ヨハネス・ブラームスの生涯と楽曲紹介

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ヨハネス・ブラームス
  (Johannes Brahms)(1833-1897)

誕生と学習期

 ヨハネス・ブラームスは、ハンブルク近郊のデンマークに近いハイデという町で生まれた。祖父は宿屋と食料品店を経営、その子供達は兄が祖父の家業を継ぎ、弟のヨハン・ヤーコプ(1806-72)はハンブルクで音楽家となった。コントラバスなど幾つもの楽器を演奏していたが、ヨハナ・ヘンリーカ・クリスティアーネ(1789-1865)と知り合い、1830年に結婚。父は24歳で、妻は41歳だった。そのため中産階級のハンブルク市民であるクリスティアーネと結婚して、出世の足がかりを掴むためだったとも考えられる。こうして1833年5月7日に彼は誕生したが、ハンブルクの外れのアパートは小さな部屋であり、プチ貧民ハウス(・・・どんな用語だ)とでも呼べるほどの代物だったらしい。さらに2年後には弟のフリッツも加えて、窮屈な中に生活を営んだ。兄弟はあと2歳年上の姉が居た。父が当然音楽に興味を与え、4歳頃には随分音楽に引かれた子供だったようだ。両親は年齢の差もありブラームスの成長と共に仲が冷え込んでいったようである。

 当時ハンブルクに公立学校は存在しなかった。ハインリヒ・フォースの私立学校に通わせてもらい、また父親の采配により、始めオットー・フリードリヒ・コッセル(1813-65)の下で音楽を習い始めた。10歳で父の演奏家に出てピアノを演奏すると、興行師がアメリカで「モーツァルト再来、幼くてもこんなに弾けちゃうぜ」演奏会を開こうと打診してきたのだが、コッセルは「そんなんじゃ潰れちまう」と父を説得し、ヨハネスの才能を伸ばすべく、自分の師でもあるエドゥアルト・マルクスゼン(1806-87)にヨハネスを預けることにした。そのマルクスゼンによって10歳から18歳までの長きに渡り、音楽の才能を開花させていったのである。なお11歳で私立学校をホフマンの学校に移っているが、当時の学生生活事情はさっぱり分からんので割愛。

 13歳頃から港町のダンスホールや酒場でのピアノ演奏のアルバイトを始めた。少年の情操教育にはいかがなものかと、PTAからお叱りを受けそうなアルバイトである。これをもって家計を援助していたのだが、14歳の頃には働きすぎて倒れそうになって、父親が友人のギーゼマンの家に保養に出かけさせるほどだった。この血ではギーゼマンの娘にピアノを教えつつ、村の男声合唱団の指揮を行い、この合唱団のために作曲や編曲もしたそうである。少年期の彼は、一方では文学にのめり込んだり、文学や哲学書から素敵な文章を集めてみたり、演奏会でピアノを弾いたり、作曲を行ったりして過ごしている。(・・・えらくすっ飛ばしましたな。)しかしこの時期の習作は、ブラームスが後にことごとく破棄してしまったので残されてはいない。

作曲活動の本格開始

 作品番号付きで残されている作品は、まずピアノ曲から開始される。1851年には「スケルツォ変ホ短調」(op4、18歳時作曲)が登場し、1853年までの間に、三つのピアノソナタ[ハ長調op1][嬰ヘ短調op2][ヘ短調op5]が登場。ベートーヴェンとは異なり、このピアノソナタというジャンルは、ブラームスの生涯の伴侶とはなり得なかった。すなわちこの三曲の後には、変奏曲やワルツ集、小品が作曲され、ピアノ曲自体も決して多いとは言えないのである。また同時期、3つの歌曲集も作曲している。

 さてパリの2月革命(1848年)が火付け役となってヨーロッパに革命が飛び火すると、ハンガリーの革命運動によりエドゥアルト・レメーニ(1828-98)というヴァイオリニストが亡命者となった。彼はアメリカに逃れて、大成功して戻ってハンブルクに来ていたのだが、ブラームスの才能を見つけて、伴奏者として起用したのである。こうして1853年4月、ブラームスはレメーニと共にハンブルクを出ることとなった。

 ハノーファーではヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の元を訪れ、たちまちその才能を認めさせている。ヨアヒムは「ダイヤモンドのように澄んで、雪のような柔らかき」の彼の才能すごっくいい!と叫んでしまったのである。しかし肝心の演奏会はレメーニは反動者であるとして認められず、次にヴァイマールに向かった。

 ヴァイマールにはフランツ・リスト(1811-86)がいた。ヨアヒムの紹介もあり会見を果たしたブラームス、ついあがってしまい頼まれたピアノ演奏が出来なかったので、リストが楽譜を見て、ブラームスの「スケルツォ」を演奏してみたのだという。この第一印象が不味かったせいだか、音楽的イデオロギーの問題か、作曲が気にくわなかったか、フランツ・リストに対するブラームスの評価は、あまり高くはない。「ヴィルトゥオーソとサロンの性質が、作曲を台無しにしたのさ」みたいなコメントを残している。リストの前で演奏も出来ない度胸無しじゃやっていけない、と思ったわけでもないだろうが、レメーニとブラームスはしっくり行かなくなり、ヴァイマールでブラームスは伴奏者お役御免となってしまった。まあ解雇されたのか、喧嘩したのか、その辺は不明であるが、ブラームスは彼のことを嘘つき野郎だったと回想している。

 困ったブラームスはヨアヒムを頼り、二人はゲッティンゲンで二月暮らし、その間にはヨアヒムからご両親宛に心配ご無用の手紙まで出して貰っている。さらにシューマンの楽譜に感動して9月にはシューマン夫婦の元を訪れ、ローベルト・シューマン(1810-56)、その妻クララ・シューマン(1819-96)とブラームスは、才能を認め合ったのである。ただし、シューマンが「新音楽時報」にブラームスをえらく賛美して紹介してしまったので、これはかえってブラームスを当惑させることになったようである。11月には出版契約が行われ、ゲヴァントハウスで「ピアノソナタは長調」を演奏するなど活躍し、12月にハンブルクへ戻った。結局シューマンの大騒ぎにより、名声は高まったと云える。これをもって、ラインに飛び込む前に良い仕事をしてくれたものだ、などとローベルトを嘲笑してはならないだろう。なおこの1853年には、珍奇(ちんき)のためよく知られている、シューマンとブラームスとアルベルト・ディートリヒの合作ヴァイオリンソナタ「frei aber einsam sonata」(F・A・E・ソナタ)(自由にされど孤独にソナータ)が作曲されている。ブラームスの担当は3楽章であった。

シューマンと恋

 1854年初頭にはハノーファーに移り、ヨアヒムの紹介によりハンス・フォン・ビューロー(1830-94)(職業的指揮者の先駆にして、ワーグナーに妻のコジマを奪われたことで有名?)とも知り合ったブラームス、後に改訂して瑞々しさと完成度の高さが融合した隠れた名曲、「ピアノ三重奏曲ロ長調(op8)」を作曲し、この年のうちに完成させている。1月末にはヨアヒム指揮によるシューマン作曲「交響曲第四番ニ短調」の演奏を聴くために、シューマン夫妻がハノーファーに滞在した。しかし歓びも束の間、2月27日に運命の日が訪れた。ローベルト・シューマン、何を見たのか、ライン川に威勢良く飛び込んで、助け出されてボン郊外の精神病院に収容されてしまったのである。ブラームスとヨアヒムがクララを支えるべく駆けつける。ブラームスはデュッセルドルフに移り住みクララを精神的に支えているうちに、うっかり愛情に変わっていくという、お決まりドラマのパターンに落ち入ってしまった。

 この54年にはピアノ曲「4つのバラーデ」(op10)が作曲されている。二人の手紙はどんどん熱く燃え上がっていったが、56年にローベルトが亡くなると同時に、少なくともブラームスの方は燃え尽きてしまった。理性のベールに自らを包み込んでしまったのである。一段落付いたからか、ブラームスは1857年、デトモルトにあるデトモルト公爵の宮廷でピアノと合唱を教える職に就いた。三ヶ月間限定であるが、これを三年間行って、この時の経験は、生涯続く宗教的合唱曲の足掛けにもなっている。

 1858年になると、友人の作曲家ユリウス・オットー・グリム(1827-1903)の紹介により、ソプラノ歌手アガーテ・フォン・ジーボルト(1835-1909)と知り合い、独唱歌曲の霊感だけでなく、訪れたクララが怒って帰ってしまうほどの愛にのめり込んだ。なのにブラームス、結婚手前で「束縛は望みでない」みたような手紙を書いて、自分でぶち壊してしまったようである。この58年から59年にかけては、「セレナーデニ長調」(op11)「セレナーデイ長調」(op16)「ピアノ協奏曲第1番」(op15)などが作曲された。59年の1月には自分のピアノ演奏で協奏曲の初演が行われたのだが、これが失敗に終わり恋も破綻したので、ブラームスはハンブルクに逃げ帰ったという。秋には再度デトモルトの宮廷(秋から冬にかけてだけの仕事だった)に戻るが、ブラームスは新天地の必要を感じていた。

ヴィーンとドイツ・レクイエム

 1860年。クララ、ヨアヒムと夏の演奏旅行をしつつ、「弦楽六重奏曲第1番変ロ長調」(op18)を、翌61年には「ピアノ四重奏曲第1番」(op25)「ピアノ四重奏曲第2番」(op26)を作曲。さらにピアノ曲では「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」(op24)によって変奏形式に芽生えたりもしている。

 そして62年の9月、ブラームスはヴィーンに到着した。ヴィーン宮廷歌劇場の歌手であったルイーゼ・ドゥストマンらの紹介により、ヴィーンデビューを果たして、ピアニストのエプシュタインや弦楽四重奏団でも活躍するヴァイオリニストのヘルメスベルガーらと知り合う。さらに批評家として名を馳せていたエドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)から「ヴィーンを去るべきでない」とお褒めの言葉をいただくことが出来たブラームス。ハンスリックは標題音楽の潮流であるワーグナーを否定し、絶対音楽・古典主義をこそ音楽の目標に置いた批評家で、ブラームス擁護の先ぽうを務めることになっていく。

 ブラームスは一時ハンブルクに戻ったものの、この年ハンブルクの音楽協会の指揮を得るチャンスを逃したこともあって、1863年のヴィーンジングアカデミーからの申し出を心良く承諾した。次期シーズンからの指揮者の申し入れである。ジングアカデミーではバッハのカンタータなど懐古趣味のヒストリカルシリーズなど聴衆泣かせの選曲も辞さなかったブラームスだが、彼の楽曲が紹介され彼の名声は次第に高まっていった。さらにピアニストのカール・タウジヒ(1841-1871)、ベートーヴェン研究家として知られるグスタフ・ノッテボーム(1817-1882)らと知り合うことも出来た。

 64年にジングアカデミーの指揮延長を断ったブラームスは、ヨーロッパ有数の保養地バーデン・バーデンに移り、在住していたクララとも親しく付き合う。調子が出てきたブラームスは、64年に「ピアノ五重奏曲ヘ短調」(op34)を完成させ、母の亡くなった知らせの来た翌1865年には「弦楽六重奏曲第2番ト長調」(op36)、「チェロソナタ第1番ホ短調」(op38)、「ホルン三重奏曲ホ長調」(op40)などの室内楽曲を完成させている。「弦楽六重奏曲第2番ト長調」はかつてのアガーテとの思い出を回想、あるいは精算して書かれたものと云われ、その第1楽章には「アガーテ(A-G-A-H-E)」の音型が織り込まれているのである。また小品ではあるが忘れがたいピアノのための「ワルツ集」(op39)も65年初めに完成している。ジングアカデミーの職は辞めてしまったので、この時期の彼はヨーロッパ各地各国に出張しては演奏旅行を行って収入を得ていた。生涯の友となるテオドール・ビルロート(1829-94)ともこの年知り合ったと考えられる。

 母の死を契機に本格化したとも考えられている「ドイツ・レクイエム」(op45)の作曲は、スイスのヴィンタートゥーア、ついでチューリヒ近郊でなされた。スイス行きは友人のテオドール・キルヒナー(1823-1903)の勧めで始まったともされるが、最終的にはまず68年の4月にブレーメンで初演され、さらに作曲が続けられ、全曲完成は69年のライプツィヒで友人の指揮者カール・ライネッケ(1824-1910)(「フルート協奏曲 ニ長調 Op.283」でも知られる作曲家でもあった)の指揮によって初演され、どちらも大成功だった。その歌詞はラテン語のドイツ語翻訳ではない。少年時代から哲学書などからの言葉集め大好きっ子だったブラームスが、聖書の中から取りだして構成したものである。これによって名声が高まると、いよいよワーグナー派VSブラームス派の殴り合いが始まるとかいう話しもある。

 もともとは、フランツ・リストが音楽は標題有りで一人前だと叫んだら、シューマンなどが「そっだな事があってたまるか」と対立したあたりに、絶対音楽と標題音楽、あるいは古典的とロマン的の対立が始まっているとも言われているが、このイデオロギー論争が、ブラームスとワーグナーの音楽を焦点にして論争を繰り広げたのである。これは周囲と、後にはワーグナー自身も盛り上げてしまった論争だったが、ブラームスはリヒャルト・ワーグナー(1813-83)の音楽に対して、実はかなりの好奇心を持ち続けたようだ。実際の二人は64年に一度ちょいと出会っただけである。ブラームスの方では、70年にミュンヘンで「ラインの黄金」「ワルキューレ」の初演を見物した時は、ヨアヒムに「ワグネリアンと自称することになる」と冗談めかして手紙を書いているし、ワーグナーが亡くなった時にはなかなかに悲嘆しているのである。

交響曲第1番へ

 1869年。保養地バーデン・バーデンで「愛の歌」(op52)などを作曲したが、密かに想いを寄せていたシューマン家の三女ユーリエ・シューマンが他の男の元に嫁いでしまったので、憤懣やるかたなき思いで?、ゲーテのテキストを元にアルトソロと男声合唱のための「アルト・ラプソディー」(op53)を作曲した。一方トゥルクアート・タッソ(1544-95)の「リナルドとアルミーダの物語」を今頃に持ち出して来て、カンタータ「リナルド」(op50)を完成上演したのだが、これは失敗に終わった。このことがオペラ進出を断念させたとも言われる。

 それでもよく知られた歌曲「子守歌」(op49-4)や非常に好評を博した連弾ピアノ版の「ハンガリー舞曲集」(69年出版)によってヴィーン定住の意志を固めたブラームス、1871年にはカールスガッセ4番地に移り住んだ。

 1872年にヴィーン楽友協会の芸術監督に就任。回顧主義の演奏会に拍車を掛け、翌年には二つの弦楽四重奏曲(1番ハ短調、2番イ短調)(op51)管弦楽曲「ハイドンの主題による変奏曲」(op56)を完成。74年にはスイスに出かけ、後にブラームスの回想録を記したヨーゼフ・ヴィクトール・ヴィートマン(1842-1911)とも知り合った。金銭上作曲と出版だけで生活十二分と悟った彼は、1875年に楽友協会の職を辞し、演奏旅行と保養地とヴィーンを巡りつつ作曲を続けることにした。

 作曲は75年にピアノ四重奏曲第3番ハ短調(op60)が完成、翌年には弦楽四重奏曲第3番ロ長調(op67)も完成した。そしてその夏をドイツ最大の島としてバルト海に浮かぶリューゲン島へ出かけ、長年の懸案だった交響曲第1番ハ長調(op68)の作曲を精力的に進めたのであった。かつて、ベートーヴェンの足音に怯えて交響曲が書けないとハンス・フォン・ビューローに書き送り、何度も計画を中途で断念した交響曲というジャンルの、記念すべき第1番を完成させたのである。完成させた作品は圧倒的にベートーヴェンの遺産を継承しながら、同時に圧倒的にブラームス的であった。(・・・子供だましみたいな文章だな。ああこりゃこりゃ。)これを聞いたビューローが「ベートーヴェンの交響曲第10番だ!」と叫んでしまったのは、ある側面でまったく的を得た評価ではある。初演は76年11月4日、カールスルーエにてオットー・デッソフ指揮によって喝采を受け、さらに改訂して各地の演奏会で披露して見せた。ちなみにこの76年の秋には、ヴァーグナーが「ニューベルングの指輪」でバイロイト祝祭劇場が柿落(こけらお)としをした年である。(まったくどうでもいい話しだが、柿落としの柿の漢字は果物の柿とは同じ形の異なる漢字なのだそうだ。意味も果物ではなく、木片の意味だという。・・・しかもこれは前にも書いた話だ。)

交響曲第4番まで

 1877年は、[op69-op72]までの歌曲を作曲し、ペルチャハの自然にどっぷり浸かって保養しつつ「交響曲第2番ニ長調(op73)」を完成させた。今度はさくっと仕上げるのである。その叙情性のために「ブラームスの田園交響曲」(ブラデンとは略さない)などと呼ぶ人もいるくらいだ。翌年78年には医学者で友人のテオドール・ビルロート(1829-94)と共にイタリア旅行に出かけ、
「北国気質の男が南国気質にぞっこんいかれちまう症候群」
に掛かって、すっぽり魅了されてしまった。(・・・また変な文章を。)なんとこの後、死ぬまでに8回もイタリアに出かけてしまうのである。私もそろそろ沖縄が恋しくなってきた。

 調子が出てきたブラームス、夏はやはりお気に入りとなったペルチャハに出かけて、「ヴァイオリン協奏曲ニ長調(op77)」を完成させる。ペルチャハには翌年にも出かけて、今度は「ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調(op78)」[雨の歌]と、ピアノ曲「二つのラプソディー(op79)」まで仕上げてしまった。この年彼は、ブレスラウ大学から名誉博士号を授与。これに対する謝礼として1879年にきっぱりと分かり易い「大学祝典序曲」(op80)を完成させ、またこれに対比する精神状態から「悲劇的序曲」(op81)も完成。21世紀の今日だったら、「鬱的序曲」も完成されたかも知れない。

 作曲は順調だったが、ヨーゼフ・ヨアヒムが自分の妻への嫉妬狂いが高じて、ブラームスとヨアヒムの間に亀裂が走ってしまった。81年にはイタリア風の明るさを取り込んだとも云われる「ピアノ協奏曲第2番変ロ長調(op83)」が、作曲者自身によって初演される。後の演奏会では、普段はブラームスなんて聞きに来ないはずの?フランツ・リストが顔を出し、楽譜を所望する。さっそく贈ってやれば、お礼の手紙に「初めは真っ暗に見えたのに、だんだん明るく澄んで来たの」(そんな文章じゃない!)と書かれていた。そんな1882年には、「ピアノ三重奏曲第2番ハ長調(op87)」「弦楽五重奏曲第1番ヘ長調(op88)」などが作曲されている。

 ワーグナーが亡くなってブラームスも巨匠が死んだと叫んでしまい、一方ではウェーベルンが誕生した1883年。彼はヴィースバーデンに保養に出かけ、「交響曲第3番ヘ長調(op90)」を作曲した。初演は好意的に受け止められたが、あるじを亡くしたワーグナー派が暴走したのか、校長先生に脅迫状を送り付けて退学になったことで有名な・・・・じゃなかった、特に歌曲で知られるフーゴー・ヴォルフ(1860-1903)が、「陳腐すぎて超むかつく!」と、この交響曲をぼろくそに貶して見せた。あるいは昔ブラームスから、もっと勉強したまえと勧められたことにご立腹だったとも云う。

 この頃知り合った若きアルト歌手のヘルミーネ・シューピース(1857-93)のために歌曲を書いて、密かに心ときめかせるブラームスだったが、84年には最後の「交響曲第4番ホ短調(op98)」に着手、翌年完成初演となった。ハンス・フォン・ビューローは作品を支持し初演を成功させたが、また出た脅迫状の男、フーゴー・ヴォルフがさっそく罵って、
「ブラームスの創作活動が退行しているは驚異的である」
と批評文を書きまくっていた。翌年86年にはスイスのトゥーン湖畔へ出かけ、以後88年まで夏の保養地にはスイスが選ばれた。ここで「チェロ・ソナタ第2番ヘ長調(op99)」「ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調(op100)」「ピアノ三重奏曲第3番ハ短調(op101)」を完成。87年には「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調(op102)」「ジプシーの歌全11曲(op103)」まで完成させた。ちょうどこの頃、ヨアヒムとの関係が大分改善したので、はたから見ていたクララが「和解協奏曲ね」と、先の二重協奏曲をたわむれに命名したとか、何とかカントか。

最後

 さてライプツィヒでグリーグチャイコフスキーと会見し、ヴィートマンと6回目のイタリア旅行にも出かけた1888年。(よく考えると、偉大な?、C・P・E・バッハが死んでからまだ100年しかたっていないのである。)ブラームスはヴィートマンに向けて「もはやオペラも結婚も求めない」と手紙を記している。オペラに関しては、随分ためらいもあったらしく、ヴィートマンが回想録に記すところ「台本すべてに音楽をつける行為は、劇作品を低下させる」というポリシーもあっただろうが、一方でやはりワーグナーの対抗馬的に見られるのが嫌だったという側面もあるのだろう。なにせワーグナーの書かなかった交響曲を書いてさえ、散々騒ぎ立てる有様なのだから。この88年には「ヴァイオリンソナタ第3番ニ短調(op108)」を完成させた。

 89年には66年に知り合って以来、その音楽に魅了されてしまったヨハン・シュトラウスと親しくし、オーストリア皇帝からレオポルト勲章を、さらに生まれ故郷からハンブルク名誉市民権などを得ることとなったが、組織的な自作の演奏を行うことは、この年が最後となった。

 第五交響曲の作曲は頓挫し、これは最終的に「弦楽五重奏曲第2番ト長調(op111)」として1890年に完成するが、創作の限界を感じたブラームス。秘書役を務めてくれていたマンディチェフスキーに対して、「もう年を取りすぎた。本格的な作曲はしないと決心した。」と記し、秋には遺書もしたため終えた。

 ところが1991年になってマイニンゲンの宮廷管弦楽団に所属する名クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルト(1856-1913)と知り合ってしまった。運命の出会いである。その名演奏を聴いて、霊感を受けて若返ってしまったブラームス。晩年の傑作と讃えられる「クラリネット三重奏曲(op114)」「クラリネット五重奏曲(op115)」「クラリネットのための2つのソナタ(op120)」(これは1994年完成)などを書き残すことになった。

 1991年、シューマンの「交響曲第4番」をブラームスが改訂して出版したことで、クララとの関係にひびが入った。さすがに誤解のままでは居れないブラームス、ほとんどあり得ないブラームス側からの謝罪の手紙によってようやく関係を修復した。クララまで心から消え去ることは、ブラームスにとって、両足がうまか棒になるよりも辛いことだったに違いない。(そりゃどういう例えだ。)

 しかし特に92年以降、次々に知人達の死を目の当たりにして、「四つの厳粛な歌(op106)」を作曲した1896年の5月には、ついに心の妻?クララ・シューマンが亡くなってしまったのである。ブラームス茫然自失。「もはや死を待つより我は」の状態に陥ってしまったのである。

 自らも肝臓癌で体調を悪化させるブラームスだったが、彼はこの年の内にオルガンのための「11のコラール前奏曲」(op122)を完成させた。翌年3月、ヴィーン・フィルの演奏会でブラームスの「交響曲第4番」をハンス・リヒターが指揮。これに顔を出したブラームスに対して、拍手が鳴り止まなかったが、ヨハン・シュトラウスの新作初演に出かけたのを最後に病床につき、1897年4月3日にお亡くなりた。

2008/12/18

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