古代ギリシア音楽への道

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講義の再開

 長い夏期休暇もやがて終わりを迎え、すっかり日焼けした耳ピアスがサーファー野郎に変身したなれの果てを教室にさらす頃、ようやく開け放たれた教室の窓から流れ込むそよ風にも秋の予感を微かに感じるようになった。9月の半ばを過ぎて、再び私たちの新西洋音楽史講座が始まったのである。見渡せば受講をキャンセルした人々と、新しく参加した途中組みが入れ替わって、見たことない顔が1/3近くを占めている。脱落が危ぶまれた窓際ノッポは、最後の追い上げに気をよくしたのか教科書を開いてやる気満々先生を待ちわびているようだ。教室も後は先生の登場を待つばかりとなった。
 遠くから歌声が聞こえてくる。「すばらしい、バッカス。感謝だバッカス!バッカスは大したお方だ。・・・私も飲もうか?口付けちゃおうか?アラーの神は見てないか?・・・いつまでぐずぐずしてるんだ、飲んだり飲んだり勢いよく、逃れられないこの香り。・・・ぷはっと飲んだ、飲んじゃった。私の度胸も見上げたもんだ。」あれはモーツァルトの「後宮からの逃走」のバッカスを頌える歌だ。それにしても、先生。他の教室の皆さんに思いを致したりはしないのだろうか。あんなに大きな声を張り上げて、ほとんど一人カラオケ状態だ。まあ、声がいいから文句の言いようがないのかもしれない。先生は、やがて幾分足をもたつかせながら教室に入ってきた。どうせ身ぶり手ぶりまでオスミンになりきって歌っていたのだろう。皆はてっきり久しぶりの講義再開で、先生の前置きの雑談でも始まるものかと期待したが、教壇の前に立つと先生はさっと普段通りの様子に戻ってしまった。戻ったら戻ったで熾烈な講義が待っているのだ。
「皆さん、お久しぶりです。夏期休暇はいかがでしたか。先生の講義が聴けなくてさぞ寂しかったことでしょう。心配いりません。早速私が講義を開始して、皆様の心を満たして差し上げましょう。」いや、そんなことは誰一人として言っていないのだけれど。先生はもうすでに黒板に向かって「ようやく振り出しに戻ったる第1章」と書き込んで、何一つ予備の言葉も繋留の言葉もおかないで、講義に突入してしまった。まあ、いつもの遣り方だと言えばそれまでだ。
 「では、いよいよ教科書を最初に戻って第1章から授業を開始しましょう。かつて7世紀頃セビリアで活躍した知識人のイシドールという人は、人間の記憶に残しておかない限り、音楽は鳴り響いた瞬間に消え去ってしまうものだと、過去の音楽の喪失を嘆きました。これは全く的を得てた言葉です。」先生は早速中期講座開始ののろしを上げた。
 「私たちは、譜面が残される以前の音楽については、文章による著述や、残された壁画や彫刻、発掘された楽器などを元に類推するしかないのですが、そのような残された資料は当時の音楽を復元するためにはあまりにも乏しい資料だと言わなければなりません。その文化や地域が持つ独特の節回しも、旋律的特色も、リズムも、それらの資料からは取り戻すことが出来ないからです。それにもかかわらず、西洋音楽の源流を遙かにさかのぼれば、楽器も音楽への考え方も遠くメソポタミア・エジプト文化にまで思いをはせることが出来るかもしれません。そのようなわけで、そうした古代の音楽に触れることから西洋音楽史を開始することは、真にふさわしい遣り方です。もっとも私はロマン派から開始してみましたがね。」先生はユニークな冗談のつもりでいったのだろうが、貴族的な上品さを持ったユーモアなどまるで意に介さない、日出ずる国のお優し民族にはまるで通じなかった。もっとも先生はまったく気にする様子はない。

音楽の始まり

 「さて、時を遙か遡って800万~500万年前のどの辺りか、類人猿の一派がついうっかり驚き慌てて直立二足歩行に適応してしまったことが、私たちの祖先に連なる猿人が誕生するきっかけになりました。石器の使用の進化、やがて火の使用。埋葬の成立、発達や儀式の成立、先輩方は非常に長い月日をかけながら私たちの生活行動の基礎を獲得していきました。そして10~20万年前のいつか、先祖の残してくれたマニュアルを頼りに私たちの直接の祖先である新型のホモ・サピエンス・サピエンスが独り立ちを始めたわけです。彼らは「ネアンデルタールって今時はやらない。」と叫びながらアフリカから中東に達すると、何時しかネアンデルタール人達をすっかり打ちのめしてしまうほどの成長を見せたのです。さて、彼らが約10万年前に中東に入り込んでから考えても、私たちが最初期の文明を定義する歴史の時代にはいるまで、9万年以上の時が流れています。ではいったい、彼らが初めて何らかの音楽を奏でたのはいつ頃なのでしょう。それはどういった経緯で始まったのでしょう。鳥の鳴き声を真似ているうちに歌のようになったのでしょうか、それとも仲間への合図で何かを叩いているうちに太鼓のリズムが生まれたのでしょうか。人類が初めて高度な言語を使用し始めたのはご先祖様のホモ・サピエンス・サピエンスが出現してからだとも言われていますが、言葉の獲得が音楽を生んだのでしょうか。それとも、想像を絶する文化的飛躍が見られ芸術にまで目覚めてしまった3~5万年前の頃なのでしょうか。そのころ現れた弓矢の弓をついつま弾いているうちにいい気持ちになってしまったら、隣で石器を持っていた奴が合わせて叩きだしてしまったのでしょうか。それとも下り下って紀元前9000年頃に初期農耕に目覚めてしまった喜びが、刈り取りのリズムを奏でてしまったのでしょうか。ああ、先生のイマジネーションは当時の音楽成立に思いをはせているだけで、もうくたくたです。」
 先生は本当にふらふらしているようだった。何故か顔もいつもより赤いのである。日に焼けたせいだろうか。どうも不思議だ。
 「そもそも、音楽がどのように発生誕生したのか。そして私たち人間にとってリズムの方が先だつのか、旋律が初めにあったのか、リズムと旋律はどちらの方が私たちの本質に近いのか、などという問題はそれ自体音楽を考える上では重要な意味を持っているように思われます。ですが、ここは西洋音楽史の講義ですから、残念ながらそうした事柄は棚の上に預けておいて、すでに人々が本格的に文明を育み始めたオリエント時代に話を飛ばしましょう。」
 先生がリモコンをポンと押すと、オリエント地方の地図が目の前に投影された。

メソポタミア地方から

 「皆さんお馴染みのメソポタミア文明は、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な下流にシュメール人達の姿が現れる、紀元前5000~6000年頃に開始の合図が鳴らされました。彼らは共同体を作ると定住して、BC3500頃から、ちょうどギリシアのポリスのように都市を築き上げていったのです。やがてそれぞれ王を持ったシュメールの都市同士が覇権を争い、メソポタミアを統一しては再分裂を繰り返し、同時に数多くの他民族がなだれ込むBC3000-2000年代を、私たちはシュメール人達の時代と呼ぶことになります。さてこの時期に作られたモザイク彫刻に「ウルのスタンダード」と呼ばれる戦争と平和を遂に描いた美術品がありますが、その平和を表わした面の最上段には酒宴を表わすレリーフが描かれ、ハーブのような楽器を手にした楽人の姿を見て取ることが出来ます。面白いことにちょうどポリスの中央にそびえる神殿アクロポリスのように、シュメール人達の都市国家にも都市の宗教的中心として高く巨大な神殿ジックラトが築かれ、宗教的儀式を担うと同時に食料などの貸し出しを行い、足下には市が栄え交易活動に華やいでいました。その周囲には日干し煉瓦の町が果てしなく続き、都市の人々の生活は決して隷属的ではありませんでした。おそらく裕福層の宴にはすでに先ほど「ウルのスタンダード」に描かれたような楽人が何らかの音楽を奏でていたことでしょう。宗教的儀式についてはもう少し分ってます。すでに歌を先導して先に唱える先唱者を持っていた宗教音楽は、筒状のパイプに震えて音を出すリードを取り付けたリード・パイプや太鼓、タンバリンなどが使用され、祭司と合唱が応答を行うレスポンソリウムような形式や、合唱同士が交代で歌うアンティフォナのような形式も儀式に含まれていました。先ほど述べたようなハーブ、それからリラのようなものも当時の史料から存在が明らかになっています。まったくもって弓矢に弦を張り足したのが始まりだとされるハーブや、様々な楽器による宴の演奏、そして宗教の儀式にはどのような音楽が奏でられていたのでしょう。今となっては音楽自体は完全に行方しれずなのです。ついでだから、もう少しメソポタミアの音楽の歴史を追ってみましょう。」
 先生はだんだん調子が出てきたのか、いつまで経ってもギリシア音楽には向かわないで、とうとうメソポタミア音楽を概観する手段に打って出た。
 「さて、時代を下って重要な所をピックアップしていきましょう。まず、アムル人によって建設されたバビロン第1王朝は、本当は最初じゃなかったバビロン法典でお馴染みのハンムラビ大王(BC1792-1750)で知られています。玄武岩で出来ているバビロン法典は私も何度か見たことがありますが、法典を与える太陽神シャマシュの横に直立して、厳粛に教えを待つ大王の姿がその上部に描かれているのが印象的です。思えば彼こそは史上最初の実在の大王でした。大王の歴史はこの時に始まったと言っても華厳の滝ではないのです。」
 先生は今日はやけに笑えない冗談に拍車が掛かっていると見えるが、大王の歴史というのはいったい何なのだろう。
 「このバビロニア人達の時代、神殿の儀式は更に発達したようで、まるでキリスト教の礼拝のように、詩や賛歌を儀式内で組み合わせて使用し、楽器の間奏まで入る完全な礼拝形式を確立していたようです。元々はシュメールに遡ぼることの出来る詩を使用したこの儀式は、おそらくユダヤ教の宗教儀式に影響を与え、最終的にキリスト教にも繋がる一本の糸が長い時を刻んでいるのです。この頃神殿は女性の歌い手までも使用して、史上初なのでしょうか、行列と音楽の関係を示唆する史料も残されています。続くBC1000年以降の時代、例えばアッシリアの帝国では音楽家達の活躍が宮殿での宴会や王族の祭儀でも非常に目立つようになりますし、世俗の公開演奏まであったようです。その後の新バビロニア(BC625-BC609)は、ユダヤの民が皆さんご一緒に捕虜にされたバビロン捕囚でお馴染みですが、旧約聖書に記されたネブカドネザル王(BC604-562)の楽団の描写はこの時のものです。「ホルン、パイプ、リラ、ハープやそれらの合奏が鳴り響く時、あなた達は大急ぎでひれ伏して、王の建立した像を礼拝するのです。今すぐにです。」一方、この頃になるとギリシアから進んだ先進文明を吸収すべく足を運んでくる多くの知識人予備軍達が、オリエント世界やエジプト世界からさまざまな教えを受けています。天文学や数学の理論が十分発達していたこの時期のオリエント世界では、音楽の理論は天文学と数学と密接に関係したものだとされていました。星の運行は人の運命を規定し、宇宙全体は絶対的な調和に満たされていると考えた彼らは、大なる宇宙マクロコスモスと人の中にあるミクロコスモスの相関関係に思いをはせ、その原理を解明しようと試みていたといいます。すでに知られていた1,4,5,8度の音程を表わすための比率は4つの季節に対応して考えられていました。ギリシアのピュータゴラースは、エジプトだけでなく、このオリエント世界に足を伸ばし、調和する数比の理論をギリシアに持ち帰ったのかもしれません。そのピュータゴラースの定義した、調和の理論や、旋法の持つ人の心に作用する力を解き明かそうとするエートス論、理論的な数比関係などは、ギリシア文化を超えてヨーロッパ音楽に大きな影響を及ぼすことになるわけです。なんとも、壮大なストーリーではないですか。では、こんどはピュータゴラースの向かったもう一方の先進文明、エジプトについて遡って概観してみましょう。ですがその前に少し水で喉を潤して来ますから、皆さんはそのまま待っているように。」

エジプト文明

 先生はふらふらとして出て行ってしまったが。私たちが騒ぎ出すまでもなく、元気を回復して戻ってきた。なんだか頬がますます赤くなって見えるのは、授業内容が高じてきたせいなのだろうか。
 「もう一方の文明中心地エジプトではやはり紀元前2000年以上前のエジプト古王朝時代から様々な楽器が奏でられていた事が分っています。」
 先生はおおざっぱにナイル川とエジプトの地図を黒板に描きながら言った。
 「さて、そんじょそこいらの周辺民族とは分けが違ったナイル上流に住まうハム語系農耕民族は、BC3000よりも前から、害虫を追い払うための棒を2本の拍子木に変えて、踊り踊っていたと言います。また、王国の誕生する頃の楽器が、すでにオリエント地方の楽器と似たもの同士であることから、BC2700頃に古王国が誕生する前、しばらくメソポタミア初期文明との何らかの交流があったのかもしれません。いずれ、王国の誕生期にはすでにいくつもの楽器が存在し、神殿祭儀は音楽に満ちあふれていました。祭儀で使用された詩が残っていますが、そこには2人の神殿巫女の2重唱と1人の巫女のソロが交互に渡り合うものや、男性神官が先唱者をつとめるオシリス讃歌の例などが残っています。もちろん音楽は跡形もなく消え去ってしまいましたがね。楽器の方に話を移すと、ハープ、横笛、2本1組のリードパイプやタンバリンが使用され、ハープはエジプト人達一番のお気に入り楽器でした。また、エジプトの祭儀において特に重要な役割を果たしたラテン名でシストルムと呼ばれる楽器があります。長い棒の先に金属のガラガラ板を取り付けたもので、神の聖なる力の象徴でもありました。またエジプトでは神殿だけでなく、王宮を中心とする世俗音楽も早くから盛んだったことも知られています。さて、メソポタミアに比べると穏やかなエジプトの歴史も、遊牧民族ヒクソスがなだれ込みついには中王国が滅亡する頃になると、オリエント地方との戦争を含む交流が盛んになり始めます。BC1500代に成立した新王国では、対外的野心に満ちた国王ファラオ達が東方に軍隊を引き連れて進出することによって、逆にメソポタミアの文化と音楽がエジプトに流れ込んできました。奴隷としてハーレム入りを果たした踊り子達の異国情緒溢れる音楽や、数多くの楽器がなだれ込み、直管型トランペットまで使用されるようになっていくのです。おっと、あまりこんな所で足踏みをしているわけにも行きませんね。早くギリシアに話を移しましょう。ただし、覚えておいて欲しいのは、かつてピュータゴラースは、エジプトに留学にやってきて音楽理論を習得して帰りましたが、メソポタミア同様、エジプトの音楽理論は当時かなりの発展を見せていたと言うことです。今日ではすっかり行方しれずになってしまいましたが、パピルスという柔軟な筆記用具を使いこなしていた彼らは、それを思想の発展に生かし、いち早く高いところからギリシア世界を見下ろしていたわけです。これについては、例えばギリシアの音楽理論家としても有名なクラウディウス・プトレマイオス(127-51)もエジプト人でしたし、水圧オルガンであるヒュドラウリスを生み出したのもエジプト人のクテシビウス(BC246-221)であったとされることなどからだけでも、何となくうかがい知ることが出来るでしょうか。
 さて、こうした先進文明を概観した上でギリシア文明を見ていくと、ギリシアが進んだ文明の影響を元に発展したオリエント文明圏の中の西の端の後続文明であることを理解することが出来るでしょう。ついでに言うならば、次のローマ時代この文明の波は、更に西方イタリアにまで達し、曲解のまま突き進めば、今日の西洋文明はその文明の波を受けてさらに西方、北方に生まれたものだと言えるかもしれません。あなた達日本人は、丁度早くから栄えた中国における文明の波を幾分遅れて被って独自の文明を花開かせたのですから、先進文明を後続で受け取ることによって独自の新たな文明を花開かせる事の利点、のようなものは日本史を学んでいる間に少しは感じたのではないでしょうか。」
 ・・・せ、先生。そんなことを考える奇特な学生は、お優しく詰め込まれるがまかせな民族のジャパニーズの中には居ません。

前ギリシア文明

 「さて、すでにギリシア人の別の一派がいち早く起こしたミケーナイの王宮で知られるミケーナイ文明も、クレタ島の別の民族による先進文明からの影響を受けて、BC1500頃に入ると逆にクレタ島の宮殿を火にくべるほどの活躍を示しました。この時期おそらく、エジプト、オリエントの神話の影響などを大きく受けて、ギリシアの神話の世界が次第にしっかりと形成されていったのではないかと思われます。同時に、数多くの楽器が、音楽に関する神話と共に東方から流れ込み、ギリシア音楽の基礎が形作られました。最初期のリラに対する神話や、小アジアを渡ってきた伝説が元になっていると思われるトラーキア地方の竪琴使いオルフェウスの神話や、アウロスと関連付けられるディオニューソスの神話が形成されたのも、大元はこの頃かと思われます。文化の形成を考える上で面白いのですが、先進文化の流入は、クレタ島など海を経由して流れるエジプト地方の文明と、小アジアのフリュギアなどから流入するメソポタミアにまで到達できる数多くの文明がまるで競い合っているかのようにも見られます。そして、「イーリアス」と「オデュッセイア」の世界、海上貿易と対外進出に関わるとされるトロイア戦争の顛末物語も、このミケーナイ時代に実際に起こったことが語り継がれたものだと言われているのです。このミケーナイ文明は、BC1200年頃に北方からなだれ込んだ別の何種類かのギリシア人の種族によって大コンチェルトを奏で、ついには滅亡に追いやられました。これは1200年のカタストロフと呼ばれるのですが、謎の北方からの混成民族の大仏転げ状態は、謎の進出集団を生み出し、同じ頃海の民と呼ばれる移動民族の進入によって小アジアのヒッタイト王国が滅亡、エジプトが辛うじてこれを食い止めることに成功しました。旧約聖書でお馴染みのダヴィデが戦いを挑んだゴリアトは、ペリシテ人の巨人でしたが、実はそのペリシテ人もこの海の民の一派だったとされていますから、歴史というものは音楽を抜きにしても大変面白いものですね。おっと、脱線が過ぎました。こうしてカタストロフの後、ギリシア人達の輝かしい世界が始まるBC800まで、音楽はもちろんあらゆる情報が著しく乏しい暗黒時代を迎えることになるわけですが。そのころ使用されていた楽器や、音楽については、おそらくホメーロスの2大叙事詩の中から少しは思いをはせることが出来ることでしょう。なぜなら、その2つの叙事詩こそは、その暗黒時代に歌い継がれてきた叙事詩だからです。それでは、次の時間はいよいよギリシアの音楽について講義を行いましょう。先生はちょっと一杯飲んで、じゃない、いやコーヒーをね。」
 歴史の知識が乏しくて先生の講義について行くにはお優しすぎた生徒達が途方に暮れる中、先生はさも楽しそうに次の授業に思いをはせながら教室を後にしたのだった。

ギリシアとローマの遺産

 開始の合図がなって先生が戻ってきた。黄泉の国から戻ってきた。先生はなぜかますます陽気になっている。本当に飲んだのはコーヒーだったのだろうか。「さて皆さむ。話題を教科書の最初に持っていきましょう。皆さむの中には古典世界、すなわちちギリシア・ローマの文化と今日の西洋の文化を無頓着に同一視している人達が居ますが、これはとんでもない誤解です。今日の西洋世界は、古典の影響をもっとも強く受けているとはいえ、本質的に異なった文化なのです。彼らの古典世界からの引用は、決して身内の伝統の掘り起こし作業ではないのです。アメリカ合衆国におけるヨーロッパの伝統ぐらいに考えたら大きな間違い、これは全く別の話です。なぜならこれらは一つの文化圏で語れるのですから。」先生は黒板に「バッコス万歳」と落書きをしながら話を続けた。そうだったのだ、私は漸く始めに先生が歌っていたバッカスの歌の意味を理解した。コーヒーなんかじゃなかったのだ。それにしても昼間から講義中にデュオニュソースを讃えてしまうなんて。もちろんデュオニュソースもバッコスも名前が違うだけで同じ事だ。しかし、悲惨なことに私より物を知らない一部の生徒は、ノートに「バッコス万歳」と記入を始めてしまった。私は先生の大胆不敵な行為よりも、物を知らない愚かさのもたらす呆れるばかりの行動に打ち震えた。何時自分が同じ間違いに陥らないことか。
 「ところで、西洋音楽にもっとも深い影響を与えたものは、ギリシアの音楽理論と、ユダヤ教の宗教祭儀の方法や旧約聖書に書かれた数多くの音楽に関する記述だと言えるかもしれません。キリスト教の宗教祭儀は始まりにおいてはユダヤ教の諸要素を取り入れていますし、キリスト以前を表わしたとされる旧約聖書はキリストの教えを表わした新約聖書と共に最も重要な教典でしたから、そこに書かれている音楽に関する記述は中世において大きな意味を持ちました。そして先ほど見てきたように、ユダヤの音楽自体もまた、オリエントの先進文明の影響を受けて成立しているのだから、壮大な話です。ユダヤ人達の音楽については後でキリスト教と関係してみていくことにして、私たちは改めてギリシアの音楽を見ていくことにしましょう。」
 先生は「バッコス万歳」を消すと、「朝食はアクラーティスマ」と謎の言葉を書き込んだ。・・・私は、うっかりノートに記入してしまった。
 「さて、今日の西洋はある時点まですぐれた遠過去である古典世界の再発見と吸収に生き甲斐を見いだしました。直ぐ足下に高度に発達した文明の遺産が掘り起こすことの可能な足跡を残しておいてくれたことが、西洋文化を規定したのだといっても間違いではありません。しかしローマ帝国が崩壊してゲルマンの民が土産のように転がり回る中、すっかり失われたかつての知識を呼び起こすためには、西側ヨーロッパ社会は長い年月を必要とすることになります。もちろんギリシア文化の知識を持った数多くの教父達を見ても、内部に燻る知識の遺産が生き残っていることを目にすることが出来ますが、しかしそれは風前の灯火でした。やがて文化が喪失せずに残った東ローマ帝国や、輸入して保っていたイスラーム文化圏からの逆輸入に始まる古典文化の吸収が開始され、それが初めのピークを迎えるのが12世紀ルネサンスと呼ばれる時期で、一番のクライマックスは皆さんお馴染みの14世紀から始まるルネサンスの時期なのですから、本当に膨大な時をかけてギリシア・ローマの遺産は西洋文化に取り込まれていったと言えるでしょう。この古典世界への復興運動は、今日でも憧れとして諸芸術のリバイバル運動に名残を留めています。
 ところで前の時間にお伝えしましたが、音楽に関してはそれが鳴り響いた途端に消えてしまうことから、後の復興運動においても他の諸芸術のようには行きませんでした。古典復興に生き甲斐を見いだしたルネサンスの知識人でさえ、実際のギリシア・ローマ音楽について知ることは困難だったのです。数多くの理論書が残されたにも関わらず、実際の譜面はほとんど皆無でした。やがてバロック時代の幕を開けるオペラの復興運動が、憶測に基づいて新たな一歩を踏み出したことはよく知られていますね。彼らはもっぱら文献や何かに描かれたり彫刻された様子から、古典古代の音楽に思いをはせるしかありませんでした。今日では約40曲ほどの楽譜が復元され、古代に対する解析力も向上したとはいえ、基本的には私たちもルネサンスの知識人同様、当時の音楽についてほんの一部のことしか理解できないでいるのです。この状況がもっとも非道いのはローマの音楽に対してで、実は残された楽譜もギリシア文化のものばかりで、ローマの音楽はまったく2次的資料から類推するしかないのです。さて、それは何故でしょうか。」
 先生は黒こげ耳ピアスを指名した。腕の皮むきに熱中していたピアスはつい話し方を変えるいとまが無くなって「ギリシア人より音楽に興味がなかったからだろ、そんなもん。」と答えてしまった。先生は突然怒鳴り声を上げた。「馬鹿をおっしゃい!」実は先生は決してやさ男ではなく、むしろピアスの10人や20人ぐらいの首をへし折ってやれるほどの筋肉質な体をしていたから、耳ピアスも驚いてつい姿勢を正してしまった。「ネロ帝が自分自身舞台に立って竪琴に身を任せたいと願い、数多くのミームス達が楽器両手に花咲かせて皇帝や貴族達の邸宅の宴まで着飾っていたことを忘れたのですか。あの時、ネロ帝は4頭立ての馬車を操ってみたいという野心さえも実現させてしまったのではなかったか。ローマの音楽の隆盛は数多くの文献に残されていて、それらは華やかな劇場や宴の音楽と、軍隊の音楽の発達を記しています。君、ちゃんと教科書は読んできたのですか。ここは義務教育の場ではないのですよ。」黒こげは痛いところをつかれてすっかり小さく干からびてしまった。「まあ、次から注意すればいいことです。ローマ時代盛んに繰り広げられていた音楽やスペクタクルは、ローマの衰退と同時期に広まったキリスト教が敬虔さを求め、ローマの音楽生活を退廃的であるため排除したことなどによりすっかり姿を消してしまったのです。思えばそうした音楽的催しと共に、キリスト教徒達は自分たち自身を出し物にされて、飢えたライオンにくべられたのですから、その不快感は私たちが想像する以上だったことでしょう。改宗して増え続けるキリスト教徒達がローマの享楽的文化自体の嫌悪から生まれてきたことも、文化の否定の根底にありました。それでは大分前置きが長くなってしまいましたが、改めてギリシアの音楽を見ていきましょう。・・・その前にもう一杯。」先生は燃料が切れたようにふらふらと教室を出て行ってしまったので、私たちも自主的に15分間の休憩を入れることにした。この講義は先生の気分で一回の授業時間が変るのである。

ホメーロスの世界

 帰ってきた先生は燃えるような赤ら顔で、まるで燃費の悪い車が無理矢理燃料を押し込んで今にも発車直前と言った調子だった。こんなことでいいのだろうか。にもかかわらず、先生の講義には少しもかげりが見えないのだ。
 「始めに見たオリエント・エジプト文明と同様、ギリシャ人達にとっても音楽は神より授かったものであり、人の精神に何か魔術的な影響を与えることが出来ると考えられていました。ギリシャ人にとって音楽というものは、舞踏と共に文明の初期から非常に重要な存在だったのです。彼らの生み出したもともとの叙事詩や、サッフォーやアナクレオン、ピンダロスやシモーニデースなどの叙情詩などが、皆声に出して歌われる詩だったのを思い返してください。当時詩を作るということは歌を作るということと同義でした。このまま覚えられると実は困りますが、俗的にかみ砕いてしまえば、今日ロックやポップスの歌い手達が自ら奏でる音楽のための歌詞を制作しているようなもので、その詩は初めから節やリズムと切り離すことが出来ないわけです。もっともホメーロスの時代すでに叙事詩は歌い物ではなく語り物に変化していたという意見もありますが、これは後で詳しく見てみましょう。さて、ギリシアの最初期の音楽や舞踏については、すでに紀元前8世紀頃に完成されていたとされるホメーロスのオデュッセイアの中にも現れていますが、元々は口頭で伝えられたとされるこの叙事詩は、書き記されるよりずっと昔から人々の間に知られていたものなのです。先ほど述べた通り、イーリアスやオデュッセウスの伝説の発祥を追い求めると、紀元前1600頃から始まり紀元前1200年のカタストロフと呼ばれる大恐慌で崩壊するまで続いたミケーナイ文明にまで辿り着くことが出来ます。もしかしたら楽器片手に叙事詩を歌い継ぐ伝統や、そうした叙事詩の中に見られる音楽的な記述はミケーナイ文明が元になっているのかも知れませんね。それではそのホメーロスのオデュッセイアの中で盲目の詩人デーモドコスが音楽を奏でる場面をちょっとだけ抜き出してみましょう。では、ちょっと準備をしてきます。」先生はそう言うと教室を出て行ってしまったので、皆はどうなることかと辺りを見渡した。  やがて戻ってきた先生は案の定、どこから仕入れたのかギリシャ風の衣装に身を包むと大きな杖を手に持って、おぼつかない足取りで教壇の方に向かって歩み寄ってきた。すでに身も心も盲目の詩人デーモドコスになりきっているようだ。先生は杖で教壇を探し当てると、よろめくように教壇に手をかけた。改めて私たちの方を向いた先生は、いきなり杖を大きく上に振り上げる。あっと思ったその刹那に、杖の先が大型ストロボ写真のフラッシュのように目映い閃光を上げた。その途端に窓という窓に付けられた黒カーテンが横に滑って、教室の全照明が落ちて辺りは急に真っ暗になり、激しい光の後で急に暗くなったのに驚いた私たちは、しばらく何が起きているのか飲み込めないでいた。すると、いきなり背後で機械的な音が響き渡る。今度はいったい何が起きるのだ。恐れおののく生徒達を駆け抜けて、眩しく現れた一筋の光筋が教壇にライトを照らし、気が付けばそこにはギリシャの服装に身を包んだ若い青年達が先生を取り囲んで立っていた。どうなっているのだ。こんな設備がこの教室に整っていたのか。どう見てもあの青年達は映像には見えない。それに、あの向こうに立派ななりで佇んでいるのは、あれは窓際ノッポじゃないか。さっきまで席に座っていたはずではなかったのか。私の動揺も知らず、ノッポは立ち上がると隣に立つ若者に声を掛けた。「誰かデーモドコスのために、後年の響きを奏でるキタラーを至急取ってこい。我々の使っている素朴な竪琴フォルミンクスよりずっと新しい楽器を。屋敷のどこかにあるはずだ。」
 その風貌ノッポのごときアルキノオス王がこういうと、若き兵士は立ち上がり、踊り場を作るために9人もの若者が土をならし終わるより早く、大きなキタラーを持って帰ってきた。彼が先生の変わり果てたるデーモドコスに楽器を手渡せば、先生は踊り場の中央に進み、その楽人を囲んで若い青年達が並び立ち、美しい踊り場を足で踏みならして踊れば、先生はそれに合わせてキタラーをつま弾く。私たちは我を忘れて均整の取れたその舞踏の美しさに見とれていた。
 やがて、それがすむと、先生が詩人となって、キタラーをならして序奏を奏で、巧みに歌い出したのは、アレースと冠美わしいアプロディーテーとの恋物語。それは、ふたりの神がヘーパイストスの屋敷で、初めて密かに契りを交わしたくだりであった。軍神アレースは、戦に似つかわしくない数多くの贈り物をして、女神の気を引き、いつになく様々な言葉を織り交ぜ、アプロディーテーの心に縄をかける。女神は進んで言葉の網にたぐり寄せられ、ついには、共に交わると、ヘーパイストスの屋敷を辱めた。鍛冶を鍛える美神の夫は、これに気が付かずにいたが、高く天上を掛け2人の営みを知った陽神ヘーリオスが、これをヘーパイストスに告げる。怒り驚き顔を軋ませた片足の神ヘーパイストスは、悔しさのあまりついには涙を流し、鍛冶打つ鋼に呪いを込めて、戒めの捕らえ縄を編み込むと、鍛冶の神はこれを逢い引きの寝所にしかけた。何も知らずに現れた逢い引きの神が2人、今日もたっぷり添い寝よろしく快楽を決め込んで現われる。唇を重ね、そのまま寝所に倒れ込むと、互いの腕が相手の体にまとわりつく。その刹那を待ちわびて、2人より更に大きな柔軟な鋼の罠が、2人の体をすっぽり包み込むと、対になった神を絡め取る。こうして逢い引きの神々は、もつれ掛けたそのままの姿勢で、身動き取れず驚きの声を上げた。これを寝取られの神ヘーパイストスが憎しみを込めた目で見やると、引っ張り出してオリンポスの神々の前に投げ出す。経緯を話して大神ゼウスに処罰を求めるや、交わり損ねたままお縄を頂戴した2人の姿を見て、すべての神々が大きく笑いだした。遠矢を放つ神アポローンが、側にいた伝令の神ヘルメイアースに訪ねて言うよう。「人間には幸をもたらし、神々の伝令を伝えるヘルメイアースよ、君はあんな姿になっても、一度美の女神を自分の物にしたくはないか。」それに答えて空を軽快に駆け巡るヘルメースの言うには。「それが出来たらどんなにすばらしいだろう。もしこの縄の罠が3重に張り巡らされようと、この神々の集会の場でも構わない、私も一度黄金のアプロディーテーと添い寝がしてみたい。」この一言に神々の間から一層笑いが起こったが、一人笑いを解さないポセイダーオーンのみが鍛冶の神に言うには、「放してやれ、お前の貸しは、必ずアレースに払わさせよう。」ヘーパイストスは、しかし、腹の怒りが収まらず、さらなる仕打ちを求めたが、大海の神ポセイダーオーンは、もう一度軍神の貸しの返済を約束するので「あなたが保証人になるというのであれば、致し方がない。この場は私が一歩引くことにしましょう。」と言った。ようやく許された2人は、神々の前から逃げるようにして、それぞれの逃避小屋に隠れてしまった。
 高名な詩人に扮した先生は、このように歌ったが、これを聞いた私たちも、つい前後の不可解を忘れて声を出して笑い、詩人の周りの踊り手達も共に楽しんだ。
 これが済むと、ノッポのごときアルキノオスが声を上げ、配下のハリオスとラオダマスに、2人による舞踏を命じた。ーこれは2人が比類無い踊り手だったため、2人は名工ポリュボスが、特に2人に作り与えた、紫の美しい毬有るを取りだすと、一人が身をそらし薄暗い雲をめがけて毬を投げ上げる。すると、一人が大地から高く飛び上がり、足が大地に着くより早く軽妙にその毬をつかんだ。技を見せた2人は、豊穣の大地の上で、目まぐるしく互いの位置を変えながら踊り始め、他の若者達は場内に並んで手拍子を打ち鳴らし、大気に高く響き渡る。私たちは何が起きたのかも忘れ、この技芸を眺めていた。やがてデーモドコスが、楽器を大地に置くと、杖を頼りに立ち上がる。私たちの方に高い声を張り上げた。  「いいですか!皆さん!このように、古代ギリシャにおいては、様々な詩は、楽器の伴奏によって歌われるものとして存在したのです。そして、音楽のあるところには舞踏がありました。奏でることと、語ることと、舞い踊ることの緊密な関係は、悲劇の中で昇華されますが、その関係は初めから、ギリシャ文化に深く根ざしていたのです。分りましたか!」
 はっと気が付けば、教壇にはいつもの服装の先生がチョークを握りしめて生徒達に呼びかけている。今の幻視はいったい何だったのだろうか。古代の音楽に宿る神聖な力が私たちの心を揺り動かして、無い物を存在させ、見えない物を見せたのだろうか。私だけが夢を見たのでないことは、教室中の生徒達が狐に摘まれた顔で互いを見渡しているのでも分る。もしかしたらメスカリンの素にやられて、いつの間にかトリップ状態を満喫していたのだろうか、そんな思いさえ胸をよぎった。燃料を使い果たしたのか、先生の顔はすっかりいつもの色に戻っている。
 「さて、今のはトロイア戦争に勝利はしたものの海神ポセイダーオーンの怒りに触れ、10年もの間祖国のイタケに帰ることの出来なかったオデュッセウスの物語の一節です。」

ホメーロスの叙事詩

 先生は動揺する生徒達を楽しみながら、説明も加えず講義の続きを蕩々として語り出した。
 「さて、ホメーロスがこの叙事詩(エポス)を書き表したのは、紀元前8世紀のいつ頃か。イーリアスを踏まえている部分があるために、イーリアスよりも後のことだとされています。これらの叙事詩の中で、デーモドコスのような詩を歌う者達はアオイドス(歌い手)と呼ばれています。文字通り詩を歌う者達であり、更に楽器を手に持っていることから、安易に楽器を伴奏に爪弾き歌ったと考えたくなりますが、じっさい楽器がどのような形で歌い手の叙事詩朗唱に関わっていたかは分ったもんじゃあありません。そもそも、朗読と朗唱の境目は、ひどく曖昧なものです。例えば教会式典での朗唱には、一定の音高で朗読されている例がありますが、それは音楽なのでしょうか、それともただの言葉なのでしょうか。一歩進んで、言葉の最後を一音上げるか下げるかした場合はどうでしょう、どうです、いったいどれだけ旋律的になったら音楽なのですか。」先生は突然今まで考えたこともないような質問を投げかけたので、最初から静まりかえっていた教室は、下を向いた生徒達によって一層音を忘れてしまった。遠くで思い出したように風鈴がチンとなる。「おやおや、哀れ風鈴が涼風に吹かれて、そろそろ残暑の名残も長くないようです。」先生は唐突に日本人みたいな事を言うと、話を引き戻して後を続けた。「元々、詩とは或一定のリズムに則って語られる、叙事詩のような神々や英雄達の物語であり、また心の中の様々な魂の状態を感情に則って歌い表わすような叙情詩でありました。そのころの詩は書き表され、読まれるためのものではなく、言葉に表され、耳で聞くものでした。そして、簡単に理解できると思いますが、一定のリズムで、発音の高低に則って、あるいは一定の音高で唱えられる詩は、音楽と非常に近い関係にあります。あるいは、それはすでに音楽なのだと言ってもいいかもしれません。20世紀になってから、シェーンベルクが自ら発明したシュプレヒシュティンメの歌い方に気をよくして月に憑かれたピエロ状態に陥ってしまいましたが、それはただ単に旋律的にされてしまった詩を、本来の姿に近づけただけのことかもしれないのです。ギリシアの様々な詩の形式は、後々まで大きな影響を及ぼしましたが、その分類を見ていると、すでに音楽を分類しているような気持ちにさえなってくるのです。少し話が外れましたが、私が言いたいのは、ギリシアにおいて詩が音楽と近い関係にあったのではなく、本来詩というものは音楽と切っても切れない関係にあったものだと言うことです。特に音高ピッチで抑揚豊かに唱えられるような言語体系において、半ば語られるように朗唱される詩の部分と、有節的で完全に旋律的な歌の部分がいかに近い関係にあるかは、一度当時の吟遊詩人達の演奏を聴いた人達にとってはごく自然に理解できるはずです。」先生はまるで当時の演奏を直に聴いたことのあるようなこと言うと、ギリシアの舞踏について一言加えた。
 「ついでに言うならば、このような詩と音楽の関係と同じようなことが、舞踏についても言えるかもしれません。つまり詩がある程度の身ぶり手ぶりによってなされている時、それはすでに初歩的な創作舞踏なのかもしれないといったようにね。それが舞踏の開始だったとは言えませんが、ギリシアにおいて詩と舞踏と音楽が密接な関係にあったことは覚えておいてください。諸芸術の垣根を越えた総合芸術などと言う言葉がありますが、ギリシアにおいてはそれらの芸術は初めから一体になっていて、切り離すことが出来ませんでした。まあ、それは置いておいて、ホメーロスの叙事詩がどのようなリズムを持っていたかちょっと教えて差し上げましょう。」

叙事詩の形式とリズム

 「さて、ホメーロスの叙事詩の中に登場するアオイドス達は、元々4弦で後から7弦にまで拡大されたらしい、リラの前身のような楽器フォルミンクスを手に持ち、詩を歌っていました。実際先ほど私がやったように音楽に合わせて楽器が伴奏されていたのか、それとも楽器は合の手のような役割を担っていたのかは分りません。いずれ、デーモドコスの行ったような叙事詩のための時間は、食事の後に置かれていたようです。この叙事詩の形式を少し細かく見ていくと、叙事詩はまず詩のリズムによって規定されます。叙事詩の一行のリズムパターンは常に一定でした。それは、[長ー短ー短]を基礎として場合によっては[長ー長]に変えられた、長さは同じ音節の区切りを一番の基礎として、その音節リズムを6回繰り返して1行が閉じられるというものです。長短では面倒ですから、「タータタ」と「ターター」で表わすと、詩の一行は「タータタ、タータタ、タータタ、タータタ、タータタ、タータタ。」となり同時に好きなところを「ターター」に置き換えることも出来るわけです。ギリシア語は、今日ではすっかり英語のような音の強弱によるストレスアクセントに陥ってしまいましたが、当時はあなた方日本人の言葉のように音の高さによって強調がなされていました。しかもあなた方は一つの単語内に使う高さは高い低いの2種類ですが、ギリシア人達はもう一つ中の音があって、その中間音程ははっきり通過する場合もありますが、ポルタメントのように曖昧な経過音になっている場合もあります。さらに古代ギリシア語は同時に音の長い部分と短い部分によって言葉に強調部分を与える、長短アクセントでもありました。分かりやすいように日本語で言うならば、「すうからこすまあ」という単語が仮にあったとするならば、これは母音との兼ね合いから自然に「タータタタタター」というリズムを作り、同じ音高で強調アクセントがなければ、長く伸ばされた部分が強調されるわけです。ついでに言っておきますが、日本の皆さんのひらがな表記は必ずしも現実の発音を反映していません。この場合「スーカラコスマー」と記述する方が適切です。今日の日本語ではすっかり一音一音お優しく発音する世界でも一風変った話し言葉が島国よろしく使われていますが、もしかするとあなた方の発音はひらがなでご丁寧に一音一音表記しているうちに実際の発音が徹底的に飼い慣らされてしまったなれの果てなのかもしれませんね。強調と言葉の持つ音色、そして言葉の意味の関係は歌詞のあるすべての音楽に置いて重要な要因ですから、改めてアクセントと詩について軽く説明します。5秒待ちますからちゃんとノートに取るように。」
 5秒って、しゃべっている間に過ぎてしまうじゃないか。皆大あわてで、ノートに見出しを付けた。
 「まず、言葉のある部分の音量に変化を付けると、強く発音された部分が強調されて聞こえます。これが強弱アクセントで、英語などで特徴的なアクセントになります。次ぎに、全く強弱が無くても音の高さ自体が或部分だけ変化した場合、その部分が強調されたり、逆に軽くなったりします。これが音高アクセントですね。さらに今度は、音量も音高も一定のまま、母音との関係などから言葉の長く伸ばす部分と短い部分が区別されれば、長く伸ばす部分が強調されて聞こえるでしょう。これが長短アクセントです。私たちはそれぞれの言語について、1番目に付く特徴からアクセント定義をしていますが、実際はこの3つの要素はどの言語体系にも内包され、複雑に絡み合って独特のリズムとフレージングを生み出しているわけです。こうしてみると、音量、音高、長短リズム、そして言葉自体の響きの色彩、それらとは別次元の言葉自体の意味とその認知という様々な要素が融合して、高密度の芸術作品を形成しているのが詩というものなのだと言えるかも知れません。以上、あと1分12秒待ちますから、ノートをまとめてください。」
 短い出向猶予を貰って、私は記述に没頭した。何とか、ここまで書き記せた。見上げれば、ピアスはすでに脱落よろしく、手の皮むきをしている。そのうち、また先生に怒鳴られるんじゃないだろうか。
 「さあ、それでは今度は、叙事詩の定型「タータタ」だけで詩の出だしを定義して簡単な即興詩を書いてみましょう。」
 先生はそう言うと大きな声を出しながら、黒板に詩を書き始めた。しばらくチョークが立ち止まっていたかと思ったら、一気呵成に詩が誕生した。何が可笑しいのかと聞かれても困るのだが、皆つられてつい吹き出してしまった。先生は漲る自信でもう一度記述した1行を大きく発音してみせると、楽しそうに本題に入っていったのだ。
 「さて、ここに書き表したように、タータタのリズムだけでも簡単に即興詩を作ることが出来ますね。もう一度読んでみましょう。「教師の、情熱、高じて、あっしは、今日から、饒舌、高邁、講義だ。」こらこら、笑ってはいけません。先生は常にこのような精神を持って授業に当たっているのですから。この、2拍子系のリズムを使って長い詩を書けば、その詩は「タータタ」を基礎細胞として、4×4の2つのフレーズによって一行が形成されるという形式で書かれたことになります。さらにこの場合内容が詩のレベルに達していないという落ちを除けば、前半の単語の前半「きょう」「じょう」「こう」が後半部分に対して韻を踏んで、さらに最後の「こう」が2回繰り返されて強調されているわけです。どうです、実は簡単なものでしょう。難しいのは形式の中で芸術的作品を語ることで、形式そのものではないのですね。ついでにもう一度言っておきますが、実際の発音は「キョーシノ、ジョーネツ、コージテ、アッシワ」のようになります。さて、ギリシアに話を戻して今度はホメーロスのイーリアスを見てみましょう。この物語は、トロイアの都イーリオスに住まう王子パリスによって、絶世の妻ヘレネーを奪われた、寝取られの夫メネラオスの怒りに始まる、トロイア遠征の10年戦争で、ギリシア連合軍がイーリオスを攻めに攻め遂に陥落させる直前の、まさに10年目のある日に開始します。妾を奪った総大将のアガメムノーンに対して、史上最強のアキレーウスが参戦を拒否、内部分裂の弱体化を突かれたギリシア軍は、イーリオス軍の勇将ヘクトールに追いつめられ、ついには風前の灯火状態を満喫するという壮大なストーリーで、アキレーウスが親友のパトロクロスの死をきっかけにギリシア軍に戻り、ついにヘクトールを討ち果たすクライマックスは圧巻としか言いようがありません。先生も7歳の頃、この激情の叙事詩にすっかり心を奪われました。私たちは、休み時間になる度に、誰が寝取られの夫を演じるかで、壮絶な殴り合いまで繰り広げたものです。なぜなら、絶世のヘレネーを演じるのはクラス一の美少女トパリナスさんだったからです。」・・・先生、冗談の積もりかもしれないが、なんで7歳児並の子どもが、ギリシア人でもないのにイーリオスの話に夢中になるんだ。
 「では、妖精さんに全面的に協力して貰ってイーリアスの冒頭を黒板に記します。精霊よ怒り給うな。」
 先生は謎の言葉を加えて、なにやら呪文のようなものを黒板に書き始めた。何か降臨の儀式でも始まるのだろうかと思ったら、それがイーリアスの冒頭のギリシア語そのものだったのだ。 「ここに記した、メーニン(怒りを)、アエイデ(歌え)、テアー(女神よ)、ペーレーイアドー(ペーレウス王の子)、アキレーオス(アキレウスの)の6つの言葉で先ほど述べた叙事詩の1行が形成されます。もちろんこれではアエイデの部分で「タタータ」のリズムが出来てしまい「ターターまたはタータタ」のリズムから外れてしまいます。ですから、冒頭の2つの単語は「an eraser」を「兄レーサー」と続けて発音するのと同じように、「メーニナエイデ」と繋げた発音に変えてあります。同時に単語を途中で旨く分割すると、「メーニナ、エイデテ、アーペー、レーイア、ドーアキ、レーオス」となって見事「ターター、タータタ」のリズムだけで一行が完成するわけです。日本語でも「そんじょそこいらの、おとぎ話しでは、ないけれど。」という場合「そんじょそ、こいらの、おとぎば、なしでは、ないけれど。」とリズムを変えて歌っても意味は通じるでしょう。単語の分割法は、単語自体を纏めて聞くという人間の本質を利用した朗誦詩の常套手段の一つです。しかしギリシア語は名詞や形容詞の格による変化が大きいので、格が変った途端にもう同じパターンは使えない。デーモドコスのような詩人達はすべてを暗記して歌っていたのではなく、かなりの即興を交えて話を進めていったと思われますが、このような格の変化に対応しながら即興で詩を生み出すことなど出来るのでしょうか。ここでホメーロスの2つの叙事詩の中に現れる数多くのパターン化された言葉や句がクローズアップされてくるわけです。つまり、先ほどの「ペーレウス王の子アキレウス」のように人物や神々を表わすためにあらかじめ形容詞、形容詞のまとまった句を覚えておき、その登場人物が使われる場面ではストックされたそれらの句と合わさった形で使用すると、叙事詩のリズムは即興でも保たれるわけです。これには「ラーエルテスの子、ゼウスの後裔、策略に富む、オデュッセウス」や「ゲレーニアの戦車をかけるネストール」など数え切れないほどの例があり、格が変った場合には別の句が用意されているわけです。特に主要な神や登場人物には何十もの句がストックされていて、格の変化だけでなくマンネリ化を防ぐためにも使い替えが行われました。もちろんこれは初歩の初歩で、こうした詩のリズムを満たした定型句のストックには、戦闘を表わす数多くの句や、日常生活の様々な場面に使用する句など数多くの定型句が含まれ。詩人達は、その組み合わせによって立ち止まることなく詩の形式に従って叙事詩を語ることが出来ました。この句の中にはホメーロスの時代すでに意味の分らなくなってしまった言葉もありますから、ホメーロスはまさに、遠くミケーナイ文明にまでさかのぼれるかもしれない叙事詩詩人達の長い間に培ってきた伝統を統合再編集して著述した、再構築の天才だったわけです。ちょうど紀元前8世紀頃生まれたアルファベットが、この誕生に手をかしたと言われます。この文字は、シナイ半島で原型の誕生した、海上貿易民族フェニキア人達の使っていたフェニキア文字を改良したもですが、一節にはアルファベットの誕生は詩を書き表すためだったとも言われています。ちょうどエジプトからのパピルスの輸入もあってギリシアは、書き記すことによってさらなる文化向上に到達する時代に入っていきます。この文字の誕生が、元々詩人達によって部分部分が朗唱され、その中でおそらくすぐれた表現や、比喩が昇華して歌い継がれていったイーリアスに関する物語の一部を、ホメーロスが改めて二つの物語に編纂する手助けとなったのかもしれませんね。もっとも、「イーリアス」と「オデュッセイア」は別々の時期に別の作者の手によるものではないかともされいるから大変です。ホメーロス問題と呼ばれる、19世紀に生まれ今日でも完全に意見の一致を見ない問題で、古典文学研究者にとっては重要なことなのですが、ここは幸い音楽史の授業ですから、そうした問題はゆとりを持って棚上げにしておいて構いません。ただし付け加えておきますが、今日伝わるホメーロスの叙事詩は、決してホメーロスが書き残したものそのままではなく、アテーナイの僣主(せんしゅ)ペイシストラトスがバラバラになって残っていたホメーロスの詩を再編纂させたもので、彼はアテーナイの祭儀に、ホメーロスの朗読を競技として取り入れたほどです。さてさて、何でこんなに細かく説明してしまうか気になったでしょう。実は、この2つの叙事詩は単なる読み物としても最高級の文学作品なので、総合教育を目指す先生は例外的にレポートの提出などを予定しているわけですね。皆さん、これでまたお楽しみが増えましたね。」
 音楽だけでもてんこ盛りなのに、先生は他のジャンルにまでレポートの提出を求めるらしい。皆さん静粛に先生の言葉を受け止めたが、その内面ではいったいどのような激情が渦巻いていることかと思うとつい楽しくなってしまった。私は一風変った文学少年だったから、実を言うと、先生のように寝取られの夫をめぐって殴り合いを繰り広げたこともあったのだ。その時のヘレネー役のマドンナは「春野さん」で、皆は「はるちゃん、はるちゃん」と読んでいた。今思えば、何故皆パリスではなく、メネラーオス役をやりたかったのか、さっぱり分らないが、そのはるちゃんも今は旅館の女将さんになるべく、幻染館で働いているらしい。

叙事詩時代の音楽に付いて

 「ところで叙事詩の朗唱における、肝心の音楽とはどのようなものだったのでしょうか。先ほど述べましたが、古代ギリシアの発音は高低アクセントがあり、それも高い低いの間に中間音程を持つほど旋律的でした。そして同時に詩のリズムによって旋律のリズムはあらかじめ定まっています。簡単に言ってしまえば、リズムに乗って詩を歌うと自動的に簡単な旋律が出来上がります。しかし、そこから先はまるで分っていません。実際に旋律的に歌われ、フォルミンクスの伴奏が付き添っていたのか、それとも旋律的な朗読と刺身のツマのような楽器による効果音や合の手が入っただけなのかは、私にもよく分からないのです。さらにホメーロスの活躍した時代、叙事詩を行う詩人達は、詩を歌うアオイドスではなくラプソードスと呼ばれ、竪琴の代わりにラブドス、つまり杖を持って叙事詩を披露していたという説もあり、叙事詩の扱っているはるか昔には弾き語りだった朗唱が、ホメーロスの時代には仕草を交えながらの語り物と変っていたとも言われています。まあ、分らないことは放っておいて、叙事詩の中に出てくる楽器について見てみましょう。すでに後にギリシアで活躍する主要な楽器は、ホメーロスの書き記した時代には姿を見せています。アポローンやデーモドコスの奏でる楽器はフォルミンクスと記されますが、それを演奏する場合に「フォルミンクスをキタリスして」と言うような言葉が出てくることから、新しい楽器キタラーの存在が見え隠れし、アキレーウスの盾にはアウロス奏者が描かれ、重要なキタラーとアウロスの存在が明らかになります。まあ、キタラーは出発しばかりと言った所でしょうか。一方、パンの笛シュリンクスの名前も出てきますし、大音響の譬えには、トランペット型の楽器サルピンクスがあてられました。・・・・にもかかわらず。」先生は辺りを見渡した。「その音楽自体は、すっかり行方が知れないのです。」
  先生はここにきてようやく疲れが見えてきたようで、休憩時間にすることになった。生徒達は早速先ほど起こった謎の怪奇現象についてささやきあったが、不思議なことに出演していたはずのノッポに理由を尋ねるものはいなかった。私は、ちょっと屋上で秋の大気に眠気を任せるという幸せな休憩方法を試みることにした。寝過ごさないように携帯にアラームを入れておこう。

2004/6/1
2004/6/18改訂

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