マルクス・アウレーリウス・アントーニーヌス

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マルクス・アウレーリウス・アントーニーヌス(121-180)

・121年ローマで生まれる。嘗てスペインからローマに出た家柄で、父が8才で亡くなった後は、ローマ総督や執政官、元老院議員などを務めた祖父の元で育つ。病弱のため学校ではなく家庭教師任せで学習をしていたら、皇帝ハードリアーヌスが可愛がってくれた。やがてギリシア精神のもと体も鍛え、ストア哲学にすっぽりとはまってしまった。

・17歳の時ハードリアーヌス帝が亡くなり、アントーニーヌス・ピウスが皇帝に、マルクス・アウレリウスはルーキウス・ウェールスと共に、アントーニーヌス・ピウス帝の養子になった。26歳でアントーニーヌス・ピウスの娘ファウスティーナと結婚。

・161年アントーニーヌス・ピウスが没すると、マルクス・アウレリウスは単独皇帝が可能なのに、義理の弟ルーキウス・ウェールスと共同皇帝となった。

・即位後、国内大根チェルトで、ゲルマン進入、ティベレ川氾濫、地震、パルティア人進入などが。パルティア人を退けたら、変わりにペスト菌が流入して、その間にゲルマンが進入。2人皇帝で退けるが、帰途ルーキウスは病気で亡くなり、単独皇帝に。更にゲルマンと戦闘で勝利を収めるが、その間にアウィディウス・カッシウスが反乱を企てて失敗して、兵に殺される事件が。妻のファウスティーナも亡くなり、アテーナイでエレウシスの密議を伝授してもらったり。アテーナイでは学校に奨励金を与え、新たな哲学講座を創設したりしてみた。

・178年またしてもゲルマン民族が転がり込み、息子コンモドゥスと共に179年に大勝利をするが、180年にはシルミウム、それともウィンドボナで伝染病で亡くなった。

自省録

・紀元前300年にゼーノーンが創設したストア哲学の最後の代表者。後期ストアの特徴は宗教的色彩が強いことだそう。物理学、論理学、倫理学の3つに分かれるが、特にマルクス・アウレリウスは倫理学による道徳生活の導きだしかたが一番根本に。皇帝の責務の間を縫って自分自身のためにギリシア語で書き留めた物が纏められたものが死後「自分自身に」となった。

ストア派哲学について

・クセノフォンの『ソクラテスの思い出』を読みながら哲学に目覚めた難破で財産を失ったゼノン(BC335-263)が、貧乏大好きなキュニコス派の影響を受けつつ、アテーナイで創設。ストアとはギリシア建築物の列柱を指し、ここをうろちょろしながら議論している内にストア派とされてしまった。

ストア派の考え方を好い加減に捕らえた妄想

 太陽を焼けただれた岩と叫んだヘーラクレイトスが、神はロゴス秩序、論理そのものであり、流転するあらゆる万物はそれに付き従っていると考えたのをさらに進めて、万物皆神の汎神論を根底に置き、すべての物と宇宙は神から派生して誕生したと考えられた。一方ストア派は作用生成派生流転は物質同士でしか成り立たないのだから、神も何らかの物質、つまり息のような見えない物ながら存在する物・気息(プネウマ)と考え、唯物論の精神を固くなに貫いていた。
 つまり初め神は論理でもあり物質でもありそれらは同一だったのだが、論理的形成能力を物質に働かせ自身から宇宙を創造し、宇宙は論理形成能力を持って誕生したため、論理形成能力を持ち、その理論に従いながら生成変化を続ける。だがこれは燃え盛る炎を越えた炎によって周期的に破壊され、その残骸の中から新しい宇宙がまた創造されていく。したがって物質宇宙の総体は神であるという汎神論であり、すべてを物質で捕らえようとする唯物論なんだそうだ。わおっと。
 一方我々一人ひとりは、肉体(肉)、霊魂(息)、叡智(指導理性ト・ヘーゲモニコン)からなるが、指導理性こそが宇宙を支配する論理の1部であり、神的なものの分身で、心を占めるダイモーンとはこれのことである。
 さて神とこの世の人間の魂は、海と海を構成する一つ一つの水滴の関係のような物で、私達は神ではないが、神の小さな一部分であり、体の個々の物質が集まることによってより神に近い状態、体を機能させる論理を獲得しているのと同じように、私達一人ひとりがあまねく世界中の総体として、社会を形成することによって、社会を機能させる論理を獲得しているのである。その場合、通常悪と見なされている事柄も、全体論理から見て何らかの意味が存在しているのである。ここから人間は神の理性を共有してより論理性を獲得するべく社会を形成しているのだから、皆並列なのだという、世界市民主義コスモポリタニズムが生まれてくる。
 我々、社会からさらに広がって考える時、宇宙の存在するすべてはそれぞれが神の一滴を持ち相互に関わり合い宇宙的共感で保たれている。あらゆる物が影響しあって秩序が形成されていることを、syntonoia(調子が合う)、sympatheia(共感)、sympnoia(息が合う)、naturae contagio(自然の触れ合い・接触)、symphues(共生的)などの様々な言葉で表現する。 そのような秩序があるのだから、宇宙の中に生きる我々も、宇宙的共感に従って生活することが理想になる。そこから論理的調和を理想とする個人の生き方としての倫理学などが生まれてくることになるが、このような基本的な神と世界の捉え方から、神に対する、社会に対する、自己に対する、より指導理性に叶った我々の行うべき考え方が導き出される。それは神に対する敬虔と、世界に対する社会性(コイノーニア)、自己に対する自立自足なのだそうだ。
 それはともかくセネカやマルクス・アウレリウスにとっては神から宇宙、社会、我々に連なる秩序を定義発見することではなく、そのような神や世界に対する見方で、どのように自分たち個人がより良い生活を送ることが出来るかという倫理こそが重要な点になっている。ストア派哲学の考えはいわば前提になっているのだから、その部分が従来のストア派哲学からちっとも先に進んで自分の新たな立場を持っていないというのはとんでもないお門違いである。エピクテートスの忠実な弟子に過ぎなかったと虐めちゃいかん。
 倫理では我々の外界は自分たちでどうにもならない、肉体も究極的にはどうにもならない、病があれば一憂し、背が低いとあっては部屋に引き籠もって嘆いていたのでは、意味がない。名誉名声も、手持ちの金銭も究極的にはどうにもならない、百万の金持ちがさらに百万倍の金の入らないのを嘆いても、考えの指向性自体に誤りがあるのだから、叶いっこない。こうしたことがらは、アデイアボラ、良い悪いなど区別する事柄ではない無差別な事柄であり、これは中間物メサなのである。我々は、最終的に真の自由さを獲得している精神的機能、それにより意見を生みだし、判断を下す能力をこそ中心に置かなければならない。また徳とか悪徳とかも、この部分によってこそ判断しなければならない。そして精神的機能を論理的に徳に導く遣り方こそ、ストア派の倫理学になってくる。
 外界からの情報は、必ず主観によって定義分析され判断を下されることが必要であり、ストア派の倫理学はその判断をいかに導くかの指導なのである。そして一番の幸福と平安は指導理性、すなわち宇宙の自然な論理性を獲得することであり、外界の出来事もすべてなんらかの論理性が絡み合って作用した物であるから、これを喜んで受け入れ、駄々をこねない。そして肉の情熱に打ち勝ち、何物にも動じない不動心アタラクシアを獲得することこそ、我々の自由になる精神的機能を最も平安幸福に到達させるのである。 (この妄想は45分バージョンなので信用しないでください)

参考に書籍

自省録(岩波文庫)

・神谷美恵子訳

2005/01/12

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