開催期間ーーー2004/4/15~7/4
開催場所ーーー東京都美術館(上野)
・一時はフランドル地方やスペインも領土にしてしまったハプスブルク家が、代々そろえもそろえた絵画が収まるウィーン美術史美術館。そこからコレクション層の厚い16,7世紀オランダ・フランドル絵画をお見せしてやろうという、ありがたい企画で、なんと、フェルメールの「画家のアトリエ」がやってくる。
オーストリアはウィーンと言えば、ハプスブルク家のお膝元。歴代の皇帝一族が集めに集めた絵画8000点の中から、16,17世紀のオランダ・フランドル絵画にターゲットを絞って58点日本で公開してあげちゃう。この企画は要するにヨハネス・フェルメール(1632-1675)の「絵画芸術」を貸し出す関係で纏められたような企画なのだから、ぜひともフェルメールを一生懸命に見てください。ここで見た絵画の多くを、あなたはウィーン美術史美術館を訪れた時見つけることが出来るでしょう。
1477年、マクシミリアン1世(1459-1519)がブルゴーニュ公国のマリ・ド・ブルゴーニュと結婚したのがひもじいハプスブルク家が一気に拡大するきっかけとなった。実際上マクシミリアンの娘マルガレーテが本格的に開始したような美術品の収集は、カール5世(1500-1558)、フェリペ2世(1527-1598)を越えて、芸術美術大好きっ子のルドルフ2世(1552-1612)が居城をウィーンからプラハに移す頃じゃんじゃん集まってきた。
そんなわけで、ルドルフ2世の宮廷画家として中心にいたバルトロメウス・スプランゲルの絵画も今回展示してある。ルドルフ2世の末の弟アルブレヒト7世はネーデルラントを治めヤン・ブリューゲルを可愛がりながらペーテル・パウル・ルーベンスを宮廷画家にしてみた。その後は1614生まれのレオポルト・ヴィルヘルム大公が首の落ちたイギリス国王の美術収集品を土産よろしく買いあさって、美術収集に拍車を掛けるなど、コレクションは拡大していくのである。
ところで、バッハやヘンデルを後世に伝えるのに重要な役割を果たした帝室王宮図書館館長のゴットフリート・ヴァン・スヴィーテンは、王宮が購入する前にフェルメールの「絵画芸術」を持っていた本人である。スヴィーテン男爵よ、まさかこんな所にまで顔を出すとは。恐れ入りました。
1477年、ハプスブルク家のマクシミリアン皇太子(1459-1519)[後93年からマクシミリアン1世]がブルゴーニュ公国のマリ・ド・ブルゴーニュと結婚したことにより低地の国という意味のネーデルラント地方がハプスブルク家によって広く支配されることになった。
中世時代から貿易の中心地としてそれぞれの都市が独立的に繁栄していたこの地域は、16世紀半ばハプスブルク出身のスペイン国王フェリペ2世が圧倒的中央集権主義をネーデルラントに押しつける政策に対して立ち上がる。それは、当時ネーデルラント地方で急激に増加していた宗教改革運動と重ね合わさり、スペインのカトリックに対するプロテスタント達の反乱という意味も合わせ持っていた。
独立戦争の過程でネーデルラント南部はスペイン側に鞍替え、1579年にユトレヒト同盟を結成した北部の7つの州は、1581年にスペインから独立を宣言、「ネーデルラント連邦共和国」を名乗った。そして1609年スペインとの間に12年の休戦条約を取り付けた時、事実上の独立は達成された。現在のオランダとベルギーの原型はこのようにして誕生したのである。
そのようなわけで分裂後の南北ネーデルラントの絵画は、元々同じ文化圏の中で発展した絵画的特徴が、分裂後にそれぞれの道を歩み始めるそのプロセスを見て取ることが出来る。
ここではその前に、ハプスブルク家と関わりの深いネーデルラント出身の画家達の絵画を並べてみた。その中心は偉大なピーテル・ブリューゲルの息子であるところの、ヤン・ブリューゲル(父)である。一族が皆で絵画を描いていると誰が誰やら分らなくなるから気を付けよう。一族ぐるみとか、同業者組合的な画家集団はネーデルラントの特徴だった。もう一人は皇帝ルドルフ2世の宮廷画家としてルネサンス後期のマニエリスム時代に含まれるバルトロメウス・スプランゲルを展示してあげちゃう。
・ワインと豊穣の神バッカスと農耕の女神ケレスが立ち去ると、愛の神は凍えてしまうという、倫理的逸話大好きなローマ時代の劇作家テレンティウスの書き表した内容を絵画にしてみた。
・ただし構図としてはこちらの方がすぐれている。よりによって愚かな人間なんかと抱き合って息子アイネイアースを儲けてしまった妻ウェヌス(ビーナス)が、その息子のためにイタリア征服の道具を作らせるべくまたしても夫を良いようにたぶらかしているシーン。様式はほとんどバロック的なのだそうだ。説明できないから、そのまま書いておく。夫のねじれとクピトへ向かう斜め前への構造線辺りかしら?
・アレクサンドロス大王が妾の一人カンパスペを画家のアペレスに描かせたら、ついうっかり恋心が芽生えてしまったので快くアペレスにくれてやったという太っ腹伝説に基づく。絵画の方は焦点が定まっていない嫌いがある。
・観賞用の花を飾り描くジャンルは、この頃オランダで成立。特に重要なのが、このヤン・ブリューゲルで、「花のブリューゲル」などと呼ばれたりもする。ただし全体は、現実の模写でもなければ、同時期に咲いているものとも限らない。ある種の理想画。
・本当は花の絵だけの専門家ではないヤン・ブリューゲル(1568-1625)が、当時ネーデルラントでよく見られたように他の誰かに人物の部分を任せた作品。中央に豊穣の角を持ったケレスが控え地から天空にかけて4大元素(地水火風)を表わす女神達がたむろする。火と風が抱き合ってさらなる力を発揮することは、山火事を見ただけでもよく分かる。しかし圧倒的なスペースを占めているのは、水と大地、そのもたらす豊穣なのである。
・共同制作により人物はバーレンが描いたとする説が有力。
このフロアーでは、ネーデルラント南北分裂後、スペイン配下に止まってカトリックに落ち着いた、17世紀の南ネーデルラントの絵画をお送りする。
1609年にオランダが事実上の独立を獲得した後、南ネーデルラント地方の絵画は、一般にフランドル絵画として括られる。ハプスブルク家一族からこの地を治めるべく派遣された、総督アルブレヒト大公とその妻、スペイン王フェリペ2世の娘イザベラの宮廷が、この地の絵画活動の中心を担った。
一時この地方でも、カルヴァン主義に身を任せ、キリスト教関係の絵画などを打ち壊す運動が吹き荒れたが、その後カトリックに回帰したこの地方では、再度教会がパトロンとなって芸術家達に宗教的絵画を注文する伝統も復活。この地を代表するペーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)は、宗教画やギリシア神話、歴史を扱った絵画でヨーロッパ中に名を轟かせた。
パトロンの肖像画なども盛んに制作され、ヨーロッパ中から来る注文に対して、ルーベンスは工房を制作して分業体制を敷いた。分業は徹底したもので、背景専門、花専門など様々な画家達が彼の下で一つの作品を仕上げていくことになる。つまりルーベンスの絵画を見る時は演出家・総監督としてルーベンスを見る必要が幾分生じてくる。
このような工房絵画はもともとネーデルラント地方の伝統であり、ルーベンスだけが特別なわけではない。この時期はさらに分裂後のオランダ同様の傾向として、画家達の特定ジャンルへの専門家指向がますます高まった。このフロアーでのもう一人の重要人物アントーン・ファン・ダイク(1599-1641)も、一時期ルーベンスと共に働いていた。
・フェラーラ公エルコーレ・デステの娘であるイザベッラ・デステはエステ荘の噴水で戯れながら16歳でマントヴァのゴンザーガ家フランチェスコ2世と結婚。芸術を養護したら、レオナルド・ダ・ヴィンチとティツィアーノから肖像画を描いて貰うことが出来た。さらにルーベンスまでも模写を通して彼女を描いてしまったら、3人の巨匠に肖像画を描いて貰ったことになるじゃないか。何故こんなことになってしまったのだ。実は、ルーベンスは23歳の時にイタリアはマントヴァ公(つまりゴンザーガ家)の宮廷画家として活躍していたのだ。母の死に際してかフランドルに戻ってきてアルブレヒト大公の宮廷画家となるのは、その後1608年になってからのことです。
ルーベンスは友人の持つ動物園で懸命にライオンを写生することによって生き生きとしたライオンを描いたが、これはルーベンスの絵画の縮小複製である。ルーベンスのライオンは「ヨンストン動物図譜」で採用され、このオランダの本を平賀源内が家財を売り払って購入してしまったら、やがてこの写生を元に日本芸術が、絵画になったり焼き物のデザインになったり繰り返すうちに、挙句の果てに獅子の置物にまで到達したとか。
・12,3世紀の修道士ヘルマンがあまりにもマリア崇拝に熱を上げてマリア様の出現に出くわしてしまったために、仲間からヨーゼフのあだ名を貰うことが出来たという、獲得伝説に基づく。一般には聖女がキリストに対して「神秘の結婚」という形で聖なる祝福を受けるのが一般的なスタイルだが、ここではマリアがヘルマンに対して祝福を与える構図になっている。思えばマリア崇拝は、新教徒側ではすっぽり影を潜めたが、カトリック地域ではますます燃え上がっていた。
・風俗画的風景画の専門家ヤン・シベレヒツがイギリスをモティーフに仕立て上げた臨場感溢れない川越の荷車。風景とは別に後から構成されたかのような風俗的な部分は、全くもってアトリエ制作的であるものの、ありのままの現実を描写したいという意識は大分本格化してきました。
・当時鹿の所だけ狙える本格的狩猟特権は貴族達が握っていたので、市民階級や新興商人達はこのような小型動物の所だけを狙って狩猟を楽しんだ。このような狩猟画も狩猟の記念として、また好事家の楽しみとして数多く描かれたものである。獲物の中では例外的な2匹のウサギはどんぶり物にでもされるのだろうか。死してなおつぶらな瞳で人々に訴えかけてくる……というより目だけ生きてカメラ目線になっている。てっきり生きている目は一つだけだと錯覚して、しかし不思議と落ち着かない気持ちがしてならなかった私たちは、実は狩猟された2匹のウサギに逆に覗かれているという驚愕の事実に衝撃すら覚えるのである。私は「うさぎ美味し、この山」と歌いながら獲物を追いかけた少年時代を思い出し、深く反省の念に駆られるのだった。
・こんな絵も出回っていたのよ。
「猿のたばこ嗜好団」
「猿の床屋に猫の客」
・テニールス家は一族からじゃんじゃかじゃんじゃん画家を輩出したために、ちゃんと名前を覚えないと分らなくなる。ダーフィット・テニールスに至っては2人いるから注意が必要だ。普通は(父)(子)とそれぞれ書かれ、有名な方は(子)である。
・解説は『レンブラントとレンブラント派展』参照。
・かつて支払った金額に対してあまりにも不毛なヴィーン旅行を強いられた時にもしかしたら見たような、見ないような気がするレンブラントの自画像。当時私は絵画なんてまるで興味すらなかった。フェルメールの絵画芸術の前にも立ったはずなのに、見たという事実以外綺麗さっぱり忘れている。
・自画像だとか、肖像画だとか、このような風景画だとか。(下に続く)
・このような農民の風俗画など、ありとあらゆる種類の絵画に専門家が現われて、それがパトロン達に支えられるよりも、市民達が売買する市場に出回って取引されていたオランダ絵画は、経済に歩調を合わせ、17世紀空前絶後の大繁栄を成し遂げた。この絵画では中央背後に「ロンメルポット」の演奏者も見て取ることが出来、もしかしたら実際の劇の一場面を題材にしたものかもしれない。一番右で2本指を突き立てているのは、角の生えた(お間抜け動物の比喩?)寝取られの婿を表しているのだそうだ。
・パイプとヴィオラ・ダ・ガンバとヴィウエルに、娼婦らしき黄色服の女と良犬の後ろで、バックギャモンに興じるゲーマーという、貴族的社交界のひとコマを、ギリシア英雄パラメーデースの子孫ではまったくもってないアントニーが描いて見せた。
・恐るべきことに、当時村の床屋は歯科医や外科を無頓着に兼ね揃えていた。
・この時代の擬人化寓意の最重要読本であるチェーザレ・リーパの「イコノロギア」(1603,ローマ)から、この月桂冠とトランペット、書物をアトリビュートに持つ女性がミューズの一人、クリオを表わすことが分ったが、ここから壮大なドラマが展開された。クリオは歴史を司るミューズであるから、この絵画はまさしく当時最高の絵画であった歴史画を讃えているのだと言う解釈が生まれた。歴史画とは聖書のストーリーを表わした宗教画や、ギリシア・ローマの神話や、数多くの寓意画を含む輝かしい物語絵画のジャンルであり、ルネサンス時代にアルベルティーが大声で叫んでいらいすっかり板についた考え方であった。改めてこの作品を見てくれたまえ、この絵画では後ろ向きの画家が1世紀も遡りそうな古いブルゴーニュ風の衣装を身に着けて、西が上になった地図は北と南に分裂するまえの全ネーデルラントが記されている。どちらも統一されていたネーデルラントを指し示すのだ。しかも縦シワによって真ん中から切り裂かれたようなこの地図は、間違いなく南北分裂を悲しんでいるに違いない。それが証拠に、天上にぶら下がるシャンデリアにはまだ南北分裂前に統一してこの地域を納めていたハプスブルク家の双頭の鷲が施されて悲しげに見詰めているではないか。そして歴史画を司るクリオと、そのクリオをモデルにして絵画を仕上げる後ろ向きの画家。この絵画は歴史画が名実共に最高の地位を享受していた輝かしい時代と、自らが志すも成れなかった歴史画家への思いを、すべて絵画芸術というこの作品の中に折り込んだセンチメンタリズムの勝利なのだ。ついでに、聖ルカといえば、キリストの十字架の下でそれを後世に伝えるために磔刑の絵画を残したとされる聖職者だが、その聖ルカの名前を冠する、聖ルカ組合に関わりのあったフェルメールのことだから、この組合との関わりの中からこうした歴史画の郷愁と賛美の絵画が生まれたことは真に理に適っているのだ。皆のもの、分ったらひれ伏し崇(あが)め奉(たてまつ)って、お賽銭箱にじゃんじゃか小銭を投入せよ。小銭だけでなく、大判小判をざくざく投入せよ。と言うような一方的な解説に対して、今回の美術展のカタログの解説が疑問を投げかけている。
・そもそもリーパの書でも、1604「絵画の書」を記して北方のヴァザーリを志したカレル・ファン・マンデルの本においても、クリオはまずもって名声、栄誉を表わしていて、その名声を後に伝えるべく副次的に史書の意味が表わされたのではないか。現にリーパの本では、歴史ヒストリアの寓意はサトゥルヌス付きで別のところにあるではないか。歴史が前面に出てきたのは、むしろサミュエル・ファン・ホーホストラーテン(1678)の「絵画芸術の高級学校入門」(1678)以来のことではないのか。なんだ、出版に至ってはフェルメールの死後じゃないか。ルカ組合もどうもしっくり来ないし、すでにフェルメールが役職にあったルカ組合からこの絵画を断られたという奇妙な逸話は本当に説明が付くのだろうか。著者は数多くの疑問を呈した後で、この最期まで自宅に置かれた作品は、芸術の昇華ではなく、むしろ己の絵画の技芸を提示するために描いたのではないかと締め括っている。己の技芸の自負と名誉心をありったけ投入して、芸術愛好者や購入者、依頼主などに自らの技芸を提示するという意味を込めて。と言ったことがカタログに書かれているが、勝手にまとめはぐって元の意味とずれている所があるので、興味のある人はカタログの冒頭に書かれた覚え書きに目を通してくださいな。
続いて覚え書き状態にして終わりにしましょうか
・カーテンの謎、当時オランダでは保護のため絵画の前にカーテンなどを吊す習慣があったそうだが、この絵画では絵画内カーテンが手前左を占めて見る者の立場を更に外から眺めるような位置にしている。そのカーテンに誰も座っていない椅子が置かれ、絵画の中でも後ろ向きの画家の技芸を見に来た者に対して座るべき椅子が設けられているが、同時にこの作品を見に来た者に対して座るべき椅子は、その絵画の外に設けられているかのよう。見るものは、前面のカーテンと椅子、中間の画家と机、奥に控えるモデルの少女、さらに背景に掛けられた地図とこれだけでも複雑な奥行きを目にすることになるが、この奥行き感は机の水平面や、床の模様が出す効果(模様の向かっている先が少女に向けられているようにも、地図に向けられているようにも、また手前に誰かが座るであろう椅子の方に向けられているようにも変化する。)や、画家と少女の中間点にあるシャンデリアによって更に複雑なものとされ、ついでにいうと地図のしわは画家にスポットを当てているようだし、カーテンの巻きしわから誰かが座るであろう辺りの視線ラインを通って、画家の視線を経由して、モデルの視線に到達するような奥に向かってUの字の曲線ラインが擬似的に形成されているようにも思えてくる。
・テーブルの上の石膏モデルとスケッチブック+画家の絵画は諸芸術の統一を、あるいはルネサンス期の彫刻、絵画優劣論争を表わしているのかしら。
・もっとも目を引く色彩は、画家の非常に黒と、モデルのブルーで、それぞれ画家は赤で、モデルは緑と黄色でアクセントが与えられている。
・光源が左側カーテンに隠れた窓からだろう。
・画家が手に持っているのはモールスティック、これで腱鞘炎を防ごうと努力。
・当時オランダは地図産業でも世界有数の。
・郵便制度の発達から他の絵では手紙を見て惚ける女性がごろごろ。
・カメラ・オブスキューラすごくいい。とさけびながら。
2004/7/6