シューマン 交響曲第4番 第3楽章

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スケルツォ部(1-64)

主題提示部分(1-16)d moll

<<<確認のためだけの下手なmp3>>>
・序奏旋律冒頭の順次進行下行型後上行形を逆にして生み出されたスケルツォ主題は、相変わらず弦楽器と木管の線を均質的に開始する。これはシューマンの作曲的欠陥では決してない。木管と弦楽器が均質に響く世界を基本的響きにして、特定の場合に変化を付けるのは、彼がこの均質的な響きを愛したからであり、この響きの中でこそ、彼の交響曲は泳ぎ回ることが出来るのである。後年これをシューマンのオケの欠点だとしてオーケストレーションを改める例が多々見られたようだが、後にシェーンベルクが叫んでしまったように、彼のオーケストレーションでなければ、シューマン的な要素がまったくもって失われてしまうのである。最近のオリジナル楽器原典尊重のCDを聞いてみれば、どこがかんに障って改編されたのか分からないぐらいだ。しかしこれはシューマンだけの話ではなく、原典版とか作曲者の意図に忠実な思想が広く認知されるようになったのは、実は20世紀になってからであり、当時はそのような改編は非難されるべきものでは無かったのである。
・スケルツォ定型通り、リピートが付けられている。

中間部分(17-48)G durから

・スケルツォ主題の反行形風に(g moll)から中間部分が開始し、転調を重ねていくが、相変わらず管と弦は同じ線を描き続ける。極めて意識的に。(意地悪く言えば、極めて単純に。)39小節の属和音が増3和音に上行し(C-E-#G)から主和音に入るところは、属和音上行形使用の見本のようになっているから、和声学習者は覚えておくのも悪くない。

主題再現部分(49-64)d moll

・主題が再現されるが、決して提示に比べて拡大されたり、圧縮されたりするのではなく、ほとんど同様に主題が提示される。そしてリピートでもう一度中間部から繰り返したら、次はTrioに移行する。

トリオ(65-112)

・単純だが効果的な方法として、第2楽章同様、前の楽章の回顧が楽句を形成する。すなわち第2楽章の中間部主題を元にしてトリオが形成されるが、提示部分がリピートされ、中間的部分から再現部分までがリピートされ、スケルツォ部分が再現されるわけだ。またトリオ部分の和声を順番に平行移動していくスタイルは、古典派でもよく行なっていた機能和声進行とは異なるパラレル関係の和声平行の意味合いを持つが、ここでも例えば67小節から和声がⅠ→Ⅶ→Ⅵ→Ⅴ→Ⅳと進行していくように、主和音と属和音を主体とする進行に対して、豊かな曖昧さを演出している。この平行移動が、完全に同種の和音(例えば短7和音とか増3和音とか)を徹底して使用すると、19世紀後半の新しい音楽の領域に入り込んでいく。

スケルツォ部分(113-176)

・スケルツォ部分の繰り返し。

接続部分(177-232)

・再びトリオが開始するように、トリオの楽曲を使用して、コーダと次の楽章への接続を兼ねた部分が開始。木管の平行順次下降和音の響きの中で、先のトリオでは連続的にフレーズを奏でていたヴァイオリンが、193小節目から休符を細かく挟んだ途切れがちなフレーズで再現され、最後に218小節から和声的な部分に引き延ばされて行く。この交響曲は元々愛妻のクララの為に作曲したものだから、シューマンの描いた3楽章は、スケルツォによる愛を得るための格闘的部分が込められ、トリオ部分に愛の歌が込められているのかも知れない。始めトリオで提示された愛の歌は愛の歌を淀みなく歌うが、さらに深く心悩ませる愛の歌は、この再現にいたって溜め息まじりの恋愛病に陥って、最後に祈りのようにして和声部分に解消される。(ベルリオーズの1楽章の最後の場面のように。)そんな事を考えていたのかも知れない。すると、第1楽章の悲劇調は恋愛の戦いに身を投じる主人公であり、おや、待てよ、するとこの楽曲はひょっとして自分とクララの愛の奇跡を描いたものではないだろうか。相手がシューマンだから、あり得ない話ではない。思い付くままに書き記すと、次のような筋書きが出来るかも知れない。
・第1楽章の序奏ではまだ満たされていない主人公(一人の芸術家、あるいはわたくしと云ったところだろう)の心の状態(寂しさ、物足りなさのようなもの)が表わされ、またこの部分が後に恋の歌に発展していくことから恋愛のぼんやりした予感のようなものになっているのかも知れない。提示部の第1主題は孤立無援で己の信念のために闘う主人公の姿が表現される。闘争は提示部の最後に主人公の勝利に終わるが、絶え間ない新たな闘争により展開部に導かれていく。再び悲劇調の闘争が行なわれ、軍隊的なファンファーレも加わり修羅場をかいくぐる主人公。しかしそこに彼女という援軍が第2主題として登場し、それでも闘争は続くが、彼女がそこにいる、その力を借りて再現部の第2主題からコーダに向かって、勝利に至る。主人公にとって、彼の芸術の完成にとって、恋人はかけがえのない女性となって、闘争の勝利は高まる恋愛の始まりと掛け合わされる。
・次に第2主題では主人公が憧れるようなオーボエのロマンス旋律を歌い、寂しさを感じる第1楽章の序奏が回顧されるが、中間部で彼女の呼びかけが修飾的なヴァイオリンソロで登場し、最後に主人公の高まった憧れがロマンス旋律を歌いきる。2人の心は2楽章で通じあったのかもしれない。
・3楽章は、要するに恋愛を成就する障害物との格闘。つまり結婚を阻む親父フリードリヒ・ヴィークとの格闘だ。スケルツォで親父と争い、トリオで彼女と共に愛を確かめ合い、また親父と争い、最後にもう一度登場するトリオでため息交じりに、愛が深まりすぎたのは主人公ではなく、彼女の方だったのだ。だから主人公は勝利を確信し、2人の愛は和声による祈りに解消していく。そして第4楽章は恋愛の完成、2人の結婚が認められた状態を表現している。だとすればこれはまた見事な勝利だ。だからこの交響曲はクララ交響曲という落ちまで付けられそうである。
・まさかこんな事を懸命に考えて作曲したわけでも無いだろうが、悲劇から勝利の図式がベートーヴェンの哲学的壮大さに比べて、第1楽章の第2主題といい、第2楽章のロマンス旋律といい、青年にとってもっと身近な感情、愛とか恋とかの悲劇から勝利を扱っているような様相が濃いので、そんな見方をしたくなるのである。シューマンの場合、無いとも言えないし。

2006/10/28
2006/11/06改訂

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