第21章 無調性音楽からセリー技法へ

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第21章 20世紀ヨーロッパにおける無調性、音列主義および最近の発展

 「世紀末も差し迫った1899年に作曲された「清められた夜」や、「ペレアスとメリサンデ」(1903)、さらには交響カンタータ「グレの歌」(1901,管弦楽化1911)などにおいて、アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)はポスト=ヴァーグナーの語法を誰よりも自由闊達に扱うことが出来ました。しかし、拡大されすぎた管弦楽を使用しながら調性側からの引き延ばしをはかり、機能和声を限りなく不協和の連続としてほとんど解決をなくすような遣り方。つまり後期ロマン派の語法と呼ばれる側からのアプローチに対して、20世紀初めにヨーロッパ中でイデオロギー変換のようなものが起こったのです。例えば小編成の厳選された楽器によって作曲を行うという態度にもそれは表れてきます。そして語法上では、新たな全音階的で自由な和音に基づく新古典と呼ばれた新しい形の調性音楽も、解決される必要のない自由な不協和音により作曲を行う無調性と呼ばれる音楽も、ある意味では前のイデオロギーの否定の結果として生まれてきたものです。」ついに先生の話は、お優しすぎる私達の限界を突破した。私は、正しいかどうかも分らず先生の伝える内容をノートに次々に記入していくだけだった。「もっとも」先生はまるでお構いなしの様子である。「無調性(atonality)と言う言葉は、シェーンベルクとその仲間達の作曲技法について使う言葉として定着しました。シェーンベルクは調性を限りなく引き延ばす後期ロマン派の語法が、さらにもう一段階次のステップに繋がるはずだと、ずっと悩み続けていたのです。そんなノイローゼ状態を見かねた妻のマティルデは、勢い勇んで新進気鋭の画家リヒャルト・ゲルステル(1883-1908)の元に逢い引きよろしく走っていってしまいました。シェーンベルクは、妻をふところに入れたゲルステルが、自分に対する使い古された倫理感と、自由な愛の間で板に挟まれるのを見ました。そして、最後に壮大な自殺を成し遂げるを見届けたのです。シェーンベルクは戦慄を覚えました。「恐ろしいことだ。古い規律と倫理に束縛されて、板挟みになってしまったのだ。」その時です、シェーンベルクが閃いたのは。「同じだ、和声もやっぱり同じなんだ。古い板さえ取り除いてやれば。」まさに発想の転換でした。「まず、秩序を超えて拡大されてきた不協和音の語法から、機能和声の規律の部分だけを取り除いてやる、すると不協和音はそれ自身完全な自由を獲得する。それはゲルステルのような規律の合間の特殊事例ではなくなって、自由な不協和音自体が曲を構成するメタファーとなる。すごいじゃないかシェーンベルク!」彼は妻の不貞も忘れて部屋中を飛び跳ねると、シュテファン・ゲオルゲの詩の助けを借りながら、無調性の夜明けに向かって曲を書き始めました。こうして「架空庭園の書」「弦楽4重奏2番」が作曲されたのです。弦楽4重奏第2番では初めヘ短調で始まった楽曲が、最終4楽章で調性を捨て去るその刹那に、ソプラノが加わってゲオルゲの詩から「私は他の惑星の大気を感じる」と歌い始めます。こうしてシェーンベルクは、ゲオルゲの詩に導かれながら無調の世界に入っていきました。さて、彼は1905年から12年にかけて次々に曲を書いていきました。それらの曲は調性と無調性の間の様々な可能性を秘めています。それでは、この時代の作曲を黒板に書き出してみましょう。」僕は大人しくすべてをノートに書き写すことにした。

弦楽4重奏第1番ニ短調(1905)
弦楽4重奏第2番嬰ヘ短調(1908)
15の楽器のための「室内交響曲」(1906)
5つの管弦楽曲作品16(1909)
ピアノ曲作品11(1908)、作品19(1911)
ピアノ伴奏付き歌曲「架空庭園の書」(1908)
独唱者と管弦楽のための「期待」(1909)
無言劇「幸福な手」(1911-13)

 「さらに話し言葉と普通の歌唱の中間のようなシュプレヒシュティメで歌うように指示のある「月に憑かれたピエロ」(1912)や、「期待」のような作品は、当時盛んだった芸術運動である表出主義(expressionism)とも深く関わっています。フロイトが唱えたような心理深層に潜む人間の暗い激情、煮えたぎるパトスを芸術という媒体を通すことによって人々が見たり聞いたり出来る形に表すことこそ表出主義の目的でした。実際に私たちは。」先生は突然にピエロの帽子を取り出すと、自分の頭の上に載せた。「こんな付属物が載っているかどうかだけでも、その相手が自分の規定していたそれまでの対象物とは、ひどく違って見える訳で。もしかしたら、表出主義というのは、初めて表層的に素通りしがちの人間の奥底に潜むものは何か、と言う心理の深層に到達した、芸術運動だったのかもしれません。そして皆さん、今日のその時がやって参りました。」あう、日本のテレビを見すぎたのか、先生はもはやどこまでまじめなのか、自ら表出主義授業を展開するつもりなのか、私には分らなくなってきた。「無調の世界に突入してはみたものの、自分の漂っている世界が分らなくなって作曲も喉を通らなかったシェーンベルクは、1921年が開けると直ぐに、没後400年のジョスカン・デ・プレ追悼の教会巡りの旅に出ました。もちろん音符の主に思いをはせることで、自らの答えを見つけ出そうと考えていたのです。彼は数多くの教会で祈った後、ジョスカンの出身地だと思われる北フランスのピカルディー地方に出かけ、ある教会の中でオルガンの3度の和音を掴んだのです。その時、その時でした。」先生は、急に身を乗り出してきた。「天上から光が差し込むと、シェーンベルクは音楽の主から天啓を受けたのです。光の中ですべてを理解した彼は、直ちにヴィーンに戻りました。そして、驚き慌てたままの姿で弟子達を集めたシェーンベルクは、こう叫んだと言います。」先生はそこで言葉を止めたが、はっと思った瞬間大声で叫び声を上げた。「100年!もう100年戦える!私の発見で、ドイツはもう100年戦えるのだ!」目を見開いた私の鼓膜が震え、脱落を決め込んで机の上に俯せになっていた生徒達が一斉に顔を上げた。先生はもう誰も見てはいなかった。「こうして、有名な弟子のヨーゼフ・ルーファーに音列主義の発明を告げる逸話が生まれたのです。彼はすでに取り掛かっていた5つのピアノ曲Op.23(1920~23)の最後の部分をジョスカンに捧げるべく、初めて12音的技法(dodecaphonic)で作曲したのです。正式名称は、「相互関係しか持たない12の音で作曲する方法」、自由にはなったが楽曲全体を規定する上位概念としての規則を失ってしまった無調性に対して、それ自身が楽曲を規定するための規律を創出すること、それがシェーンベルクの目的でした。彼にとって、これはヴァーグナーを通って無調にまで行き着いた音楽語法が当然行き着くべき新しい段階だったのです。」そう言うと先生はピアノの前で、12音の曲を演奏し始めた。漸く手を休めることを許された私は、呼吸を整えながら周りを見渡すと、先ほど驚いて顔を上げた生徒達は、もう何が演奏されているのかまるで分っていない様子だった。「ド、ドデカフォニー」そう呟いた悲惨なノッポも、まだ筆記用具を握りしめてはいたが、その手は次々に現れる音楽事例に混乱して痙攣を起こしていた。「また立ち上がらなければいいが、」私はそう思うと、またノートに向かう準備を整えた。「今の曲は、シェーンベルクに12音技法を寝取られたヨーゼフ・マティアス・ハウアー(1883-1959)のトローペを使用した曲ですが」先生は何か訳の分からないことを言いながらピアノの前を離れた。「それでは、今からこの12音技法を要約して黒板に書きます。」先生は脱落者の数を数えながら、楽しそうに黒板に向かうのだった。

1.1オクターヴ内の12の音(または、音高群pitch classes)を1度ずつ重複しないで使用した1つの列(row,series)によって、楽曲を構成する。
2.音列の諸音は継起的(旋律的)にも、同時的(和声的に、または対位法的に)にも使用できる。
3.音列は基本進行(prime)の他に、次に向かう音程の上行下行をそっくり反転させた「反行形」としても、音列の最後から読み直した「逆行形」としても、また反行形の逆行形としても使用できる。
4.音列の12の音をすべてもちいた後で、初めて基本音列か、3であげた変形を新たに使用できる。

 「それではシェーンベルクが12音の確立後に作曲した作品を聞きながら、今日のその時を終わりにしたいと思います。今日は最後までおつきあいくださいまして、本当にありがとうございました。」・・・先生、最近おなかも出てきて、真似何かしていて大丈夫だろうか。

5つのピアノ曲作品23(1923)・・・最後の曲だけが12音で作曲されているため、ちょうど無調時代の弦楽4重奏2番のような位置付けになる。
セレナード作品24
ピアノ組み曲作品25
管弦5重奏曲作品26
弦楽4重奏3番(1926)
ヴァイオリン協奏曲(1936)
弦楽4重奏4番(1937)
弦楽合奏のための組み曲(1934)・・・調性的な遣り方で作曲
「ナポレオン頌(たた)え歌」(1942)・・・調性との折り合いを探った
ピアノ協奏曲 (1942)・・・調性との折り合いを探った
弦楽3重奏曲(1946)
ヴァイオリンとピアノのための幻想曲(1949)

管弦楽のための変奏曲(1926-28)
・伝統的な手法を12音技法に適用した傑作として、先生が泣きながら聞き入ったという作品。先生はこれを「涙のカリスマ変奏曲」と命名した。

未完のオペラ「モーゼスとアローン」(1930-32)
・オラトーリオとしても聞けるこの作品は、やはりシェーンベルクの傑作で、同時にベルクの「ヴォツェク」と共にこの時代のオペラを代表しているそうだ。

アルバーン・ベルク(1885-1945)

 「ベルクは熱いうちに打て。と言ったのは私の教わった先生の言葉ですが。」先生は懐かしむように語り出した。「それは、暖かい12音と言われるベルクの作品をうまく言い表しています。師であるシェーンベルクの12音技法を取り入れてはいますが、彼はしばしば調性的な和音が使用できるように音列を選択しています。このことが一部の作曲家をいらだたせました。すべての技法は表現の手段に過ぎない。この当たり前の言葉は、残念ながら時と場合によって安易に黙殺されます。ベルクは最新技法に注目しすぎた作曲家や批評家達から、一時期お優しすぎた作曲家の烙印を押されてしまったのです。」シェーンベルクでさえも、12音技法の発展を途中で投げ出した半端物のレッテルを、一部の作曲家達から何十年前には受けていたのだそうだ。「愚かなはき違えはみっともないものですから、皆さんは同じような間違いを犯さないように。」先生はそう言うと、ベルクの作品を上げていった。

弦楽4重奏のための「抒情組み曲」(1926)
ヴァイオリン協奏曲(1935)
オペラ「ヴォツェク」(1917-21)
オペラ「ルル」(1928-35,管弦楽化は未完のまま)

 「さて、オペラヴォツェクは。」先生は黒板から離れた。「言うまでもなくジョスカン・デ・プレ没後400年を記念して1921年に完成されたのですが、音符の主であるジョスカンが聞いたとしたら、きっとベルクを讃えるに違いありません。このオペラは表出主義オペラの傑作です。すごいじゃないか、これこそ離れ業。ツアーデフォースがよく似合う作品じゃないか。よろしい、これも夏期休業が終わったらレポートを提出して貰うことにしましょう。」先生はほとんど脱落者だらけの生徒達を置き去りにして、更にテンポを上げてヴェーベルンへとなだれ込んでいった。

アントーン・ヴェーベルン(1883-1945)

 「一方同じシェーンベルクの弟子でも、ヴェーベルンは瞑想する修行者のような切りつめた、警句のような作品を残しました。彼はベルクのように、生命の営みを司る情感を込めた有機化合物ではなく、水晶のような無機化合物の結晶を仕立てたのだと言えるかもしれません。その結晶は固く冷たいのですが、私たちはその透明な輝きの美しさにある種の神秘性を感じないではいられないのです。曲の長さは極端に短く、反復進行も繰り返しも退ける。語るべき言葉だけを的確に選択し記入するが、美化のための修飾語で引き延ばしたりはしないのです。また、楽器の使用方法については、まるで中世のホケットを思わせるような、旋律の流れを次々に他の楽器が引き継いでいく方法が特徴的です。その場合、同じ楽器が1音か2音を演奏して次の楽器へと移っていくので、その音色の変化も、譜面を見た感じも点画のようにみえます。そのため点画主義pointillismなどと呼ばれることもあるのです。」彼の曲についてはシェーンベルクの12音を初めて採用した「3つの歌」作品17(1925)と、音列技法の使用例として先生が楽譜の例を配ってくれた交響曲作品21(1928)を上げておこう。

ヴェーベルン以降

 「さて、私たちは200年の伝統を誇る調性的和声組織が崩壊するのを目にした訳ですが。」先生は自分の著述からお気に入りの言葉を引き出してそう言った。「この音楽発展は一時、第2次世界大戦によって覆い隠されます。その後1946年に始まったダルムシュタットにおける「休日を利用して新音楽を探求する講習会」が、戦後の音楽界の有力な推進力の一つとなりました。彼らは12音を更に発展させてリズムパターンから音色パターンに至るまで何でもかんでも一つのシリーズに基づいて作曲すればさらなる高みに到達できると、小学生並みの単純明快さを持って戦後の音楽復興に励んでいたのです。そんなある日、ちょうど500年前にキリスト教徒が皆嘆き悲しんだコンスタンティノポリスの陥落が伝えられたのを追悼する「陥落鎮魂祭」を兼ねて、ヴェーベルンの記念音楽会が開かれました。言うまでもありませんが、それは1953年のことです。演奏の途中にもかかわらず、ピエール・ブーレーズ(1925-)カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-)が突然に立ち上がると、一目散に帽子を脱ぎ始めたのです。彼らは叫びました、「諸君も脱帽したまえ!天才だ、天才が現れたのだ。」居合わせたすべての作曲家達が慌てて帽子を脱いだことは言うまでもありません。こうして全面音列主義total serialismが始まり、ヴェーベルンは戦後の音楽界に大きな影響を持つことになったのです。」先生は何も言わなかったが、どうも怪しい。よりによってオリビエ・メシアン(1908-92)の2人の弟子達が揃って立ち上がるだなんて、仕組まれていたのじゃないだろうか。私は先生に「オリビエ・メシアンが絡んではいませんか。」と聞いてみた。「確かに、」先生は言おうか言うまいか迷っているようだった。「ですが、君、メシアンは1953年にはコンスタンティノポリスの陥落を追悼して、管弦楽のための「鳥の目覚め」を作曲するのに夢中だったのですから、2人をそそのかす暇など無かったはずですよ。きっと。1969年に作曲された「聖三位一体の神秘についての瞑想」だって、鳥の鳴き声が一部に引用されていますし。鳥に夢中で我を忘れていたのですよ。うん。」私と先生の会話に興味がわいてきたのか、クラス筆頭の博識君が突っ込みを入れてくれた。「でも先生、1941年にドイツ軍の捕虜収容所で書かれた「時の終わりのための4重奏曲」を覚えていますか。あの曲ではインドの音楽と14世紀のアイソリズムの技法からの影響をもろに受けて、リズム保続低音が使われていますね。それはトータルセリーに向けた大きな前進だったのではありませんか。」先生は、とうとう白状した。「実は全面音列主義を初めて取り入れたのはメシアンでした。彼が全面音列主義で作曲した「4つのリズム練習曲」では、私が犯人だと暗号化されたメッセージが読み取れます。」オリビエ・メシアン、戦後の音楽界の黒幕の一人が漸くクローズアップされてきた。私は胸をときめかせながら、疲れ果てた感情を落ち着けるために机の上でぐっすり眠ってしまった。せっかくこれからという時に、私は愚か者である。仕方がないから、またしても、友人にノートを借りて仮のレポートを仕立て上げることにする。

最近の展開

新しい音色

・ヴェーベルン以降、音楽に一風変わった音色を盛んに導入するのがますます奨励された。20世紀のそれまでにない音色の早い例は、ヘンリ・カウアル(1897-1965)が1920代に使用したピアノの近くの鍵盤一斉に押したら固まった音の房になってしまうぞ技法。略して、「トーン・クラスタ」痛い!・・・ここまでノートに書き込みをしていたら、いきなり友人に頭を叩かれた。「ナイーン!ニヒツ、トーン!トウン、トウン!」わあ、何なんだいったい。私は渋々ノートの文字を「トウン・クラスタ」と書き改めた。とにかく、他にも一風変わった音色として1940代にジョン・ケイジ(1912-1993)が使用した「プリペアド・ピアノ」と言うのもある。文字通り準備されたピアノで、ピアノのハンマーに不純物を準備しておくことによって別の音色が出てくるという遣り方だという。以後、限りなく新しい音色が生み出されて、エドガール・ヴァレーズ(1883-1965)に至っては、あらゆる音色が入り交じって膨大なコンチェルトを満喫している。

電子音源

・テープレコーダーの使用から始まって1850年代になると遂に電子的に生み出された音を操作する遣り口が本格化してきた。先生は、「ミュージック・コンクレート」と言うと、説明を始めたという。「1940代後半の具体音音楽musique concrete(仏)とは、テープに録音されたそこら辺の日常的音素材と、電子的に改変した音素材を組み合わせるなどして、「具体的な音こそ音楽だ!」と高らかに叫ぶ一派の音楽を指します。これは直ぐに生粋の電子的な音の使用と混交されていったのです。」その代表作として先生は、シュトックハウゼンの「若者たちの歌」(1956)を皆に聞くように奨めていたという。いずれにせよ、シンセサイザが発明されると、それまで懸命に変換制御して電子音を生成していた煩瑣な手続きもいらなくなって、やがて1980年代にはコンピュータに接続された鍵盤楽器で電子音を遣り繰りするのが日常となってしまった。それはパフォーマンサー達が様々な電子音楽パフォーマンスを繰り広げる土壌を提供することにもなったのである。

電子音の影響

・電子音を遣り繰りしている内に、新しいより高度な音響の制御に目覚めてしまった作曲家達もいる。先生はペンデレツキジョルジ・リゲティ(1923-)の名前を挙げた。その後で、空間の使用でもっとも圧巻なのは、1958年にヴァレーズがル・コルビュジエの設計した会場内を音響作品で満たした、「電子詩」であることを説明すると、空間内の425台もの拡声器の場所と、投影された色彩光線まで緻密に再現したCGを見せてくれたそうだ。うっかり眠っていると、大変な損をするから気を付けよう。

音高の連続体

・20世紀も過ぎたモダンな時代においてオクターヴを律儀に12個に分割するなんて、全然いけてない。24個に分割して半音の半分を単位にするのに始まって、全く区分しないで、ひたすらなだらかに音高が上下するサイレンのような効果が新たな作曲技法として加わった。この例を聞きたければ、まずクシシトフ・ペンデレツキ(1933-)「広島の犠牲者のための哀歌」(1960)「ソロモンの雅歌」(1970-73)を聞いてみると良いらしい。それと異なる方法で似たような効果を出している例として、先生はジョルジ・リゲティ(1923-)の曲を例に出していたそうだが、その内容はノートを借りた知人にもよく分からなかったらしく、曲の解説すら満足に書き込まれていなかった。ただし彼のお気に入りの「2001年宇宙への旅」で使用されていたリゲティの曲が4つとも律儀に書き込まれている。
「大気(アトモスフェール)」(1961)
「レクイエム」(1963-65)
「永遠の光が(ルクス・エテルナ)」(1966)
3人の独唱とアンサンブルのための「アヴァンチュール」(1962)
その後2つの曲の名前の前に「和声的結晶化」と書かれていたが、書いた本人にも何のことだか分っていないようだった。
管弦楽のための「遠く(ロンターノ)」(1967)
チェンバロのための「持続(コンティヌム)」(1968)

不確定性

・「元来演奏者の裁量に任されるべき不確定な要素に対して作曲家達がいらざる鉄ついを下したのも20世紀の音楽においてです。」先生はそう言うと、電子的作品において作曲家はもはや妥協することなく完全に思い通りの音楽を作成することが出来たため、自信を深めてしまったのだと嘆いたらしい。今回は私が、先生のマネをして、先生の口に出せない思いを具現化して見せよう。「作曲家は演奏者によって演奏される場合に、自らの作曲のどの部分がどの程度演奏者の裁量に任されるか、どのような裁量をどの程度の範囲内でもちいるのか、事細かに説明して、計算された不確定に持ち込みました。結果として起こったことは、演奏者の自由ではなく、これまでにない圧倒的な隷属です。このタイプの曲を懸命に演奏する奏者達が、猿山の猿のようなひどく滑稽な動物たちに見えるのは、丁度柵の中に閉じこめられた不自由な世界で、さも自由に振る舞っているつもりの演奏者に込められた矛盾のためなのでしょう。」そう思ったかどうかは知らないが、先生は「不確定性」と何度も何度も唱えた後で、「偶然性とか、aleatory(アレアトリー)とか、人は時々口にするけど、たまたま起こたと、言えないような、不確定だてあるもんだ。」と歌い始めてしまったという。これが知人の作り話でないとしたら、この教室の運命は風前のともしびなのかもしれない。とにかく、先生が偶然性と言う言葉よりも不確定性と言う言葉を使用したがっていることだけは理解できた。先生は不確定性に付属する方法として「開いた形式」を説明した後で、代表的な曲を上げていったのだろう。ノートには、「openな形式=演奏順番や楽譜選択が奏者任せ」と書き込まれている。
カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-)・・・不確定性の虎
ピアノ曲第11番
作品1970・・・ベートーベンが大根チェルト(知人のノートのまま)

ヴィトルト・ルトスワフスキ(1913-94)
交響曲2番や3番

 「不確定性がもたらした恩恵が一つあります。」私が漸く眠りから覚め顔を机から離すと、もはや今日の授業は纏めに入るところだった。「それは、その作品の実際に演奏されて私たちの耳に伝わってくる音楽は、その度その度に異なって、全く同じ曲にならないと言うことなのです。こうして楽譜と演奏者が合成されて、初めて1回限り一つの音楽となる、彼らは一期一会の境地に達してしまった訳です。」先生は眠りこける窓際ノッポを棒でひっぱたきながらそう締め括った。私はぎりぎりセーフだったわけだ。

2004/4/7

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