・イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館が中心になって開催されたアール・ヌーヴォー展のカタログに基づく戯曲。ちゃんとした説明になっていないので、そのうち別に解説を作っておきましょうね。
アドルフ・レッテがあまりにも沢山の分子に付いて行けず混乱状態に陥ってしまい絶えまざる不安の中で社会状態を把握してしまったのは1898年になってからだと? しまった、叫ぶのが一年遅れてしまったではないか。ブラームスでさえ1897年(←ここでは身内ネタとしてオケゲム没後400年記念の年を指して言っている。)を律儀に守り抜いた揚句に、ゆとりを持って天に昇っていったと言うのに、いったい何を考えているのだ。そんな事だから今だにアール・ヌーヴォーが何ぼのものかと学者達がもめるようなことになってしまうのだ。反合理主義だと叫んでいる横で合理主義さと叫ばれたら、分子のぶつかり合いだと慌てて叫んでしまったレッテの言う事の方が正解ではないのか。なんだと、共通の合言葉モダニティーがみんなで叫ばれているのだから、芸術の用途が変わるなら芸術そのものが変わらなければならないだと。叫んだのか、つい勢いあまってそう叫んでしまったと言うのか。商工業に貿易に新しい技術に市場の奪い合い、みんなが新しい状況を感じている中ですべての造形手段の階層をなくして総合芸術作品を目指してしまったと言うのか。ついに暴れまわるイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動とフランスの象徴主義を経由して、虐げられた修飾芸術の分野が自ら焦点の役を買って出た。ベルギーのアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド(1853-1957)が突撃隊を試みたら、フランスのエミール・ガレ(1846-1904)までがつい一緒に飛び出して、しまった、それにつられて皆さんご一緒に発進してしまったではないか。何だと、三つか、三つの遣り方を混ぜ合わせながら出発してしまったと言うのか。自然、歴史、象徴が三匹揃ってインスピレーションすごくいい!と叫んだら、各地域の特性と合い重なり合って、もう、もう何が何だかわからないではないか。
待て、落ち着くんだ。総合芸術、総合芸術と叫んだのは世紀末だけではない筈だ。既に初期三大芸術思想家たちが三つの地域でそれぞれ新しい思想を大衆にくべたのだ。ドイツのゴットフリート・ゼンパー(1803-1879)にフランスのウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ=ル=デュク(1814-1879)、そしてお馴染みのイギリスのジョン・ラスキン(1819-1901)達を見てみろ。なんと凛々しいお姿ではないか。こら、ラスキン、少しばかり前に出すぎだ、下がりなさい。(←これは、ラスキンだけが20世紀にのめり込んだことを指しているとも、名前がよく知られているのを指して居るとも解釈できる。)
1893-1895年の第一時期に、ロンドンとブリュッセルとパリにおける沢山の育み合い合戦に刺激的な対応を迫られたばかりに、つい足を滑らせて十分に展開を遂げた作品が生まれてしまった。様式の一貫性を互いにひけらかし合いながら、問題意識がゆとりを持って昇っていってしまったのだ。なに?もっとも重要な出来事は、世間に対して品物や思想を提示し販売する為のインフラストラクチャー(社会的な生産基盤)が整えられてしまった事だと。言いやがったな。もうこうなったら重要な四つの出来事を告げ口してやる。
①1893年ロンドンで「ザ・ステュディオ」が創刊され、オーブリー・ビアズリ(1872-1898)がオスカー・ワイルドに描いたサロメ万々歳イラストが人々をアール・ヌーヴォーと熱狂させたら、一年遅れたばっかりにレッテが巻き起こしてしまった呪いにくべられてか、ビアズリーは1898年に念仏さんになってしまった。
②1893年ブリュッセルではヴィクトール・オルタがタッセル邸っていいと作ってしまった。アール・ヌーヴォーの代表的邸宅を作ってしまった。
③1894年ブリュッセルでアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドがやってのけた。「芸術の浄化」を発表したら新芸術の宣言文としてヨーロッパ芸術家を駆けめぐってしまった。
④1895年、皆様、そして今日のその時がやって参りました。12月の寒さに震えるドイツ生まれのジークフリートがフランスに帰化するや否や、サミュエル、サミュエルと煽て揚げられながら新しいギャラリーを仕立て上げてしまった。「ラール・ヌーヴォー・ビング」という店の名前がそのまんまアール・ヌーヴォーの語源となっただと。奴か、奴なのか、サミュエル・ビング(1838-1919)その人のお目見えなのか。
1895年から1900年の第二の段階では量産型があらゆる地域を泳ぎ回り始めた。ほら見たことか、1900年のパリ万博では広大な企業家の活動と合い重なって、夏目漱石(←留学途中にこのパリ博を見物している)が動く歩道を転げ回っている中にあっても、ゆとりを持って己惚れ上がっているではないか。すでに編み出しを修了した(あたかも学業のように)中堅の芸術家と、これから編み出そうという履修の新米が共に更なる高みを目指して切磋琢磨していたのだ。
第三段階の1900-1914年には、皆さん揃って舟を漕ぎだしたから、定着したらもはや芸術冒険ではないのだと気が付いた履修の芸術家達は、さらに新しい船に乗り移ってしまったそうだ。しかしこの間に起こった出版物、経済に目をつけた国の学校作り、そして万博という新芸術推進の三大要素は、次の世代を更に突進させていくのだから、たとえ1910年、11年の博覧会ではもはや片隅で拗ねる以外には何も出来なくなってしまっても、アール・ヌーヴォー、これは無駄死(じ)になどではない、これは無駄死(じ)になどではないのだ。
パリのオペラ座みたいなバロック野郎の脳味噌にはガルニエが良く似合うといったのは誰だったか。ルイ16世の頃には柔らかな表現に目覚めてしまったロココの心だって、19Cの復興に憧れの花を見事に咲かせきったのだ。エドモン・ド・ゴンクールやジュール兄弟だけが特別なのではない、18Cに最後のロレーヌ候万歳と叫んでしまったナンシーにだってナンシー派、あるいはガレと36人の同志達が集結してパリと互角に渡り合った事を良く覚えておけ。
オリエントがヤーパンだとは呆れ果てた御心だ。だが結局はイスラム文化圏こそがヨーロッパにとってのオリエントに変わりはないのだから、お前の御心は一人よがりに過ぎなかったのではないか。エナメル彩と立て続けに叫びながらオリエント修飾の本を出版していた19世紀ヨーロッパの御心が元で、ウィリアム・モリスが壁紙をオリエント調に設定している隙を見て、皆さんこぞってエジプトマムルーク朝から高価なランプを土産に持ち帰って来てしまっている所でも見て、少しは反省したらどうなのだ。なにも鞭の曲線だけが特別ではないだろう。
ヴァナキュラー、ヴァナキュラーと何度も叫んでいるのが陣内さんだとするならば、確かにリージョナリズムとしか言いようのない地方主義という奴が、フォーク・アートを今までにない本質的なものとして人々に捉えさせる原動力だったには違いない。
そんな中でウィリアム・ワーズワース(1770-1850)が率先して、「文学を始めとする芸術は個人ではない、もっと土着の所からだ!」と叫んだばっかりに、ゴーギャン(1848-1903)とエミール・ベルナール(1868-1941)が一緒になって「共同体からだ!」と呼応してしまった。馬鹿な、ナビ派に影響を与えたのはいいとしても、自ら「共同体共同体」と二回ほど叫んでからタヒチに逃げ込んで13歳と結ばれたら、破廉恥な、ゴーギャン、それはフォークの名を借りて紙一重を突破してしまっているではないか。奥さんが本国でアレアレア(喜び亭主)とあざ笑われた責任をどう取る積りなのだ。愚か者への警鐘を叫ぼうとしたウィリアム・モリス(1834-1896)は、詩人の名にかけてサガまでも用いての告発を試みようとした所(←これは単にモリスがサガから影響を受けていたことを表わしたくて書いたのだろう。)、逆にタヒチから狙い撃ちにされて1897年を待たずに舞台の上から奈落の底まで転げ落ちて行ってしまった。
シーボルトが叫んだ、来日外交官達も叫んだ、コレクターが後を追ったら、1873年には明治政府が自ら己惚れて欧州に出張してしまう熱気の中で、ウィーン万博自体は株価と共に転げ落ちてしまった。それにも関わらず、ジークフリート・ビング(1838-1905)のような日本美術商達が、リバティ商会も混ぜろと叫びながら、浮世絵の絵画のアシンメトリーすっごくいいと画家達をジャポネスクに引きずり込む一方で、中国は眠れる獅子から起き上がれないパンダに転落していった。そんな事もあって日本人達の生活とは、ほとんど芸術そのものなのではないかという、コロン的な超誇大妄想が編み出されてしまったが、ヴェスプッチはそれのどこがアジアなものかと呟いてみた。(←もちろんヴェスプッチはアール・ヌーヴォーとは何の関係もない、ただコロン、つまりコロンブスに掛けた語呂合わせだろう。)
イギリスだけが特別なのだという自意識の中でゴシックリバイバルを試みながら、花己惚れた曲線美も比較的少ないのだから、我々こそが先駆者ではないのか、それとも結局はただの部外者に過ぎないのだろうかと、あれこれ悩み疲れたイギリスは、80年代に既に作られていたアーサー・ヘイゲイト・マクマードウ(1851-1942)の仕事っぷりに活路を見出せはしないかと考えてみた。それを見ていたお隣りのベルギーはイングリッシュだけが特別に違いないのだと思い込み、1884年のレ・ヴァン(二十人会)にホイッスラーを迎える事によって「自由美学」として更なる突進を試みてしまった。にもかかわらずロセッティ、ミレイ、ホフマン・ハントが起こしたラファエロ前派の活動は、すでに1848年には始まってしまい、モリスの商会も61年には産声を張り上げすぎて、お静かにカードを振り回されている。ゴドウィンは1867年に黒いサイドボードを展示場にくべた。
実証哲学があまりにも威張り過ぎた為に80年代に入るとニーチェやベルクソンが合理性の前段階が重要であると思ってしまった本当の原因が合理主義の突進をどうしても行きすぎだと感じてしまう動物的な限界にあると言うのならば古代の神話熱や宗教熱が高まってしまったのも仕方のない事なのかしらなどという考えでは1886年のボードレール以後にフランスで沸き起こった象徴主義宣言の論争すら明らかにする事は難しいのではないか(一息で読むと言うのか)。イデニストが意識以前のスーパー意識を掘り起こしながら、「表現内容の単純化と我が内なる象徴性!!!」と叫んでみた所で、ジョセファン・ベラダンが1892年の第1回薔薇十字美術展を開催するのを止める事は出来ないのだ。なんだ、よく考えれば、どちらも象徴主義のなれの果てなのだから、別にいいではないか。クロワニズムもおーんて、と叫んだポール・セリュジエの後を追いかけたのか追い付かれたのか、ポール・ランソンはナビの風景を余す所無く繰り広げながら、階段をゆとりを持って昇ったり下りたりしていた。その頃モーリス・ドニはリトグラフで奥さんと戯れながら、オディロン・ルドンはオフィーリアと叫びすぎて‥‥‥。
えへん、修飾家のオーウェン・ジョーンズが記念の年でも何でもない1856年に既にイギリスで出版してしまっているではないか。1897年にフランスでウジェーヌ・グラッセがオケゲム記念出版をする頃には、すっかり定着しているのだから残念ながら新型ではないのだ。ベニヤミンは技術に包囲された芸術の最後の反撃と述べているがどんなものだろう。首の所だけでも曲線をくねらせながらゆとりを貰って帰って行くとでも言う積りなのかしら。
僕達だけが本当の共和制であるという自覚がクテュリエールまでも芸術家であるという欲望と、政府までが修飾学校と叫んでしまう現実を生み出したからさあ大変、エクトル・ギマールがエクステリアとインテリアの総合を成し遂げながら、建築の無政府主義者ラヴァショルというあだ名をすっかり返上しきってしまっぱ。
ベルギーが1830年にオランダからの独立運動を試みてしまったのにやわらかく便乗してまんまと首都の座を射止めてしまったお茶目な都市だよブリュッセル。レ・ヴァン改め自由美学のみなぎる力で2番己惚れまでも見事に演じきってしまったパリより早いよブリュッセル。1893年にヴィクトール・オルタがタッセル邸を作ってみたら、ヴァン・ド・ヴェルドも俺も交ぜろとパンフレットを出してしまった。
校長先生がグラスゴー美術学校に斬新なスタイルとザ・フォーを導入する事によってチャールズ・レニー・マキントッシュは新しいOS作りにいそしんだ。ケイト・クランストンは彼に仕事を任せる事によってウィロウ・ティー・ルームのような優れた設計をあまねく堪能させられてしまった。
分離派とは言っても1897年いいと叫びながら金メッキの玉ねぎの上で踊りを踊っているだけだったのだけれども、その玉ねぎの設計をしたヨーゼフ・マリア・オルブリヒと一緒にオットー・ヴァーグナー(妻ヴァーグナーの夫)(←これは何の意味もない。)の元で働いていたヨーゼフ・ホフマンはコロマン・モーザーを引き連れて1903年にウィーン工房を仕立て上げちゃったの。1900年の第8回分離派展でマッキントッシュが展示場にくべられると、全員一斉に立ち上がって思いのほか脱帽してしまっさ。
ルイス・カムフォート・ティファニー(1848-1933)によるたった一人のアール・ヌーヴォーは、南北戦争後の金メッキ時代の好景気を平泳ぎで泳ぎ回っていたカーネギーや、進んで溺れてしまったロックフェラーのような成金的な社会福祉や、文化の足りない国家の焦りに元づく文化的公共事業の一斉建立時代にまんまと乗りおおせた。教会築造ブームの中でステンドグラスを泳がせるという荒業が見事に功を奏したら、遂には吹きガラスまでもが一緒になって泳ぎ始めて、とうとう電気用のランプまでもが編み出されてしまった。しかしいつしか時は流れ、ジャズエイジ達がそこらへん一帯をスウィングで巡回する遠心力の中で、ガラスはみんな壊れてしまって、残った工房はKKKによって火にくべられた。
・銑鉄ではない、もっと加工しやすい錬鉄をよこせ。そうだ、それでこそ総合建築として使い尽くせると言うものだ。任せておけヴィオレ・ル・デュク、その論理はこのオルタが実行してやる。だからお前は無駄死にではないのだ。
部屋に閉じ込めて室内修飾をしていて貰いたいという意味でこそ修飾と女性が結びつくのだとサロン花達が男社会で述べているに留まったために、情に燃えた若い夫たちはいざという時になると一生懸命コルセットを外さなければならなかった。
ドレフュス事件で俺もまぜろと立ち上がったばかりにナンシー市民全員からお早うの挨拶もされない中で切ない死を迎えるというガレの生き様だけがガラスを高める事が出来たのだ。
スパゲティー様式だのうなぎ様式だのくびれた優しい腰の様式だの、何でも食べ物や女性に例えてしまう事を阿刀田戦法と言います。
そうだ、カラー・リトグラフ、立ち止まっちゃ駄目だ、ほら走るんだよ広告に向かって。
世紀の博覧会だからこそ建築は折衷様式にもなる訳だけれども、圧巻なのはやはり電気館と水力館を全裸のままで開けっぴろげにほっつき歩いているシェラザードさんだった。歩く歩道では皆さんご一緒に転げまわっていた。(日本人込みで)
飛び出したモリスは一足先にひまわり刺繍で名前をくべた。
純粋芸術という嫌われた用語を使うならば、長年の研究の成果と相重なって彫刻作品群にまで潜り込みを演じきってしまったのはゴーガンやカリエスの仕業です。(おお、まともだ)
ジークフリートか、牧歌だけが1895年のラール・ヌーヴォー・ビングと言う店の名前から時代の様式名を導き出す事が出来ると言うのか。ぼっかいい!と叫びながら。馬鹿な、渤海といったら698年に朝鮮半島の付け根あたりにいらっしゃった国の名前ではないか。926年に契丹に滅ぼされたからと言ってジークフリートと何の関係があるのだ。ヴァーグナー、アジアにまで触発されたか。ジークフリート渤海、ただ事ではない。
以上。2001/06/28
・ル・コルヴィジェはジョセフィン・ベーカーにぞっこんいかれちまう事によって初めて、直線のヴォワザン計画(1925年)から脱出してアルジェのまちのオヴュ計画に移行する事が出来た。
・1900のロイ・フラーの万博公演に川上定奴と音次郎が着物を脱ぎながら叫んでしまったら、ピカソやロダンだけでなくアンドレ・ジッドまでもがコルセットを外せと暴れて逮捕された。
・1873年のヴィーン万博は初めて明治政府が自ら参加したら、フランツ・ヨーゼフもろともヴィーン好景気は弾けてしまった。にもかかわらずバブルの名はヘンデルも転げ落ちた南海会社崩壊のときに生まれたから注意が必要である。オットー・ヴァーグナーとグルタフ・クリムトは共に戦争が終結したにもかかわらず勝手に1918年に自爆してしまった。一方ヨーゼフ・シュンペーターは1950まで元気満々である。ちなみに1898年のレッテの年はエリザベートが甘ったれた無政府論者に討たれてしまったが、一人っ子のルドルフは既に1889年にゴッホを予言して自害しているから心配はいらないよ。
馬鹿野郎、最後のハプスブルク皇帝はカール1世だ、間違うな。
・モリス(1834-1896)………1861年ウェップやバーン・ジョーンズらとモリス・マーシャル・フォーフナー商会を設立。
・クリムトのパートナーといえばエミーリエ・フレーゲはシャネルやポワレよりもいち早くコルセットをクリムトにはずされてしまった。ポワレは男だったのに‥‥‥。
・ダーウィンの進化論は1859年、翌年の1860年にはハクスレーが僧をコテンパンに炒め物にした。
2004/8/7