ的修飾性を「ブラック・デコ」と呼んで讃えるほどだった。いよいよジョセフィン・べーカーが登場するのを待つだけのようだ。
4.中国
・翡翠(ひすい)つまり中国で云う玉(ぎょく)の質感とシンプルなプロポーションに引かれたそうだ。
5.日本
・世紀末ジャポネスクブームほどではないが、漆の質感と単純形態、それに鮫皮の使用などの例もあるから、こいつは日本の影響かも知れないと。日本で19世紀中頃作られた「金色鳥さんぎゅうぎゅう」(なんだそりゃ)が面白かった。
6.中米
・ニューヨーク摩天楼の20年代高層ビルの特徴である階段状上層部分セットバックは、例の南米古代の階段ピラミッドをまねたそうだ。そりゃ驚いた。虐めに虐めて民族ことごとく滅亡させておいて、後からマヤやアステカの文化を吸収するとは大した玉だ。ロサンゼルスにある古代建築見たようなフランク・ロイド・ライト(1867/9-1959)の「ホリーホック・ハウス」(1921)の写真が展示されていた。
7.アール・ヌーヴォー
・グラスゴー派のチャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928)とか、彼の影響も受けたヴィーン分離派のヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)やコロマン・モーザーとか、フランク・ロイド・ライトの幾何学的建築美も、すでに幾分かアール・デコなのだと紹介していた。特にフランク・ロイド・ライトの1912頃作られたステンド・グラスが良い感じだ。ルネ・ラリックの「ランプ、2羽の孔雀」(1925)もあり、ラリックはもはやすっかりガラス人だ。
8.ナショナル・トラディション(民族伝統)
・要するに国民主義的に我が国伝統を発掘しようと云う情熱を指すのだが、フランスでは世紀末にロココ・リヴァイバルがあったり、続いて18世紀新古典主義への回帰があったり、ヴィーンでもヴィーダーマイヤーに関心が向けられたり、様々な我が国の過去伝統様式が模索された。
9.アヴァン=ギャルド
・「前衛芸術すんばらすぃー」とアヴァン=ギャルドの理念を讃えて取り込む要素も見られ、キュビスム、フォーヴィスム、オランダのデ・スティールやらロシア構成主義などの旧来芸術否定の波が、旧来修飾芸術否定の側面で一致したりなんかして、新しい価値観で作品を送り出していた。マリー・ローランさん(1883-1956)(・・・なんか違うな。)の「メゾン・キュビストのための飾り絵」(1912)とか、ロシア人のソニア・ドローネ(1885-1979)の詩とデザインが一体化した1913年の作品や、フェルナン・レジェ(1881-1955)の「女と花」(1926)、お騒がせのマルセルじゃない方の彫刻家のレイモン・デュシャン=ヴィヨン(1876-1918)の作品、そして楽天家のラウル・デュフィ(1877-1953)の布地修飾などが豪華に送り出され、アンリ・マティス(1869-1954)が衣装デザインしたという、ディアギレフとエキゾチックな仲間達であるバレエ・リュスのバレエ「ナイチンゲールの歌」の衣装(1920)が展示してあったが、ナイチンゲールの歌声に癒されてしまった中国皇帝のバレエでストラヴィンスキーが作曲を行なったことよりも、展示場でこれを見ていたカップルが頭の前に突き出た耳のような物を見て、「ポケモン、ポケモン」と言っていたのが忘れられない。そのポケモンを抜けると、「ストランド・パレス・ホテル」の入り口であるエントランスを復元した光り輝く展示に目が眩(くら)み、黄色い光の中にぺかぺかとピカチュウの幻影がうろつくので、こりゃあいけないと慌てて階段をよじ登るといよいよ地下を後にして、1階フロアーに到達する。

3.アール・デコ展(1925)とルヴュー・ネグル

 現代産業修飾芸術国際博覧会(1925)は、現代芸術とデザインを展示すべしとの規定によって、現代、修飾、産業、芸術というキーワードのきわどいバランスの上に成り立っていた。ドイツは不参加で、アメリカは辞退するし、オランダのデ・スティールの参加もなく、イギリスの作品は面白くないので、ほとんどフランスのための博覧会になってしまったのである。それじゃあ、パリっ子のスタイルで遣らせて頂こうじゃないかと、噴水から照明から、ショーウィンドウから光の操作を駆使して光源芸術として送り出し、博覧会の中心に商業と修飾芸術のきわどいバランスの結晶である、パリでの商品販売中枢を担う各種デパートが組織した工房によるパヴィリオン群建ち並び、一方ではブティック街がショーウィンドー宜しく立ち並び、消費と云うなの娯楽、商品と結びついた視覚芸術の効果を演出、「修飾芸術の都にしてお買い物のメッカこそ花の都パリ」といった精神で博覧会を構成してみることになった。こうしたお買い物の精神は、フランス生まれの映画が第7芸術と呼ばれると、ブティック通りを賑わす女性ファッションと高価アクセサリー郡、ファッションも直ちに第8芸術と呼ばれるようになり、仕立て産業(クチュール産業)、オート・クチュール製品がフランスらしさとして世界に配信され、ショーウィンドウが楽しい眼の誘惑に訴えて販売を行なえば、抽象的で非現実的なマネキンが立ち並んでドレスの美しさを引き立てる、という真に女性ターゲットの魅惑のお買い物スタイルが提供され始めたのである。時あたかも、第1次大戦後の1918年にイギリスで女性参政権が認められると、各国がこれに続き次第に制度的解放が男性従属からの解放を伴って登場した、現代的な女性というものが登場し始めていた。ちょうどこの頃、19世紀以来始まった女性のスポーツも盛んになり、激しい動きのダンス「チャールストン」の大ブームによって「チャールストンな時代」とまで呼ばれる20年代に相応しい女性、フランス語で「ギャルソンヌ」達が、男性諸君のすることを悉(ことごと)くご自分でなさって、始めてドレスからニョキン出た足の美しさを靴で着飾ざると大いに満ち足りた気分になったという。
 博覧会のテーマには「劇場・庭園・通りの芸術」という題も掲げられ、コラムに書いてあるところ、始めて広告と販売性に直結する商業的建築・商業的展示の演出、すなわちブティック街がショーウィンド群がる婦女子に向けて通りの演出がなされたという。一方でル・コルビュジエ(1887-1965)の建築した「エスプリ・ヌーヴォー館」では修飾を否定し、コンスタンティン・メルニコフも「ソヴィエト館」で過去を否定し構造主義を打ち出すなど、修飾自体を否定する思想も一緒に博覧会に参加して、植民地パヴィリオン群は犬のように取り扱うべき現地民の芸術作品を、ありがたくもすぐれた欧米人が眺めて使わすという精神で建築され、とりわけ黒人芸術「アール・ネーグル」への関心が高まった。奇(く)しくも、この1925年という年こそ、ル・コルビュジエも「ぞっこんいかれちまった」という黒人女性ジェセフィン・ベーカー(1906-1975)の狂乱ダンスを引き連れた「ルヴュー・ネーグル」がパリのシャンゼリゼ劇場で行なわれ、パリの男性の皆さんを右往左往させた年だったのである。
 展示は、博覧会の各種ポスターや「コレクショヌール館」内に納められていたジャック=エミール・リュールマンの家具やら、ジャン・デュパの暖炉用修飾画「インコ」やら、謎のシロクマが展示されたり、「フランス大使館」内のアンドレ・グルー(1884-1967)のタンスが写真と共に展示され、ヴィーン工房のヨーゼフ・ホフマンの金属製ボールよりは、エドワード・ハールドのガラスによる「花瓶と台、花火」の方が好ましく思われた。
 ここで展示フロアーは、直線に進む回廊的部分から、1階を広く閉めるメインフロアーに移行し、ラウル・デュフィの「家具用布地、ダンス」などと共に、最も楽しい楽しくて何度も見たくなるようなポール・コラン(1892-1984)の「黒い喧噪」からの12点の図版が展示され、彼は「ルヴュー・ネーグル」のポスターで大成功を収めたので、踊り狂う黒人ジョセフィン・ベーカーを讃える26枚の版画集を作成し、エキサイティングで愉快満ちあふれる世界を表わして見せたのである。もちろんフロアーの上ではVTRから白黒で踊りまくるジョセフィン・ベーカーが全身を揺さぶりなさっているのだが、お見事なり東京都美術館、この場所はかつてアール・ヌーヴォー展でロイ・フラー(1862-1928)の踊りが映し出されていた、その場所では無かっただろうか。ロイ・フラーとジョセフィン・べーカー、まさに両方の時代をそれぞれに代表して一歩も譲ることのない、踊り狂う時代の代表選手だった。

4.「アール・デコ」の展開

 様々なジャンルを駆けめぐるアール・デコ精神が高級芸術から安価な日用品に至るまで、映画・写真・ファッションなど新しい芸術とされた分野にも浸透し、中でも女性向けの衣類や宝飾の華やぎは20年代を謳歌したが、29年に発狂状態に株を買いあさっていたアメリカ民衆が、ある朝不意に「空っぽの株」に気が付いて大暴落に陥ってみれば、見事に債務国であるヨーロッパなどにドル株価下落の恐怖が派生して「世界恐慌」の幕が切って落とされてしまった。その後、安価な商品と簡単なフォームを新素材によって製作するトレンドが増加すると、だんだんかえって修飾を一層無くしたフォームの方が素敵にさえ感じられてきたのが、30年代の新しいトレンドなのだという。
 室内修飾として室内環境と密接に結びついた壁掛け絵画に価値を見いだしたマリー・ローランさん(・・・。)は修飾家のアンドレ・グルーやアンドレ・マールらと親しい間柄で、ファッション・デザイナーのポール・ポワレ(1879-1944)とも関係があったので、そのせいもあってか「家具の芸術って素敵な言葉だわ。」と室内修飾としての絵画に大いに興味を引かれていた。ここではそのような絵画から「読書する女」、「女と犬と猫」などが展示され、非常に現代的な椅子や机などの家具に展示が移行している。カルティエの作った各種宝飾類が女性用宝飾の重要性をアピールしつつ進むと、やがて花瓶とか壺とか灰皿とか飾られる中にルネ・ラリックのワイン用「グラス」(1925頃)や「オレンジの花瓶」(1926デザイン)が飾ってあったが、かつてアール・ヌーヴォー展で代表作品の座を射止めていたルネ・ラリックがアール・デコでも大活躍で、日本全国に1千万人は居ないだろうラリックファンにはたまらない展覧会である。またイギリス人のクラリス・クリフの水差しや花瓶の故意に(?)幾分アマチュアじみた豊かな表現力は、何となくよさげである。(・・・よさげって、あんた。)他にはライオンやら人間やらの陶器の置物や、本の装丁(そうてい、本の外見修飾)、一方で白黒写真の中で飾り立てられた「流星に扮したナンシー・ビートン」(1929)はお目々きらきら少女漫画の世界を早くも彷彿とさせていた。
 フロアー中央には女性用ドレスが展示してある。かつてコルセットでぎゅうぎゅうに締め付けたウェストが年中貧血を沸き起こして、実際の仕事に役立たないので、目覚めた新しい女性達は怒り狂って、男性ながらに仕立屋のポール・ポワレ(1879-1944)が率先して「コルセットを外せ、衣服革命だ!」と叫ぶのに呼応して、夜だけコルセットを外せと迫り来る男性達に向かって、昼間からコルセットを投げつけては打ちのめし、1920年代にはウェストを全く閉めない寸胴型女性衣類のトレンドである「フラッパー・ドレス」または「筒っぽう」が大流行することになった。しかし30年代にはいると、今度はやっぱり女性の美しさを最大限に引き立てないと乙女心が満たされないのに気が付いて、進んで胸元とウェストのくびれを流線型で形どってくれるバイアス・カットのイブニング・ドレスなどが登場してきた。バイアス・カットはマドレーヌ・ヴィオネが布を斜めに切るという何だか知らんがとにかく革新的な方法で20世紀ドレスの幕を切って落としたとか書いてありまする。展示は、普段着のメーテル見たような(無茶苦茶な上に分かる人が少なそうな例えだ)ココ・シャネル(1883-1971)のイヴニング・ドレスや、古代ローマ人チックなジャン・パトゥのイヴニング・ドレスなどが展示されていた。それらを見た後で、ドレスの横に飾ってあるタマラ・ド・レンピッカの「マルジョリ・フェリーの肖像」(1932)を見れば、後は2階への階段に向かうだけだ。

交通の発達と世界への広がり

 カタログによると、1926年のリンドバーク大西洋横断から、1937年のドイツ飛行船ヒンデンブルク炎上まで交通の発達やら旅行のレジャー化大衆化が急激に進んで、一方では豪華客船「ノルマンディー」号などにはアール・デコ様式満載で室内修飾が施されたそうで、列車敷設など近代化進む各国で続々アール・デコ様式のブームが派生していったという。ウクライナ生まれのパリっ子であるアドルフ・ジャン=マリー・ムーロン・カッサンドル(略してAMカッサンドル)(1901-1968)が1935年の「ノルマンディー」号進水の時に描いたポスター「ノルマンディー号」や、有名なカッサンドルのポスター「北方急行」などが掲載され、続いて各地のアール・デコが紹介されていく。この時期のポスターでは、高ぶった芸術精神は間抜けな物とされ、「飾るのは展示室じゃなくて町中なんだよ、おまけに審査するのは芸術家じゃなくて、一般大衆なんだよ、このターコ。」と叫びながら、インパクトと明瞭、明快さが重視されつつ、急激に発展を遂げて、理念上は20-30年代に今日に続くポスター伝統の精神は完成してしまっていた。その重要な推進者がカッサンドルだったが、芸術も歴史も生物進化も、均一にのこのこ進んで行く訳ではないのである。ある状況下で急激に発展して変質したり、登場したり、大人になったり、滅んだりしていく。すでにアールデコの時期に、ポスター制作は画家やイラストレータだけの仕事ではなく、広告代理店や広告部が担当する企業的活動に変質していった。

日本

・1923年の関東大震災後の復興がモダンスタイルを謳歌している内にうっかり「モガモガ」「モボモボ」と互いに呼び合う謎の若手集団モダンガール、モダンボーイを流行させ、1925年のアール・デコ展の出品が冴えなかったのに怒り狂った日本人芸術家達が工芸グループ「无型(むけい、型のないってことか)」を結成して大騒ぎしたという。他には震災でも倒れなかったフランク・ロイド・ライト設計の旧帝国ホテルでの「ディナーセット」の皿などがやはり彼のデザインしたものとして展示されていた。

中国

・国際都市上海を経由して広まる新しいデザインがチョンサン(長杉)という衣服のデザインとして展示されていた。

アメリカ

・その前にオーストラリアもあったが、アメリカではマンハッタンのセットバックに、1930年代のアメリカ的流行である流線型やら、製品をプラスチックなどのケースで包み込んで出来上がりの方法「スタイリング」などの紹介がされ、それにも関わらずチェコ生まれのジャン・マツルカが描いた「楽器」(1927)の印象だけが非常に強く焼き付けられた。

(おまけ)カタログに見るアール・ヌーヴォとの違い

・文様的動植物的な曲線に対する直線、幾何学、円の嗜好
・絵画性や視覚性にたいする触覚性の勝利
・混雑しないすぐに把握できるスマートなプロポーション
・ベークライト、金属など新しい素材の使用
・増大する機器のデザインとしての修飾
・アフリカ的修飾(ブラック・デコ)などの影響
・踊り狂う裸の黒人ジョゼフィン・ベーカー
・新しい女性である、モダン・ガール、ギャルソンヌ、ファーム・モデルヌが、第1次大戦時需要を増した女性の自立と政権獲得、ショッピングとさまざまにクローズアップ
・アール・デコのキーワードに「修飾芸術」「モダン・ガール」「ネグロフィリア(黒人びいき)」が
・技術発展と大衆化、資本主義の拡大とグローバリゼーションの到来を告げる運動としてのアール・デコ

結論

・とにかく面白いからこれから巡る福岡展、大阪展に行こうか迷っている人は、仕事を休んでゆっくり見られる平日に美術館に直行だ!(ただし、つまらなかったからといって、責任は問わないでおくれ。)

2005/07/04
2005/07/05改訂

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