第22章 アメリカの20世紀音楽

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第22章 アメリカの20世紀音楽

 前期カリキュラムも今日で終了。解放された私たちは夏の休暇を大いに楽しむわけだ。しかし、その最後の授業にはアメリカの20世紀音楽を概観するという恐るべき難関が控えていた。先生は、いつもと変わらない調子で授業を始めた。「20世紀アメリカの音楽はヨーロッパのそれまでの動きと断絶していたわけではありません。職業や、生活の都合だけでなく戦争によっても、数多くのヨーロッパの名の知れた作曲家達が、期間の差はあれアメリカで自作を発表し、作曲を教えています。また、一方ではパリにいるナディア・ブランジェ(1887-1979)のような有名な教師に弟子入りするため、ヨーロッパに留学したアメリカ人作曲家も数多くいたのです。そんな20世紀アメリカの音楽は、ヨーロッパのそれまでの運動の延長と発展と言うことが出来るかもしれません。実際、マサチューセッツ州にあるバークシャ音楽研究所は、長い間ヨーロッパの作曲家とアメリカ人作曲家が互いに切磋琢磨する交流所を担っていました。今では、名前が変わってタングルウッド音楽研究所になっていますがね。」続けて先生は、他文化的民族混合multicultural ethnic mixが根底になるアメリカにおいては、ヨーロッパ伝統も数多くの植民地時代培われた自分たちの諸伝統や、土着の過去の伝統と同様、作曲の一要因として扱われたため、アメリカの20世紀音楽を知るためにはアメリカの伝統音楽を一通り見ておく必要があることを述べた。

アメリカ音楽の歴史

・「さて、ヨーロッパからアメリカに渡った植民者達は、例えば1640年に出版された「ベイ詩編歌集」などによって宗教音楽に触れていましたが、18世紀にはいると歌唱学校も次第に整い初め、会衆もある程度の曲は歌えるようになりました。それに呼応する形で、新しい詩編歌や賛美歌などを制作する作曲家が現れてくるのですが、ウィリアム・ビリングズ(1746-1800)などはその代表的人物です。ビリングスの作曲法に好意や共感を示したダニアル・リード(1757-1836)やアンドルー・ロー(1748-1821)、サプリ・ペルチャ(1752-1836)などニューイングランドの一連の作曲家をあわせて「アメリカ北東部Yankeeの音楽家達」と呼んでもいいかもしれません。しかし、アメリカの植民市はヨーロッパの別の国々の人達がそれぞれひとまとまりになって形作られましたから、植民市ごとに持ち込まれ根を下ろした音楽には、元の国々の伝統が息づくことになりました。とくにモレイヴィアンと呼ばれたモラヴィア、ボヘミアから流れ着いたドイツ語系の植民者達は出身地方の豊かな音楽を持ち込み、入植地で盛んな音楽活動を繰り広げたのです。その活動は、ヨハネス・ヘルプスト(1735-1812)やアントニ・フィリプ・ハインリヒ(1781-1861)などの音楽に表われているのかもしれません。」先生にそのように投げかけられても、初めて聞く名前ばかりで書き記すだけで精一杯だ。先生はいたってマイペースに話を進めていく。

・「1848年に起こった3月革命の後、ドイツから植民してくる移民が非常に増えました。その中には、生計をえるためにアメリカに渡った音楽家や音楽教師も多かったので、やがてアメリカの音楽教育機関はドイツ人とドイツで学んだ作曲家によって占められました。そうしたドイツ人から作曲法を学んだり、ドイツに渡り教育を受けた作曲家の例としては、ジョン・ノウルズ・ペイン(1839-1906)やレーオポルト・ダームロシュ(1832-85)、さらにロウアル・メイスン(1792-1872)などが上げられます。メンスンは粗野な所のあるニューイングランドの賛美歌をヨーロッパ式の洗練された音楽に置き換える運動を起こしたので、ビリングスの育てた従来のアメリカ北東部式の音楽は驚き慌てて、はるばるアメリカ南部に逃れました。その姿は今日でも南部の「ケンタキの調べ」(1816)や「南部の調べ」(1835)などの曲集の中で、図形音符に置き換えられて見ることが出来ます。同時に南部の伝統として、この19世紀前半すでに黒人霊歌Negro spiritualが広く歌われていました。まあ出版は南北戦争が終わってからになりますがね。」

・先生は次ぎに、こうした声楽の運動に歌唱学校が大きな役割を果たしたように、器楽においては町や村、さらには学校の吹奏楽団が重要な役を演じたことを説明した。町も村も野山も教育機関も吹奏楽団で満ちあふれるアメリカの開けっぴろげな音楽環境は、例えば1869年にパトリク・S.ギルモアが5日間連続全国平和祝祭をボストンで挙行するようなお祭り騒ぎによく適合したものだったそうだ。先生は、まず行進曲「星と条(すじ)によって表された旗よ何時までも(星条旗は永遠に)」を作曲したジョン・フィリプ・スーザ(1854-1932)を作曲家の筆頭にあげた後で、ドヴォルジャークの弟子だったエドウィン・フランコウ・ゴウルドマン(1878-1956)と、その息子のリチャド・フランコウ・ゴウルドマン(1910-80)の名前を挙げた。彼らの曲は、白人の楽団だけでなく、例えば国際的にも有名だったジェイムズ・リース・ユアロプ(1881-1919)の率いる黒人楽団によっても演奏されたという。

アメリカ固有の音楽

 「それでは今度はアメリカ固有の音楽について見ていきましょう。」先生はアメリカ的音楽のジャンルをとにかく順番に生徒達に教え込もうと言う魂胆らしい。

ラグタイム(ragtime)

・「黒人男女がペアになって気取り気取った2人踊りを演じる19世紀に沸き起こったケイクウォークCakewalk。その力強い舞踏はいつの間にか社交ダンスに陥ってしまいましたが、19世紀末にまだ粗野な気質を持っていた頃のケイクウォークなどから影響を受けて現れたのがラグタイムです。規則的な低音リズムにのっかたシンコペイション楽曲が、アメリカ黒人の手打ち膝叩きリズムのジューバからやってきた拍ずらしを演じるという楽曲で、1890年半ばから広まり初め、スコット・ジョップリン(1868-1917)「カエデの葉のラグ」(1899)が広まるやいなや大流行を巻き起こすことになるのです。このラグタイムは20世紀初頭のジャズを生み出す一要因となっています。」先生がそういうと、初めて自分の知っている曲名が出てきたのに驚いた窓際のっぽが立ち上がると、「はい、それはつまりメイプル・リーフ・ラグであります!」と元気よく声を上げた。驚いた先生はターキ・トロットのリズムが変化したフォックストロットのステップで次第にノッポに近づくと、ついにノッポの手を取った。「ようやく。」先生は感極まったようだった。「ようやく、私の授業がこの出来の悪い生徒に伝わったのですね。」2人は暮れゆく夕焼けを見ながら長々と泣き合っていたので、ほかの生徒達は私も含めて、自主的に休憩をとることにした。

ブルーズ

・K卿のシラソミラグを口ずさみながら休憩をしている内に眠ってしまった私は、またしても聞き逃したノートの隙間を自分で編集しなければならなくなった。しばらくは、教科書からの書き込みである。まずはブルーズ。これは、19世紀半ば頃、解放黒人奴隷達がかつてのアフリカの5音音階の伝統を引きずったまま長音階の第3音、第7音などを低く演奏している内に、次第にジャズの中に取り込まれて、まだまだ青い音符「ブルー・ノート」と呼ばれてしまったのが始まりかもしれない。

ジャズ

・誤解を覚悟で象徴的に書き表すなら、20世紀初頭に黒人達の音楽スタイルから現れたとされるジャズの略歴はこうなるだろう。1915年にトム・ブラウン率いる「ディクシランド・ジャズ楽団ニュー・オーリンズ発直通便」が、すでに黒人達のバンドが行っていた即興的変奏が前提となるような音楽を、白人の魂で演奏したら大爆発を引き起こし、1920年代には数多くの大楽団がトゥッティの譜面音楽とソロの即興の様式まで織り込んだジャズ音楽にのめり込んだ。当然、それじゃあジャズの本質である即興性を半分棚上げにしたようなものだと言う批判が1940、50年代に沸き起こって、ビーバップ様式(バップ様式)までも生まれてしまったら、超絶即興曲が出来上がってしまった。

カントリ音楽

・都会のジャズに対して、田園地帯で育った別の音楽の一つとして山国音楽と西部のカウボイ音楽が入り交じった、カントリ・アンド・ウェスタン音楽がある。歌い手がギターを握りしめながら俺の歌を奏でるという、紙一重の素朴な面を持っていた。

リズム・アンド・ブルーズ

・そんな中、都会の黒人っ子たちはブルーズを変形させて、本来の弱拍部であるバックビートを強烈リズムで演奏していたのだが、いつのまにかリズム・アンド・ブルーズと命名されてしまったという。

ロック・ン・ロール

・「俺の歌」であるカントリ音楽と、強烈リズムのリズム・アンド・ブルーズが融合して1950年代にロック・ン・ロールが生まれた。世に受け入れられるきっかけは、1955年の映画「黒板ジャングル(暴力学校)」の主題歌ビル・ヘイリの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」である。その直後からエルヴィス・プレスリが「俺音楽」の色濃いロックを奏で、後を追ってイギリスの4重奏団であるビートルズが、もっと洗練された都会っ子の音楽を世界規模でお送りしてみた。

音楽喜劇

・要するにブロードウェイのミュージカルのことなんだ。ブルーノ・ヴァルターを呪いにくべて代役出世を遂げたレナド・バーンスタイン「ウェスト・サイド物語り」(1957)はみんなも知っているだろ。ジェロウム・カーンの「君の目に煙が入る」(誤って、煙が目に染みるとも。)だって、もともとは劇場作品からジャズのスタンダードになってしまったのさ。ジョージ・ガーシュイン(1898-1937)「ポギーとベス」は作曲家自身が民謡オペラと呼んでいるくらいだから、代表的な器楽曲である「青の狂詩曲(ラプソディ・イン・ブルー)」と共に、ぜひ一度聞いて欲しいな。

アメリカ芸術音楽の確立

 さて、ようやく目が覚めた私がこっそり教室に忍び込むと、先生の授業は長い前置きを終わって、いよいよアメリカの芸術音楽に話を進めようとしているところだった。先生は持参のポットから何かコップに注ぐと、おもむろに窓際ノッポにすすめた。「ほれい」と先生が渡したコップをノッポが警戒もなく飲み干す。ノッポは急に顔色を変えた。「しょっぱかー!」・・・・どうせろくなことにならないのは分かり切っていた。塩入の水を飲まされたノッポが泣きながらむせるのも気にしないで、先生は本題に入ってしまった。
 「よく知っていますね、そうです、ホレイショウ・パーカーなのです。彼が教えた愛弟子、チャールズ・アイヴズ(1874-1954)によって、初めて真のアメリカ国民的芸術音楽家が現れたと言っても、言い過ぎではありません。彼はたった一人で20世紀のに起こる音楽上の出来事を数多く先取りしていますが、残念なことに彼の名声が1930年代に入ってから高まったため、それらの先取りは当時の音楽の歴史と無頓着に断絶しています。彼の前衛的革新性は有名な「答えられない問いThe Unanswered Question」(1906)を見ただけでも十分に理解できます。しかし彼の名声のようやく高まった30年代、彼はすでにほとんどの作曲を終えていたのです。」先生はアイヴズのもっとも名高い作品としてピアノ・ソナータ第2番「1840-60年のマサチューセツ州コンカド」(1911-15)を取り上げしばらく説明を加えた。
 「後のアメリカの作曲家にとって、彼の影響ははかりしれませんでした。彼は伝統形式や主題統一が絶対的に重要ではないこと、拍子と調性においても捕らわれない自由な飛翔が出来ることを、後続作曲家達に実際の楽曲を使って教えたのです。また、伝統的な音楽会などを嫌った彼の音楽作品は、演奏する行為とその喜びを目的にして作られているかのようですが、その精神と作曲スタイルも後の作曲家に大きな影響を及ぼしました。それでは、今度は1917年に作曲された合唱と管弦楽のための「彼らはそこにいる!」の楽譜を配ります。」先生はしばらくその曲の説明に時間を費やした。

カール・ラグルズ(1876-1971)

・アイヴズの友人で、究極の個人主義を貫き、内面的で半音階的な方法で、アメリカ自体を含むありとあらゆる伝統を排除しようと試みた。もっとも有名な曲は、「太陽を踏む者」(1926-1931)で、3全音と半音の多用で、耳障りな音が模索された。

ヘンリ・カウアル(1897-1965)

・先生はトウン・クラスタの、と定冠詞の付くカウアルの存在意義がもう一つあることを教えてくれた。「すなわちキャリフォーニア人のカウアルの現代的音楽作品が、音楽上の西部開拓も終了を遂げたことを物語っているのです。トウン・クラスタが使われている15歳の時に書かれた「マナウナウンの潮汐(ちょうせき)」では、アイルランド神話の海の神であるマナウナウン、またはマナナーンがこのように楽曲にされてしまいました。」先生はピアノの前でトウン・クラスタを実演して見せた。初めて見た生徒の一部は音の房に驚いて口をぽかんとさせていたので、悪乗りした先生は次ぎに「エオリアン・ハープ」(1923)の実演と称して、和音を弾いたまま直に弦をかき鳴らした。「カウアルはまた、部分部分は作曲済みだがその組み合わせは演奏者に任せる「開かれた形式open form」の曲も制作しています。例えば弦楽4重奏のための「モザイク」(1935)や5人の演奏者のための「26同時モザイク」(1964)などがそれにあたります。」先生は弦をかき鳴らしたまま、そう付け加えた。博識君はこのような曲が嫌いらしく、難しい顔をしているが、これまで駄目駄目だったはずの、ノッポがここに来て非常に好奇心旺盛に先生の話に聞き入っている。ノッポは、遂に立ち上がると先生に拍手喝采を送り始めた。さすがに僕は立ち上がる気力もなく、カウアルのピアノ協奏曲だけ聴いてみようか、と思いながらノートを記入していったのだ。

ルース・クローファド=シーガ(1901-53)

・「彼女の作品はカウアルが「新音楽」の中で紹介しています。私は女性の作曲家を大幅に取り入れる必要性もあって彼女を紹介するわけですが、もちろん実際の楽曲がすばらしいから取り上げるのです。誤解しないように。」先生は誰かに皮肉でも言われたのか、必要のない言い訳をした後で、彼女の初期の成功作ヴァイオリン・ソナータを上げた。

エドガール・ヴァレーズ(1883-1965)

・「フランスで生まれ、パリで音楽活動も行っていたヴァレーズは1915以降ニュー・ヨークで活躍をしたとはいえ、生粋のアメリカ人作曲家とはまた一つ味が違ってきます。もっとも、彼の場合は他のどのヨーロッパ人作曲家とも同時に味が違っているので、ある意味ではベルリオーズのような時代の中の一匹狼と言えるかもしれません。同時に彼は古楽にも造詣(ぞうけい)があり、ドビュシの知人でもあり、現代音楽の指揮者までこなすエリート中のエリートでした。そんな彼は音楽について独自の考えを持っていました。音楽という芸術はもともと楽曲を形成展開させたり変奏発展させたりする物ではなく、まるで彫刻を作る時のように音を配置することによって現れる造形美の一種だというのです。当然その考えはヨーロッパの伝統を捨て去る道に通じていますが、帰化先のアメリカを讃えた「南北アメリカ」(1918-21)においては、ジョスカンの没年を追悼するために完成を21年に遅らせるなど、ヨーロッパの伝統の名残も見られます。実際同じ年に完成された、「捧げ物Offrandes」(1921)はジョスカンの没後400年の追悼に捧げられたことはよく知られていますね。このような実験的作品を音符の主であるジョスカンに捧げることは、冒涜に当たるのではないか。皆さんがそう危惧するのももっともですが、ヴァレーズはヨーロッパ伝統のあらゆる慣習、旋律も和声も拍子も管弦楽法もすべて、あらゆる慣習を捨て去ることが音楽を解放し救済することだと信じていましたから、真の音楽家であったジョスカンが自分のしたことに不快感を感じるとは到底思ってもいませんでした。力の漲ったヴァレーズは、「超分光器Hyperprism」(1923)、「積分Integrales」(1925)、「イオン化Ionisation」(1931)などの実験的音楽を次々に作曲していったのです。もちろんこうした実験音楽は彼だけが行っていたわけではありません。やはりヨーロッパで生まれアメリカに渡った、ステファン・ウォルペ(1902-1972)の作品にも音を個別化する傾向を明確に見て取ることが出来ます。それでは、CDでヴァレーズの「積分」を聞きながら、更に説明を加えてみましょう。」
・残念なことに、音楽が流れ始めると、半数以上の人が実際の積分の授業を受けているような心持ちになってしまったように見えた。そんな中、曲の感想を聞かれたノッポは喜び勇んで「音のオブジェだ!都会の喧噪が積分されているかのようであります!」と答えた。不思議なことに、ノッポだけは、ますます力が漲って先生とすっかり意気投合してしまったようだ。「音のオブジェ!!!すばらしい。」先生はその言葉が気に入ったらしく、CDを切ると説明の追加を始めた。「まさに彼は音楽をオブジェのように考えていました。テープでの制作もこなれ電子機器が登場すると、彼は誰よりも早く具体音音楽、つまりミュージック・コンクレートmusique concreteの作曲に乗りだしています。中でも際だって有名な「電子詩(ポエム・エレクトロニック)」(1958)では建築家のル・コルビュジエが設計した建築物の内部に400ものスピーカーを使って、様々な音素材を組み合わせ重ね合わせ、音響空間自体を作品の一部として取り込みながら音楽が形作られています。彼はこうした音のイメージを重ね合わせるモンタージュ的作品においても、音響空間を前提にした作曲においても第一人者でした。さすが、ヴァレーズです。すばらしい。こうなったら、今度は「イオン化Ionisation」(1931)を通して聞くしかないですね。」先生はもう生徒達がいるのも忘れて、軽やかなステップでCDのスイッチを入れに向かった。

エアラン・コプランド(1900-90)

・「こんな区切りのいい作曲家が他にいるでしょうか。」先生は生没年を黒板に書き込みながら、途方に暮れたような顔をして見せた。「コプランドは、私たちが生没年を覚えやすいように自ら考えて区切りのいい年に誕生していた律儀者です。同時に、彼はパリのナディア・ブランジェに他のアメリカ人に先駆けて弟子入りを希望した、嗅覚の鋭い男でもありました。やがて全音階的和声の方向に自信満々と向かったコプランドの作品は、まず「アパラチア山地の春」(1944)から聞いてみると良いでしょう。」

国民的語法

・先生は次ぎに、ヨーロッパで民族主義音楽を見たのに呼応させるように、アメリカ民族主義者的な音楽家を上げていった。ここでは名前と代表作品だけを上げておこう。

ロイ・ハリス(1898-1979)
「民謡交響曲」(1940)


ヴァージャル・トムスン(1896-1989)
・パリでナディア・ブランジェに作曲を教わりながら面識のあったサティに心から惚れ込んだ。トムスンは「スーザン・B・アンサニが私の名前」と呪文を唱えると「名前を選ぶなど愚かなこと」と歌いながら近づいてくる癖があった。

「日曜学校の節に基づく変奏曲とフーガ」(1926)
「賛美歌の節に基づく交響曲」(1928)


ウィリアム・グラント・スティル(1895-1978)
「アメリカ人の交響曲」(1931)


フローランス・プライス女史(1888-1953)
「1楽章のピアノ協奏曲」(1934)
交響曲第1番(1931)


ウィリアム・シューマン(1910-92)
「アメリカ祝典序曲」(1939)
「ウィリアム・ビングズ序曲」(1943)


ユーリシーズ・ケイ(1917-95)
オーケストラのためのセレナーデ(1954)
「ウンブリアの光景」(1964)


ハウアド・ハンスン(1896-1981)
名前だけだったの。


ウォールタ・ピストン(1894-1976)
交響曲第3番(1948)

1945年以降

 先生は、実際には戦前から続いていた戦後のアメリカ音楽について語る上での一つの指標として、対立要素を掴みその曲がどちらに属するかをグループ分けしてみると理解しやすいのだと教えてくれた。「まず第1にその曲が、合理主義的作品であるか、それとも非合理主義的作品であるかを分類してみてください。合理主義的作品というのは、例えば統制された12音技法など、完成された作品に何らかの規則と秩序による裏付けがなされているものです。この考えの根底には、現実を形作る理想のイデア世界には完成された形があって、作曲家は秩序の助けを借りてその姿を写し取るというようなプラトン主義が作曲家の中に無意識にあるからかもしれませんし、もっと簡単には現代がまさに合理主義で出来上がっているからかもしれません。一方で非合理主義的作品には、人間本来の活力、芸術に対する衝動というものは秩序を超えたところに存在するという考えが根底にあります。もちろん、もっと単純には統制されることの不快感という、素朴な感情があるわけですが、こうした束縛への不信は精神的には新しい自由への憧れという意味と、実際の演奏をエンジョイしたいという楽天的な要求もあって偶然性や、不確定性に行き着くことになります。またある種の視聴的陶酔状態を演出するミニマリズムの音楽も、多くがこちらに分類できるかもしれません。このように曖昧な言い方をするのは、今日においては、作曲家達が特定の傾向を持つ曲が共通に持つ概念自体をわざと別のものに置き換えたり、正反対の曲が持つ概念を取り込んだりすることに、生き甲斐を見いだしているからに他なりません。ですから、今述べているグループ分けの方法も一つの参考にしかなりませんので注意してください。さて、合理と非合理で分類が済んだら、次ぎに「演奏前に音楽」と「演奏によって音楽」のどちらに当てはまるか考えてみると面白いかもしれませんね。「演奏前に音楽」では実際の音楽は制作時に作品として出来上がっているという考えが根底にありますから、その演奏は作曲家の意図を出来るだけ忠実に再現することを求めています。すべてをコントロールしたいと願う統制的音列による作曲や、すべての事象を自分自身で決定してしまいたいテープ音楽や電子音楽の作曲などに多く見られる傾向で、その意味においては音列的作品も非合理主義的な陶酔を求める傾向のあるミニマリズムの音楽も、確定されている場合は同じ立場にあると言えるかもしれません。一方「演奏によって音楽」では実際のパフォーマンスと、パフォーマンスの活力である演奏家の自由が重視され、大枠は作曲家が与えておくが細部は演奏家が決める作品や、ジャズとの融合を計る「サードストリーム」的作品などが当てはまるかもしれません。このようなパフォーマンス重視の傾向は、まさにアメリカで特に盛んになり、後にヨーロッパにも広まりました。さて、同様に「偶然性を重視する音楽」や、「コンセプト(何らかの意図)を重視する音楽」など自分の気にいった項目を設けてそれぞれ分類してみましょう。そのうちにそれぞれの音楽の大まかな傾向が少しずつ見えてきます。もちろん偶然性の度合いを%で表示してもいいですし、気が付いたことを箇条書きするだけでも構いません。夏の休暇をこの遣り方で過ごせば、いつの間にか皆さんも現代の音楽にだんだんと足を踏み込んで来るという。」先生は楽しそうに言葉を句切ったが、そんなことをわざわざやる人がどれだけいるのかと思うと、少し可哀想な気持ちになった。しかし、次の言葉を聞いて、私はその思いを撤回することにしたのだった。

 「さて皆さん、お待ちかねの夏期休暇が目の前に迫り来る中、とうとう先生から最後のプレゼントが手渡される瞬間がやって参りました。」何が貰えるのかすっかり分ってしまった教室で、壮大なブーイングがわき起こった。先生は手を2回ほど叩くと、呆れたような顔をした。「君たちは、甘ったれた義務教育を受けているのではないのですから、先生からレポートの提出を求められた時には、さらなる知的好奇心の獲得にむしろ拍手を送るべきなのですよ。私の若い頃は、教師がレポートの題目を伝えるたびに皆で立ち上がって教師を胴上げしたものです。」なるほど、そんな壮絶な環境で鍛えられたから世界レベルの教師に成れたわけだ。私には、到底拍手を送る勇気さえなかった。「これから、第2次大戦後のアメリカ芸術音楽を見ていくわけですが、私はまず、ロジャ・セシャンズとエリアト・カータを取り上げようと思います。実はこの二人は、当時の物質的芸術運動の動きと重ね合わされて「抽象的語法」と言われることもあるのですが、さて、ここでレポートの内容です。この抽象的語法というのは具体的にこれらの作曲家のどのような作曲法を指すのか、そして彼らの仲間には誰がいたのか、それはどのように生まれ、どう次ぎに派生していったのか、できる限り詳しくレポートに纏めて提出してください。」あまりの無理難題に教室はすっかり静まりかえってしまった、もしかしたら教室の半分は授業料をキャンセルして、夏が終わったらいなくなってしまうかもしれない。これは先生が生徒を選別するための儀式なのだ、そんな思いさえも胸をよぎった。先生はもちろん生徒の様子なんて気にしちゃいなかった。「では、セシャンズとカータの曲を紹介してみましょう。」

ロジャ・セシャンズ(1896-1985)

・「彼は、無伴奏ヴァイオリンソナタ(1953)で自由な音列技法を採用していますが、コンスタンティノポリスの陥落500年を追悼して書かれたと言う点にヨーロッパの伝統への敬意が見られます。一方で彼の9つの交響曲は、実は第2次大戦後の最高級の作品が目白押しです。何故でしょう、何故に演奏されないのでしょう。可笑しいじゃないか。新世界交響曲より沢山演奏されたっていいじゃないですか。納得がいかない。」先生はなにやら一人で憤慨しているようだ。「このセシャンズの交響曲の中から、特に力強く表出主義的な作品である、交響曲第2番(1946)をお奨めしましょう。いいですか、この曲の説明のないレポートはそれだけで赤点ですから、覚悟しておきなさい。」・・・何だかひどいとばっちりを受けているような気がしてならない。

エリアト・カータ(1908-)

・「1848年に作曲されたチェロソナータ以来、カータは自分で「拍子の転換metric modulation」と呼んだ実験を開始しました。ごく簡単に言ってしまえば、ルネサンス音楽の比による拍子と速度を変化させる方法に着想を得て、それを大幅に拡張発展させた物です。リズムさえも異なるそれぞれ独立した事象を表す各声部が、全体としてある周波数を生み出すという彼の遣り方を、少し覗いてみましょうか。」そう言うと先生はカータの弦楽4重奏第1番(1950-51)と弦楽4重奏第2番(1959)を具体例として、説明を始めたが、音楽を聴いていないとこりゃ到底付いていけない。とりあえず、ベルリーンの壁に精神的に挟まれながら作曲をしたというピアノ協奏曲(1964-65)でも聞いてみようか。

後援者としての大学

・「ヨーロッパでは国からの援助があるところを、北アメリカにおいては全面的に大学が作曲家を囲い、援助するという伝統が生まれました。そこでは前衛的とされる音楽も、知的好奇心旺盛な学生や教師を務める知識階級が聴衆となって共感と支援を贈ってくれるため、作曲家は自らの興味に従って気にすることなく新しい実験に身を任せることが出来たのです。しかしこれは、絶えず前衛的な音楽を比較的自由に作曲できる土壌を生み出すと共に、一般の人々の支持は気にせず、選ばれたエリート達の集う大学で受け入れられていれば良いという気質も生み出してしまいました。とうとう、大学外の名声は劣った民衆におもねった駄作という、まるで訳の分からない考え方まで浸透してしまいました。極端な場合、特異な作曲家同士だけがカルト集団のように固まって、互いを讃え合うという悲劇さえも繰り広げられたのです。まるで、新しい言語を開発して、それを誰も分らないという理由で軽蔑している宗教集団じゃないか。そう気が付いた一部の作曲家達は、再び一般聴衆との対話を始めていく。もちろんこれは、今日よりずっと昔に起こった流れですから、注意してください。では、そんな後援者としての大学と、そこに所属した音楽家を見ていきましょうか。うかつ者の君たちのために、わざわざ付け加えておきますが、大学に所属している作曲家が皆さん揃ってカルト集団なわけでは、全くもってありません。」先生はプリントを配ったが、到底ノートにまとめ上げる気力はない。興味がわいたら教科書のP283-286を開くことにして、次ぎにいこう。

ヴェーベルン以降の潮流

・「さて、一方第2次世界大戦の後にヨーロッパで12音技法の音楽への統制を更に進める運動が起きたことは前に見ましたが、この運動はアメリカでも同時進行的に行われました。シェーンベルクには悪いですが、12音技法が広まった真の理由は、彼がアメリカで教職に就いたからではなく、ヴェーベルンの音楽がアメリカの大学に張り巡らされた情報網を1950年代に一気に走り抜けたためです。とくに、大衆的アメリカ音楽の要素を持った作品に嫌気のさしていた作曲家、ある種の理念を具現化したような高次元の芸術作品を目指す一群の作曲家達に、ヴェーベルンの音楽は強く訴えるものがありました。同時に彼の作品は、新古典主義の運動にもぴったり合っていたのです。中でもミルトン・バビト(1916-)はセシャンズに教えを受けた後、12音技法を数学的に分析してさらなる作曲の足がかりとしました。その遣り方はかつて12音音列が決定していた旋律や音の重なりの秩序だけでなく、リズムやテンポ、音の長さ、音色などすべての事象を一つの集合(set)から派生させるシステムによって作曲を行うというものです。素材同士を最大限に関係づける彼の作風は、極大主義maximalismと呼ばれることがありますが、彼の作曲については弦楽4重奏曲第2番(1954)と弦楽4重奏曲第3番(1970)に解説を加えるのが一番分かりやすいでしょう。これについては夏期休暇の間に個別講習を遣るので、興味のある方は出席してください。ちなみに、極大主義という言葉は、後に出てくる極小主義者達への当てつけから命名されました。」先生は、夏期休暇にも講習を開くつもりらしいが、果たして出席する人はいるのだろうか。

新しい音と声部書法

・「さて、新しい音自体を追求する動きも戦後ますます盛んに繰り広げられました。すでにカンラン・ナンカロウ(1912-97)は、後に電子的手段で成し遂げられるような演奏不可能のリズム実験を、ロール紙による自動演奏ピアノで行っていましたし、ハリ・パーチ(1901-74)は1920年代に平均律、西洋和声、対位法のすべてを拒否し純正律を元にした自分の音階を演奏できる楽器を自分で作っていました。彼の作曲した「イーディパスOedipus」(1951)や、ベン・ジョンストン(1926-)の「微分音程ピアノのためのソナータ」(1965)、さらにジョージ・クラム(1929-)の「黒天使達Black Angels」(1970)などを聞けば、新しい調律、新しい音階、新しい音色などについて初めの一歩を踏み出すことが出来るでしょう。」先生は昔、心拍数から不純な響きを取り除けば音楽が違って聞こえるという実験に付き合わされて、危うく命を落としかけたそうだ。

電子音楽

・「一部の作曲家にとっては悲劇的だったのですが、聴衆は最終的に楽曲の善し悪しを確かめるために音楽を聞きに来ているのではなく、そこに演奏家がいるから演奏会場にやって来るのです。そのため、純粋の電子音楽は一部の熱狂的集団が、外界と離れた独自の世界に閉じこもって楽しむ閉ざされた芸術となってしまったのです。しかし、これは決して抜け道のない袋小路ではありません。純粋な電子音楽は想像を絶する数量が作曲されていますが、その中には長い引きこもりの時期を乗り越え、カルト集団の住む世界から、一般市民の生活の場に現れる作品がきっとあることでしょう。一方、録音された作品に生の演奏を重ね合わせる方法は、今日でもよく見られる方法ですが、初期の傑作として私はミルトン・バビト(1916-)のソプラーノ独唱とテープ音のための「サヨナキドリPhiomel」(1964)を忘れることが出来ません。離れ業(ツアー・デ・フォース)と言う言葉は、こういう作品にこそ相応しい。電子音楽と生の演奏者との掛け合いの他の例としては、ジェイコブ・ドラクマン(1928-96)の3つの「精神Animus」や、ロジャ・レナルズ(1934-)の「理不尽な仮面の背後から」(1975)が上げられるでしょう。」私は、少し前近所の音楽堂で開かれていた、サントゥールと自動反応演奏コンピュータ「並木犬」(コンピュータの名前らしかった)の演奏会と言う催しを思い出した。

第3の流れ

・「ジャズが盛んになるにつれ、数多くのジャズ要素を織り込んだ作品が生まれましたが、ジョージ・ガーシュイン(1898-1937)が「青の狂詩曲(ラプソディ・イン・ブルー)」(1924)でジャズでもあり芸術作品でもある作品を完成させるまでは、ジャズの借用がされているに過ぎませんでした。これに目を付けたかデューク・エリントンが「黒・浅黒・薄黒」で交響曲の手法を用い、新たな流れが生まれる土壌はすでに出来ていたのです。1950年代に入ると、伝統的音楽とジャズを完全に融合させようという運動が起こってきました。ガンサ・シューラ(1925-)が自分の「パウル・クレーの主題による7つの練習曲」(1959)を見せびらかせながら、この運動を第3の流れ、と呼んだ時「サード・ストリーム」と言う言葉がこの運動の合い言葉となったのです。この運動の楽曲には、例えば、ウィリアム・ボルカム(1938-)のラグタイム「上品な幽霊」や、アントニ・デイヴィス(1951-)の「X:マルカム・エクスの生涯と時代」のような作品が上げられます。しかし、大衆的でもなければ第3の流れなどお構いなしの、ミルトン・バビトがひょっこりひょうたん島から現れて、「すべて揃ってAll Set」(1957)のようなジャズを手本とした作品を提示してみせるから面白い。バビトの弦楽4重奏が駄目そうな人は、こちらを聞いてみたらどうでしょうか。せっかくだから、夏期講習で一緒に取り上げてみましょう。」先生は、にこにこしながら手帳に書き込みを入れた。

ジョン・ケイジと不確定性

・「どんなに高度に事を構えて全面音列やら全面統制やら試みたって、まるでなっちゃいないじゃないか。ジョン・ケイジは山でキノコを狩りながら、作曲家が耳のあずかり知らない統制を加えて、それを頭で分かれと論文を書きまくっている有様を見て、笑い茸を見つけるまでもなく大笑いしてしまいました。挙句の果てに演奏者の裁量までコントロールして、それでも自分の作品に縛り付けておくのかね、駄目じゃないか。てんで面白く無いじゃないか。そうだ、不確定性indeterminacyって言葉を拡張して、もう作曲家が見えないぐらいまで演奏者に任せちゃったら、演奏者も自由になれるし、聴衆だって単なる音として何の構えもなく聞けるじゃないか。ケイジは新たな作曲方法を思いついたのですそれについては夏期の特別講座第2回で実演してみるのが一番楽しいでしょうから、私は特別にカリキュラムを作っておきます。さて、偶然に身を委ねたケイジは自分の作曲をもはや作品ではないと言われた時こう言い返しました。「それを言ったら、君、聴衆が馬鹿みたいに身を構えて、音を待ちかまえているような、あの硬直しきった馬鹿馬鹿しさは何だね。耳がすっかり死んでるじゃないかね。頭で聞いているつもりなのかね。そんなこと言っていると、これを演奏しちゃうぞ。」こうして生まれたのが演奏者が任意の時間(仮に4分33秒)音を出さずに佇んでいらっしゃる、「4分33秒」なのです。それによって、無音だと思っていた空間に存在する数多くの音を感じ取り、また音楽的な無音が完全な無音ではないこと、ひいては我々の空間に音は常にあって音楽が奏でられていることを表したと言われています。これを東アジア哲学からの影響だと日本に来てからある哲学者に話したことがあるのですが、「そのとらえ方自体がまさに西洋人的哲学だ」と言われてしまいました。わたし、東洋、さぱり、わっかりませーん!」・・・せ、先生。熱さで頭をやられてしまったのだろうか。先生は今度はいきなりさいころを取り出すと転がし始めた。
・「このようにサイコロを転がすと、いずれかの数字が出ます。代わりに音高を書いておけば、ある任意の音高が出ますし、あるリズムを書いておけば何種類かのリズムのうちの任意の一つが出ます。ケイジは、己の作曲的選択の可能性を完全に捨て去り、このような偶然によって曲を表そうと試みました。例えば「易の音楽」(1951)では、中国の「易経」が音高を決定していますし、変奏曲第4番には「他の活動と共にまたは他の活動なしに、任意の数の演奏家のための、任意の手段で作られた任意の音または音の組み合わせのための」という長いタイトルが付いています。そして、じっさいこの曲はタイトル通りなのです。」その後先生はケイジの不確定な仲間であるモートン・フェルドマン(1926-87)と、「使える形」シリーズで知られたアール・ブラウン(1926-)の名前を挙げた。
・「この不確定な一味は、コンピューターの助けを借りて完全な不確定による作曲をしたり、一方では図形や曲線や文様を演奏者達に手渡して、「これを元にして赴くままに演奏してくれろ。」と頼んだり、譜面に大豆をばらまいて並んだ通り楽譜にしたり、ありとあらゆる遣り方を模索しましたが、最終目標が不確定にある場合と、素材を元に再構成を行う手段として不確定が使用されている場合があります。このいたって不確定な運動は1960年代に他の芸術活動と融合して、様々な演出手段の中で行われる「ハプニング」や「ポップ・アート」なども生み出されました。また同じ頃「ジャンク・ミュージック」と呼ばれるいたることろから採取した雑音騒音を延々と垂れ流す音楽も作られましたが、もちろんがらくた市から素材を持ち込むジャンク・アートから影響を受けたものに違いありません。私にとっての最大の問題は、いったいどこまでを西洋音楽史の概観図の中にはめ込むかで、いや、個人的には電撃爆発有刺鉄線も大好きなんですがねえ。」で、電撃???有刺鉄線???・・・・先生は、やはり別の一面を持っているに違いなかった。

極小主義

・「さて、ケイジが到達した全面的な無作為性を熱力学から奪い取った名前「エントロピentropy」で表すことがありますが、その反対である重複性を最大限に突き詰めると、究極の反復繰り返し音楽主義である極小主義ミニマリズム(minimalism)に行き着きます。こうした音楽は音列の無駄な複雑性に対する反感や、60年代以降作曲家の間で広まったアジア音楽の影響を受けて現れてきました。メシアンもこよなく愛したインドのラーガに基づく音楽や、ジャワ島などで演奏される反復的ガムラン音楽から着想を得て、作曲家にとってすっかり日常化したシンセサイザなどで重ね合わせなどをして反復を繰り返す音楽が生まれてきたのです。この最初期の例の一つがラ・モント・ヤング(1935-)の「亀さん:その夢と旅」(1964)であり、また同年生まれのテリ・ライリ(1935-)が作曲したテープ音楽「メスカリンの素」(1962-63)なのです。メスカリンとはサボテンの一種ペヨーテに含まれる魂がトリップ状態を満喫するための主成分で、インディアンが儀式の時に使用していました。実際ミニマリズムの作曲家達はドラックとお友達だったのではないかと嫌疑を向けられていました。君たちも、まちがってメスカリンの素が入ったCDなどを持ち歩くと、麻薬持ち込み幇助罪で逮捕されるから気を付けましょう。」理解に苦しむ黒い冗談を飛ばしながら、先生はスティーヴ・ライク[ライヒ](1936-)に話を移した。
・「さて生年月日で一年遅れを取ったライクも負けてはいませんでした。「ピアノの相Piano Phase」(1967)と「ヴァイオリンの相」(1967)においてはテープで全く同じ演奏の一方の速度を変えてやると、少しずつ音楽がずれていく生き様を見て取ることが出来ます。更にもう1年生まれるのが遅れてしまったフィリプ・グラース(1937-)は極小主義を使用して「浜辺のアインシュタイン」 のような極大なオペラを作曲しました。なお、この35年から37年に極小主義者が立て続けに生まれましたが、この3年間のことはシューマンの時のように極小3兄弟と呼んだりはしませんから注意してください。」おそらく注意されたことによって使ってしまう人が出てくるに違いなかった。案の定、ノッポが懸命にノートに書き込みを始めているじゃないか。「さて極小主義としてはジョン・アダムズ(1947-)の「大ピアノラ音楽」(1982)とオペラ「ニクスンの中国訪問」(1987)を上げて切り上げるとしましょう。同じ頃コンセプト・アートというジャンルが生まれ、パフォーマンス、演出の中の音として音楽と関わっています。私の見た一番面白かった作品は、舞台の上に置かれた3つのプールに演奏者が潜り込み、水の中で奏でたヴァイオリンの音を増幅器を使って取り出すための音楽で、私はダリが潜水服を着て演説をしていた時よりも笑ってしまいました。もちろん、演奏者の一人が酸欠を起こして倒れ込んだものダリの時と同様で、後で聞いたところ、そのハプニングもコンセプト・アートに含まれていたそうです。こうした活動はニューヨークを拠点にして、盛んに繰り広げられたのです。」現代芸術恐るべし!私は、それじゃあ今まで聴いてきた音楽はいったい何だったのだろうと寂寞たる気持ちになってきたが、よくよく考えてみると、ただただ昼飯を抜いて腹が減っただけだった。

正統派

・「こうして今まで当時は前衛的だとされていた最先端の音楽を追いかけてきましたが、実はより保守的な立場、例えば新たな調性音楽などによって作曲を行った数多くの音楽家達も数多く存在しました。私はその中から幾つかの例を挙げてみましょう。」先生は白文字ひしめく黒板を綺麗にこすりさると、「まっさらって奴は、いいもんだ。」としみじみ黒板を眺めていたが、おもむろにサミュアル・バーバと書き始めた。

サミュアル・バーバ(1910-81)-弦楽のためのアダージョでお馴染みの
ネッド・ロウラム(1923-)
ジャーン・カーロウ・メノッティ(1911-)
ジョウン・タウア(1938-)
エラン・ターフィー・ツウィリッチ女史(1939-)

ポストモダン

・先生はその後で、1960年代に一般大衆の間であまりにも流行してしまったポップ・ミュージックやロックの音楽と、その影響こそが、一般の人々との対話を求める新たな作曲の態度に大きな役割を演じているのかもしれないと述べた後で、前期授業の締めくくりに掛かった。「まだ机の上に俯せにならないでノートを取り続けてきた一部の皆さん。どうもご苦労様。ついにこのポストモダンの説明で前期講義は終了を迎え、灼熱の夏期休暇が皆さんを待ちわびています。」見渡せば、半分以上がすでにノートに顔を落として腕枕に夢見ている有様だった。
・「さて、過去の様々な音楽からの借用、再構想によって作曲する態度を、現代建築様式の言葉を借りてポストモダンと呼ぶようになりました。幻想曲「バッハに因んで」(1966)を作曲したジョージ・ロクバーグ(1918-)や、「バロック変奏曲」(1967)で知られたルーカス・フォス(1922-)さらに「8つの声と管弦楽のためのシンフォニーア」(1968)をぜひとも聞いて欲しいルチャーノ・ベリオ(1925-2003)などが上げられますが、私が特にお薦めするのはデイヴィッド・デル・トレーディチ(1937-)です。ルーイス・キャロルのいろいろな国のアリスをモティーフにして壮大な連作を演出した一連のアリスシリーズの最後通牒である「最終アリスFinal Alice」(1975)によって、トレーディチは作曲家達の住む世界から、一般聴衆の住む世界に長い引きこもりの時期を乗り越えて完全に復帰を成し遂げたのです。今日でも多くの作曲家が自らの引き籠もりに気付きもしないで、周りから優しいまなざしを向けられていますが。トレーディチの復帰は一部の作曲家達にとって穴蔵を抜け出すきっかけになるのかもしれませんね。それでは皆さん、夏期休暇を楽しむのは結構ですが、ちゃんとレポートの提出だけはこなしてください。後で掲示板に詳しく貼り付けておいてあげましょう。」先生はそれだけ言うと、名残もなく教室から消えてしまった。眠っていたはずの顔がそれに合わせて一斉に起きあがるから、不思議なものだ。私も、レポートのことは棚に上げたまま、すでに今日から始まる夏期休業のスケジュールに合わせて、一目散に学校を飛び出してしまった。

2004/4/24
2004/4/26改訂

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