古代ギリシア音楽と理論

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抒情詩人と大合唱の時代

 「この2大叙事詩が誕生した紀元前8世紀のギリシアは、人口が急増し、植民活動が活発化し、諸外国の文化・学問取り込み運動とその消化が一気に進められ、それぞれのポリスがはっきりと形作られていく大躍進の時代でした。おそらくポリス内で行う祭儀の整備と、それに付随する音楽活動、そして共同体意識を高めるのに重要な役割を担った競演会などが急速に整備されていったのです。そうした発展の中で、叙事詩は次第に下火となり、ヘーシオドスがBC700前後に創作した叙事詩「神統記」や「仕事と日々」などを境にして、叙情詩と合唱詩が盛んに作られるようになっていくのです。そして詩が制作されること、それは音楽が奏でられることに他なりませんでした。ホメーロスの叙事詩において歌と伴奏の関係は霧の中でしたが、この時代の詩人達にとって叙情詩を書くことは、それを楽器による伴奏で自ら歌い上げることを意味しました。また、合唱の詩を書くことは、同時に曲も作成し、合唱隊の舞踏の振り付けから、歌の練習まですべてをこなすことを意味したのです。ちょうど舞台の演出家が自ら書き上げた作品を上演させるようなことが、当たり前に行われていたわけですね。当時の詩はまさにパフォーマンスだったわけです。そして、それは時代の要求でもありました。これまで宗教祭儀の中で行われていた音楽と舞踏に、競技会という新たな舞台が与えられたのです。すでにホメーロスの叙事詩の中に紹介されているキタラー弾き歌いのタミュリスは、あらゆる音楽競演に勝利した挙句、「ミューズよりも私の方がすんばらしい。」と叫び、技芸と視力を神々から奪い取られ、すっかり意気消沈してしまったといいます。この逸話から、すでに音楽共演の下地は出来ていたようですが、それがポリス内での公の祭典として運動競技と共に取り上げられるようになるのはこの頃になってからです。先ほどのヘーシオドスも、BC750頃にカルキスでの音楽競技において例えようもないほど圧倒的に勝利してしまった自分のことを、自ら叙事詩の中で歌い上げていますが、こうした音楽競技の最初の中心地はスパルタでした。ここではキタラー伴奏による讃歌(キタローディア)が、音楽競技会の種目にされていたようです。」  先生がここまで話すと、「スパルタ」と言う珍しく習ったことのある言葉が出てきたので、つい新しく中期講義に顔を見せた肌色の濃い大きめの男が「スパルタ教育」と呟いた。先生はちょうど良い合の手を受け止めて、更にテンポを生き生きとさせながら話を進めるのである。
 「君、スパルタ教育止まりでは、ギリシアもヘチマもあったもんじゃありません。いいですか、当時アテーナイよりもなんぼか早く発展を遂げたスパルタは、紀元前700頃には近隣のメッシーニアまでも併合し、その地の農作業民達をヘイロータイという奴隷に転落させて収入を増やしながら、紀元前7世紀にはギリシアで1番の文化都市にまでのし上がりました。この時期ギリシアは大植民活動海外貿易時代に突入したのですが、豊富な資源と共に未曾有の東方文明が流入してスパルタにも流入したわけです。そのころのスパルタで行われていた、カルネイア祭とギムノパイディアイ祭という大きな祭儀がありました。これらの祭りには、ギリシア中のポリスから人々が集まって来ましたが、ここでの祭儀の音楽は、紀元前7世紀の始めには完全に音楽競技化していたようです。東側ギリシアのレスボス島生まれのテルパンドロスは、670年代にカルネイア祭音楽競技のキタラー伴奏による歌(キタローディア)による最初の勝利者だとされていますし、サルデスからやってきたアルクマーンも、やはり紀元前7世紀にスパルタで活躍しています。幸い今日にまで比較的多くの部分が残っているアルクマーンの合唱のための「乙女の歌(パルテイネイオン)」では、スパルタ王ヒッポコオーンの息子殺しの神話が途中で中断され、替わりに乙女達が自らの合唱を讃え始めるという、開けっぴろげの音楽競技向けの詩を見て取ることが出来るのです。そしてこの合唱は、おそらくアルクマーン自身のキタラー伴奏によって踊り歌われたことでしょう。こうした合唱の歌は、後に悲劇のコロスに取り入れられることになりますが、これは完全に舞踏と一体化した音楽でした。それぞれ何10人かの隊が2つに分かれて、一方が輪舞すると、他方がそれに対して輪舞するという形式で行われ、詩もそれに合わせて、初めの輪舞には「ストロペー(廻り)」、それに対応してもう一方が歌い踊る輪舞は「アンティストロペー」、さらにそれ以外に「エポーデー」と呼ばれる部分が密接に絡み合い、互いに渡り合う作詩法になっています。こうした合唱の作者としてはアルクマーンの次ぎに、ステーシコロスやイービュコスの名前が挙げられますが、ここでは放っておいてスパルタのその後に話を続けましょう。スパルタはやがて、BC640頃に併合したはずのメッシーニアの隷属民ヘイロータイらが大反乱を起こして、大コンチェルトを奏でてしまいました。これを何とか平定した後のBC600より少し前の平和な時代に、イタリア半島の植民ポリス出身のクセノクリトスや、クレータ島からやってきたタレータース、さらにアルゴス出身のサカダースなどが音楽的にすぐれた名声を獲得しました。ポリス市民の10倍もの奴隷達を持つスパルタは、この直後急速に軍事国家の道を歩み始めることになりますが、最後の文化の華が変化するスパルタに短い春を奏でたわけです。さて、今名前の出たサカダースは、アポローン信託でお馴染みのデルポイの祭儀、つまりBC586年のピューティア祭でも名前が知られています。この祭りで彼はアウロス独奏(アウリスティケー)の競技に参加し、アポッローンと龍ピュートーンの戦いをあまりにも見事に描写してしまったので、彼の奏でた曲は「ピューティアのノモス」と呼ばれることになりました。ノモスとは法とか秩序といった意味で、同時に曲の旋律の型を表わす言葉でもありました。残念ながら詳細は不明ですが、先ほどのテルパンドロスもキタラー伴奏歌(キタローディア)を7つのノモスに分類したとされています。だんだん音楽の理論的なものが顔を出し始めましたが、せっかくノモスが出てきたのでプラトーンの逸話を先に教えて差し上げましょう。」

「プラトーンは常日頃音楽の人に及ぼす影響、つまり音楽が人の性格(エートス)に作用して感情や振る舞いを変える力に対して考えていましたが、いつものようにギリシアの様々な旋律型を定義した後で、ドーリス的な旋律のノモスとフリュギアー的な旋律のノモス以外は有害だから抹消してしまえと考えていると、知人が走ってきて「プラトーンよ、国の法律がまた変るかも知れないのだ」と重大事件を告げようとしました。しかし、皆の歌う音楽がエートスに正しく働きかけるものなら、きっと彼らは皆正しい法律(ノモス)を作るだろうと考えたプラトーンは、その友人に対してこう叫んだと言われています。「私に国のノモス(歌)を作らせてくれるならば、誰がノモス(法)を作ろうと構わない。」このとき以来、「国のノモス作れるならば」という言葉は、ギリシア全土で最高の賛辞を表す言葉として広く受け入れられる格言となっていったのです。いや、そんな格言は無かったかな。あはは。」
 先生は、どこまでが真実なのか、ノートの記述に困るようないい加減な笑いを交えて、話を終わらせてしまった。どうせ、大した話ではないのだろう。

 「さて、テルパンドロスの出身地方でもあるイオーニア地方、つまり東側ギリシアにおいては、楽器伴奏で詩を独唱する叙情詩の詩人達が活躍を始めていました。この叙情詩を表わす言葉がリリックですでにリラを含んでいます。こうした叙情詩は、詩自体が有節歌曲の特徴を持っていますから、リラなどの弦楽器を爪弾きながらメロディーを持って歌われたことでしょう。なぜこの地でこのような叙情詩が広まったのかと言いますと、もともとこのイオーニア地域は東方の非ギリシア世界に脅かされる一方で、先進文明がいち早く流れ込み、ちょうど西のスパルタのような文化の集積地となっていました。例えば偉大な哲学者達の開始を告げる自然観察的哲学者のタレス(BC640頃生まれ?)が、BC585年の日食を見事予言したのもイオーニア地方においてですし、タレスに続くアナクシマンドロス、アナクシメネスの哲学者達、下って活躍するピュータゴラース達自然哲学者も皆イオーニア出身なのです。そもそもギリシア詩の開始を告げるホメーロスが活躍したのも、実はこのイオーニア地方でしたが、東ギリシアより自然豊かで自らの人生を謳歌するような土壌が、新しい詩人達を育んだのかもしれません。そんな叙情詩人として私たちは、テルパンドロスがスパルタに渡って活躍していた同じ頃、アルキロコスというイオーニア詩人の作品を目にすることが出来ます。彼はホメーロスに対して叙情詩の創始者とまで讃えられた詩人で、その後彼に続いて数多くの詩人達の名前が残されることになります。特に知られた詩人としては、アルカイオスとサッポーが居ますね。2人は友人同士で、タレータースやサカダースとほぼ同じ頃、ほぼ600年頃に活躍しています。君たちも女流詩人のサッポーが崖から転げ落ちたという無意味な逸話は知っているでしょう。ですが私は彼らの詩よりも、アナクレオーンの酒の詩を教えて差し上げたい。どうですか、私が今から歌って上げても良いのですが・・・。」
 「え、遠慮します。」
 お願いしますと言っておけばよいものを、ついうっかり最前列の新入りが何も知らずにお断りしてしまったので、打ちのめされた先生はすっぽりがっかりしてしまった。
「いいです。もう、教えて差し上げません。」先生はほとんど泣き笑え状態である。私たちもおかげでアナクレオーンの詩を生で聞く機会を失ってしまった。おそらくギリシア語で当時の楽器を持ちだして演奏してくれたことだろうに。もうこうなったら、あの新入りには一人カゴメごっこをするしかない、私は前に座るピアスとささやきあった。先生は悲しみこらえて先を続ける。
「さて、彼らのような詩人達は各地を渡り歩き、ちょうどルネサンス時代のメディチ家のような、半ば民衆の立場に依存し独裁的政治を行う僭主(せんしゅ)たちをパトロンとして、己の技芸を披露していました。この時代は、対外貿易の活発化などで貴族達の没落と市民達の生活向上が一遍に沸け出でて、両者が対立する隙間を縫うように僭主政治が誕生した興味深い時代で、僭主は名家貴族でありながら一般市民の立場に立ち、彼らの要求することを己の利害に反しない限り取りまとめるリーダーとして、また貴族層と一般市民層の仲立ちをする指導者として、実際上の独裁体制を築き上げたのです。これは多少の時間のずれを持って様々なポリスに現れました。彼らはポリスの愛市心を高め、自らがもっとも愛市心を持った指導者であることをアピールし、民衆に一目で分る成果を残しておく必要もあって、急速にポリス内での祭事を整え始めたわけです。こうして様々な祭りと、その中で行われる運動競技や音楽競技が一層整備され、急速に発展していきました。こうした僭主たちの時代、各地の宮廷を渡り歩き、また各ポリスの音楽競技で活躍をした偉大な詩人達の最後に、シモーニデース先生と、その甥のバキュリデース、詩人の中の詩人ピンダロス(BC518~440頃)の3人が登場します。彼らは宮廷や、ポリスの音楽競演で叙情詩を歌い、数多くの合唱曲を残し、またギリシア全土から人々が集うオリュムピア、デルフォイ、ネメア、イストモスの4大競技のための祝勝合唱曲なども制作しました。そういえば、Tokino Sirenという人が作成した「ミラの石」を巡るRPGにおいては、バキュリデースを言いようもないほどに打ち負かしたピンダロスが、カリュドーンでアイスキュロスと歌を競い合う「歌競(うたくら)」の場面が出てきますが、ピンダロスとバキュリデースは実際にシチリアにおいて音楽競演を行っています。もっとも、同時代人のアイスキュロスとピンダロスが実際に出会うのはカリュドーンではなく、おそらくペルシア戦争よりも後のことかもしれません。Tokino Sirenはもっと歴史を勉強した方がよいようですね。いずれ、彼らの後、合唱曲の音楽的な焦点はアテーナイで盛んになった悲劇に道を譲り、さらに紀元前4世紀になると輝かしい散文の時代に突入、叙事詩や叙情詩の輝かしい時代は遠く過ぎ去ってしまうことになります。」
 先生がそこまで講義を進めると、先ほど「スパルタ教育」と言った肌色の濃い大きめの男が、お気に入りの単語を見つけたように「うたくら」と呟いた。先生が聞きつけて「どうしました、歌競について何か質問でもあるのですか。」と言えば、何だかどぎまぎしていっこうに答えられない。呆れた眼鏡娘が後ろを振り向いて、「しっかりしたらどう。あなたはよっぽど意気地のない方ですね。」と言ったので、不意を突かれた教室では大爆笑が沸き起こった。私はこの呟き男を「三四郎」と呼ぶことにした。

悲劇の誕生

 「さて、そろそろギリシアの文化がアテーナイを中心に語られる時代に入ってきました。紀元前6世紀に入る頃にはアテーナイにおいても、貴族と一般市民の対立が激しくなっていましたが、BC590の頃に偉大な哲学者であるソロンが改革を行って、貴族以外にも収入に応じて政治に参加できる民主制を再編しました。しかし結局対立は残り、やがてその間隙を縫ってあっぱれなまでに僭主の時代を迎えることになったのです。その時僭主のなかの僭主として、ロレンツォ・デ・メディチと互角に渡り合えるほどの素養を示した、才人ペイシストラトス(政権BC561年-身罷りBC527年)がアテーナイを納めたのは幸せでした。彼によってアテーナイの祭儀が一層完備され、彼の政治的決断によってアテーナイに初めて悲劇の上演が取り入れられることになる訳です。彼はポリスの神である「アテーナー」を讃えるための「パンアテナイア祭」を拡張して、4年ごとの「大パンアテナイア祭」を導入。その4年ごとの祭りに、各種の運動競技と音楽競技を取り入れました。ここでの音楽競技を、音楽種目の紹介がてらに述べますから、はい、皆さんはノートを開いて、記入してくださいね。1分間だけ待ちましょう。」
 額に汗を流しながら、全員一斉に筆記用具を握りしめ、迫り来る先生の猛威に備えた。先生は一分きっかりに話を再開する。
 「まずは早くからスパルタで音楽競技として取り入れられていた、キタローディア(キタラー伴走付きの合唱)と、シキュオンというポリスで発展したらしい非常に新しいキタリスティケー(キタラー独奏)があげられます。そして、もう一つの重要な楽器アウロスによるアウローディア(アウロスの伴奏付きの合唱)と、先ほどデルポイの祭儀でのサカダースの例を見たアウレーティケー(アウロス独奏)が取り入れられました。アウロスは、スパルタでは早くから重要な楽器であり、アリストテレスが「スパルタの皆さん子どもからしてアウロス奏者」と叫んでしまうほどでしたが、音楽競技に取り入れられる例は紀元前6世紀に入ってからです。しかし、この楽器は早くからディオニュソースの楽器として、各地で行われたディオニュソース祭で彼を讃える合唱讃歌「ディチュランボス」の伴奏楽器として、すでに盛んに奏されていました。さらにこの楽器は専門家の扱う高度な楽器として、すでに一般市民達の習得するリラ伴奏の歌とは区別されていましたし、饗宴シュンポジオーンに華を咲かせる夜の楽器としても活躍していたのです。ですから、大パンアテナイア祭で競演された独奏の音楽は決して素朴なものではなく、さらなる技巧に磨きを掛けるアウロス奏者も、競技とアウロスの独奏に触発されたキタラー奏者も、相当高度な技巧を身につけていたと考えることが出来ます。ああ、そのころの音楽が聴けたなら、どんなに楽しいことか。
 また、この祭りには音楽伴奏なしでホメーロスの叙事詩を朗読する競演会が取り入れられたことも見過ごせません。前に述べたように、この頃になってホメーロスの叙事詩はもう一度完全な形に編纂されたのです。すっかり整えられた壮大な祭りにつられて、ギリシア中の運動競技者や音楽家、見物客が、アテーナイに集まって来る。そして皆さん、今日もその時がやって参りました。」
先生はそう言うと番組で年号を見せるような遣り口で、黒板に「BC534年のデュオニューシア祭ーー何時さ呼んでもディオニューソス」と書き表した。
 「ディオニューソスを祭るアテーナイの祭典において、ペイシストラトスによって初めて悲劇の共演が取り入れられ、テスピスが第一回目の優勝者に輝いた瞬間でした。もともとは農村などでのディオニューソスを讃える祭儀での仮面を取り付けた黙劇(山羊の姿の行事の例は?)や、すでに合唱詩のジャンルとしてすっかり定着していたディオニューソス讃歌(ディーテュランボス)など、ディオニューソスと彼の楽器であるアウロスに関わりのある様々な要素が元になって、仮面の役者と合唱隊コロスが語り(ダイアローグ)と合唱隊の歌を絡めながら劇を進めていく形式が確立していったのでしょう。ちょうどペイシストラトスは、自ら築きあげた大パンアテナイア祭に匹敵するディオニューソスの祭りを、すでにあったレーナイア祭やアンテステーリア祭とは別に設けようと、村のディオニューソス神殿の神体をアテーナイに移動しました。そして大ディオニューソス祭をポリスの祭りにすべく、宗教的意味合いよりもポリス共同体の出し物としての意味で共演種目としてこの悲劇を取り入れたわけです。この悲劇は、ペルシア戦争後のアテーナイ、更にギリシア全体の輝くべき種目へとのし上がっていくことになりました。それでは皆さん、今回もおつきあい下さいまして、まことにありがとうございました。それでは残された時間を使いまして、アテーナイとギリシア全土を震撼させたペルシア戦争の結果と、悲劇の発展を見ながら、本日の午前の授業を終わりにしたいと思います。」
 先生はどっぷり浸かった日本の良心的番組に思いをはせながら、ピアノの前に座ると、とうとう番組のエンディングテーマを弾きながら番組を真似るように弾き語りを始めてしまった。
 「ペイシストラトスの死後、アテーナイは彼の息子達を政権から追い出し、様々な紆余曲折を経て、ついに一般市民による共和制を獲得します。しかし、沸き立つ彼らの前に立ちはだかったのは、東方オリエント地方を広く平定したペルシア帝国の進出でした。BC500年、すでに配下に納めていたイオーニア地方の反乱を鎮圧したペルシアは、BC492年になると、トラーキア地方を奪いとりギリシアに進軍を開始しました。もはやこれまで、あれほどの大軍に立ち向かうだけの兵力がどこにあるのか。風前の灯火にさらされたギリシア人達の神への祈りが通じたのでしょうか、このときちょうど運良く激しい嵐が起こり、ペルシア軍は一時撤退を余儀なくされます。そして、BC490年の再進出をマラトンの戦いで辛うじて食い止めたアテーナイの軍隊は、BC480年に更に迫り来るペルシア大軍に対抗するために、それぞれのポリスが団結し兵を出し合うギリシア連合軍に発展、サラミスの開戦とプラタイアイの戦いによって、ついに完全にペルシアを撃退することになります。これによってギリシア全土の市民に、今までにない、新しい感情が生まれました、これこそギリシア全体を一つの纏まりと考える、愛国心に他なりませんでした。そして皆様、この戦争には、一人の青年が若き血をたぎらせペルシア兵をなぎ倒していたのです。彼こそはアイスキュロス(BC525-456)、先勝に沸き立つ輝かしいアテーナイの悲劇共演において、その後何度も勝利お納め、その悲劇の形式を改変し確立したとされるアイスキュロスだったのです。その後、ソフォクレース(BC497頃-406) 、エウリーピデース(BC485/4-406)、喜劇のアリストパネース(BC446-385)らを輩出するアテーナイの劇の時代は、こうして開始を告げたのです。ちゃちゃちゃーぁ、ちゃっちゃちゃーぁ、ちゃーちゃー、ちゃちゃちゃーぁ。」
先生はとうとう自分で歌い出してエンディングを迎えてしまった。だんだんこなれてきた生徒達は、次回予告を続ける先生を置き去りにして各自昼食に向かうことにした。

悲劇の形式ー午後の授業

 「さて最初はディチュランボスと同じ50人の合唱隊とそれに掛け合う一人の俳優によってなされていたとされる悲劇ですが、そのころの悲劇はまだ舞踏合唱曲に俳優の劇が付随しているようなものでした。輝かしいペリクレス(BC495-439)の時代を飾る紀元前5世紀の悲劇の時代を実際に生み出したのは、アイスキュロスだとされています。劇作家であり合唱隊の歌唱と舞踏を指揮する演出家でもあった彼は、また俳優として自作を演じ、その間に悲劇の形式を確立させていきました。合唱隊の人数を俳優との釣り合いを考え12人に再編し、俳優の数を2人に増やし、一説によると仮面や独特の衣装も彼によって定められたとまで言われています。この合唱隊の人数と俳優の人数はソポクレスの時に合唱15人と役者3人になりますが、それが悲劇改変の最後形となりました。では、アテーナイの3月に行われる大ディオニューシア祭で行われていた悲劇の上演方法などを見てみましょうか。」
 先生がそう言うと、たちまち目の前には壮大な野外劇場が広がり、遙か下の方に平らにならされた舞台が現れた。しまった、またしてもメスカリンにやられたのだ。先生はいったいどうやって私たちを呪術的なものに取り込んだのだろうか。気が付けば私たちは野外劇場に腰掛け、中央下の方に丸く設けられた踊り場オーケストラーを見ながら、劇の始まるのを待ちわびているのだった。やがて仮面を付けた男が一人現れた、どうやら劇が始まるようである。
 「皆さん、どうです、離れているのに非常に良く声が通るでしょう。これが円形野外劇場の最大の売りなのです。今からコインを落としますから、その音を確かめてください。」
 なんだ、あれは先生が仮面を被った姿だったのだ。先生は手先からコインを落とすと、コインの落ちて跳ねた時の響きが、驚くほど鮮明に私たちの耳にまで到達した。先生はあそこから悲劇の説明を行うつもりらしい。
 「今先生がたった一人で語っていますが。これを悲劇だとすると、この部分は役者が独白によって劇のシチュエイションを語るプロローグになります。このプロローグの後、いよいよ合唱隊コロスが皆さんの前に姿を現すわけです。あなた方はその観客席、テアトロンから私の講義を聴いていてください。」
 先生は手を前にさしのべ、不思議なジェスチャーをすると、天幕から屈強な男達が登場した。あれは、午前中にデーモドコスの廻りで踊っていたエキストラ達じゃないか。エキストラ達は先生と同じ舞台に立つと綺麗に並んだ。先生が語り始める。
「これはこれはコロスの皆さん、今日はお日柄もよく大変結構な上演日より。どうです、今日は一つ趣向を変えて、本来ならば神話の中から上演種目を選ぶところを、悲劇の形式をざっと紹介するために、特別短い劇を仕立て上げてみました。」
コロスが答える。
「ディダスカロスよ、あなたは劇の詩から音楽から踊りから、私たちの指導すべてをこなし、自らも役者としてそのように舞台に立っていることから、ディダスカロス、つまり先生と呼ばれるわけだが。何で私たちが、あなたの言葉に逆らうだろう。ここは一つコロスの調和に掛けても、あなたの期待に応えようではないか。」
先生「それはありがたい、コロスの皆さん。所で皆さん、このように俳優と合唱は同じ場所で歌って良いのだろうか。」
コロス「何を言うのか、ディダスカロス。あなたは、ずっと後になって我々コロスが、俳優より下の段に蹴落とされた後のことを言っているのか。それはずっと時代が下って、紀元前4世紀に入ってからのこと。後世に名を残す偉大な悲劇の作者達は、あなたを含めて、皆このように、同じ舞台で渡り合ったのだ。」
先生「なるほど分かりやすい説明、よほど良い指導者に導かれているのだろう。あなた達は幸せものだ。」
コロス「それはどうか分らないが、私たちは決してプロの踊り手達ではないのだ。悲劇の時代以前の合唱の時代ほどアマチュアではないにしろ、私たちが一般市民から編成されたことを忘れて貰っては困る。」
先生「全くその通りでした。ではどうか、上演の仕組みを教えてください。あなた達の歌と踊りによって。」
そう言うと先生は後ろに交代し、代わって合唱隊が前に進み出た。彼らはやがて、アウロスの伴奏に乗せて歌い踊り出した。
「我らはコロス、合唱隊
天幕から現われて、スケーネーから現われて
登場するよ踊り場に
登場するのがパロドスなら、登場の道もパロドスだ
俳優の目と同じ位置、オルケーストラで繰り広げる
コロス達のミュージカル、歌って踊るよ終わりまで。」
合唱隊は完全に節を持った旋律的な音楽を奏で始めたのである。
「上演希望するものは、手続きしなさい公的機関
あなたで一日潰すから、用意しなさい4つの劇
すなわち悲劇が3組と、短いサテュロス劇一つ
あなただけで劇場を、日が落ちる前まで使い切る
勝負の行方はごく簡単、3日で3人競い合い
各部族の代表が、10人集まり投票し
優勝の栄光を決めるのだ


費用の方は気にするな、衣装も編成も練習も
合唱隊の選抜も、莫大な金の負担には
費用を任されるお金持ち、裕福なもの捕まえて
公的費用をになわせる、これがすなわちコレーゴス


後になったら専門家、現れ出たる俳優も
ポリスの方で金を出し、お前に負担は掛けないつもり
その代わりお前の報償は、優勝してもツタの葉で
出来た冠被せたら、それで終わりの三叉の矛に
優勝賞品貰うのは、コレーゴスだが気にするな」


歌が終わると先生が前の方に飛び出てきた。
「さて今のように、合唱隊だけが、また場合によっては、ほとんど合唱隊だけが、有節的な合唱と舞踏を繰り広げる部分を、スタシモンといいます。一方例えば先生の言葉を、合唱隊に渡して。」
コロス「それを私たちが引き継いで、互いの言葉のやりとりで、物語を進める会話の部分。これをすなわちエペイソディオン。更に加えて2重唱のように。」
先生「こうして歌うように俳優と。」
コロス「合唱隊が言葉を繋ぐ。」
先生「密集した部分をコンモスと。」
コロス「読んでみたりする今日この頃。」
先生「いつまで歌おか楽しい授業。」
コロス「響く歌声天まで抜けて。」
先生「奏でていたいなアウロスにのせ。」
コロス「悲しい気持ちに別れを告げて。」
先生「高ぶる気持ちに思いは溢れ。」
コロス「先生ついには踊り出す。」
先生「それにつられて合唱も。」
コロス「踊ってみよう。どうせなら。」
先生「こんな遣り方あったのか。」
コロス「どうせ誰にも分らない。」
先生「例え真実分っても。」
コロス「その時ゃその時、書き直せ。」
先生「先生だんだん図に乗って。」
コロス「止まることを知りません。」
先生「いっそこのままどこまでも、続けていたい俳優を。」
コロス「駄目だ先生、あの向こう。生徒達を忘れるな。」
先生「そうです私は、講義の途中。そろそろ終わろうコンモスを。」
合唱隊は大きく旋回して後ろに移動した。先生の独白部に入ったようだ。
 「さて、このようにして。エペイソディオンの部分と、合唱隊によるスタシモンの部分。その間にコンモスを織り込んで劇を進めていくのが、悲劇の遣り方でした。この形式はさらにソポクレースの時代。彼が俳優を3人にすることによって、急速に俳優同士の対話部分が拡大され、コロスと俳優の悲劇全体での比重関係が、完全に書き換わってしまいます。これはやがて訪れる、対話だけからなる劇の幕開けであると同時に、合唱隊と俳優が独自のバランスで劇を構成する、ギリシア悲劇の崩壊の始まりでもあるわけです。それでは、これを悲劇の最後の部分。最後の纏めから、退場に向かうエクソドスに変えて、このエピダウロスの劇場からの悲劇の生中継を終わりにしたいと思います。」
 そう言うと合唱隊は天幕の方へと退場を始め、先生はどこからともなく取り出した杖、ラブドスを天空高く突き立てた。立ち所に天空暗転雷雲闇眼(あんがん)したかと思うと、ラブドスめがけて激しい閃光が走った。激しい轟音と稲妻の輝きに吹き飛ばされた私たちが、再びおそるおそる瞳を開くと、またしても私たちは先生の術中にはまって別の場所に飛ばされたらしい。先生はギリシアの仮面と衣装を止めて、私たちの直ぐ側に立っていた。
 「ギリシアで悲劇が誕生を迎えた頃、後世重要な影響を及ぼすことになるお騒がせの音楽理論においても、初めの礎(いしずえ)が築かれようとしていました。その重要な人物こそがピュータゴラースなのです。今度は彼について少し見ていきましょう。どうです、あの向こうに見えるのは鍛冶小屋なのですよ。カンカンといい音が響いてくるでしょう。」
 閑散として大分田舎じみた平野の木々の間に立つ小さな小屋から、なにやら煙が立ち上り、トントンカンカントンカンカンと、リズミカルな音が響いてくる。
 「ここはイオーニア地方のサモス島です。ちょっと歩くとポリスがありますが、今日はポリスの鍛冶屋ではなく、ピュータゴラースがよく遊んでいたこの付近に皆さんを招待したわけです。なぜなら、ほら、見てください。あの向こうの方から飛びながら掛けてくる少年こそが、若き日のピュータゴラースだからです。」
 見れば、なだらかな斜面を登るようにして小さな道を7歳並の少年がこっちに方に走ってくる。
 「昨日の運動競技で同じグループのザネリにコテンパンに打ちのめされ、めずらしいラッコの上着のことでからかわれたのがよっぽど悔しかったのでしょう。ああして秘密の特訓を開始したわけです。」
 しかし少年は、鍛冶小屋の辺りに来ると、急に走るのを止めて不思議そうな顔をしていたが、引き寄せられるように小屋の方にふらふらと足を進めた。
 「さあ、私たちも覗いてみましょう。ピュータゴラース旅立ちの瞬間を、あなた方も目撃するのです。」


 しばらく小屋の中を覗き込んでいたピュータゴラースは、何かそわそわした様子で、しきりに体を動かしていたが、だんだん我慢できなくなってきたのか、とうとう一目散に小屋の中に突撃隊気取りを演じきってしまった。走り込んだ彼は、余って転がっていたハンマーを握り絞めると、屈強な男達の隙間に割り込んで、赤く燃えさかる鋼をうち叩き始めたのである。おそらく主人と奴隷達からなる鍛冶小屋なのだろう、鍛冶の男達は子供の悪戯に腹を立て、少年を力任せに蹴り飛ばした。ピュータゴラースは丸くなって、入り口まで跳ね飛ばされてしまった。しかし、彼は懲りる事なく男達の鍛冶場に突進して、ハンマーを奪い取ると、赤くなった鋼を打ち叩く。面白がってか、今度は別の男が、ピュータゴラースを持ち上げると、入り口に向かって高く放り投た。毬のようにバウンドしながら扉を転げ出た、土まみれの少年はそれでもめげずに、猪よろしく鍛冶小屋に突入を試みると、それを見ていた鍛冶小屋の主人が、子どもの悪戯以上の情熱を感じて、つまみ出そうとする奴隷達を静止し、7歳児に向かって訳を尋ねる。
「取るに足らないこわっぱよ、お前は何故そう執拗に、蹴飛ばされるのもものとせず、ハンマーを打とうとするのだ。」
「おじちゃん、おじちゃん、教えてくれろ。僕に教えてくれろ。さっき鍛冶の叩く音を聞いたんだ。そこの入り口の所でさ。そうしたら、皆の叩くハンマーの音が、音の高さが、少しずつ違うんだ。とっても不思議だよ。何で、同じ音がしないのだろう。」
 そんな餌で腕白なうり坊は突撃を決め込んだのかと、可笑しくなった奴隷が、大きな声で答えて言うよう。
「そりゃあ、おめえよ。力の入れ具合で、音が高くなったり低くなったりするからだろ。」
子供は躍起になって答えるには。
「違うよ、だっておじちゃん達は手慣れたもので、皆同じような強さで打って入るみたいだし、毎回打つ音の高さだって同じじゃないか。」
 面白い事を聞きたがる少年だ、ちょいっとおじちゃん教えちゃおうかな。何だか楽しい気分になってきた鍛冶小屋の主人は、ピュータゴラースにこう教えたのである。
「面白いこと言うな、坊主よ。おじちゃんの見るところ、それはこのハンマーの重さや、打たれる方の鋼の大きさが関係しているらしいんだ。だが、どう関係してんのかまでは、分んねえけどな。ほら、ちょっと打ってみるか。こっちと、これが、音が違うだろう。」
 少年は目を輝かせながら、鍛冶を打ち始めた。少年は思ってしまったのである。音高の謎を解きたい、音の不思議が自分を呼んでいるのだと。感じてしまったである。鍛冶小屋に入った時、ここには僕の解き明かすべき謎があるのだと、ピュータゴラースは気づいてしまったのである。つい感情が押さえきれなくなってきて、まずはザネリへの復讐戦を先に果たそうと鍛冶小屋を飛び出す少年を目で追いながら、先生は私達にさわやかな調子で教えてくれた。
 「こうして、ピュータゴラースは音の高さに潜む不思議な因果関係に興味を覚え、やがてエジプト、オリエントに留学。帰郷後ポリスの僭主に反感を覚えた彼は、イタリア半島のシシリー島にあるギリシア植民ポリスに移り住むと、数比関係によってもたらされる秩序関係が、ありとあらゆるものを司る根本原理なのだという考えを元に、秘密宗教的な学術組織を構築し、生涯を数比関係に捧げることになるわけです。実際は禁欲と魂の浄化を目指すオルフェウス教と関係が深く、学問とは関係のない数多くの戒律に見られるように、今日から見れば秘密宗教の極みのような側面を持ちますが、彼の後のギリシアへの影響は絶大でした。学問においても、例えば実践的な数学から離れた、理論数学の実質上の誕生は彼に記されますし、音楽においては数比関係から協和音程を初めて導き出した学者だとされています。実際には、2:3や4:5の比率から導き出される5度や4度の響きは、エジプトやメソポタミアの音楽理論から持ち込んだのでしょうが、中世初期のボエディウスによるピュータゴラースの協和音発見の逸話では、先ほどの鍛冶小屋での逸話がすっかり改変されて使用されています。ピュータゴラースとその一派の、数比関係による世界が完成された姿であると言うような考え、さらに感情的な側面も数比関係による調和が存在するというような考えは、実践から離れた高次の音楽理論を発展させる土壌を形成し、また、人間の性格や感情と音楽との関わりを突き止めようとするエートス論の発展に大きな影響力を及ぼすことになるのです。まさに、ピュータゴラースこそ、ギリシア音楽理論の創設者だと入っても言い過ぎではありません。そして、秩序の背後に数比関係が存在するという考えは、のちのプラトーンの現実世界は秩序に満たされたイデア世界の反映に過ぎない、という考え方にも重要な影響を与えています。このプラトーンの考えがのちの西洋世界に巨大な影響を及ぼし、今日でも完全に払うことが出来ないのですから、まさにピュータゴラースは、すべての根元なのかもしれませんね。だからこそ、ルネサンスの大音楽家であるヨーハネス・オケヘムはピュータゴラースが死んだとされるBC497に呼応して、1497年に自ら天上に帰る決心をしたわけです。何だか壮大じゃあありませんか。」
 先生はそこまで言うと、手に持った杖を一振りした。あっと思った途端、光に包まれて、私たちはいつもの教室に、いつも通りの姿で腰を下ろしているのである。もう何が何だか分らない、そのくせちゃんとノートは取っているのである。私だけじゃない、他の皆もそうなのだ。私はあまりにも頭が疲れて混沌状態が沸け出でてきたので、先生が教室を後にするやいなや、もうろうとする意識に身を任せて、俯せ腕枕状態に陥ってしまった。

ギリシアの音楽理論

 私が眠り惚(ほう)けている束の間に休憩時間は終わりを迎え、先生は次の授業に突入したらしい。私はいきなりコツリと頭を叩かれて、危うくノッポの二の舞を演じて驚き飛び上がりそうになった。慌てて顔を上げると、先生はまだ手にしていたラブドスをもてあそびながら、にっこり笑って教壇の方に帰っていった。  「随分沢山ノートを記入しているみたいですから、特別に起こして差し上げました。もう一頑張りするように。」
 私は思わず気合いを入れて筆記用具を握りしめた。先生の次の講義がこうしてまた開始するのだ。
 「さて、ギリシア人のポリス市民達は誰もが、運動競技と共に子どもの頃からリラなどの楽器にのせて詩を歌う遣り方を学んでいましたが、それはピュータゴラースが一本の弦だけによるモノコードで行った、響きの比率実験のような科学的なものではなく、完全に実践的なものでした。古代ギリシアにおいては、後の西洋音楽に見られるような実践に対しての音楽理論と言うよりも、むしろ音楽理論と音楽実践は無頓着に離ればなれになっているようにも思われます。にも関わらず後の西洋音楽は、実際のギリシア音楽に対してではなく、ギリシアの音楽理論から津波のような影響を被(こう)むってしまったわけです。ずっと後になって、ギリシア悲劇の研究がバロックオペラを生み出した話はあなた方も知っているでしょう。これがルネサンスという名の古典古代復興運動の新しい波だとするならば、それ以前に打ち寄せた波は、ギリシア理論を通じて聖歌の旋法分類や、協和音・不協和音の思想と扱い、そして音楽の人に及ぼす影響力に対する考察などとして、西洋音楽に流れ込んだのです。さて、このギリシアの音楽理論は、記された内容によって2つのタイプに分類できるかもしれません。それは音楽の人間や社会に及ぼす影響、役割などを表わしたものと、数比関係や旋法のタイプなどを表わした今日でも音楽理論と呼ばれるタイプのものです。その2つについてざっと見ていきましょう。」
 先生は黒板に「1.音楽の役割と影響について」と書いて、話を続けた。

1.音楽の役割と影響について

 「何度も述べたようにギリシアにおいて音楽と詩は、切り離すことが出来ないものでした。詩を表わす言葉を見ても、叙情詩とはリラに合わせて歌う詩という意味でリリックと呼ばれていましたし、トラゴーディアー(悲劇)とはトラゴス(山羊)のオーデー(歌唱)という合成語でした。また、プラトーンは一般に「旋律」や「歌」などと訳されるメロスという言葉に対して、「言葉とリズムとハルモニアーからなるものだ」と定義しています。このメロスからメローディアという言葉が生まれ、これが今日のメロディーの語源になっているのは言うまでもありません。さらに、アリストテレース(BC384-322)はリズム・言葉・メロディーに基づく諸芸術を分類した際に、言葉だけで行う「叙事詩やミーモス(滑稽劇)、ソクラテス的な対話」などに対して総体として付けた名前がまだ無い事を告白しています。つまり音楽や舞踏とから離れた詩や文学というものは、漸く彼の頃に現われてきたものなのです。そんなわけで、今日の音楽つまりミュージックの語源とされるムーシケーと言う言葉も、恐ろしく幅の広い言葉でした。例えば、舞踏付きの劇場作品の台本もムーシケーと言われていたのです。ところでこのムーシケーという言葉は、「ムーサ(英語ではミューズ)の技術」という意味を持っています。このムーサというのはゼウスが自分の前に世界を支配していた一族の一人で記憶を司る女神ニーモジニー(ローマではムネモシュネ)と交わって誕生させたニンフ達のことです。このニンフ達は後に9人となり、秩序的芸術の神アポローンの下で各種芸術を受け持って芸術家達に霊感を与える存在だと考えられていました。ホメーロスは彼女たちがオリンポス山に神々と共に住んでいると歌っていますし、ヘーシオドスは「神統記」をムーサ達への呼びかけで開始しています。後に彼女達はアポローンの神殿控えるパルナッソス山(今日のリアクーラ山)のカスタリアの泉や、ヘリコン山(ザガラ山)のアガニッペの泉などで水浴びをしていると考えられるようになって行きました。お陰でムーサ達はアガニッペの娘達「アガニッピデース」と呼ばれたり、その泉を口に含むと立ち所に霊感漲るといった伝説が生まれていく訳です。そのアガニッピデースは名前の持つギリシア語の意味から、それぞれ担当する芸術ジャンルが定められているので、黒板に記しておくことにします。まあ、むしろ芸術ジャンルから名称が定まったのかも知れませんがね。」
 そう云うと先生はさっそく黒板に9人のミューズの名称とギリシア語の意味、さらにそれぞれの芸術ジャンルを書き込んでいった。

9人のムーサ

クリオー(褒めたたえる)→歴史
タリア(芽生える)→喜劇
メルポメネー(歌うもの)→悲劇
カリオペー(美しい声の)→叙事詩
エラトー(恋愛)→恋愛詩
エウテルペー(喜びの泉)→叙情詩と音楽
テルプシコレー(楽しく踊る)→舞踏と合唱
ポリムニア(多くの讃歌)→聖歌、讃歌
ウーラニア(天体の)→天文学

 「このムーサの担当ジャンルを見ても、ギリシアにおける詩と音楽の一体が分かることと思いますが、例えば歴史も当初は詩の形式で書かれた歴史詩とでも云うべき詩のジャンルでしたし、テルプシコレーの担当する舞踏と合唱が一つのものであったことは先ほど見たとおりです。まあ天文学のウーラニアだけは少し離れていますが、ピュータゴラースの考えである数比のもたらす宇宙、世界秩序も音楽であるという考え方を思えば、その精神は分かることと思います。
 さて、次に話を進めましょう。言葉と密接な関係にあった音楽は、同時に人間の精神とも密接な関係にあると考えられていました。つまり音楽が人の魂に作用して性格(エートス)に善と悪の影響を及ぼすという考えです。すでにピュータゴラースは、人間の魂もまたある種の数比関係が作用していると規定した上で、実際の音楽との関係にも考えを広げています。つまり、音の調和する数比関係が、人間の魂の数比関係と協和音のような調和関係にある時、音楽はその人の精神に影響を及ぼすというのです。ピュータゴラースは、人の精神から、宇宙全体に至るまで、すべてに調和した数比関係が存在し、そうした数比関係の成り立つところには音楽が鳴り響いると考えました。もちろん、その数比関係は神が築き上げたもので、その数比の調和の連鎖の一番先に神がいるのだと考えたのです。理想的な絶対完成世界イデアに思いをはせるプラトーンはこれに飛びつきました。いえ、あるいはそのような考えに影響を受けて、プラトーンはイデアの世界に達してしまったのかも知れません。彼は劣悪な音楽は人の精神を悪くし、高尚な音楽は魂を高くするのだと述べた後で、教育によって小さい頃から良い音楽に触れることの重要性に話を広げて、ドーリス式とプリュギアー式のノモス(様式・規則・法)だけが人の精神を高邁にさせると定義しています。「一度定着した音楽慣習は決して変えてはいけない、なぜなら法が欠けていると風紀が乱れるからだ。」これが彼の口癖でした。どうです、さきほど出てきた、「国の歌(ノモス)を作らせてくれれば、誰が法(ノモス)を作ろうと構わない」という冗談の意味が、すこし重みをおびてきたでしょう。プラトーンの話が長くなりましたが、実際このようなエートス論の西洋音楽への影響は、特にプラトーン(BC427-347)の記した対話編「ティーマイオス」と「ポリーテイアー(国家、プラトーン的にはポリス的な都市国家を指す)」を通じて、中世ヨーロッパ社会に流れ込んだのです。人の精神に作用し、娯楽を慎み教育を重んじるプラトーンの音楽観は、なによりもキリスト教化を進める教父達にとって無くてはならないものでした。なぜなら彼らもまた、ギリシアの影響を受け宇宙を調和に満ちた鳴り響く世界だと定義し、さらにその調和の向こうには神の世界があるのだと信じたからです。そして娯楽的な音楽を否定し、教育・教化のための音楽の価値だけに意義を認めたプラトーンの考えは、敬虔なキリスト教に相応しい考え方だと思われました。一方で実践音楽を軽視し、理論を重んじるような極端な考え方も、中世西洋社会に住まう教父達の間に無頓着に受け入れられてしまったのです。一方西洋社会においてはプラトーンに続く新たな波として打ち寄せたアリストテレースの場合も、やはり教育での音楽の重要性を述べていますが、彼は娯楽的な音楽も認めていました。中世以降への影響を考えると、とくに音楽や劇が人の心に恐怖や怒りなどを呼び起こし、それが逆に鬱積していた感情を洗い流すというカタルシスの考え方は、後になってから西洋社会に影響を与えていくことになります。
 ところで、一連のプラトーンの音楽に関する意見に耳を傾け、彼が、共同体意識を高めるための音楽や悲劇の共演を認めながらも、同時代に奏でられていた音楽の行き過ぎを非難する数多くの記述を呼んでいると、この人ったらよっぽど厭世的な堅物親父なんじゃないかしらんと思えてきますが、実際はどうだったのでしょうか。彼の思想と著述には、当時彼のおかれていたアテーナイのポリス情勢が大きく関わっています。では、すこしばかりアテーナイの歴史を見てみましょう。
 ペルシア戦争の勝利の後、アテーナイはペリクレス(BC495-439)という偉大な指導者の下で未曾有の繁栄期を迎えます。このポリス社会の黄金時代を、今日の民主主義社会のように考えてはいけません。市民の数よりも多かったかも知れない奴隷を総動員して、小さな慎ましい家庭にも奴隷達が右往左往する都市社会で、初めて民主政治を執り行うことの出来たようなギリシアポリスのシステムは、それだけでも今日とは大きく異なっています。さらに、ペルシア戦争の後、アテーナイ上層市民達はポリス社会の指導者的立場と、資本の獲得に目覚めてしまいました。ペルシア戦争時にポリス同士で集めた資金を納めるデロス同盟というものがありましたが、この金庫を事実上自分のものとしたアテーナイは、ほとんど帝国主義時代のヨーロッパ諸国のように他のポリスを支配し、同盟金庫にアテーナイのための資金を納めさせ、気に入らなければ侵略しました。この侵略的帝国主義のなれの果てに、やがてもう一つの有力ポリスであるスパルタ側に付くポリスと、アテーナイの傘下に収められたポリスを巻き込んだギリシア全面戦争が沸き起こったのです。これがペロポンソネス戦争(BC431-404)、世界史を学んだことのある人は名前ぐらい聞いたことがあるでしょう。驚くべき事にこの戦争はやがてペルシア帝国までもがスパルタに同盟するなど、大根チェルトを奏でましたが、BC404年にアテーナイが大敗北を喫してスパルタの情けにすがりつく結末を迎えました。アテーナイ哲学の黄金時代は、この直後から現われるのですが、こうした複雑な社会情勢を抜けたことが思想家の思考に一役買っているのかも知れません。さて、プラトーンに関して言えば、彼はこの悲惨な敗北を25歳の時に経験し、敗北の原因に思いを巡らせているうちに、敗戦を忘れ恐ろしく享楽を謳歌するアテーナイの皆さんに苛立ってきたという個人的な状況が、彼の思想形成に一役買っています。もちろん彼は元々大衆的であるよりも貴族的・保守的であり、彼の理想には、ホメーロスの叙事詩の中に歌われるような世界と通じるものがありました。このような彼の思想は、アテーナイの支配的市民階級に比較的暖かく迎えられることが出来たのかもしれません。実は、当時すでに神ではなく、自然科学からこの世の仕組みを解き明かそうとする思想もありましたし、例えばガリレオが叫び声を上げた地動説の考えも存在しました。このような、神を超えた自然科学は当時のギリシアの一般市民の宗教観からかけ離れていましたから、著作物を火にくべられたり、市民権剥奪でポリスを追い出されたりしてしまいました。慣習を打ち破って真実を明かそうとしたソフィスト達が煙たがられた理由も、そのような思想が伝統的な社会を打ち壊すものに思われたからでしょう。こうして見ていくと、プラトーンの作品が当時から損なわれずに伝承され、それがキリスト教下の倫理観にお手頃だったために、中世の思想の中に音楽を含めて取り込まれていった理由が少し分るような気がするでしょう。しかしはっきり言っておきますが、彼の作品の現存するのはラッキーだったからだけではありません。実際に彼の文章に対する才能が、抜きんでたものだったからです。そんなわけで、私は、またレポートを・・・・。」
 もう止めてください、到底付いて行けませんと、生徒達が一斉に騒ぎ出す。先生は呆れた顔だったが、今回は珍しく後ろに下がってくれた。
 「まあ、しかたがない。今回は止めておきましょう。その後のギリシアの歴史は、ポリスの中で争っているうちに、北方の余所者的扱いをされていたマケドニアというポリスから偉大なアレクサンダー大王が現われて、大帝国を築き上げることによってメソポタミアからエジプトから、ギリシアから今までの各種文明が一つになって壮大な混交文化の誕生するヘレニズム時代を通って、次第に拡大する西のローマ帝国がヘレニズム社会を吸収していく流れで進んでいきます。そういえば、私はすっかり音楽から抜け落ちて、世界史の領域をさ迷ってしまいましたが、こうしたヘレニズムの音楽も、さらにローマにおいても、ギリシアと同様、数多くの曲が演奏されていたことでしょう。ですが、前に述べたように特にローマの実際の音楽はすっぽりと抜け落ちて皆目見当も付きませんし、ヘレニズムからローマに至るまで、音楽の根本的な考え方や、音楽理論については全くもってギリシアの影響下にありました。ローマ時代には、学校で音楽を教え、詩を奏でるようなギリシア人達の教育法はすっかり廃れ、音楽は演奏者や踊り子、俳優達が専門的に行う技芸の一つになりました。同時に、音楽など演奏できないし、歌も歌えない沢山の上流階級の人々が、そうした専門家の音楽家の演奏やパフォーマンスについて、「語り合う」ことが社会的なステータスにさえなっていくのです。こうした俗物根性スノヴィズムも、理論のための理論の発展に一役買っているかも知れません。・・・そんなことはないかな?」
 先生がここまで意気揚々と語り続けると、不意に一般講義終了時間の合図が鳴った。
 「おやおや、そろそろ時間が無くなってきましたね。ローマの音楽はこの辺で話に区切りをつけておきましょうか。しかし皆さん、ご安心を、直ちに補講講義時間を使用して、話の続きを致します。5分だけ待つから、用のある人、連絡する人はご自由にどうぞ。」
 先生はそう言うとピアノの前に座って、次から次に知っているような曲を並べて弾いていたが、ちょうど5分経つと立ち上がって講義を再開した。黒板にはいつの間にか「2.ギリシアの音楽と理論」と書き込みがされている。

2.ギリシアの音楽と理論

 「さて、ギリシア音楽の特徴を一言で言うなら、モノフォニックな修飾的ヘテロフォニー音楽です。つまり歌と同じように楽器が動くのですが、歌旋律の一部が楽器で合わせて奏されたり、器楽の特性を生かし様々な修飾を付けていくうちに、一つの線がいくつもの事象を生み出しているように思えているという遣り口です。これに打楽器がリズムを加えれば、私たちが耳で聞いても相当に技巧的な芸術的音楽を作ることが出来るのです。確かに、和音的なの響きを伴った音楽は響きの変化でたやすく感情を掴むことが出来ますが、単一の旋律の持つ自由独特の節回しと、細かな陰影、そして修飾の妙技が和声に基づいた曲よりも劣っているわけではありません。これからハーモニーの変化によって旋律を規定していくという西洋音楽の歴史に足を踏み入れるわけですが、これは実は非道く人工的なもので、そもそも西洋の伝統音楽そのものではなく、彼らの持っていた元々の音楽を浸食してスポイルする性質を持った諸刃(もろは)の剣(つるぎ)でした。逆説的に、今日西洋音楽の歴史から生み出された和声的にして調性的な音楽が、ほとんど世界共通語になったのもうなずける話です。それはもはや、特定地域の音楽語彙では、全くなくなってしまっていたのですから。
 まあ、それは追々見ていくことにして、まずはギリシア音楽ですが、実際に演奏されていた音楽も、ほんのわずかですが残っています。それらは、音の高さとリズムが記号で記された石譜や、パピルスなどで表わされいるのですが、断片を含めてもわずか40ぐらいの量しかありません。これでは当時の音楽を再現するのは、夢のまた夢かもしれませんね。では幾つかの例を黒板に書いておきましょう。これらの曲を聴きたい人は、幸いなことにパニワグアファミリーという演奏団体が出している「Musique de la Grece Antique」というCDがありますから、それをお薦めします。」

現存楽譜

比較的後のもの

・前200頃のエウリーピデース「オレステース」のコロス、「アウリスのイーピゲネイア」のパピュルスの断片
・デルポイのアポッローン賛歌2曲
・紀元後1世紀の墓碑銘用スコリオン

文字譜は器楽用と声楽用が見られ、キタラ奏法譜では音組織の音名とフェニキア文字(アルファベト)で弦と位置を示し、声楽譜では歌詞の上部にイオニア文字が書き込まれる(ただ旋律は基本的に暗譜である)

 「なお、丁度プラトーンの頃にオリエントブームの影響か、ミレートス出身のティモテオス(BC446-357)らが半音以下の微分音技法を取り入れた音楽を盛んに作曲し、音楽上の技法が13世紀西洋音楽におけるアルス・スブティリオールの様相を呈していた時期があります。プラトーンはそのような時期の音楽に不快感を示しているのですが、元々はアウロスの奏法と関わっていたとされる微分音を使用した音楽は、もしかしたら、それ以前のギリシア人達の音楽ではそれほど一般的では無かったかもしれません。後の音楽理論家であるアリストクセノスは、微分音程は小アジアからフリギア地方にやってきたオリンポスによってもたらされたのだとしていますが、地域的特性を超えて一般的に使用されるようになったのはプラトーンの頃からという可能性もあるような気がします。先生も勉強不足ではっきりは答えられないのですが、実際に残され西洋音楽に重要な影響を与えたギリシア音楽理論が、プラトーンの時代より後に書かれたものであることは忘れては行けません。古典派の時代の作曲理論で使用できる和声だって、後期ロマン派以降に書かれた作曲理論書の中にある和声に比べたら、随分限られたものです。そして調性崩壊から12音技法を抜けた後の音楽理論書になれば、理論の元になる前提条件も変ってきます。音楽文化が成熟し、音楽の内容が追求され、表現のための方法も研究され、それを元に更に発展していくような段階に入ると、その音楽は半ば人工的に自ら進んで進化を続けていきます。おそらく、これから西洋音楽史で何度も見るであろうそのような進化が、プラトーンの活躍した頃のアテーナイでも起こっていたのでしょう。それより後、ヘレニズム時代に入ると、音階は次第に全音階的なものが好まれるようになっていきます。ギリシアの音楽理論は、この微分音主義の時代から、全音階的時代にかけて発展していったものであるということだけは、心に留めておいてください。更にこの音楽理論は、現実の音楽ではなく、精神や宇宙を巡る調和の音楽や、完成された世界での理想化された姿の探求という側面を強く持っていましたから、実際の音楽から遊離した理屈探求の傾向が強くありました。こうして抽象化された理論だからこそ、中世ヨーロッパが宗教的音楽に論理的裏付けを与えようとした時に、受け入れられることが出来たのかも知れませんね。そして、現在に続く西洋音楽の歴史は、まさにキリスト教の宗教音楽から開始されることになるのです。そんな訳で、今日一日掛けて、特にギリシア音楽にスポットを当てながら、中世音楽史より以前の音楽について概観したわけですが、次回はいよいよキリスト教の音楽に突撃隊気取りを演じてみましょう。残念ながら、時間の都合で、今日やる予定だったギリシア音楽理論の部分が全然出来ませんでしたから、各自教科書を見ながらノートに纏めておくように。それじゃあ、また。」
 先生はそれだけ言うと、横に置いてあるラブドスを振り回しながら教室を出て行ってしまった。まだ日差しも残る教室で、帰り支度を始める生徒達。私も疲れた頭を癒すため教室を後に、ビアガーデンに駆け込んだ。今日の初めの頃、先生があんまりにもちょいと一杯を繰り返すので、我慢できなくなっていたのだ。ひょっとしたら先生が転がり込んではいないかと思ったのだが、残念ながら誰にも会わなかった。飲んでほろ酔い気持ちも陽気になってきたので、今度は喫茶店によって残りの音楽理論を纏めてしまおう。

ギリシア音楽理論体系(教科書のまとめ)

 すでに音楽理論の開始は初めて著述に名を残す自然哲学のタレス(前640-546?)が自然と人間に対して合理的な一般説明を与えようとした時には始まっていたのである。その理論はピュータゴラースからアリスティーデース・クイーンティリアーヌス(紀元後4世紀)まで展開を続けた。ピュータゴラースは、音楽は数と切り離せないとし、数を世界すべてを理解する重要なキーワードとした。これは実際の音楽に関する理論と、数比関係を通じて人間の精神との関わりしめすエートス論を同時に内包していたので、ほとんどピュータゴラースによってギリシア音楽論が始まったようなものである。こうした考えはさらに宇宙の数比を通じて万物の創造主までつながる音楽論を生み出し、後にプトレマイオス(紀元後2世紀)は音楽と天文の関係を記した。今日教わるような実際的な音楽理論は調和論(ハルモニア論)の中にまとめられ、紀元後の人クレオネイデース(2-4世紀)の著述によると、紀元前4世紀頃のギリシア音楽理論であるアリストクセノス(前370頃ー?)の調和論には、楽音、音程、ゲノス(類)、音階組織、トノス、転調、旋律法の7項目があったとされる。そのアリストクセノスは「調和原論」(ハルモニカ・ストイケイア)(BC330頃)の中でこれらの7項目について詳しく紹介しているが、その中で彼は、声の動きを連続的な運動と、音程的な運動に分け、4度の4音テトラコルドン(4弦)を3つの種類ゲノスに分類している。この4度の間隔で調弦された両端2つの音の間に、さらに2つの音を配置するテトラコルドンは、ギリシア音楽理論の一番の基礎になっているが、もともとは高い音を出す弦から長3度下がったところに一つの音が置かれ、続いて低い方の音に到達するという3音がもともとの形だった可能性がある。この3つの音による音型を2回繰り返すと(C-Db-F-G-Ab-C)のようなオリュンポスの音階になる。これが古くからあったギリシアの旋律の原型なのかどうかは横においておいて、この3つの音の長3度開いている方を2分割するとテトラコルドンが出来上がる。このテトラコルドンは、ディアトニコン(全音)類(下から半音ー全音ー全音)、クローマティコン(半音)類(下から半音ー半音ー短3度)、エンハルモニコン(4分音)類(下から半々音ー半々音ー長3度)の3つに分類され、このテトラコルドンを重ねあさせることによって8度、更には15度の音階が組織される。一方もともと諸ポリス間の音楽的な特性の違い、様式の特徴などがドーリオスのトノスとか、イオーニオス、アイオリスのトノスなどと呼ばれていたのだが、後の理論家が15度の音階に当てはめてどの音域がドーリオスだとか、どの半音的特徴がイオーニオスだとか理論をこねくり回しているうちに、ついにはオクターブを形成する半音と全音の配置による音階的特徴という、私たちなじみの方法まで登場して、西洋世界に流れ込んでしまった。結論から言えば、トノスとかハルモニアーと言った言葉はプラトーンやアリストテレース(前384-322)らが使用していた時代はまだ漠然と地域性の音楽特徴、様式の違いを包括的に述べるための言葉だったものが、後の時代理論に理論を重ねることによって、とうとうプトレマイオスがオクターブ間の音程配置だけが重要だから7つのトノスを規定してそれぞれの音階に名前を付ければよろしいという、私たちの一般に知る所の旋法の考えにまで到達してしまったのだ。
 本当か、本当なのか。本当に、このまとめで、間違いは無いのか?「熊虐められだ!」どこかで、誰かの叫ぶ声がする。
→この部分改訂とアポロンとデュオニュソースの話を加える。

2004/6/24
2004/7/6改定

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