泣く泣く(79年)消えてなくなるポンペイの町

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ポンペイについての無意味な覚書

・7つの門に、66ヘクタールの土地、人口2万人を有した(別の所では1万人ぐらいとも)
・総人口のうち8000人が奴隷で、残りが自由市民、自由市民のうち成人が4200人→ただし階級闘争的なものは無かったとか
・毛織物産業で栄える、ワインやガルムの輸出も
・貿易港つまりエンポリオンを持っていた

歴史と政治など

・ギリシア人影響が大きく、一時エトルリア人やサムニウム人支配もあったポンペイは、前91年のローマ同盟市戦争では、当然同盟市側に付きローマに敵対したが夢破れ、紀元前89年頃完全にローマに下って、灰に埋もれるまで急激にローマ文化が流入した。スッラはこの都市に自治権を与え、市の行政機関には、1年任期の定員2名からなる「2人委員(ドゥオウィリ)」を政治の最高職として、100名からなる立法機関である市参事会や、造営委員などがあった。
・2人委員の選挙は、候補者本人呼びかけ禁止の、第3者が紹介するやり方で、恐ろしく白熱。数多くの見世物を催し人気取り合戦を繰り広げ、多額の資金が投入された。女性は夫に対して口を挟むことによって、間接的に選挙に大きく貢献していた。ローマ皇帝はよほどの場合でなければ、内政には干渉せず、しかし59年に円形闘技場で他の市民との乱闘が拡大した時には、ネロ帝が教義禁止令を発している。
・62年にかなりの大地震があり
・79年8月24日にヴェズヴィオ火山が大噴火

価格覚え書き

・1デナリウス=4セステルティウス
・1セステルティウス=4アス
・1アスは強引に考えて100円ぐらいか

生活環境

・非常に豊かな土壌を誇るカンパニア地方、ヴェズヴィオ火山斜面にはブドウ農園やオリーブ畑が並び、穀物や野菜、まぐさも栽培。二期作、あるいはそれ以上が期待できる肥沃な土地だった。近郊の栽培地では、たまねぎや香草、そしてワインに入れる蜜が特に生産され、日常最重要な食物はパンであり、市内には20件以上のパン屋が立ち並んでいた。8つの切り込みの入ったパンや、ピザの一種である平たいチャンベッラなど豊富な品揃えだが、最貧民の皆さんはもっぱら小麦粥で我慢した。
・パンについで重要なものに、ガルムという魚から作られた臭いの濃い調味料があり、貴族達が専売的に生産を行っていた。これは魚によって質が大きく違なり、イワシなどを使った粗末なものは貧民や奴隷も使用した。
・食事は1日2食で、裕福なものと、貧民の差は恐ろしく大きい。植物文様の流行が見られる銀食器や、ガラス食器を使った贅沢な食事は大富豪だけの特権だったが、1アスから4アスぐらいで購入できたワインは、つつましい家庭にも欠かせなかった。
・ワインは、温めて香辛料を入れたり、水で薄めて飲んだりしたが、ローマ時代は濃密で果てしなく甘いワインが絶大な人気を集めていた。食前酒には、大量の蜂蜜を入れたワインも使用。海産物も豊富で、養殖場もあり、タコや、ウナギなども金さえ払えば楽しむことが出来た。

・ローマ人の生活の基本、午前中かなり早くから働いて、午後は人生を楽しむ。ある程度の生活水準にあれば、公共浴場で時間を潰し、円形闘技場で剣闘士の格闘に歓声を送り、大劇場で行われたミーモス、パントミーモス劇や、悲劇、喜劇などに心奪われ、小劇場の音楽や、詩の朗読に聞きほれた。剣闘士は絶大な人気を誇り、敗者の処遇は民衆が握っていたが、人気の高いものは命を取り留めめることが出来た。火山噴火の時にも剣闘士の営舎の個室で多くの金持ち女性が、剣闘士の隣で転げて燃え尽きていたという。劇場ではメナンドロスの風俗的な小市民的喜劇が今日のドラマのように人気を誇っていた。このメナンドロスの家も、豪邸として発掘されてよみがえっている。またミモス劇、無言で踊り手ぶりのパントミモスも流行していた。
・夕方になると、横になって食事が出来る横臥食堂で夕飯を楽しみ、酒を飲んで眠りに付くなり、やる気満々の精力を発散させるべく、女奴隷たちの小さな住処に突撃隊を演じても、とがめるものは誰もいなかった。大体2アスぐらいから、購入が可能だったので、小市民でも十分戦うことが出来た。もちろん要塞を攻略する前に、陥落してしまう者達の方が多いのは、今日と何ら変わらない。一方、正しく体を鍛える場所としては、パストレラという体育場で円盤投げや跳躍で体を鍛えるスポーツがあり、多くの者たちが出かけていた。

・家は大部分の人々が質素な借家ぐらしで、大邸宅を持つのは限られた裕福市民だけだった。邸宅の壁面はモザイクやフレスコ画で埋め尽くされ、小さな芸術都市の様相を呈した。紀元前333年のアレクサンドロス大王がペルシア軍を破ったイッススの戦いの有名なモザイクも、ポンペイにから見つかったものだ。

・風呂好きのローマ人は、喫茶店でおしゃべりをするように風呂に出かけていった。大きな公共浴場には、温浴室テピダリウム、熱浴室カリダリウム、更に熱い加熱蒸気のラコニクム、冷水浴室フリギダリウム、それとは別にプールまであった。まず人々は温浴室テピダリウムにのんびり時間を掛けて汗を流し、次第に温度の高いカリダリウムに移行し、さらに温度の高いラコニクムの蒸気で汗を流すのだとか。ここまではお湯に入ることが出来る場所もあるが、基本的には湯船に入らない室浴で、最後の冷水で初めて水に浸かって水浴して、さらに飽きたらずにプールに飛び込んで溺れ尽くしたという。ガリアから輸入された石けんも使われていた。風呂上りの毛抜きや、マッサージには黒人奴隷が活躍していた。そんなわけでポンペイにも3箇所の公共浴場があり、2重壁によるスチームや、アーチ型天井など興味深い設計が見られる。

・まったく職の無いものはまれで、農作物の栽培や刈り取り、港の人手など何らかの仕事は常にあった。さらに62年の大地震のあとは再建のために必要な人手はむしろ足りないくらい。女性でも、商人や職人の妻が多く店に関わるなど、仕事に従事し、旅館と居酒屋を兼ね揃えたお店も多くが女性の経営者によって運営され、いっそう多くの体を使ったお仕事に従事する女性を抱え込んでいた。

・道路、水道が完備され、鉛の水道管が通されたが、自宅まで引き入れることが出来たものは、よほどの金持ちだけだった。

信仰

・ヘラクルス、バッコス、ウェヌスが多くの家のララリウムと呼ばれる神棚に祭られていた。ヘラクルスはポンペイを作ったとされ、ウェヌスもポンペイの女神(ポンペイアナ)とされていた。市民広場近くにはウェヌスの大きな神殿まであった。一方、完全にローマ下に下って以来、ユピテル、ユノー、ミネルヴァの3神も重要な神として認知され、市民広場にはユピテル神殿が立っていた。外来の神としての、エジプトのイシス信仰も流行している。シストルムというがらがらを手にして祈る儀式で知られていた。そのほか、多くの多神教の神々が信仰されていたが、誕生したばかりのキリスト教はまだ入り込んでいなかったらしい。
・詩が愛をたたえ、壁画が性欲を掻き立てるからといって、堕落の精神で見つめるのはどうだろう。信仰的で健全な側面が大きく目に付く。とか。なんとか。かんとか。
・個性豊かなお墓が立ち並んだ。

再発見

・1709年、ヘルクラネウムで井戸を掘る農民が大理石の柱を発見していらい、ヘルクラネウム次いでポンペイの一大センセーションが沸き起こった。1748にポンペイの遺跡の発掘も始まり、宝探しのついでに考古学にも目を向ける。古代美術に学識の深いヴィンケルマンは宝探し発掘隊を嘆き、1787年にゲーテがイタリア紀行のついでに立ち寄って、ナポレオン一族は懸命にポンペイを掘りまくった。テオフィル・ゴーティエはポンペイの遺体の少女に焦点を当て1852年に「アッリア・マルチェッラ」を書き上げ、エドワード・バルワー=リットン卿は31歳のポンペイ見物から「ポンペイ最後の日」を著述して見せた。今日では観光客が遺跡破壊に生き甲斐を見いだしたからと言って、取るに足らない遺跡ではないのだ。覚えておくがいい。(と、自分に投げかけておく)

2004/11/11

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