文豪・夏目漱石

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文豪・夏目漱石ーそのこころとまなざしー

注意

・見てから2週間以上経ってから、ほとんど思い出だけで書いているので甚だいい加減です。

1章-生い立ち・学生時代

・入り口に漱石の声を復元して喋らせた等身大人形があり、誕生と両親、家系図や当時の東京の地図が並ぶ。進んで晩年になって書かれた自伝的小説「道草」の原稿があり、進行方向左手に移れば、落第した時の全校生徒成績表には名称が塩原金之助と記される。翌年からは首席で通した事が記され、英語で書かれた数学の答案に高い点数が付けられている。進行方向右手側には、親友の一人だった米山保三朗から貰った英語の小説(落書き入り)の隣りには、始め建築家になろうとして米山に小説家をめざせと云われたことが記され、でっかく東京復元図が広がる。さらに23歳の時の測定記録が置かれ、伸長5尺2寸4分(158.8cm)、体重14貫200匁(約53.3Kg)となっている。
・再び左手に戻って、東京帝国大学時代の講義ノートが並ぶ。哲学教授ラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)の美学の講義ノートなどがあって、暇だったものか顔が描いてある。三四郎の中で大学の講義は詰まらんなあとポンチ画を描く与次郎の姿が思い起こされる。
・次に、少し逆戻って金之助の英作文などと共に、子規との出会いが記されている。寄席つながりで寄席の目録などが展示される。
・最後に教師になったが神経衰弱のため鎌倉の圓覚寺(えんかくじ)で参禅を行ったことが紹介される。

2章-松山・熊本時代~ロンドン留学

・愛媛県尋常中学校(現在の松山中学校)の白黒写真や、英語教師として生徒と写った写真、鏡子との結婚の写真、学校での授業の資料などが置かれ、一方で子規が松山に転がり込んで俳句三昧の生活をしていた物的証拠が暴露される。
・倫敦留学の行程地図が掲載され、渡航日記、持ち物、当地で使用した英文書籍とその書き込み、さらに自分で記したレポートなどが周囲を固め、真ん中には漱石文庫より持ち出された英書が陳列されまくり。
・シェイクスピアとかツァラトストラといった書籍が並んだ後、反対奥に行って芸術関係の雑誌や美術館絵画紹介のようなものが(ただし当時は白黒だった)ならぶ、そして漱石が文学書ではなく心理学などによって文学を明らかにしなくちゃ駄目だと進んだ証拠の品が並ぶ。書籍を要点でノート何枚かにまとめたものがあったが、字が非常に細かい。

3章-帰国・創作開始

・帝国大学での講義スケジュールだの講義をまとめて文学論にした資料だの、赤痢で水道管が欲しくてどうのだ後に、「吾輩は猫である」のコーナーが出現。真ん中に2か所に猫と「坊っちゃん」の原稿が展示されている周囲を、猫の資料が陳列しているというもの。装丁(そうてい)にこだわった扉絵だの挿絵だのが紹介。漱石の猫スケッチもあったが、真に恐ろしいのは漱石が猫に化けた新聞のポンチ絵を漱石自身が真似て描いたものを、わざわざ拡大して掲載してある。そのインパクトたるや、ぜひこれをポスターにして、またシャツにして販売して欲しかった。他に落語が好きであったことと、小三だの円遊だのの紹介もあった。

4章-漱石が描いた明治東京

・学校辞任と朝日新聞入社資料があり、初作品「虞美人草」の原稿、小説内に描かれた上野の博覧会の全体地図やイルミネーションの様子などがある。あの淀み汚く冴えない上野の忍ばず池周辺にこれほどの活力があったのかと、そっちの方が気に掛かる。虞美人草の織物だの指輪が売られたこと、三越呉服店がいち早く百貨店に変化していったことなどが記された後、この時期の東京図がでかいパネルになって、漱石ゆかりの地などが記されている。
・続けて「三四郎」紹介では、原稿の最後の部分が開かれていて、ちゃんと「ストレイシープ」とふりがながふってあるので可笑しくなる。書生双六のようなものも掲載されている。三四郎の電車におどろく本郷三丁目四丁目の絵もあった。「それから」の紹介では日露戦争に沸き立つ銀座の絵が面白い。ここまできてから、せっかっく購入した漱石のガイドブックを開いてみたら、こんなものも載っていたのかと忘却率の高さに驚かされる。

5章-漱石山房の日々

・岡本一平(1886-1948、北海道出身の画家)の描いた「漱石八態」が並ぶ向こうには漱石の愛用した着物などが並んでいる。部屋着には女物襦袢を使用していたのは変身願望の切ない願いが数パーセントは込められているのだろうか。反対側には雑誌の表紙や挿絵の気に入ったものの切り抜きや、金銭を記した資料などが置かれる。
・奥に突き当たって右に折れるところに、寺田寅彦から預かったオルガンが置いてあるが、それを契機にお弟子達との遣り取りの手紙や、漱石山房に集まる弟子達の名称入り図、送った手紙や、漱石自身の描いた水墨画などが並ぶ。白黒のミレーを真似て描いた「鷲鳥を追う少女」の絵は掲載が終了して、写真が飾ってあった。最後まで山房に飾られていた「達磨図」もあるが、小説とは違って絵は思い悩みすぱっと大根を切らない本人の本質が仇になっている気がする。晩年二人の若い僧に贈った水墨画が一番良いようだ。

6章-晩年

・修禅寺大患の危篤電報や日記などがあり、博士号を巡る資料があり、「こころ」の装丁にこだわったことが展示される。「こころ」の表見返し裏にはars longa vita brevis(芸術は長く、人生は短い)のラテン語が印される。また、「明暗」は沢山の反古(ほご)を築きながら執筆したこと、その反古原稿に漢詩などを記してストレスを解消していたことなどが展示され、明治天皇崩御の新聞とこの時に撮影した写真がある。晩年の書が載せられて、死と全集で締め括っている。

2007/12/06
改訂はなし

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