ブラームス 交響曲第1番 第4楽章

[Topへ]

序奏(1-61)

順次下降型4音の精神

[第1楽章]
序奏冒頭の管楽器による順次下降(1-2)、
同じく第1楽章第1主題を導くすばやい順次下降動機(40-41)。
提示部終止部分を告げる特徴的な順次下降動機(157-)、
展開部の順次下降音型をもとにしたコラール風の部分(232-)。
[第2楽章]
冒頭の主題上行後に始まる順次下行型にもとずくフレーズ。
同じく中間部の印象的な順次下降開始のフレーズ(39-)。
[第3楽章]
上を蹈襲した第3楽章冒頭の主題と、
第三楽章全体の理念としての順次下降型(4音)。

動機Xによる部分 C moll

<<<確認だけのへたれmp3>>>
・このような変遷を経て、交響曲第1番全体の重要モチーフでもある順次下降型4音(動機X)が、アダージョのベースに登場し、これによって後の第1主題のテーマが導き出される。すなわち2小節目から、管楽器は冒頭の順次下降型4音を繰り返す中に、ヴァイオリンに後の第1主題冒頭が登場するのである。これは跳躍上行の印象で開始しているものの、明確に動機Xによって形成されている。これは62小節からの第1主題を見るともっとはっきり分かるはずだ。ついでに先に62小節からの第1主題の、続く部分を眺めてみると、続く部分(64-)は順次進行上行型によって形成され、合わせて4小節のフレーズを形成していることが分かる。この4小節はもう一度繰り返される時(66小節から)に、上行型が拡大されると、動機Xとその反行形の(ドシラソードレミファ)のアウトラインをみることが出来る。さらに70小節から繰り返される(レミファミレ)の音型の繰り返しは、第三楽章を振り返ってみて、その冒頭との近親性を見つけることが出来るだろう。

 その、62小節からの第1主題が持っている順次下行の後の順次上行の精神は、序奏部分においてまず弦楽器によるピチカートのユニゾンによって具現化される。和声的色彩において強い印象を与える8小節目の(Ges dur)の主和音の響きを経て、(Es dur)の主和音を経由して、(f moll)でクレッシェンドして、一度上行のエネルギーを激しく高め、再び12小節目から序奏冒頭を発展的に繰り返す。

 16小節から再度ピチカートによる上行の情景が開始するが、20小節から弦楽器に早い順次上行型が登場。これが動機Xの逆行型にもとづいていることは、明らかである。22小節から管楽器にシンコペーションリズムと跳躍の印象的な上行を象徴するフレーズが登場して、高揚感を高まらせるが、これは提示部終止部分の終止主題(148-)の先取りである。そしてやがて順次下行型主体の部分に引き戻される。

アルペン・ホルン風部分(30-61) C dur

<<<確認だけのへたれmp3>>>
・(C dur)の長調の色彩を確定させ、30小節から始まるアルペン・ホルン風のホルンのソロは、冒頭をやはり動機Xに基づいて形成される。しかしここでは最後の音が大きく跳躍下行にされ、豊かな旋律を形成。そのメロディーは、もともとブラームスが愛すべきクララ・シューマンに贈った歌曲の一部を引用したもので、その歌詞は
「山の高きところ、谷の深きところ、
どこにあっても私はあなたに挨拶を千度でも贈ろう」
みたような内容である。動機Xの精神がここから生み出されたとは考えにくいが、逆に親和性ゆえにこのメロディーが取り込まれたのだろうか。このいわば「愛の歌」の引用は、さらに47小節にいたり短い「祈りの歌」、つまり斉唱による宗教歌風の部分(あるいはコラール風の部分)(47-50)となり、その愛の宗教的高みに達したことを讃えたもであろうか、ひるがえって51小節から「愛の歌」のフレーズが十全に回想されつつ、第1主題へと向かう。この序奏第2の部分は、こうしてアルペン・ホルン風の旋律に基づいて、序奏の中にあって大きなウェイトを占めているのだ。

・つまり第1主題(62-)の持つ、単純な宗教曲風の調子、また勝ち得た者の歓びを知るような調子は、アルペン・ホルン風の「愛の歌」あるいは「あこがれの歌」に対する、「祈りの歌」、あるいは「愛の讃歌」として、導き出されていると言える。序奏冒頭に立ち返ってみると、順次下行から上行的なものが沸き上がってくる様相は、一見純器楽形式の探求から生まれたようにも思われたが、実は「不穏なもの・落ち着かざるもの」の中から「愛の歌」が登場し、これによって「愛の讃歌」が楽曲主要部分のメインテーマとなる、という構図を見ることが出来るだろう。

・ここではホルン旋律の由来に基づいて「愛の歌」として話しをすすめて見たが、これを別の言葉に置き換えても、純器楽的動機から説明するよりは、このホルン旋律にある種の象徴的意味を見いだして、前後関係を探った方が、楽曲全体の構成がスムーズに解き明かされる。つまり第4楽章序奏の楽曲構成法は、半分情景配置的な構成法であり、純器楽形式にもとずく序奏というよりも、劇作的な手法が採り入れられていると見るべきだ。そしてこの意識は、おそらくベートーヴェンの第9番から来たものだと思われる。ベルリオーズが幻想交響曲の中で探求した、純器楽形式と作劇的作曲方法の融合は、この最終楽章においても探求されているのである。そしてそれがもっとも強く表れているのは、Allegro部分の主題の再現と展開部が掛け合わされている、あの魅惑の瞬間にこそある。

提示部(62-185)

第1主題提示部分(62-117)

<<<確認だけのへたれmp3>>>
・このままでは永遠にこの曲から脱出できない。時に追われてさくさく逃げることにしよう。第1主題(62-77)がヴァイオリンで提示され、管楽器で繰り返される(78-93)。管弦総奏によってさらに第1主題が繰り返されつつ、それが推移に連なっていくというお決まりのパターンによって推移に到ると、ここでは順次進行4音(つまり動機Xとその逆行型)にもとずくすばやい動機が、四分音符の刻みと共に効果的に使用される。そして第2主題直前である。あの序奏に登場した印象的なアルペンホルン風の旋律が、回顧されるのだ。その小説数はわずか4小節で、ベートーヴェンの第5番のように、ソナタ形式の枠組みを浸食するものではなく、完全にエピソードとして挿入される。これがロマンっ子の精神に則って、大きく楽曲を揺り動かすのは、まだ先のことである。ブラームスの緻密な計算が光る。

第2主題提示部分(118-147)

<<<確認だけの負け犬mp3>>>
・118小節からヴァイオリンに開始する第2主題(中心118-125)(全体118-129)は、アルペンホルン風旋律冒頭をさらにもじったものだが、主題を規定しているのはこの旋律ではなく、実際はベースラインで絶え間なく繰り返される、順次下行4音、つまり動機Xの反復である。この反復するオスティナートバスに乗せて、第2主題が形成されている。そのオスティナートが一旦破棄されると、オーボエに印象的なフレーズが登場する(131-)。これは動機Xの反行形に基づいて生み出され、142小節から束の間フーガの導入時のように順次弦楽器に登場し楽曲密度を上げると、呼び込まれて終止旋律が登場する。

・この部分全体を第2主題の範疇に含めるのは、オスティナートが終了した後も、直ちに半音階順次下行の繰り返しが始まり、オスティナート部分同様同型反復的傾向が強いことと、第2主題とオーボエ旋律の近親性によるものだ。試しに楽譜のベースラインを覗いてみると、順次下降の精神が第2主題の範疇を覆い、それが破棄されたのち、148小節目からベースラインの精神が大きく変わっているのが分かるだろう。

・調性は、第1主題のハ長調に対して、ト長調とソナタ形式の定番をわきまえて作曲されている。

提示部終止部分(148-185)

<<<確認だけのへたれmp3>>>
・フォルテッシモでヴァイオリンに終止旋律(148-155)が提示され、それをオーボエが繰り返しつつ、印象的な3連符3音の順次上行型が登場。この3連符が動機Xと近親であることは云うまでもないが、かつて第1楽章の終止部分に登場し、終止部分と展開部で重要な役割を担った「3連符の3音下行型」とパラレルの関係にあることは、比較的簡単に見つけることが出来るだろう。ただし最終楽章では、くさびを打ち込むような下行音型ではなく、輝かしき上行型に移り変わっているのを見るにつけ、これまでの長かりし旅を思うのであった。(・・・何の話しだ。)

・調性的には、そのままト長調の平行調であるホ短調で行われ、ソナタ形式の提示部が、三つの調性領域によって大枠を設けられている。

再現部(186-366)

第1主題再現部分(186-284)

・発展的総奏で第1主題が再現される方法は、ちょうどソナタ・アレグロ形式の展開部を抜け、第1主題が回帰するのとまったく同じ再現の仕方を取っている。つまり展開部がすっぽかされたみたようであるが、この時点では第1主題が回帰したという印象だけで、それが全体の構図にどのような立場を取っているのかは、むろん分からない。出だしの再現を聞いた時点では率直にはロンド形式を感じ取るかもしれない。

・実はこの部分は、大枠で「再現部」と命名するのが正統なのかどうか、夜通しテレビ討論が必要なくらい、展開部と再現部の両側面を内包している。つまりこの部分を全体にどう当てはめるか、アナリーゼが困惑すれば困惑するほど、ブラームスの策略は成功しているといえよう。

・ハ長調で第1主題が十全に繰り返されると、しかし200小節付近から主題の調性領域が再現部らしからぬ逸脱を見せ始める。ここであるいは第1主題を導入にした展開部の開始かと想われ始める。その通りに進めば、まさしく展開部領域になりうるだけの展開をこの後見せるのであるが、そんなそんな露骨な真似は、シューマンならしたかもしれないが、ブラームスはしない。(その場合、この楽章は、再現部の第1楽章を省略したソナタ形式と解析されることだろう。)

・すなわち、第1主題が展開的逸脱を開始し始めたかなという印象がちょうど芽生えた頃に、提示部の第1主題から推移に到るのと同じ部分をはっきりと再現させ、第1主題の再現部である印象に我々を引き戻すのである。そして再現部の印象が定着しかけたところで、推移は展開部的様相をしめす。これがブラームスの策略であり、第1主題再現と展開部を見事に混淆させた離れ業であった。しかし彼はもう一手布石を打ってあるのだが、それは後に見ることにしよう。

・すなわち推移部分はしばらく提示部を蹈襲した後に、234小節から四分音符と順次下行4音の早いパッセージの部分にいたる。これも提示部の推移後半部分と同様のパターンであが、しかしパターンは一緒でも、遣り口は異なっていた。ブラームスはこの部分を、まさに展開部的方針に基づき、再現部とは見なし得ないほどの展開を行ったからである。

再現部内展開部的部分(232-301)

・管楽器が鳴らされつつも、232小節以降は対位法楽曲の、フーガ風(もちろん厳格なフーガではまったくない)の作曲スタイルを見ることが出来る。テーマは234小節のベースラインを眺めるのが一番分かり易いが、アクセント付きの四分音符跳躍の後に順次下行が16分音符で降り行くというもので、ベースラインを小節で区切ると[234-235]のフレーズがフーガのテーマ(主題)となる。(同時に対位法の観点ではこんなフーガ主題はフーガとは言えないホモフォニースタイルに落ち入ってしまうのが目に見えているのであるが、だからこそこの部分の推移性が保たれるわけである。)

・このテーマはしかし、まずは前の233小節からヴァイオリンでまず開始する。そして主題の後半部分と次の主題が掛け合わさるストレット(という技法)によって、ヴィオラとベースが主題を投入、続いて235小節から再度ヴァイオリンが提示すると、続く部分はいわばフーガならエピソードと呼ばれる部分となり、主題の後半だけを次々に繰り返す。やがて主題性は失われ、ただの疾走する下行音階パッセージになると、244小節から管楽器が刺繍音を効果的に使用した、サイレンのような響きを提示する。

・ここでフーガ風スタイルは一度破棄され、このサイレンによる反復進行的な部分が形成される。ところが、257小節からふたたび、フーガのテーマがファゴットに登場。前の提示では弦楽器だけだったテーマの導入を、管弦を駆使して、しかも一拍単位の高密度ストレットで提示。不安の高鳴るサイレン部分の後に、嵐のような激しさでフーガのクライマックスを形成する。やがて前と同様、フーガの断片を使用した喜遊句を経由して、サイレン風の部分が繰り返されるが、フーガ風部分が到達したクライマックスを維持して、それをいっそう高揚させる。

・つまり257小節からの構図は
[フーガ風部分の提示ーサイレン風部分の提示]
[フーガ風部分の展開ーサイレン風部分の展開]
という流れで全体として、展開部風のクライマックスを形成し、そのクライマックスの果てに、あの「愛のフレーズ」が登場することになる。

独立的アルペンホルン風部分(285-301)

・直前まで(c moll)の短調領域にどっぷりと浸かって激動の嵐を繰り広げた楽曲に、(C dur)のアルペンホルン風の旋律が、嵐を突き破るようにフォルテッシモの総奏で打ち鳴らされる。もちろんいきなり登場したら、露骨すぎて興ざめするから、登場は直前の部分から動機的に予備されているのは言うまでもない。(・・・って言ってんじゃんか。)この部分の登場は非常にドラマティックだ。つまり劇作曲法的な情景変化が織り込まれている。ちょうど、ベートーヴェンの第9番の「そのような響きではない」と歌う言葉の理念を、「こちらの響きだ」とばかりに間髪入れずに提示して見せた様相である。ここにいたり、序奏に見られた叙情的なフレーズ、「愛の歌」と呼んだものは、すべてを突き破る勝利の歌として置き換えられ、また事実、あれほど急き立てた不穏なるもの、フーガ風導入に始まる凄まじい嵐を、ものの見事に打ち破ることに成功している。成功とはつまり、聴覚上成功しているということだ。

・さらにこの部分は、ソナタ形式の枠組みをもっともルーズにしている瞬間でもある。前の展開部か再現部かの問題は、実は枠組みの短縮法の問題であり、ソナタ形式の解体という構造的問題ではかならずしもないのだが、それは話すと大変になるので割愛しよう。一方この「愛の歌」の部分は、枠組みの中でのエピソードという時間枠と印象を越え、さらに最後に「calando(だんだんゆっくり、だんだん弱く)」で速度を落とし、ソナタを終わりにして、別の方針にでも転向するかと想う瀬戸際に、平然と第2主題の再現部分が再現され、ソナタ形式を回復するのである。これをもって純器楽形式と、情景音楽的作曲スタイルの新古典派ブラームスなりの解答と見なすことが出来る。ベルリオーズのように無頓着とも思えるほどの解体と融合にはならないのは、もちろん彼の気質と、フランス人とドイツ人の作曲スタイルの違いなどを見いだすことが出来るだろう。またこの方針は、ベートーヴェンの(第9番ではなく)第5番に対する、彼なりの解答と見ることも出来るかも知れない。

第2主題再現部分(302-325)

・こうして喜ばしき世界を回復した最終楽章は、もはや型どおりに第2主題部分を再現する。

再現部終止部分(326-367)

・そして再現部終止部分も再現する。調性は第2主題再現部分はハ長調を基本に置き、終止部分でハ短調を中心とする短調領域に舵を切る。

コーダ(367-457)

Piu Allegroへの推移(367-390)

Piu Allegro(391-457)

・軍隊調の足並みのような刻みの印象深い、輝かしいものが勝利するようなコーダでは、407小節から、序奏に見られたコラール風の斉唱が回顧され、喜ばしきものと祈りとが共に高みに昇華してしまう様相を見ることが出来る。(・・・ああそうですかい。)

全体の構図について

・ベートーヴェンの交響曲ではしばしば発展の果ての楽曲の動的な部分、劇的な部分のピークが、再現部に掛かることがあった。そしてそれは第1主題の再現という事象と混淆(こんこう)することによって、次第に再現部の持つ安定した状態に引き戻されたのであった。ブラームスがこの楽章で考えたことは、この安定した状態に引き戻す作業を、さらに引き延ばして第2主題の再現の位置にもたらしめるという策略であった。これには、純器楽形式で考えた場合、

ソナタ形式の展開部と再現部の第1主題が合わさることによって形式が凝縮される。
まとめ掛かる最終楽章においてはむしろマイナスに作用しうるソナタ形式の弊害、もう一度振り出しの情緒に戻ってしまう点を克服し、速やかに喜ばしきコーダでまとめ上げることが出来る。

といった利点が挙げられる。この短縮の効果は、展開部という不安定で葛藤を含む動的な部分を引き延ばして、その後ろに来る再現からまとめ(コーダ)に到るまでのテンポを高め、いわばたたみ込むような場面転換で最後に向かって進めていくことにあった。そのため、提示部の後に展開部が置かれず、安定した発展的第1主題を再現させた後、第2主題への推移の途中に展開的部分が開始。楽章内でもっとも長い短調領域を形成し、悲劇的なもの、動的な嵐のような状態を、恐らく第1楽章の情緒への引き戻しという意味をも込めて、展開部で行うようなクライマックスを形成する。そして、その短縮の接合部分とでもいう場所に、アルペンホルンの旋律情景が置かれているのである。

・アルペンホルンの旋律によって展開風部分の激した部分を打ち破ったからには、そのアルペンホルンの旋律を讃えるように生まれた第1主題には、もはや情景配置の点からマイナスに作用しかねないこと、後はすみやかに(といっても第2主題以降だけでも十分にまだ波乱があるのだが)輝かしいコーダへ向かうべきことなど、楽曲短縮の純器楽的効果を保証し、補強し、正当化しているのは、このアルペンホルンの情景投入だという点に置いて、この部分は形式の最もルーズな、魅惑の瞬間だと言えかもしれない。

2009/1/16

[上層へ] [Topへ]