ベルリオーズ イタリアのハロルド op16
- ●作曲経緯(ベルリオーズの生涯より)
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ベルリオーズはローマから戻ると、1833年の10月、あこがれのスミッソンと結婚した。故郷の父母は大いに反対したらしいが、借金地獄だったから、もっともな話ではある。この時は、マブダチのフランツ・リストが立会人を買って出た。こうしてベルリオーズは、彼女の借金返済のためにも音楽評論で賃金を稼ぐ生活を開始。新聞に批評を書きながら作曲や指揮を行ない、絶対音楽でない文学的な何ものかを音楽で表現しようとする音楽、すなわち標題音楽を己のモットーとした。
翌34年に完成させた「イタリアのハロルド」op16は、ロマンにどっぷり浸かった詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)の「チャイルド・ハロルドの巡礼」に着想を得て作曲されたもので、「幻想交響曲」の主題がイデー・フィクス(固定観念)として全楽章に登場するのと同じように、初めの楽章でヴィオラで提示される「ハロルドの主題」が、全曲に登場することになる。
ヴィオラ独奏を持った交響曲という位置づけで、ヴィオラ奏者が活躍できる作品だが、信憑性に乏しいエピソードが好まれて付随している作品だ。つまり名ヴァイオリニストのニコロ・パガニーニ(1782-1840)が、優れたヴィオラを手に入れてほくほくしながら、ベルリオーズに対して
「私に匹敵する作品を書いてくれ」
と依頼したのだが、このハロルドの楽譜を提出すると
「このハロルドぐらいの活躍じゃ問題外だ!」
とパガニーニが叫んで決裂したというのだ。これはベルリオーズが自伝(回想録)に記した逸話で、誇大妄想に突き進むこの伝記は読み物として楽しい反面、真実性に問題があると言われている。
イタリアルネサンスの芸術家ベンヴェヌート・チェリーニ(1500-1571)の自伝なら、読んだことのある人もいるかもしれないが、西洋文学に置いて物語的自伝というジャンルは決してマイナーなものではないのである。これは半分は物語であって、自分の半生をレシート片手に詳細に記録するレポートではないから、現実と違っているのはむしろ当たり前なのである。これを誇大妄想というのはお門違いであり、むしろ幼少から古典文学やロマン派文学に触れていたベルリオーズの、文学的作品だと見なすことが出来るだろう。
とにかく、その自伝では「私はヴィオラが常に弾いている曲を頼んだのだ」と1楽章を見てがっかりするパガニーニに対して、ベルリオーズが「そりゃあんた自身にしか書けまへんがな」と言い返して、曲をヴィオラ独奏付きの交響曲に変更したのだという。これは有名なパガニーニを出して自分に箔を付けた可能性も否定できないが、確かにヴィオラパートを見ると、1楽章ではヴィオラ協奏曲に近い活躍を見せる一方、後ろの楽章に向かうほどオーケストラ全体の中に埋没しがちで、協奏曲から交響曲に移り変わるような心持ちがする。初演にはフランスのロマンっ子達、ヴィクトル・ユゴーやら、フランツ・リスト、フレデリック・ショパン、アレクサンドル・デュマなど大した奴らが足を運んだそうだ。
- ●ウィキペディアよりの、部分引用
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第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」
・ゆっくりした序奏と、ソナタ形式による活気あるアレグロ主部からなる。ハロルドのメランコリックでもあり快活な複雑な気分が表される。
第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」
・ハロルドはたそがれ時、巡礼の一行が山の小さな教会で讃歌を歌い、通り過ぎていくのを眺めている。
第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」
・舞曲的な性格の楽章。毎年クリスマスの頃、アルブッチの山中からローマにやってくる牧童が吹奏する民謡を転用している。
第4楽章「山賊の共演、前後の追想」
・山賊の乱痴気騒ぎの合間に前3つの楽章の主題が回想される。やがて、ハロルドは山賊の手にかかって命を落とす。最期は山賊の主題が荒れ狂ってフィナーレとなる。独奏ヴィオラはもうほとんど登場しなくなってしまう。
- ●概説
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バイロンの「チャイルド・ハロルドの遍歴」からとられた題目だが、実際はバイロンの詩を再現したものではなく、この題目は当時流行していたバイロンの詩を当てることによって、「ある遍歴青年のイタリア紀」ぐらいの意味を表わしている。したがって巡礼の行列を見たりセレナードを聞いた後、山賊の共演に至り、命を落とすというドラマチックな展開は、ベルリオーズがこの楽曲のために自身で考え出したものである。
ヴィオラソロでハロルドの内面を表現し、オーケストラが情景を表現するという手法は、非常にユニークなもので、かつ非常に斬新だったはずだ。これはハロルドのテーマを登場させ、これを各楽章に配置することにより、音楽を聴いているだけでヴィオラがハロルドなのだと簡単に分かってしまうが、幻想交響曲で使用したイデー・フィクス的な旋律の使用方法が、再び使用されている。なおイタリアのハロルドとあるが、回想録にも書き上げているイタリア留学中のベルリオーズ自身の小旅行の思い出などをベースに情景が描かれ、彼が訪れたことのあるアブルッチ地方での出来事にしている。さて楽曲構成について彼はどのように考えていたのだろうか。
「1833年の12月にパリで幻想交響曲の演奏を聞いたニッコロ・パガニーニは驚いてしまった。私が手に入れたストラディバリウス製作によるヴィオラのための名曲を書くのは彼をおいてほかに居るものか。さっそくベルリオーズにヴィオラ協奏曲を依頼したパガニーニだったが、第1楽章のスケッチを見てがっかりしてしまった。「私は絶えず弾いていなくては我慢がならない」と譜面を突き返すパガニーニに、ベルリオーズが「そんな曲はあなた自身がお書きになったらよろしい」と作曲家でもあったパガニーニに答えれば、話は決裂しベルリオーズはこの曲をヴィオラ独奏付き交響曲として完成したのである。」
この自伝の逸話は信憑性が怪しいとされているが、ここからベルリオーズが初めはヴィオラ協奏曲を着想して第1楽章を作曲したのだが、途中から何らかの理由によりヴィオラ協奏曲として楽曲を全うするよりも、協奏曲と交響曲を4楽章内に融合させる道を選んだことが分かってくる。楽曲を見ても、第1楽章ではヴィオラの十全な活用が完全に協奏曲のイディオムであるのに対して、すでに第2楽章はオケによる交響曲とハロルドを現わすヴィオラの対話という遣り方に変更されている。
これは次の楽章でも継承され、非常に面白いことに、ベートーヴェンが交響曲第9番の4楽章で回想を行なった後「この響きではない」と打ち消しを加えるのと似たやり方で、前の3楽章が回想され、第4楽章の着想に移りゆくという作曲がなされている。これはベートーヴェンを踏まえて作曲したものと思われるが、ここでは前の3楽章の否定ではなく、第4楽章の楽想という地点を回想を込めて確認しているのだが、面白いことに第4楽章の中心が完全にヴィオラのソロを排除した十全たる交響曲になっていることを考えると、ベートーヴェンが声で表現した「この響きではない」という意味が、前の3楽章まで活躍するヴィオラソロ付きの楽曲ではない、もっと交響曲的な音楽を行なおうというプロットが、水面下に敷かれているような気さえ、してくるのである。
- ●初演
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……1834年6月に完成し、同年11月23日に、パリ音楽院ホールにて初演。
- ●使用楽器(ウィキペディアより)
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フルート:2(持ち替えでピッコロ:1)
オーボエ:2(持ち替えでコーラングレ:1)
クラリネット:2
ファゴット:4
ホルン:4
コルネット:2
トランペット:2
トロンボーン:3
オフィクレイド:1(現在ではテューバで演奏する)
ティンパニ:奏者1
小太鼓:2
シンバル:1
トライアングル:1
ハープ:1
独奏ヴィオラ
弦五部
各楽章の楽曲解析
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●第1楽章
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「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」
3/4→6/8、g moll→G dur
Adagio→Allegro
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●第2楽章
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「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」
2/4、E dur
Allegretto[→Canto religioso(敬虔な歌)]
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●第3楽章
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「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」
Allegro assai→Allegretto→
Allegro assai→Allegretto
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●第4楽章
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「山賊の共演、前後の追想」
Allegro frenetico(慌ただしい、熱狂的な)
→Adagio→Allegro
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