モネ、ルノアールと印象派展

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モネ、ルノワールと印象派展

開催期間ーーー2004/2/7~5/9
開催場所ーーーbunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)
・風景画と人物画という構成で印象派の流れをつまみ食い?

主旨

期間  2004/2/7-5-9
場所  Bunkamuraザ・ミュージアム

主旨

・印象派の中心には風景のモネと人物のルノアールが控えていらっしゃるので、この2人の作品をメインに印象派の2つの系譜を辿ってみようかという展覧会。

概説

 1863年、シャルル・ボードレールが唱える現代性モデルニテが若手の間で燃えたぎる最中に、マネが「草上の昼食」で日常生活における一般女性のふしだらヌードを投げ込んだからさあ大変、皆さんこぞって新しい表現で旧来の価値観を打ち壊す運動を開始すべく立ち向かってしまった。
 すでにシャルル・グレールのアトリエで知人になっていたルノアール達を、野外に引きずり出して、野ざらしの中で写生しろと叫んだモネは、だんだん目の前の自然の輝きが、写し取れないもどかしさに打ちのめされて来た。
 さんざん悩み抜いた挙句、新しく知られるようになってきた視覚混合を発見して、遂に彼らは、絵の具を混ぜないで併置して視覚でごまかせ技法に辿り着いた。新技術を駆使した印象派の旅が輝きを求めて、始まったのだ。(何なんだ、この語り口調は。)

  何の技術も知らないので、率直に解説に聞いてみる。
 何でも、光は3原色なり、プリズム7色なりを重ね合わせていけば、次第に明るい白に近づいていくのは、逆にプリズムが白色を分離させているのを見ても分る。この、自ら輝く光同士であるからこそ出来る加法混色に対して、絵の具は混ぜれば混ぜるほど黒になってしまう。これを泣きながら減法混色と命名する。
 こいつのおかげで、画家が自然の色彩豊かさを微妙な色合いの変化により表わそうとあがけばあがくほど、風景や人物は輝きを失っていってしまうという切ないジレンマに泣かされることになった。

 途方に暮れたモネが夜通し泣いていると、1839年に発表されていたミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの「色彩の同時対照法について」と言う論文が、金だらいよろしく天上から降ってきた。このとき目から飛び出たきらめく星の瞬きがインスピレーションを与えたものかどうか……
 そんな話しは知らないが、とにかく、細かく幾つもの色を混ぜないで併置することによって、離れて見詰める人間の視覚では分離できないほどにしてしまえば、人の目には混色として認知されるという遣り口に辿り着いたのである。
 さらに、この併置によって、
  ある色に対して補色関係にある色を配置すると、
   見せたい色が一層輝きを増すという、
 おまけまで付いてくるのだそうだ。
  これが色彩分割(筆触分割)というものである。

 さらに透明絵の具と不透明絵の具というのがあって、透明絵の具だと、色ガラスのように半ば背後の色が透けて、下の色と上の色の混色が生まれるなど、いろいろな遣り方があるそうだ。「不透明絵の具のモネと、透明絵の具のルノアール」という格言について知りたくなったら、さらに絵画の本でも読んでくれたまえ、という感じでしょうか。

・さて、この展覧会は2回行くつもりが、1回だけで時間切れになってしまったために、何だか自分の記憶の中で、中途半端な感じです。愚か者だけに1回見ただけでは、なんだかあやふやで。したがって、軽く見て行きましょう。

1.風景

 1862年に出会ってしまった。シャルル・グレールのアトリエで出会ってしまった。クロード・モネ(1840-1926)オーギュスト・ルノアール(1841-1919)が出会ってしまったのである。人との交流、そのよろこび、自然とのふれあい、それを写し取る喜びが、今まさにそれぞれの気質(タンペラマン)に応じて、多くの画家を印象派へと導いた。

クロード・モネ(1840-1926)

「ヴェトゥイユに咲く花」1881

「ジヴェルニーへの道、冬」1885

「コンタリーニ宮」1908
・ヴェネツィアのコンタリーニ家が1500年代に夏の別荘としてバロック時代に作らせた建物。この年モネはヴェネツィアシリーズに目覚めてしまったとか。

「睡蓮」1907

カミーユ・ピサロ(1830-1903)

「エラニーのレンガ工場」1888
・分割する色をある程度の大きさ、パターンで統一し始めると、次第にまるでモザイク画のような意味合いを持つ点画的印象が強くなっていく。ピサロの場合は、モネよりも点画的傾向が強い。

アルフレッド・シスレー(1839-1899)

「マロニエの散歩道」1878
・シスレーの風景画は、モネなどと較べて恐ろしく地味で、光もモネより鈍いのだが、なんか日本人は好きそう。(感想が小学生レベルな気が……)

「ヴヌーの道」1883

ポール・シニャック(1863-1935)

「ポン・デザール、パリ」1925
・一方、スーラやシニャックは色彩の点を完全にモザイク画の破片の一つ一つのような意味合いで使用。同じ大きさの、同じ形をした沢山の色彩の粒からなる、点画による絵画を完成させた。別のジャンルの絵画を見ているような印象を受けることになる。今回、結構シニャックの絵画が並んでいる。

「レ・ディアブルレからみたオルデンホルン山とベカベッソン山」1903
・まるで日本の風景のような気がしてみた。

2.人物

 おなじところで絵画を学んだなら、アカデミズムのたまものが、同種の絵画へ向かうべきところ、おなじりんごを描いたはずのモネとルノアールの絵画が、はなはだ異なってくるようなのが、気質の違いであり、主観の違いなって、華開くよ印象派といったところか。

オーギュスト・ルノアール(1841-1919)

「黒い帽子の娘」(1895)
・こうした絵画はともかく、やっぱり何の意味も込められていない裸体画が並んでいても、同じに見えてくる側面はぬぐい去ることは出来ないのではないだろうか。意味と感覚に訴える絵画の、意味の部分を排除したのがこの時代ですが、それには危うい側面もあるのです。

「オダリスク」(c1895)

「桃色の服の若い女性」(1916)
・歴史に名高い心霊絵画。恋のライバル関係に破れた女性が川に飛び込んだ直後に、この肖像画の右上に顔が浮かび上がって、ルノアールが階段から転げ落ちたという?
……というのは嘘ですが。

「花と果実のある静物」(1889)

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)

「バティニョールにて」(1888)
・よく知られたどぎつい風刺画よりも、こんな絵画の方が意外と好きだったりするわけです。

・他にヴュイヤールや、ピエール・ボナールがいました。おっと、あとジョルジュ・スーラとアンリ=エドモン・クロスが。

2004/9/14

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