シューマン 交響曲第4番 第1楽章

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序奏(1-28)d moll

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・(d moll)の第5音(A)を管弦総奏で保続して開始する序奏は、やがて8分音符の順次進行をベースとした序奏主題を導入する。序奏主題(1-4)は3/4拍子ではなく、6/8拍子のように感じられるが、4小節目で本来の3/4拍子を感じさせる音型が挿入される。この序奏部分は実際は6/8拍子的部分が圧倒的に長く、譜面だけ3/4拍子を採用した偽り拍子要素が強い。むしろこの4小節の正規の拍子進行がヘミオラリズムのように聞えるだろう。続いて序奏はこの4小節までの主題を元に形成される。まず3小節までの6/8拍子進行を元に(5-21)まで拡大し、最後のヘミオラ風の4小節目を元に、直後に登場する第1主題動機による導入(22-28)を行なって、提示部に至る。このあたり初稿版では第1主題動機の導入がなく、一気呵成に速力を増す猛進的推移が置かれていたが、後年構成のために導入の効果が確かめられた。また10小節目からティンパニーなどで打たれる特徴的な「ターータタタ」のリズムは、冒頭1小節目の主題の入り部分から派生している。
・和声的には属和音と主和音第2転回の交替が中心を占めて、主題に対する長大な保続属和音部分という意識が強い。これは序奏としては非常に単純な方針であるが、例えば4小節目では1拍目に(d moll)に対するⅢ調(F dur)の主和音と属和音を経由して(d moll)の属7和音に至るような和声進行は、ヘミオラ部分の異質性を豊かに彩色している。また序奏後半で和声交替密度が高まり、特に18小節からは、8分音符ごとに丁寧に和音交替を行ないつつ22小節目の属和音上の中心主題導入に至る遣り方は、オーソドックスな方法だが、シューマン好みの遣り方だ。オーケストラは管と弦が常にどっぷり旋律を担当し続ける色彩と密度の乏しい・・・じゃなかった、均質的な傾向が著しいが、これは彼の交響曲の大きな欠点ではなく、性質、簡単に言えば好みの問題なのである。

提示部(29-86)

第1主題提示部分(29-42)d moll

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・シューマンの大楽曲形式での著しい傾向は、同じ動機や同じリズムにどっぷり浸りたい、同じ属性のままでありたい、何時も貴方と結ばれていたという精神である。これはこの曲だけに限らず、4つの交響曲すべてで見ることが出来る傾向だが、この4楽章はシューマンの斬新性から4楽章に共通動機を使用した循環主題的傾向に至ったと云うよりは、彼のそうした嗜好性がこのような楽曲形成の引き金になったのかも知れない。そんなわけで、この交響曲の最重要主題はこの第1楽章の第1主題(29-42)であり、その最重要動機はその冒頭1小節目(29小節)の「分散和音上行形のち回音」が担っている。この最重要動機を動機xとしておこう。さらにこの部分には第2ヴァイオリンに「タンタタ」のリズムが登場し、これがまた重要リズム動機になっている。これをリズム動機yとするが、主題全体を考えると、初めの1小節目の動機xと動機yが原細胞となって、最小楽句単位の(29-32)を形成し、弱拍リズムによる拍の揺らぎを導入した中間部分(33-38)へと発展し、主題終止(39-42)のクライマックスと止めに至るという、オーソドックスな方針が取られている。そして弦で生み出された主題が管によって繰り返されたり、互いに応答したりしながら主題が登場するような楽曲と比べて、何と管弦の均質な主題提示となっていることか。
・主題の中間部分(33-38)ではユニークな戦略が練られている、これはいわば開始の第1主題の繰り返しによる部分なのだが、初めの1回目(33-35)は第1主題の(29-31)までを元にして最後にシンコペーションの揺らぎを形成するが、次の(36-38)では直前の3小節の順番を入れ替えて、直前3小節の1小節目(つまり33小節)が最後に置換されている。つまり33小節目から1,2,3と並んでいたものが、36小節目から2,3,1と並び替えられ、安定と変化の心地よいフェイントをしかけると同時に、39小節目からの動機xの締めくくりに向けた呼び込み動機xの提示を旨く行なっているわけだ。
・和声的には主題3小節目(つまり31小節目)のさいごの拍に、序奏主題4小節目の(F dur)の主和音から属和音の進行が逆になった和声進行が、(d moll)の属和音に至る途中に裏拍の味付けとして投入されているのは、序奏の例と関係を持っているのだろう。

推移(43-58)a mollから

・弦と管を使い分けるより、共に戯れていたいシューマンの特徴は、主題が終わって推移に至っても、まったく弦と管が同様の進行によって音型だけ変化させて推移を行なってしまうのを見てもよく分かる。まさか楽曲全体を同一に進行する筈はないが、管と弦の応答や、どちらかの薄い部分に至っても、均質的な総奏状態を保ちたいという精神が目立つようだ。
・この部分は動機xを使用した推移になっているが、16分音符の上行形の後に付点8分音符の「たーた」を加えた43小節目を原細胞にして、つまりはその繰り返しと発展で推移を乗り切ってしまう。和声交替と転調を経て、やがて(F dur)に至るが、この(F dur)こそは序奏主題の4小節目ですでに暗示されていた調性、つまり(d moll)から非常に近親関係にある平行調である。古典派のソナータ形式では、この平行調によって第2主題部分が形成されるから、この楽曲形成は非常にオーソドックスなスタイルだ。

第2主題的第1主題提示部分(59-75)F dur

・ここで第2主題が登場するのが古典派のソナータ形式だが、シューマンはここで長調化され悲劇調を英雄調に変えた第1主題の冒頭2小節をそのまま使用して、これにリズム動機yを連続的に繋ぎ合わせたリズム的対旋律(リズムがなければとても対旋律と呼べるほど独立した代物ではないのに、リズムだけで重ね合わせを全うさせるという、作曲の基本技法の一つだが、シューマンが好んだ方法ではある)を加えることによって、第1主題そのものを使用した第2主題的部分を形成している。もしその後の楽曲進行が、展開部を提示部のフレーズだけで作曲し、再現部で提示部同様の回帰を行なえば、この部分は第1主題に非常に親しい第2主題として分類できるものだ。ところが、この曲では展開部に改めて新しいフレーズが登場し、これが副次的ではなく、完全に主要旋律の役割を担って、再現部では第1主題の後の部分で第2主題に置き換わってしまう。これこそシューマンが編み出した新しい「わたくしソナータ形式」・・・・かどうかは知らないが、この第1楽章のユニークな楽曲形式となっている。その効果については後で話すことにして、楽曲の全体を眺望すると、第2主題の座は明確に展開部に登場する新主題の方が強いので、ひるがえって提示部のこの主題は、第2主題的第1主題提示部分となり、この場合提示部は、2つの主題の提示部ではなく、第1主題提示部なのである。しかもその中で第1主題提示を、ソナータ形式の柔軟性を利用して、まさに第1、第2主題が登場したように配置して、楽句同士の統合性を見事にまとめ上げている点は、非常に評価できるだろう。管弦楽法としては、彼はやっぱり管も弦も均質に突き進みたいらしかった。
・和声としては面白いことを遣っている、例えば67小節から69小節までは
(F-A-C)→(D-F-A)→(G-Bb-D)→(E-G-Bb)→(A-C-E)→(F-A-C)
という3度関係の反復進行を基本に置いて初めの和音に戻ってくるという方針をとっていること自体、古典派和声体系と異なる進行を目差すロマンの息吹を感じる。さらに2拍目にあたる(D-F-A)、(E-G-Bb)、(F-A-C)は、隣接音偶成和音で属和音的に不協和を設けてから解決して所定和音に至るので、属和音から主和音への解決という古典派的和声体系と、3度関係の反復進行というロマンっ子の息吹が見事に融合して、深め合っているようにも見える。響きとしては69小節目の2拍目の頭が(F-A-C)の第1転回形により(A)を保続としている上で、(F-A-C)の属7和音第5音上行形(E-G#-Bb)を使用しているが、学生の課題だったら和声の先生に背負い投げされそうな際どい部分でも、オーケストラで通常テンポで演奏すると豊かな味を出しているのは見事だ。しかも3度反復進行の前は、Ⅰと保続主和音上の属7和音の交替であるから、1つのⅠ和音と見ることも可能で、いわばⅠ和音の中で属7の響きが揺らぎとして提示されることによって、続く部分に3度関係の反復進行が生まれるが、この反復進行は4度関係や5度関係のような反復進行が属和音を指向するのとは違い、いわば和声上のサブドミナント和音のような反復進行になっている。つまり修飾性、あるいは形容詞的な色彩を与えて、この直後から始まる8分音符ごとに和声を変えながら進行する第2主題風部分のクライマックスに繋いでいるが、開始から順次緊張感が高まっていき、73小節でドッペルとⅠの2転という非常に緊張の高い古典和声部分に到達する辺り、先ほどの3度関係の反復進行が見事に主語と述語の間を繋ぐ形容詞の役割を担っているのを見ることが出来るだろう。

終止部分(76-86)F dur

・和声隣接音を利用して終止を告げる推移(76-78)が、やっぱり管弦総奏のまま行なわれ、79小節から動機xに基づく終止フレーズが2小節単位で2回ならされ、そのまま動機xを使用して提示部の一番のクライマックスを築きながら終える。つまり第2主題的部分から見られた長調による英雄ぶった動機xが、一旦輝かしく幕を閉じ、第1主題の悲劇的部分に対して、料理の部分を形成しているわけだ。そしてここまでまったく動機xを使用した第1主題の提示部だったことが分かるが、ここで一つ疑問が沸いてくる。この単一動機的性質と、悲劇の動機が第2主題で英雄的軍隊的動機に到達し、一旦勝利を得るが、再び展開部の嵐に巻き込まれていく、そして最終楽章では勝利が確信されるという図式は、非常にベートーヴェンの交響曲第5番に似ているのではないか、という疑問である。多分それは当たっているかもしれない。意識して運命の楽曲構成が採用され、その上でシューマンは自分独自の遣り方として、第2主題の展開部での登場や、楽曲同士を緊密にする単一主題的構成を進めて、多分本人の意識の中ではさらに先んじて見せたのかも知れない。E・T・A・ホフマンがベートーヴェンをロマン派と叫んでしまったように、直後の作曲家達から見ると、まさにベートーヴェンの楽曲はロマン派の武器庫だった。すでに第5番の繰り返される運命の動機は、彼らから見ればまさに全楽章に動機や旋律による統合を図る新しい方針に違いなかったし、最終楽章で呼び戻されるスケルツォ旋律は、楽章間を渡り歩く主題旋律の先輩のように思えたに違いない。そう考える時、ベートーヴェンの交響曲を聴いて幻想交響曲を作曲したベルリオーズが、イデー・フィクスを採用したことは、実はベートーヴェンが5番で行なったことの発展と再利用をしただけなのかも知れないとも思えてくる。

展開部(87-248)

提示部の推移を使用した導入(87-100)

・何故かベートーヴェンを賛えるように提示部を終えたが、展開部の説明に移ろう。展開部の初めの部分は提示部の推移以下を元にしている。まず最も短絡的なソナータ作曲法のように、推移で使用した音型がそのまま展開部の導入推移になっている。しかし長調の直後に登場するフェルマータで伸ばされる単音(Es)は、(D dur)に対してのナポリの響きを表現し、その直後から(b moll)が確定される響きの変化は非常に見事だ。これだけの効果が生み出せるなら、やっぱり推移を再利用したことは大正解だった。

第1主題を使用した展開1(101-120)

・先ほどの推移部分を利用した導入を行なう途中に(es moll)に辿り着き、101小節からは弦楽器による第1主題の冒頭2小節と、トロンボーンの引き延ばされた3小節(3小節目で再び次の動機xが導入する)の響きが交替する反復進行に到達。同じパターンが次々に調性を変えながら、どっぷり浸かるように繰り返されていく。ここでようやく管と弦の応答が行なわれることから、シューマンの意図が、全体として均質な響きが広がる世界に、独自の管の響きや、管と弦の対話的部分が織り込まれていくというスタイルにあったのだと思えてくる。

その到達点としての木管ファンファーレと動機x(121-146)

・管と弦の応答密度が高まり、リズム動機yは消え、特徴的な鋭いリズムを持った軍隊的なファンファーレが管楽器を総動員して1小節鳴り響くと、次の小節で弦楽器が動機xを1小節奏でる。ここでファンファーレの土台に登場する8分音符3つのリズムと、初めの(Ⅰ-Ⅳ2転-Ⅰ)の和声進行は、後々重要な役割を担うことになる。この和声進行とリズムをリズム動機zとしておこう。つまりリズム動機zの3つ目の音と同時に動機xが鳴り響くと、最終楽章の第1主題が開始する事になるわけだ。この繰り返しにどっぷりと浸りながら、多分悲劇精神の最も激しく葛藤を行なう(あるいは敵と戦う)闘争的な部分を形成し、しかし次第にフェルマータによるリズムの弛緩を設けて、これまでの楽曲の時間の流れを大きく揺さぶる。何度もフェルマータで止められ、また走り出す動機xの中で、次第に直前の部分が遠のいて、新しいものが導き出される準備が整うわけだ。ここでもやはり転調を重ねて、最後に例の平行調(F dur)に到達する。基本的な調性プロットは決してぶれることがない。

第2主題部分(147-174)F durで開始

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・直前の部分では鋭い木管のリズムが次第に付点8分音符に落ち着いて行く様子が見られたが、ここから導き出された付点のリズムが、そのまま穏やかに付点4分音符で開始する第2主題を弦楽器に登場させる。主題は第1主題とは対照的に息の長いフレーズと下降開始の旋律線を持ち、伴奏型もリズム動機yか動機xによる形を捨て、分散和音的歌謡風伴奏が登場。まったくこれは第1主題に対するものとして登場した、第2主題に他ならない。そして第2主題(147-158)も動機xの要素を持っていて、3,4小節目(つまり149、150)では第1主題のフレーズ(音価を2倍にしたもの)を簡単に見ることが出来るはずだ。楽器構成も第1主題とは対照的に、まず弦楽器で最小楽句単位(147-150)が奏され、途中から加わった管楽器(151-154)がこれを繰り返す。すると155小節から弦楽器により動機xから分散和音に至るという主題後半部分が続くというわけだ。第1主題を元にして形成されながら性格を変えた主題や、伴奏の違い、管弦を交互に登場させる方針、そして何よりも本来の第2主題提示の調性(F dur)で導入している点。様々な対比要素を見ても、まさにこれは第2主題を担っているわけである。この主題のひとまとまりは、転調しながら何度も何度も繰り返されるが、最後に171からリズム動機zと動機xの掛け合い使用した推移部分を経て次の部分に移行する。

展開部ここまでの繰り返し(175-248)

・どっぷり同じフレーズに浸りたいシューマンの魂は、調性を変化させながらも、展開部の今までの部分をもう一度繰り返すという作戦に向かわせたのである。実はこれは第1主題による提示部が2回繰り返されたのと同じように、第1主題的なものの中から第2主題が登場するという、いわば第2主題の提示部分を2回繰り返すことによって、2つの提示のバランスを保つ意味があると思われる。と同時に全体の楽曲としてはこの部分は明確に展開部であるわけで、それは動機xやフレーズの流動性とか転調の様子を見てもよく分かるが、主題提示部が提示の確認を行なったのと同じように、展開されつつ誕生した第2主題という流れを、もう一度行なうというのは、全体の楽曲構成としては形が整っていて、ひたすら新展開して動機を繰り返すようなルーズな肥大を防ぎ、繰り返しと分かっていればこその快楽と安心感によって、冗長な長さを持つ展開部をそれなりに引き締めている。
・ここでベートーヴェンの交響曲を思い起こしてみよう。英雄の1楽章の展開部などが良い例だが、例えば推移で使用された動機を使用して導入された展開部はやがて、それまで絡み合わなかった方法で主題を含めて4つの動機が絡み合う展開が開始したり、周到なプランの後に第1主題部分から中間部主題を導き出す事象の拡大と壮大なドラマの発展を見せるが、それは線としての動機、つまりバロック時代からの優れた遺産である対位法を、古典的に解釈し直した声部の絡み合いが、非常に大きな意味を持っていることが分かる。彼の交響曲の展開部が提示された動機を、対位法的に絡ませたり、フゲッタ風に導入したり、かつての伴奏動機を異なる動機に絡ませたり、動機が変奏され新たなフレーズが生み出されたり、様々な方針で高密度の展開を築くのに対して、このシューマンの交響曲では、それぞれの楽句部分の作曲を展開的な派生的なものに置き換えたり、特徴的な響きの音型を間に挟んで展開的楽句を生み出したり、その結果として新しい軍隊的部分を登場させ、第2主題に引き継ぐというように、楽句の事象拡大や動機同士の展開の旅ではなく、情景の変化による展開という様相が浮かんでくる。つまり方針が文学的なのかもしれないが、ベートーヴェンのシンフォニーに対して後退現象、あるいは変わりのものに置き換えたために、前の要素が乏しくなったような側面が見て取れる。(これはシューマンに限らない。)

再現部(249-356)

第1主題再現部分(249-264)a mollから

・再現部は推移的再現導入を図っているが、これも古典派時代には存在した技法である。主題再現は直前の展開部の推移を引き継ぐように連続的に開始し、主調ではなく(a moll)の誤った調性で進行、主題3小節目も推移的な修飾に変化している。これが転調を加えながら繰り返されて行くという、流動性の高い第1主題再現になっている。

推移(265-296)f mollから

・提示部推移とは異なり動機xがしっかり使用されながら推移が行なわれるが、途中から動機xが抜けて転調しながら和声的に広がっていくような部分に到達、285小節からリズム動機zが鳴らされ、それに応答して再び動機xが導入され、次第に動機xの密度を高めるので、結局推移全体は動機xによって形成されている。

第2主題再現部分(297-356)D dur

・そして再現部では、展開部で登場した第2主題が本来の位置に納まって、提示され、調性も(D dur)と主調(d moll)の同主調を使用して、ソナータ形式上も理に適った再現を行なう。この部分は何度も繰り返されながら、転調を繰り返えし、第2主題を賛えるように進行するが、最後に(D dur)に回帰(313)すると、(333)から和声的な部分で引き延ばされる。

コーダ(356-358)D dur

・そして第1主題を使用したコーダが、相変わらず管弦総奏を貫いて動機xを賛え、最後には動機zと動機xの交替の中で、ⅠとⅣ2転が繰り返され、勝利の最終楽章が大いに予感させられながら曲を締め括る。ベートーヴェンの第5番と異なり、すでに1楽章の中で闘争から勝利が全うされているのが、シューマンの異なるところだ。最後の和声はⅠで止めを打つし、ⅠとⅣの交替の連続の大円団は、楽曲自体完全に終止した感覚しか起きないので、続くアタッカによる楽曲の繋がりは、実際は譜面ズラだけのフェイクである。1,2楽章は明確に途切れていて、第2楽章が(a moll)のⅣ2転から始まっていても、連続的であるとは感じられない。それはどういう事かというと、直ちに演奏しても、十分時間を取って演奏しても、実際の感覚に訴える効果に差は無いと云うことで、本当の意味で繋がっているのは第3楽章と最終楽章の間である。

2006/10/26
2006/11/06改訂

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