ウィンスロップ・コレクション展

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ウィンスロップ・コレクション展

サブタイトル「フォック美術館所蔵19世紀イギリス・フランス絵画」
開催期間ーーー2002/9/14-12/8
主催ーーー国立西洋美術館、東京新聞、ハーヴァード大学付属フォッグ美術館


注意書き

管理人の絵画知識は著しく曖昧です。展覧会で見たときの記憶と、もっぱら購入した解説書を参考にしながら、備忘録の意味を込めてあること無いこと平気で書いてありますので、何かしかの知識を得たい方は、有用なページを検索したほうが有意義です。


展覧会の趣旨

アメリカ、ハーヴァード大学付属美術館フォッグが改修をするに乗じて、かつて法律家グレンヴィル・L・ウィンスロップ氏(1864-1943)が収拾し、死後4000点以上のコレクションを母校ハーヴァード大学に寄進した、ウィンスロップコレクションが初めて外部に持ち出されることになった。フォッグ側との話し合いの結果、19世紀イギリス・フランス絵画に焦点を当て86点を展示いたす。大きく「過去と東方」「神秘と顕現」「誘惑と堕落」「象徴と偶像」の4つに分けられている。


1.過去と東方

ルネサンスが古典古代(ギリシア・ローマ)から源泉を得たとするならば、19世紀ヨーロッパでは古典古代を含むあらゆる過去とあらゆる地域が芸術アプローチの重要な資源とされた。例えば、それまで関心の向けられなかった中世芸術が注目され、建築様式のリバイバルやフランスのトゥルバドゥール派、ドイツのナザレ派、イギリスのラファエル前派のような画家達の絵画に影響を与えた。一方、非ヨーロッパ地域との(次第に一方的な)貿易活動、植民地化、世界辺境探検、などは非ヨーロッパ文化に芸術家の強い関心を呼び起こし、特に東方オリエントの芸術に注意が向けられた。

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780-1867)
「黄金時代」(1862)

・ギリシア神話でかつて人々が神々のように死も苦しみも知らなかった第一の時代を描いた作品において美術館は始まっている。現在は鉄の時代を超えてプラスチックの時代だという噂もある。


エドワード・バーン=ジョーンズ(1833-1898)
「パーンとプシュケ」(1872-74)

・プシュケーが叶わないクピト(キューピット)との愛に絶望して入水したら牧人の神パーンに釣り上げられて、何やってんだおまえ、と頭を押さえられている場面。
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テオドール・ジェリコー(1791-1824)
「牛の市」(1817)

・1816年にイタリアに出かけて、特にミケランジェロを崇めつつルネサンス絵画にふれたジェリコーが描いた。・・・まとめようがなくなって中途半端なコメントで失礼。


ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)
「イエスのたとえ話」のための6点のデッサン

・版画師のディエール3兄弟から依頼された、版画「イエスのたとえ話」のための6点のデッサン。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)
「クリスマス・キャロル」(1857-8)

・水彩画。赤と緑と青が絶妙なバランスで配置されている。
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ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)
「祈りを捧げる少女時代の聖ジュヌヴィエーヌ」(1879)

・1874年のサント=ジュヌヴィエーヌ聖堂(現パンテオン)内部の修飾の一部を担当したときの、レプリカ。


ジョージ・フレデリック・ワッツ(1817-1904)
「サー・ガラハッド」(1862)

・アーサー王物語の中の登場人物で、騎士ラーンスロットが魔法使いに一杯食わされて、ついうっかりペレス王の娘エレインと交わったがために誕生したという、聖杯を見ることの出来た数少ない幸運者。トマス・マロリーの小説だけでなく、アルフレッド・テニスンの詩からも感銘を受けて、19世紀イギリスの画家達がよく取り上げているそうだ。当時、中世騎士の騎士道精神がジェントルマンの見本として讃えられていたという。
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ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
「奴隷のいるオダリスク」(1839-40)

・オリエントはトルコのハーレムでの出来事を描いたのだと言い張れば、裸体画が認められた当時の絵画界。いや、認めるどころではない。カバネルの描いた俗的なエロティシズムの見え隠れする裸体画に至っては、ヴィーナスの名前が入っただけで、ナポレオン3世が慌てふためいて買い上げるほどの絶賛を浴びることが出来たのだ。その事実に腹を立てたマネが、63年に到底オリエントではないパリの娼婦を描いた「オランピア」を出品して、一大スキャンダルを巻き起こすのだが、当時のヨーロッパ文化の中心を担う男性諸君が、女性の人間性を(それは植民地の原住民の人間性をでもあるが)徹底的に軽視して、自己満足的な狭い道徳観の中にどっぷりと浸かっていたからこそ、マネはゴシップの最前線に上ることが出来たともいえる。良妻賢母とは決して善い言葉ではないのである。
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フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)
「ギリシア騎士に降伏するトルコ人」(1856)

・ロマン主義とはギリシアのオスマントルコからの独立運動を通して自覚された運動である、と滅茶苦茶なことを言う愚か者が居るほどに、1821年のギリシア独立戦争は当時の芸術家の心を揺さぶった。
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テオドール・シャセリオー(1819-1856)
「アラブの騎兵の戦い」(1855)

1830年にフランスがアルジェを占領してからアルジェリア征服戦争が繰り広げられていたが、フランス軍に組み込まれた現地の騎兵(スパイ)と、反フランス勢力であるベルベル人の騎兵(カビル)が血みどろの争いを繰り広げていた。シャセリオーは46年にアルジェリアに行ってさまざま見聞してからフランスに戻ったが、1856に残念ながら若くして天上に召されてしまったので、ロマン派の旗手テオフィル・ゴーティエが泣きながら追悼文を書き上げたという。



2.神秘と顕現

科学の発達と資本主義社会、実証主義の台頭などキリスト教信仰は脅かされるようになるが、人間以上の存在、より高次の精神世界への憧れは芸術家の中で一層大きくなった。それは反作用であるというより、真の意味で神を否定せざるを得ない時代の直前の恵まれた世代に一連の芸術家達が所属していたからにすぎないのかもしれないね。そんな中にあってもイギリス19世紀半ばに起こった、ラファエル以前の均整と健全を目指す画家達(ラファエル前派)の運動は、旧約聖書の物語を新約聖書のある物語に先行する、預言していると考えるタイポロジー(予型論)の考えなどを取り入れて発展させ、絵画自身とその主題に暗示されるテーマの両面から神の領域に近づいた・・・のかもしれない。


ウィリアム・ブレイク(1757-1827)
「復活」


ギュスターヴ・モロー(1826-1898)
「聖セバスティアヌスと天使」(1876)

・時は3世紀、ローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教弾圧に精を出していた頃のお話である。死に行く仲間にたまらず声を掛けたため、教徒であることが判明したローマ軍人セバスティアヌスは、即刻弓矢による死刑を宣告された。しかし、神のご加護によって弓矢はすべて急所をはずれ、さらに、後に看護婦の守護聖人になる看護聖人イレーネによって介護されて、肉体を完全に取り戻した。やがて皇帝の前でキリスト教万歳を叫んで、最後には撲殺されるセバスティアヌス。モローは受け入れられず弓を射立てられる彼の正当性を確信を持って示す背後からの天使に、神の意志に適ったものでありながら犠牲者としての使命を全うするその行為を讃えさせ、さらに背後の十字架が血を流すことによって、セバスティアヌスを絶対的に崇高なる者としてる。(本当ですか??)
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ギュスターヴ・モロー
「出現」(1876)

・出現はサロン出展作品の水彩画を含めて完成度の高いものだけで3種類存在するそうで、その中の一つ。中世以来描かれてきたサロメにこの作品のように宙を飛ぶヨカナーンの首という構図は見当たらないが、聖なる者の存在する別の次元を枠で囲んで示すマンドルラという技法を、サロメだけが見る幻視的存在として発展展開させたものであるという解釈もある。ちなみにオスカー・ワイルドの戯曲でサロメがつい裸で踊ってしまうのはモローのサロメに影響を受けているそうだ。
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エドワード・バーン=ジョーンズ
「天地創造の日々、5日目」「天地創造の日々、6日目」

カタログの概説の中で、この絵画の天使達の持つ球体の内部の世界とはいったい何なのか追求していた。中世キリスト教の図像には、聖なる者を異なる次元に描く「マンドルラ」という技法がある。円の枠によって神の顕現(テオファネイア)を表すのに用いられたのだそうだ。また、今そこにいない者のイメージを表す「イマーゴ・クリペアータ」もやはり枠の内部に胸像を描いたりする遣り方である。それに対して、この天使の持つ円球は、その枠の内部と外部の立場の違いも主従関係も互いに浸食しあって、枠外部の状態と枠内部の状態にも繋がった関連性があるのだという。それによって意味の不確定化と、枠構造の脱構造が引き起こされたと締め括っている。(・・・全然概説の趣旨と違っているかもしれないので注意。)
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ウィリアム・ホフマン・ハント(1827-1910)
「無垢なる幼児たちの勝利」(1870-1903)

・預言に記された真の王の誕生、イエスの出現を東方の三博士に指摘されたユダヤの国王ヘロデは、幼児皆殺しを命令する。しかしその直前に、神のお告げにしたがって幼子イエスを引き連れた聖家族は、国を離れエジプトに向かい難を逃れた。その道中を描いた作品。イエス真下の天使がやがてイエスが槍を刺される場所を気にしているように、周辺にいる天使達は、イエスがこれから担う定めをさまざまに暗示している。19世紀半ばにイギリスで成立したラファエロ前派は、絵画のそれぞれの要素に意味を込めて暗示する遣り方を好んだ。例えば、旧約聖書の内容が、新約聖書を先取ってこれから起こることを暗示しているととらえるような予型論(タポロジー)を取り入れることもその一つである。中でもハントは、描かれた素材一つ一つの意味が、関連性をもって張り巡らされているような、暗示的手法に生き甲斐を見いだしたという。さらにこの絵では描かれた透明な球体が重要な役割を担っているそうであが、その意味は絵画から読み取ってくれたまえ。
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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
「ベアータ・ベアトリックス」1871

・ロセッティは妻のリジーを人間としてではなく、己の理想の女性を無理矢理当てはめた操り人形として、がんじがらめにしておきながら、ご自分は平気で女を抱きまくっていたので、妻はすっかり悲観して阿片を大量服用して自害を成し遂げてしまった。そんな悲しい逸話をふまえて夫自身が亡き妻をダンテの一目惚れの相手ベアトリーチェに見立てて描いたもの、とも言われる。
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3.誘惑と墜落

19世紀後半の画家達は、神話から人間が生まれる経緯がアダムとエヴァのような楽園の喪失から引き起こされる事実よりも、その失楽園が女性が原因で始まったという事実に一層興味津々だったに違いない。スフィンクスだのセイレーンだの何でもかんでも女性の官能を怪物的に描いている内に、死をもたらす女性ファム・ファタルまでもが誕生してしまった。一方では絶対的純潔、処女性を女性に求めていた自己中心勝手やたらの19世紀ヨーロッパ男性諸君は、まことに今日の女性の皆様の敵であるから、婦女子諸君は彼らの絵画に感動している場合ではないのかもしれない。むしろフェミニズムの観点から、徹底的にやっつけてみるのも面白い。しかし、一方では今日でも女性は官能で形容できるという意見もあるから気を付けよう。


ジョージ・フレデリック・ワッツ
「エヴァの創造」65-99ぐらい
「非難されるアダムとエヴァ」73-98ぐらい

・44年にローマに出かけてシステーナ礼拝堂に足を踏み入れてしまったばかりに、大様式(グランド・マナー)の絵画伝統の復活を夢見てしまったワッツが、自らイギリスのミケランジェロとなるべく果敢に挑戦した作品。にもかかわらず、ユーストン駅ホールに無償でフレスコ画を描くという壮大な申し込みは、鉄道会社から丁寧にお断りされてしまったという悲しい逸話も残されている。
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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
「パンドラ」(1879)

・今日パンドラの箱でおなじみの希望の箱だが、実はギリシア神話では巨大な瓶だったのを、エラスムスが勝手に箱に変えてしまったのである。エラスムス、君ってやつは。


エドワード・バーン=ジョーンズ
「真鍮の塔が建設されるのを見るダナエ」1872

・アクリシオスが怯えて娘を塔に閉じこめたにも関わらず、大神ゼウスは黄金の雨となってダナエの元に降り注ぎ、見事ペルセウスが誕生してしまった。やがて予言が成されアクリシオスはペルセウスによって(悪気はなかったものの)殺されることになる。


ギュスターヴ・モロー
「キマイラ」1867

・獅子の顔、山羊の胴、蛇の尾を持つ怪物として生まれたのがことの始まりでキマイラは、人々に危害を加えるやいなや、英雄ベレロポーンにこてんぱんに打ちのめた。そんな楽しい?ギリシア神話の怪物だが、ここでは人馬ケンタウロスに羽の生えた姿で描かれているそうだ。しかし、フランス語でキマイラを表すシメールはその怪物の謎の形態から、妄想、空想といった意味を表すようになったという。モローはその意味を踏まえてこんな形のキマイラを描いたのではないかとカタログに書いてあった。そうだとしたら、人馬ケンタウロスではなくて、逆にペガソスが半人化したと解釈した方がキマイラに近いかもしれない。
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ギュスターヴ・モロー
「セイレンたち」1882

・ギリシア神話のセイレンは後のヨーロッパではいつの間にか人魚にされてしまった。ただし下半身が蛇の姿をしたフランスのメリュジーヌ伝説を含ませたばかりに、足が蛇のようになってしまったのではないかと、カタログの解説が心配していた。どうでも良い話だが、肝心の絵画について今に至るまで何も書かないのは、この辺の画家になると感動して終わってしまうからである。
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ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
「海の呪文」75-77

・女性の裸体画はヴィクトリア道徳丸だしのイギリスでも、神話などの条件付きで徐々に認められてはいたが、見ていてあまりにも個人的な女性を感じてしまうロセッティの裸体画を巡っては、画家と購入者が殴り合いを演じていたという逸話が・・・・あったら楽しいね。


エドワード・バーン=ジョーンズ
「深海」1887

・バーン=ジョーンズ唯一のロイヤル・アカデミー出品作品。気に入った人間男性を人魚が(死へと導くファム・ファタルとして)深海に引きずり込んだものだろうか、それとも男性は愛にのぼせて最終的に納得の上で海に引きずり込まれたのだろうか。泡を浮かばせ死んだように浮かび上がろうとする男性に対して、人魚は幸せそうとも挑発的ともとれるような表情をしている。
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オーブリー・ビアズリー(1872-98)
ワイルド作サロメのための挿し絵

・93年フランスとロンドンで同時出版されたオスカー・ワイルドの戯曲サロメ。挿し絵は、英語版のみに描かれていたのだが、ワイルドはビアズリーの芸術性を評価しなかった。残念ながら「俺の作品より目立つな」というワイルドの言葉は残されてはいない。ビアズリーが亡くなった1898年は、モロー、シャヴァンヌ、バーン=ジョーンズとここに出品されている重要画家達が一斉に亡くなっているので、あるいは画家の大乱闘か何かがあったのかもしれない。
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4.象徴と偶像

1603年に出版されたチェーザレ・リーパの記した「イコノロギア」には例えば、「明晰さを擬人化して絵画に表す場合は、右手に太陽を持たせ、左手で大地を指さす裸体像とする。」といったことが記されている。悲壮、荘厳、からローマ、海といったことに至るまで、様々な概念を擬人化する事はヨーロッパでは古くから行われてきた。一方ある特定の人物(教皇、聖人、特定の神といった)を表すときに決まった持ち物を持たせて表す(その持ち物をアトリビュートという)方法もよく使われた。しかし、19世紀になると、画家達は具体的な図像によって意味を表すよりも、描かれた絵画そのものの表現力で、かつての擬人化を成し遂げようとした。「女性の永遠の美しさ」を表すのに、ヴィーナスをそれと分るように描くのではなく、例えばある現実の女性を普遍化することによって、言葉の意味にまで到達しようとした。このように普遍化、抽象化された主題が、何らかの特定の概念を象徴していると考えたのである。同時に伝統・暗示・象徴を重んじた画家達は、場合によってはそうした絵画に自ら進んで伝統的な図像を用いたり、アトリビュートを持たせたりしたが、そうでない場合は、抽象化された概念は完全に鑑賞者がその個別の作品の中からそれぞれに読み取らなければならなかった。
 さらに、絵画に何らかの意味を付随させるのではなく、純粋に鑑賞者が作品を見て感じた美的水準だけが芸術的価値に繋がるという考えが生まれると、イギリスで流行した「唯美主義」のような芸術運動が現れてくる。そのうちに美しさには象徴や主題はおろか、写実性さえもいらなくなってきて、ついには抽象主義になってしまった。(以上いかさま文章満載でお送りしました。)


エドワード=バーン・ジョンズ
「昼」「夜」1870

・春夏秋冬の4点からなる「四季」と、展示された「昼」「夜」の6点は同一人物の注文によりほぼ同じぐらいの大きさで描かれ、それぞれ足もとの下にウィリアム・モリスの4行詩が掲載されている。松明をもった青年で表される昼も、夜を表す女性の衣装も「イコノロギア」以来の伝統に則っているそうだ。


ギュスターヴ・モロー
「若者と死」(1856-65)

・画家テオドール・シャセリオー(上に出ていた画家)の絵を見て感激したので声を掛けようと近づいていったところ、シャセリオーは天国に逃げていってしまったので、しかたなく追悼の意味を込めて描いた作品。
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ギュスターヴ・モロー
「ヤコブと天使」(1878)

かつて父親イサクをまんまと騙して、兄に代わって家長を継ぐ祝福を受けてしまったヤコブ。兄の怒りを恐れ非難していたが、ついに兄エサウの元に戻る時が来た。その途中、真夜中に突然誰かが体を掴んできたので、朝まで誰なのかも分らずに取っ組み合いを演じていた。実はその相手は天使で、後にユダヤ族長を任されるヤコブを、神が認めていた証として遣わされたという。モローの絵は、取っ組み合ったと思っていたのは何も見えていないヤコブだけで、天使は絶対的な力を持って佇んでいたことを伝えている。
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ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
「ラファエッロとラ・フォルナリーナ」(1811-2)

・19世紀初めから60年代にかけてフランス画壇で過去の画家達を主題とした絵画が流行っていたそうで、とくにラファエッロが非常に好まれたのだとか。画家達は皆で輪になって「ラファエッロさんっていい!」と叫んでいたのかもしれない。
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エドワード・バーン=ジョーンズ
フランマ・ウェスタリス(ウェスタリスのほの焔)1880代の習作?

ローマのかまどの神ウェスタに仕える女祭司ウェスタリスは、純潔と処女性の圧倒的な象徴だそうです。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
「マイ・レイディ・グリーンスリーヴズ」(1863)

「緑の袖の女は私の心の輝き、私だけの袖緑色の女性、ああ、あなたこそその人です。」(そこはかとなく違う気がするが。)と歌われるイギリスのバラッド「グリーンスリーヴズ」を元に描かれたもの。ロセッティは別バージョンのどう主題絵画ではこの曲の楽譜と歌詞を引用してもいる。シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」に当時の流行歌として登場していることから、16世紀後半にイギリスで流行っていたのかもしれないね。この絵の後ろ側にはロセッティの詩が書かれていて、中世時代には着脱可能で女性の秘密兵器とされていたその小袖を、愛の印として騎士に贈りつけるいうアーサー王的な世界が歌われている。
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アルバート・ジョセフ・ムーア(1841-1893)
「花」「銀梅花」

明確な主題もなく、ただ美しい造形、色合い、修飾性を追求したような彼の作品は、当時新しい芸術運動、唯美主義として認識された。保守的な人々が非難と困惑を作品に投げつける一方で、唯美主義至上主義者の詩人スウィンバーンが「この絵こそテオフィル・ゴーティエの詩が絵画に化けたものだ」と讃えたが、ゴーティエは「何の役にも立たないものこそが真に美しい」という当時としては恐るべき言葉をこの芸術運動に先駆けて残してくれたのである。ラファエロ前派のような分厚いテーマと暗示や関連性の連続に疲れ果てた新たなる芸術家の皆さんは、一目散にその言葉にしがみついた。そんな中にあってもムーアは、少し前に起こった造形運動であるアーツ・アンド・クラフツ運動や、裸体画礼賛の流行にどっぷりつかって独自の画法を追求していった。「銀梅花」(ミルテ)では裸体と修飾が緑ベースに縁取られて腰掛けている。(どんな説明だ)
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ジェイムズ・アボット・マックニール・ホイッスラー(1834-1903)
「青と銀のノクターン」(1871-2)「灰色と桃色のハーモニー」(1872-4)

ムーアと同じ頃に新しい絵画を模索していたホイッスラーは、1859年にロンドンに移り住んだ。テムズ川の流れを当時流行していた日本絵画の力を借りて描いている内に、見ている風景を写実的に描写しない感覚的スケッチの心持ちがしてきたので、絵画作品に音楽楽曲の名前であるノクターン(夜想曲)と付けて発表することにした。それを見に来た批評家のジョン・ラスキンが、何を主題にしているのか皆目見当が付かなくなってきて混乱状態に陥ってしまい、入場料を返せと叫んで1878年にホイッスラーを訴えてしまったのである。大きなお世話の裁判に対してホイッスラーは、「ノクターンという単語によって、逸話的関心を排除し、美的価値にのみ依存する。」という名言を繰り出すことによって、ラスキンに判定勝ちはしたものの、裁判費用が重くのし掛かって自分の方が破産宣告をする羽目になってしまった。「灰色と桃色のハーモニー」は破産後に作者自身が、自分の作品などこうなったら全部破棄してしまえと、怒りをぶちまけて踏んづけたり蹴っ飛ばしたりしたせいか、原形をとどめていない。(すいません、大部分嘘でせう。)
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2004/2

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