旧約聖書から新約聖書へ

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超新星

 今日も先生の膨大な講義に振り回されてくたくたに疲れ果てた私達が、不意にしんと静かになった教室に気付いて俯せた顔を上げると、先生は不思議そうな顔をして窓の方を眺めていた。今日のヘレニズム世界の音楽とローマ時代音楽の実践講義が余りにも長引いたために、秋分をすぎてますます日の短くなる空はすっかり暗くなり、快晴の空には星が瞬いているに違いない。授業中、カエサルがクレオパトラのために戦ってうっかりアレクサンドリアの大書物館が炎に包まれたシーンで、懸命にパピルスを運び出していた窓際ノッポはすっかり疲れ果てて、机の上でぐっすり眠っている。こんな授業の連続では、僕たちはそのうち生命の危機にさえ直面することになりかねない。今日はそんな思いさえ、胸を掠めたのだった。そんな思いは露も知らず、先生は窓の方に歩み寄ると曇(くも)りガラスをスライドさせ、遠く空を見上げた。今日一日の充実した授業に疲れ果てた精神を癒そうというのだろう。すっかり涼しくなった大気が風に運ばれ、虫たちの鳴き声と共に疲れた私たちをすり抜ける。先生は空をあちこちと見渡していたが、不意に大きな声を上げて教室の中央に転がり込んできた。  「大変です皆さん、なんということでしょう。なんという瞬きでしょう。超新星です。あれは超新星ではありませんか!」瞳を何度も瞬かせ楽しそうな先生の慌てぶりに呼応して、私たちも椅子を蹴飛ばして窓を開け放ち空を見渡した。私は事のついでに、潰れたまま爆睡する窓際ノッポの上にのっかかって起きるものか試してみたが、微動だにしない。放ったらかして空を見上げた私たちは、一斉に声を上げた。宵の明星よりももっと明るく輝く星が強烈な光を投げかけているのだ。
 「これは大変だ。天空が合図を送っているようです。何か一大事が沸き起こったに違いない。さあ、出かけましょう、皆さん。今すぐにです!」
 先生は喜び勇んで教室を飛び出していったので、見逃しては損だとばかりに私たちも大慌てで彼の後を追った。どうやら今日の講義はまだまだ終わりそうに無い予感がする。

夜の講義の開始

 私達が教室を飛び出すと、やはり天空の一大事に気が付いた隣の教室の教師が慌てながら廊下に飛び出し先生と鉢合わせた。なにやら一風変わった民族衣装を着込んでただならぬ様子だ。先生は教師を流行る教師の心を留め置くように手を横に広げながら声を掛けた。
 「見ましたか、あの瞬く天上の光を。」
 ほとんど先生とぶつかりかけて隣の教師が叫んだ。
 「もちろんですとも。私は、知っていた。知っていましたよ。」怪しい衣装を身に纏ったその教師は、手に持った小さな袋を振り回しながら私達の隊列に合流した。「今年の春にはすでに木星と金星が出会い、夏には終末を表わす星座でお馴染みの魚座の中で、木星と土星が出会っています。それがこの前、9月12日にもう一度出会ってしまった。出会ってしまったのですよ。しかも私の占星術によりますと、この出会いは今年の12月17日にもう一回起きるはずだ。3回も同じ惑わしの星達が寄り添うなんて、初めてだ。このような偉大な年に、新たな天の知らせが何もなかったら、その方が不思議ですよ。」
 そう言うとその教師は、力強く振り回していた重そうな袋を開いて先生に見せた。中にはきらきら輝く沢山の粒が先ほどの星に答えるように瞬いている。
 「砂金ですね。」
 「そうです、これを持って私はイスラエルに向かわなければなりません。あなた方もそうでしょう。さあ、一緒に行こうではありませんか。」
 何がイスラエルだ、また訳の分からない芝居を初めて生徒を煙に巻こうというのだろう。しかし、さっき恐ろしいほどの星が瞬いていたのは間違いがない。早く学校から出て、あの星を眺めるだけでも、十分に価値はあるはずだ。私達が廊下を急ぎ階段に差し掛かると、今度は上の階段から別の教師が降りてきた。やはり怪しい服装をして、手には袋を携えている。
 「おお、あなた方も見たのだな。さあ、一緒に行こう。我がバビロニアの占星術は、木星を支配者の星、土星をパレスティナの星として、魚座は終末を象徴している。今年の木星と土星の2度の星食は、まさしくイスラエルで終末時代の支配者が現われる意味に違いない。そこに、この超新星だ。こんな目映い光があってたまるか。イスラエルに出掛けていって、自ら確かめなければ、到底気が治まらない。こうして、支配者が誕生してた場合のプレゼントも持って来てあるのだ。」
 そう言って袋を開いてせると、黄色っぽい粒が沢山入ってなんだか良い香りを発している。
 「なるほど、乳香ですね。」
 「そう、私がフランキンセンスの樹皮に傷を付けてひたむきに取り出したものだ。日本では乳香樹と言うはずだが、なぜだか知っているかね。それはシルクロードをつたって漢方薬として取り入れられていた中国で、命名されたのだ。ついでに言っておけば、フランキンセンスはオリバナムとも言うからどちらも覚えておくとよい。オリバナムは天と精神に対応し、神々との一体感を高めるのに最適だ。なんなら、10グラムおまけして売って遣っても良いが。」
 何なんだ、この上の階の教師は、学校で商売を始めるつもりか。先生はまるで気にせずそれに答えた。
 「それには及びません。私もちゃんとプレゼントを用意してあります。」
 そう言うと先生も鞄から袋を取り出し一握り掴んで手のひらを開くと、黒っぽい色をした小さな粒がやはり独特の香りを発散させていた。
 「没薬だ。さては貴様、黒魔導師だな。今すぐ成敗してくれる。」
 「冗談は止めてください。確かにこのミルラの樹からとれる没薬は、大地と肉体に対応し、死や受難をも表わします。エジプトのミイラも使用する没薬、つまりミルラがいつの間にか名前になってそれが訛ったものですが、しかし乳香と共に宗教用に使用するのは、貴方の住むバビロニアでも同じはずですよ。鎮痛薬として使用する場合は、ミルラとオリバナムはペアで使用されますしね。」
 ・・・バビロニアって、どう見ても日本人なのだが、この人達は大丈夫なのだろうか。そのオリバナムの教師は目を丸くしてもう一人の教師を見詰めた。
 「そう言われてみれば、異質なのはむしろ黄金の方かもしれん。」
 黄金の教師は心の底からうろたえて、ドギマギしてしまったので砂金がすこりばかりこぼれ落ちてきらきらと音を立てる。
 「さあ、冗談は止めにして先を急ぎましょう。学校の扉を抜けてイスラエルの地に。」
 なにがイスラエルだ、校庭で何を始めるつもりなのだ、急ぐ三人の後を追って私達も学校を飛び出した、すっかり俯せになっていたノッポはどうやら置いてきぼりを食らったようだ。あとでふて腐れなければいいが。
 「さて、皆さん。あそこに先ほどの星がすさまじい光を放っています。あの先に、何が待っているのか。私達も出掛けてみましょう。」
 急に暗闇に飛び込んで一瞬どこにいるのか分らなくなった私達に、先生が大気に通る高い声でそう投げかけた。何故こんなに暗いのだ、都内の学校の外に出たはずじゃあなかったのか。空にはひときわ輝く星が澄んだ空を突き、目が慣れるに従って見渡す限り星の瞬きの連続が天空を覆い尽くしている。あたりは建物一つ無い荒野で、光もなく真っ暗闇だ。遣られた、いったいどんな仕掛けで、こんなマジックがなされるのかは理解できないが、またしてもまんまと先生のイリュージョンに引っかかってしまった。きっとあの明るく輝く星自体が、先生の作り出したトリックに違いない。先生はすでに先ほどのスーツ姿から、他の教師達と同じような東方3博士の服装に成り代わっている。気が付けば、私達全員の姿は、これは羊飼いの衣装じゃないか。私達はお互いを見回して、きょとんとした顔をしている。あまりの衝撃に誰も口を利くものはいなかった。
 「さて、それでは続けて、音楽史講義、夜間の部に突入しましょう。」
 先生はまるで疲れる様子もなく生徒達に言い放った。こうして、昼の授業から途切れることなく、夜の授業が開始されたのである。

キリストの誕生

 「さて、実は今までに提示された木星と土星の食と超新星の登場というのは、偉大な学者、レパントの海戦を記念して生まれ、音楽史における天上の音楽でもお馴染みの、ヨハネス・ケプラー(1571/12/27-1630/11/15)が考えたものです。紀元前7年の惑星食を計算して、この年に同時に超新星が現われてキリストが誕生したのだろうと彼は考えたのですが、残念ながら他のいかなる資料にも超新星の記録は残されていません。キリスト生誕の年も紀元前4年や2年や諸説有り、最近では前6年の4/17に生まれたという説も現われるなど確定されていません。誕生日の日とされるクリスマスに至っては、本来何の根拠も出典もなく、そもそも飼葉での誕生の逸話などから冬は考えにくいといった有様です。実はこの12/25は、ローマで崇められていたミトラ神の誕生を記念する祝日で、地上での生活時間が短くなった太陽が、冬至を過ぎて再び活力を取り戻すのを祝う日でした。異教時代に何とかキリスト教を認めて貰おうと、太陽神の意味を込めて何度も説明していた神学者達のおかげで、キリスト教が国教化した後に、2つが混ざり合わさってしまったのが事の始まりなのです。そんなわけで、今見えている超新星も幻にすぎないのですが、しかし、人々の信じる心の中に、あの星は輝き続けているのかもしれませんね。」
 先生は信じてもいなさそうなことを平気で言いながら、2人の教師を引き連れて、先を歩んでいく、足下は真っ暗で、隣の顔も碌に見えないが、あの星のお陰か、私達は誰もはぐれずに先生の声の廻りを進んでいくのだった。

 「さて、皆さんがほとんど知らないであろう新約聖書は、まず始めにキリストの生涯と言行を表わした4つの福音書があり、その後ろに元々はルカの福音書の続きだったキリスト死後の使徒達の言行録(使徒行伝)が続き、さらに後の伝道者達の出した手紙群が置かれ、最後に謎のSF小説、ヨハネ黙示録が控えるという内容になっています。しかし今日の形がまとまりだしたのは、信者達の集会エクレシアから教会が出来て2世紀近くが経った頃で、完全に制定されたのは393年のヒッポの教会会議とその後のカルタゴ第3回教会会議だとされています。つまりキリストがローマ帝国によって公認され、皇帝の指揮下で数多くの会議が開かれ教会の統一的組織化が進む頃に、一方ではゲルマン民族が転げ回り帝国が危機感を増す中で、漸く新約聖書が完成されるわけです。同時にそれ以前に出回っていた数多くの福音書や黙示録などの書物が聖書の外にあるものとして分類されました。特に聖書に準じる重要性を持つものに外典アポクリファの名前を与え、それ以外に信憑性分類で外典から外された13の書物を偽典としていますが、実際にはそれ以外に沢山の偽典にあたる作品群があります。そのようにちょいと調べようとすると、大変な資料の山に突き当たり、イエス本人の真のケリュグマ、つまり宣教内容をリサーチするだけでも大変な新約聖書ですが、もちろん一番重要なのは4つの福音書だと考えて良いわけです。だいたいあなた方の場合は、福音書をどれか一つでも読んでいればかなりの上出来と言ったところでしょう。誰か、読んだ人はいませんか。」
 先生が探るように生徒達の方に手に持ったラブドスをかざすと、なんだかほのかな光が私達の周りを照らした。こんな時だけ光があってもありがた迷惑な状況で、岩砂漠の暗闇に紛れて静かに風と一体化したがっているような生徒達に対して、2人の教師が元気に手を挙げて返って先生をがっかりさせている。
 「あなた方は教師なのですから、読んでいて当たり前です。まあ、私の生徒達と来たら、いつもこんな調子なのですから。」
 そう言うと2人の教師が揃って肩をすぼめて見せたので、先生は聖書について手取り足取り教え込むことに決めたらしい。
 「こうなったら、ついでの豆知識から教えて差し上げます。情報の洪水であなた方に試練を与えまることにしましょう。そもそも聖書のことをバイブルと言いますが、これは何故でしょうか。実は紙を作るパピルスの茎の髄をギリシア語でビブロスと言ったことから、巻物のことを「ビブリオン」と読んだのが事の始まりなのです。ラテン語では聖書を正典という意味でカノンとも呼びます。一方、新約聖書の中で重要な福音とはどういう意味でしょうか。これは「良い知らせ」とか言った意味で、ギリシア語でエヴァンゲリオン(euangelion)、ラテン語ならエヴァンゲリウム(evangelium)といいます。このエヴァンゲオンという言葉は、英語に訳せば要するに(good news)で、ギリシア本来の用法はマラトンの戦いの伝令のような戦勝のニュースなどを表わしていました。走り走って戦勝を伝えた途端に息絶えた勇士に因んで競技として模倣して走り回ってみたというやつですね。この「知らせ」の部分を、声や音の意味に置き換えて英語で表わすと(good Spell)となり、英語で福音のことをゴスペル(Gospel)と表わすのはその為です。しかしながら新約聖書における4つの福音書は、直接見た人が書いた知らせではありませんでした。どれもがキリストを直接には知らない人間が書き表したもので、書かれた文字もイエスの母語であるアラム語ではなく、どれも紀元後1世紀半ば過ぎに、ギリシア語によって執筆されています。そのうちマタイ、マルコ、ルカの3福音書は共通の内容が多く、共観福音書と呼ばれていますが、一説によると一番古いイェルサレム陥落後の70年かそれ以前に誕生したマルコ福音書と、ほかにもう一つ別の資料があって、それをもとに80-90年代にマタイとルカが執筆されたと考えられています。更に遅れてヨハネ福音書が、90-110頃になってから登場しました。さて、しかしその一番古いマルコ福音書にはイエス誕生の逸話はまったく載っていないので、マタイ福音書からその誕生の部分を抜き出して、あなた達に教えて差し上げましょう。もちろん第2バチカン公会議に則って日本語でね。」
 その冗談に残りの教師が楽しそうに笑ったが、私達には何のことだかさっぱり分らなかった。先生は、お気に入りのラブドスを一振りすると心を構えてマタイの福音書を語り始めた。

 「アブラハムの子ダビデから数えて遙か下ったところにヨセフがいた。彼はマリアと婚約したが、マリアが結ばれる前に子を宿したのを知ると、公に訴え死罪にすることなく密かに離縁しようと考えた。しかし彼の元に精霊が現われ、妊娠が精霊によるもので、誕生した子はイエスと呼ばれることを告げると、ヨセフは言葉通りに結婚し子供をイエスと名付けた。ここまでが第1です。さらにルカの方では、マリアが妊娠中に従姉妹エリザベツの家を訪れると、エリザベツと夫ザカリアの子、後の洗礼者ヨハネがやはり精霊に授かって彼女のお腹の中に居て、それを見て喜んだマリアがマニフィカトに始まる言葉を口にするという逸話が付いていて、より細かくなっていますが、次の第2の部分も、皇帝が人口調査を命じ、マリアは出身地のベツレヘムに身重のまま向かうという説明が加えられています。ユダヤはBC8年に遂に徴税権も奪われて、ローマが直接徴税を行うための戸籍調査を開始したとされますから、その点で見るとやはりBC7年は有力な年と言えるかもしれません。さて、マタイとルカはそれぞれ無い逸話があって困るので、纏めて第2をやっつけてしまいましょう。」
 先生はラブドスをもう一振りした。危ない、隣の教師がいやがっているじゃないか。
 「さて、マリアが人口調査のためベツレヘムに向かったころ、ユダヤはヘロデ王がローマから委任される形で属州に陥る寸前の王国を何とか独立国家に保っていました。そこに東方から博士達がやってくる。ユダヤの王の星が天空に現れたので会いに来たという。ヘロデ王はいぶかしがり詳しく話を聞くと、自らを脅かす新しい王の出現に内心打ち震えたが、見つけたらぜひ私にも伝えてくれと学者達に述べた。博士達は星に導かれさらに旅を進めると、ベツレヘム近郊の羊飼いの飼葉桶の中で、誕生したばかりのイエスがマリアの横に小さく眠っているところに星が下っていった。博士達が近づくと、それを囲うように精霊に救い主の誕生を告げられた羊飼い達が集まり、その小さな子に祈りを捧げている。博士達はそれぞれ宝の箱を開けて、黄金・乳香・没薬などを贈り物として捧げた。その後、夢でヘロデに知らせてはならないと教えられた博士達が別の道を辿り自らの国に帰ると、自らの手で誕生した王の土地を探し出したヘロデ王は驚きかつ恐れ、2歳以下のすべての子供の殺戮を命じた。しかし、ヨセフは精霊によってエジプトに逃れ、救世主は護られ、ヘロデが死ぬまでそこに留まった。王が死ぬとイエス、マリア、ヨセフはエジプトから戻り、聖家族はナザレに移り住んだ。これにより彼は後にナザレ人と呼ばれるだろう。これが第2の章の粗筋です。この後イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、40日の断食乗り越え、伝道活動を開始するわけですね。そうそう、ルカの福音書では誕生から8日後に割礼を受け、神殿でシメオンという人がイエスを見て感じ入って語り出すという逸話と、12歳の時に過ぎ越の祭りに出掛けたら父母が探し回る間中、神殿で説教をして遊んでいたという話しが加わっています。」
 すると乳香教師が先生に尋ねた。確か乳香は元々オリバナムというそうだから、これからこの教師のことをオリバナムと呼ぶことにしよう。これでこてこての日本人のしゃべり方も少しは変わって聞こえるかもしれない。
 「私は、バビロニアから来た。ローマと互角にやり合える偉大なパルティア王国のバビロニア天文所から来た。お前達もパルティアン・ショットは知っているだろう。誇り高き騎馬民族である我らが編み出した、逃げる振りして振り向きざまに矢を射建てるという偉大な戦術のことを、すてぜりふとして言葉に置き換えたものだ。私の母は生粋のバビロニア人だが、父は遠くスキタイ系民族の血を引く生え抜きのパルティアっ子なのだ。そんなパルティア育ちの私は、残念ながら、イスラエルの状況はまるで知らない。その偉大な王の誕生を迎える状況は一体どうなっているのだ。ローマに首輪をかけられているのは知っているが、もう少し詳しく教えて欲しい。このバビロニア育ちの私に分るように。」
 何がパルティア育ちのバビロニアっ子だ、甘ったれるのも好い加減にしろ。私はこいつの名前をパルティア・オリバナムとさらに付け加えることにした。ついでにパルティアの年号を折り込んでパルティア・オリバナム(紀元前C247-226)としてやろう。しかしどこかのアニメで命名されていたコンピュータの名前によると、この3人博士、つまりマギの名前はバルタザール、カスパール、メルキオール、3人略して「馬鹿め」だったはずだった。バルタザールが中年のエジプト人で、カスパールが老齢のアラブ人で、メルキオールがインドの青年か黒人だという伝説まであるそうだ。そう言えば、シューマンの紅3兄弟だって似たようなものかもしれない。あっちはオイゼービウス、フローレンスタン、ラーロだから略するとせいぜい「おふらー」といったところだ。きっと水が大好きで風呂に入ってばかりいることを現したのだろう。それはさておき、この教師達は3博士とはまるで別物の偽物3人衆だから違う名前を付けた方が返って相応しいだろう。そんなことを考えていると、今度はもう一人の黄金の教師が合いの手を打ってきた。
 「それはいい、ぜひとも、早く教えてください。私は遠くインドのサータヴァーハナという国から遣ってきたのです。懸命に馬とらくだを乗りこなして辿り着いたのですが、生憎この地の事情はまるで分らない。ぜひ教えてください。何なら、この黄金の粒を一つまみ上げましょう。さあ。」
 世界史だけいつも満点だった私の知っているところ、サータヴァーハナといえば別名アーンドラ朝、紀元1-3に北方で栄えるクシャーナ朝と南のアーンドラ朝をペアで覚えた記憶がある。どうやら彼の名前は黄金アーンドラー(紀元前1-紀元3)に決定だ。日頃リアクションのない生徒達と格闘する先生は、大喜びでイスラエルの民、つまりユダヤ人の説明を始めてしまった。

 「良い着眼点です。教えて差し上げましょう。偶像を拝まずにたった一つの見えない神を信奉する一風変わった宗教のユダヤ教のことはあなた方も知っていますね。とくに貴方はバビロニア育ちですから、彼らが新バビロニア王ネブカドネザル2世に連行されてバビロニアで泣きながら生活をしていたのは知っているでしょう。その後ペルシア帝国誕生と共に国に返された彼らですが、しかし、ペルシア、アレクサンドロス帝国、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアと次々に沸き起こる大国に従いながら、従属的生活に甘んじていたのです。しかしシリア王が余りにもユダヤ教を迫害するのに立ち上がった紅3兄弟、・・・・じゃなかった、ユーダス・マカバイオス、ヨナタン、シモンの3兄弟による25年間のマカバイオス戦争を経て、遂に紀元前142年に450年ぶりの完全独立を果たすことに成功しました。もっとも正しくはBC167年に立ち上がったのは3人のお父さんのマテタヤで、後のユダヤ教指導層は彼の家柄、ハスモン家が握っていくことになります。こうして国を回復したのは良いのですが、大司祭の家柄ではないのに宗教を牛耳るシモンと、ハスモン家支配に対して、妥協のない律法厳守を叫ぶハシディーム(敬虔なるもの)達が生まれることになりました。彼らの一部は死海西岸に修道院を建てて荒野集団となりましたが、別の一派は後に律法学者とかパリサイ派と呼ばれる者達で、イェルサレムで宗教批判を繰り広げていました。ところがこのパリサイ派はやがて政権に癒着し始め、ついに宗教界を牛耳っているのがこのイエスの生まれる時代です。一方王国の方もこの頃、王位継承争いの混乱をまんまとローマに付けいられ、貢ぎ物付きの半独立状態に陥ってしまいました。そして、ローマの承認を経て前37年に王位に就いたのがアラブ人の血の混じったヘロデ王なのです。先ほど言った幼児虐殺を命じた国王ですね。本当なら、私達東方3博士は、まずそのヘロデ王に挨拶をしてから、あの星の下に向かわなければならないのですが、どうせ嫌な思いをするだけですから止めておきましょう。ついでに後の話しまで加えるならば、このヘロデ王はイエスの誕生の直後、BC4には亡くなってしまい、国内は血の汚れた王家と、それに癒着するパリサイ派、そして王の上に立つローマへの怒りが大暴動を引き起こします。そして他の国々と同様、この時の反乱が引き金となって、完全にローマ属州に転落してしまうのです。この反乱の中から熱心党などの秘密結社的地下組織も生まれ、属州転落後も国内は恐ろしく不穏な動きに満ちあふれていました。一方では汚れた世俗と離れた所で禁欲生活を試みるクムラン教団などを含むエッセネ派という人達も独自の共同生活を行い、イエスが宗教活動を開始するのはまさに激動と多様な宗教的立場の時代だったわけです。」
 大変な話しの連続で、ノートもないこのような場所に対応すべく、私は非常用のボイスレコーダーを駆使して先生の言葉を採取した。これはそれを後から書いているものだが、書き写すだけでも大変だ。

ローマ帝国とキリストの活動

 荒野に夜風が吹き砂を運び打ち付けると、大気が揺らぎ超新星がちかちかと瞬く。眠り込んで歩き続けるかに見えた生徒達の中から、不意に黒髪すらりさんが先生に向かって質問を投げかけた。
 「そう言えば、先生。昼間の授業、ほら午後の休憩の前に、ローマ皇帝アウグストゥスが登場しました。キリストの誕生って、ちょうどそのころじゃないかしら。」
 先生は今日は至る所からリアクションが沸き出でてさぞかし幸せなことだろう。今期最高の瞬間かもしれない。
 「それは、またしても良い着眼点です。再びケプラーによる星食を伝って、ローマに話しを移してみましょう。紀元前7年に起こった木星と土星の3回の星食は、当然ローマとローマ下にあるアレクサンドリアでも確認され記録されていました。そしてこの出来事は、当時の皇帝アウグストゥスを讃えるものだとして捕らえられていたのです。すでに今日の授業で、カエサルの養子ガイウス・オクタビアヌスがクレオパトラもろともアントニウスを討ち果たすことによって、BC29年に凱旋し、BC27年にはローマ政治を牛耳る元老院から尊厳者アウグストゥスの称号を獲得して実際の皇帝的立場に到達したのは見ましたね。これによって27の付く年が歴史上重要な意味をになう伝統が生まれたわけですが、この時の星食は、大神ユピテル(ギリシャ神話ではゼウス)をになう木星がアウグストゥスを兼ねて、黄金時代を象徴する農耕神サトゥルヌスを表わす土星と出会うという、大変お目出度い出来事として捕らえられていたのです。そのアウグストゥス、自らが亡くなる前に「私は粘土作りのローマを受け取り、大理石のローマをお前達に残す。」という有名な言葉を残していますが、実際にローマは彼の時代に人口100万人を突破、新しい建造物が次々に建てられ、共和体制は維持したものの実際上のすべての権限を次々とものにすることによって、政治体制もこれまでのような有力者同士の対立と勢力争いを越えて、単独権力の集中的な政策決断が出来る機能的なシステムを誕生させることに成功しました。彼は貴族層ノビレスの抱き込みにも成功し、彼らに財産を与えて見方とし、政界に送り込むことによって強力な権力集中を計ってさらに基盤を強化していくことになります。このような考えはおそらくカエサルが生きていれば彼によってなされたはずですが、このすぐれた2人が養子関係で連続的に歴史に登場したことはあの超新星のように奇跡的なことでした。しかもBC17年にホラーティウスが「世紀祭」のための祝典歌を書くなど、この輝かしい時代の意識は広く共通意識として認められます。時代の熱気のようなものが、完成に向かう偉大なローマ帝国を覆っていたのです。しかし、動乱から安定と繁栄に向かう副作用として、都市内の享楽的快楽的退廃的指向性も次第に巨大化していきます。すでに女性の地位は初期ローマに較べれば遙かに上昇し、次第に財産付きの自由女性達が女傑として活躍を開始、アウグストゥスの妻リウィアは夫一筋でしたが、もはや当時としては稀な存在になってしまいました。それが証拠に2人の間に生まれた娘ユリアは、懸命に詩人オウィーディウスの「アルス・アマトリア(愛の術)」で学習を重ねた挙句、3巻目の男性を手込めにする遣り口を余すところ無く演じきってしまったのです。彼女の第3の夫ティベリウスなどは、ユリアのあまりの開けっぴろげな素行不良にうなされてロードス島に閉じこもってしまいました。とうとう最後には見かねたアウグストゥスがユリアと元凶のオウィーディウスを追放する事に相成るわけです。そんな大コンチェルトの中、紀元後14年にアウグストゥスは天上に逃げていってしまったのですが、この時のティベリウスがやがて皇帝を引き継ぎ、次の時代に流れていくわけです。こうした享楽的刹那的精神はローマの中でほんの一握りの皇帝・貴族・大富豪などを覆い、さらにある程度の教育を受けた知的エリートにまで浸透しました。そして、100年以上前のポエニ戦争以来落ちぶれた農民がローマに流れ込んで生み出された無産市民達が、支給されるパンとサーカスを求めて享楽人世を謳歌する伝統も次第に本格化していくわけです。その一方で最下層の大貧民や奴隷達がひしめく都市ローマ、キリスト教がやがて流入する帝国の首都は繁栄と矛盾に満ちあふれていました。まあ、そのローマ人だって今日のパゴ犬に較べたらまあかわいいものですがね。」
 先生は最後に理解しがたい犬の名前を挙げて締め括った。きっと分らない方が良いのだろう。

 「さて、ここで話しを戻し誕生したキリストの活動を追ってみましょう。」
 先生はいつの間にか完全授業モードに突入している。
 「しかし、せっかく他の博士がいらっしゃることですから、続きは別の方にやって貰いましょうか。」
 先生の問いかけにうなずくと、パルティア・オリバナムが後を続けた。何故バビロニア人でユダヤの歴史を知らない者がキリストの生涯を語るのかなどという投げかけても無駄な質問は、もはや誰もしないようだ。
 「では誕生後から、福音書の内容に即して、ざっと教えてやろう。ヘロデが死んだ後エジプトからナザレに戻ったのは先に見た。しかし、おそらく精霊など信じられないナザレ住人にとって、イエスはただの私生児(マムゼル)だったに違いない。しばしば書かれるマリアの子、という呼びかけ自体、父の分らない、母の名前で呼ばれる子という意味を持っている。成長した彼は30才頃から活動を始めたとあるが、その頃、荒野集団のはぐれ者であるヨハネが、集団の毎日の洗身に対して1回の洗身によるパプテスマでよしとする教えと、祭司や律法学者達を罵り貧者に共感を持つ態度で信者を集めていた。その考えに共感を覚えたイエスは、彼から洗礼を受けている。このヨハネは後にヘロデ王の子供でガリラヤ地方の領主をしていたヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、それでもまだ妻のヘロデアとの血族結婚を罵る事を止めないので、ついに妻ヘロデアが娘のサロメを踊り踊らせてご褒美にヨハネの首を所望することによって体よく抹殺してしまった。一方、イエスの方は洗礼を受け、荒野に入ると40日40夜の断食によって悪魔と格闘して撃退、荒野を出てガリラヤ湖で魚師をしていたシモン・ペトロと兄弟アンデレに付いてこいと声をかけ、ついでゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネも弟子にした。ここからガリラヤを中心にして活動が始まる。イエスの公生活といわれる宣教の時期だ。例えばマタイの福音書では第5章から7章までに山の上でなされた長い説教の内容が続き、また数多くの奇跡が記入されているが、それについては後で旧約聖書と新約聖書の講義があるから、それに出席したまえ。代りに、ここからは、実際のユダヤの歴史と重ね合わせておおよその足取りを見るとする。年号はルカの福音書でイエスの宣教開始が28-29年の皇帝ティベリウスの治世15年目だと書かれている事と、イエスの十字架磔刑がピラトがユダヤ総督だった時代である26-36年の間であったことなどから判断して、さらに4,5年の宣教活動をしていたという立場を採用してお送りしてやるから、覚悟しておけ。反対に宣教活動は1年だったと言う説もあるのだ。」
 パルティア・オリバナムは半分学校の教師に戻ったような、それにしては口調がごろつきめいたことを付け足した。それにも関わらず彼はまだ、バビロニアを主張するのだ。
「しかし、私はバビロニア人だから、これから述べることは昔ローマ帝国とキリスト教と言う書物を中途半端に咀嚼して、生半可に覚えたものだから、十分注意するように。」
 そう言うとフランキンセンスは、いやこれはもちろんオリバナムの別名だが、そのパルティア野郎(紀元前C247-紀元後226)は先生からラブドスを奪い取り、代りに一振りすると、話を進めた。どうやらほのかに緑色の光を発してあたりを明るく照らし始めたラブドスが気になって仕方なかったらしい。実は、私もさっきから気になって仕方がなかったのだ。先生はちょっと苦笑したが、オリバナムの話しを待っているようだった。
 「イエスが活動を開始する少し前。26年にユダヤ州総督としてポンティウス・ピラトゥスが就任し、途端にローマ強攻策が打ち出されていた。国内は再びテロリズムの時代に向かい、ヨハネ運動の急激な広がりも、ある意味では過激派の扇動的側面もあった。反ローマに染まる民衆の一方で、イェルサレムの大議会は、死刑宣告権まで取り上げられ、ローマ人が立ち入り可能な場所で、議会を行うように定められ、指導階層もまた苛立だっていた。しかし彼らは、同時にローマのさらなる侵略と、民衆の反ローマの暴動を恐れてもいたのだ。当時のユダヤ教の指導者はアンナス一族が握っていた。中心にはアンナスの婿ヨセフ・カヤパが居て、ピラトと緊密な関係を保ちながら国とユダヤ教の存続を計っていたが、そんなローマよりの態度に人々は怒りを感じていた。その一方大祭司の職を降りたアンナスは礼具販売や銀行業で儲け、莫大な富を手に入れて、それがまた多くの貧民の逆鱗に触れた。29年に活動を開始したイエスは、さっそくこの激動のイェルサレムに登場し、縄を振り回し屋台を壊して回るロードパフォーマンスで一躍時の人になったのだ。議員の一人ニコデモが教えを受けに来るなど、多くの人が教えを聞きに集まって来る。イエスのヨハネの厳しさだけとは異なる面が、律法を厳守し禁欲生活をするよりも、神を信じることに重点が置かれ知識を持たない者にも分かりやすい教えが人々を魅了した。彼は、酒禁、女禁、断食のような、神と関わりのない禁欲を要求する他の宗派に対して、自ら婚礼の席に出て祝宴を取り仕切るなど、柔軟な態度を示し、水瓶を酒瓶に変え、パンと魚の数を手品師のように増やし、水上を歩行するなどやんちゃなところを見せ、勢い高じて病気を癒し、死者をも蘇らせるなど、言葉だけではなく、もっとも分り安い数多くの奇跡によって真の救世主の到来をアピールしていく。この29年のガリラヤに戻る途中には、ユダヤ人エリートなら誰もが軽蔑するはずのサマリア人達の中にも、進んで立ち入り教えを授け、ガリラヤでの伝道活動を再開した。翌年、30年秋の仮庵(かりいお)の祭り。再びイェルサレムへ登ったイエスは、ベテスダの池のある療養所で、池に入る力も沸かず38年間も周辺に寝込んでいた病人に「目覚めなさい、そして晴れやかな顔をして」と声を掛けると、あら不思議、彼は立ち上がって池にも入らず踊るように返っていってしまう。すでにいかがわしい伝道者として注意していたアンナス一族、さらには律法主義者やパリサイ派、つまりあらゆるユダヤ教指導層が、この安息日に床上げをさせたという律法違反に、大きく苛立った。そうでなくても、イエスの言動には、律法軽視と律法違反の精神が満ちあふれていたからである。現に祭りから返ったイエスは、ガリラヤで母や弟の住む町カペナウムを本拠として活動。病気を治し、自ら「罪は許された」と宣言してから、床上げを行い、自らが神のように振る舞って居るではないか。丁度この30年には、神殿の7枝の燭台の永遠のはずの炎が消え、終末的な思想が急激に高まっていた。さらにガリラヤではヘロデに捕まっていた洗礼者ヨハネの首がサロメダンスによって体から飛ばされると、人々の動乱の空気も更に高まり、指導層は日々針詰まった空気の中に置かれていた。イエスに危機感を深めるユダヤ教指導層に対して、イエス側は、死んだヨハネの弟子の一部までも取り込んで、この頃正式に12使徒も選任。南ユダヤのカリオテ出身のユダを除いて、12人すべてがガリラヤ人で構成されていた。動乱の中心的貧民地域ガリラヤの人間が指導層に終結した新興宗教、カヤパは徹底弾圧を心に決めた。イエスの盛んな活動によって、31年の過ぎ越の祭りにはカペナウムに、数千人の信者が群衆として群がるまでに成長したこの団体は、これ以後、危機感を募らせた反対派の扇動と脅しによって、信者の大離反と、イエス自身の身の危険が急激に高まって行くことになる。ある時は、墜落の岩と呼ばれる絶壁から突き落とされそうになり、またある時は石投げによる死刑を敢行されそうにもなり、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスまでがヨハネの再来と恐れて追求に手をかす始末。イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、わたしには枕する所がない。」との名言を吐くと、一時北方ヘロデ・フィリッポスの領土にまで逃れた。しかし、この後彼は逃避から急転、敵地イェルサレムに乗り込む決心をするのだ。」
 言葉が流暢になればなるほどそれに呼応して一層輝きを増すラブドスに酔いしれながら、フランキンセンス(紀元前C247-紀元後226)がジェスチャー交えて乗りに乗った講義を行っていると、とうとう我慢できなくなったもう一人の教師であるサータヴァーハナ、つまり黄金アーンドラ(紀元前1-紀元3)が話しの間隙を縫ってそのラブドスを奪い取った。
 「続きの狼煙はこの私が上げても差し支えない時間になって参りました。」
 オリバナムが呆れて渋々頷くと、了承を取り付けたアーンドラは勢いよく話を続けるのだった。

 「時は半年ほど流れまして、今度は31年秋のお話です。この年の春に、すでに政治指導者、宗教指導者、ローマに対しての怒りが混ざり混ざった暴動が、イェルサレム神殿に過ぎ超し祭りのために集まったガリラヤ人達の間から広がって大変な騒ぎになっていました。暴動はメシアを待望する終末思想的な要素を数多く含んで至ることろで沸き起こりましたが、圧倒的なピラト率いるローマ軍によって私には言いようもないほどに打ちのめされて、鎮圧されてしまいました。先ほど述べましたが、この年はイェルサレムには登らず、ガリラヤで過ぎ越の祭りを祝っていたイエスですが、この時に群衆達がイエスの回りに集まっては、彼のことをメシアの到来だメシアが現われたと叫んでは讃えていました。実は、いつのころからこの過ぎ越の祭りには、メシアが来臨して祝福と食物を与えてくれるという信仰が生まれていたのです。過ぎ越の祭り、それは救世主が到来するのにも、ユダヤを上げての暴動を起こすのにも最適な時期だったのです。さて、その後ヘロデ筆頭の反対派工作によって離散の民として逃げ回ったイエスですが、しかし彼は31年の秋、仮庵の祭りの数日間敵達の中心地イェルサレムへ乗り込みました。逃避転じて攻撃となす。孫子は良いことを言いますね。確かそのような言葉がどこかにあったような気がします。敵地に乗り込んだイエスは、神殿で律法主義者などに対して明確に自分の立場を表わしています。イエスがこの時期に多用していた言葉、「私を信じる」とは何であるか聞き出そうと迫り来る律法主義者達に対して、「私がそれである」と言う事実を信じることだと憚ることなく威風堂々と言い放っているのです。おっと、これでは君達には何がなんだが分りませんね。それでは説明しましょう。実はユダヤ教の祭りの礼拝で歌われる応答歌の中に、一方が神に対して呼びかけて讃え崇めると、もう一方の合唱が「私がそれである」「私こそ彼である」と歌い答えるという、合唱同士が交互に行う歌があって、その最後が「ホサナ」で締め括られるのです。その応唱歌の答えの部分を引用して、「私を信じる」とは何か追求する律法学者達に対して、「私がそれである」と信じることだと言い放つのです。それはつまり応答歌の答えの部分、私が神であると言っているのと同じ事になるわけです。これは大変一大事、ただで済むはずはありません状態に陥ることは一目瞭然ですね。しかしこれ以降、彼は無頓着に様々な所で「私を信じるように」と教えを広めて、盛んに活動を行っていくことになるのです。おまけに今までは逃げたり、空とぼけていた、追っ手の律法学者達に対しても盛んに攻撃論争をしかけて、常に勝利を収めると、一方ではラザロの復活や、マグダラのなんたらかんたらもこの頃の出来事かもしれませんが、様々な奇跡にもきちんと時間を割いているのです。まったくもって律儀者でございます。しかし、そんな律儀が逆に災いして、とうとうその時がやって参りました。遂に業を煮やしきってお湯もなくなった議会においてカヤパ主導でイエスの死刑が可決され、それに伴う逮捕令が32年2月に正式に出されることに相成ったのです。この32年に過ぎ越の祭りを選んで、イェルサレムに向かったイエスにとって、道は2つしかありませんでした。一つは群衆の王として叛乱を起こし勝利し、今の指導層とローマの圧力から民衆を救う道、そしてもう一つは犯罪者として捕まって死に至る道です。しかし少しでも知識のあるエリートなら、反乱を起こしてかつローマの影響から抜け出すことなど不可能なことは十二分に分っていたことでしょう。だからこそです、イエスは犯罪者として捕まり処刑される残された道に、新たな意味を見いだしていたのです。自らが処刑され地上から消えたその刹那に、自らの教義が個人を離れ神の教義として完成されるのだというもっとも壮大なヒーロー伝説の拡張版の考え方です。そしてその為には数多くの奇跡の中でも、絶対に重要な意味を持つのは、死んだ自分が復活を遂げるという一点。彼にはそれが必要でした。本人に十分な自覚があれば、人々にそう思わせることが、その為の手をあれこれと打つことが可能かもしれません。彼はおそらくさまざまな複線を張り巡らせておいたのでしょう。今日キリスト教に置いて、イエスが復活を遂げたという事実は疑う余地のない真理なのですからね。さて、この時イエスは、ロバに乗ってイェルサレムに入場していますが、これは、予言者ゼカリヤの書に「見なさい、あなたの王があなたのところにやってくる。柔和な王が、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗ってやってくるよ。」(5節)と書いてあるのを表わしていたのだと言います。あるいはそのことを踏まえて後から作られたのかもしれませんが、このロバの行進に対する民衆達の答えは、自らの服や葉の付いたナツメヤシの木を道に敷き詰め、一緒に歩きながら「ダビデの子にホサナ」を唱えました。これは「ダビデの子に讃えの祈りを捧げよう。主の名前によって来る方に、祝福がありますように。天の高いところに讃えの祈りを捧げよう。」という讃える祈りの呼びかけで、このホサナは元々アラム語の「ホーシーアー、ナー」で「今、救ってください」と言う意味だった物がヘブライ語の「ホーシャナー」になる頃に、元の意味が失われ神を賛美するときの修飾語のように使われていたものです。 こうして人々に明確に王としての入城をアピールして注目を集めることが、イエスの計画の始めにあったのでしょうか。一方群衆の暴動を極端に恐れたカヤパ以下ユダヤ教の指導者達は、安易に逮捕することが出来ず群衆のいない時に、居場所を襲撃して捕まえる道を探っていました。そこに報奨に目を付けたのか、もっと深い意味があってのことなのか、イスカリオテなユダがイエスを裏切ることによって、過ぎ越祭りの前日である木曜日夜最後の晩餐を経て、逮捕から磔刑へと流れていくわけです。」
 丁度話が途切れると、案の定先生がラブドスを奪い返した。
 「お二人ともありがとうございます。話しが長引いている間にもうまもなく目的地に到着しますから、この辺で歩行講義は終わりにしましょう。」

旧約聖書の世界

 ようやく先生の元にラブドスが戻ってきた、きっと2度と奪わせることはしないだろう。
 「さて、先ほど過ぎ越の祭りへの入城で、人々が歌っていたホサナの節は、実は詩編の118番の25節から取られたものです。ユダヤ教の音楽にとって詩編は非常に重要な意味を持っていました。まず詩編も含まれる旧約聖書全体についてざっとお話ししておきましょう。そうそう、あなた方2人は講義のお勤めは終えましたから、先に行って次の手はずを整えておいて下さい。」
 先生がオリバナムとアンドーラに声を掛けると、2人は揃って頷き私達を置いて先に星の方に突撃していってしまった。
 「それでは一休みして歩くのを止めて、この荒野でしばしの星空授業を堪能しましょう。旧約聖書の詳しい内容については、新約同様あとで別の授業が受けられますからそこで勉強するとして、まず大きな流れをお教えしておきます。旧約聖書では他の多くの宗教と異なり神が誕生することはなく、初めから神が存在しています。旧約聖書に置いて神はヤハウェとかエヒロームと呼ばれていて、決して他にまるで聖なるものの存在しないような一神教ではなく、むしろもともとは他の神々がヤハウェに従属する存在として捕らえられているように見えます。この、生まれることも死ぬこともない絶対的な神がまず天地を生みだし、「光あれ」と叫ぶと光が生まれ、「大空あれ」と言うと大空が生まれると言うように6日間に渡って世界を想像しあらゆる生命を創造し、最後に神の形を具現化して人の形にして命を吹き込みアダムを誕生させると、満足して7日目を祝日としたと言うのがその始まりです。こうして世界の創造がなされたわけですが、動物たちにはすでに男と女があって2つがペアとなって協力して次の子孫を残すシステムが神によって構築されました。しかし最初に生み出された人間アダムは、もともと神を似せて作った不死の支配者的意味を持っていたのでどこにも寄り添うものがない寂しさに泣き濡れていたのです。しょせん自分を似せて形を作ってもたわいもない地上の動物に過ぎない、神は哀れみを持ってアダムの肋骨をえいっとばかりに引き抜くと、あら不思議、隣には初めての女性エヴァが眠って居るではありませんか。こうして2人は幸せに生活していたのですが、蛇にそそのかされて禁断の果実を食べて知恵を身につけた途端に、神から呪われて楽園を追放されてしまうのです。「知恵と引き替えに、労働と出産の苦しみと死の恐怖を与えてくれるわ。」とでも言ったところでしょう。ついでに蛇も足を取られてみごと這いずり回る動物になってしまいました。その後2人の間に2人の息子、土地を耕す兄カインと、羊を世話する弟アベルが生まれたのですが、祭壇の捧げ物を見た神が、兄の心には不純があるとして弟の捧げ物しか受け取らなかった事件が尾を引いて、ついにカインが弟アベルを撃ち殺すという、史上最初の殺人事件が沸き起こってしまいました。呪われたカインも神に追放されて異郷の地に行って2人とも消えてしまったので、アダムとエヴァはしぶしぶ新型のセトを生み出して、この子孫が後々下ってユダヤ民族に結びつくわけです。まずセトからずっと下った時に、ノアという者が居て、神のお告げで人々からあざ笑われながら巨大な船を懸命に作って動物まで乗せてみたら、40日40夜の膨大な大洪水が地上を流し尽して、ノアの子孫だけが生き残って地上に繁栄した。しかし余りにも繁栄したために巨大なバベルの塔を建造して、神の領域に進入を試みたため、怒った神は人々の言語を細かく分断し、皆が別のことを話し統制が取れなくなって、各言語を持った多くの民族が誕生し、その結果バベルの塔は投げ捨てられる。などの神話的部分を経て、直接の民族の発祥であるアブラハムという人の記述に移っていくのです。そしてアブラハムが蜜の流れる約束の地として神に与えられたカナン、つまり後のイスラエルの方面に移動すると、快楽の都ソドムとゴモラが事のついでに燃えに燃え、アフラハムの系譜がイサク、ヤコブ、ヨセフと続くまでが今日創世記として纏められている、旧約聖書の初めの部分になります。その間にヤコブが神と一晩中格闘することによって神と戦って勝った男イスラエルという名前を貰い、これが今日のイスラエルの名前の始まりになりました。この後、ヨセフの時に一時エジプトに移っていた民族が再びイェルサレムを目指す出エジプト記では、おそらく紀元前13世紀頃のエジプトからのユダヤ民族移動がベースになっているはずですが、誰でも知っているモーセの有名な逸話を含んでいます。つまりモーセが海を2つに分け、兄のアローンがその周りではしゃいでみたり、その後シナイ山では神から10のいましめをしるした石版(モーセの十戒)を貰って来るなどの話しが続いて、モーセの次の指導者ヨシュアの時に遂にイスラエルの地(カナンの地)に再入植を果たすことになるのです。ヨシュアは自らの民を12の部族に分け、いや、あるいは分かれていた部族ごとに土地を分配して定めました。しかし彼の後も周辺民族との対立が長く続き、それは士師の時代と呼ばれています。戦に勝ったら娘を差し出すとうっかり神に約束してしまったイェフタの物語や、敵の女であるダラリ、じゃなかった、ダリラに騙されて髪を切られたサムソンの物語は、皆この士師の時代の話しです。君たちもサン=サーンスの歌劇「サムソンとダラリ」・・・失礼、「ダリラ」の中で歌われる「あなたの声に心が開く」ぐらいは知っているでしょう。あのようなすばらしい音楽で、「もう、サムソンったら。私の愛を受け入れてくれないと、つねつねしちゃうぞ。うふ。」なんて耳元で歌われたら、誰でも騙されて当然です。」

 つい口を滑らせて「そんな歌詞では無かったはずでは。」と博識君が突っ込みを入れてしまったので、先生はますます調子が出てきて先に向かって突撃隊を試みる。
 「今のは気持ちを酌んで意訳して差し上げたのです。サムソンが愛にうつつを抜かしてついうっかり自分の持つ想像を絶するほどの怪力は髪の毛を切った途端に消え失せて無くなるとダリラに呟けば寝ている間に物の見事に髪を刈り取られ、力を無くしたサムソンは哀れ敵のペリシテ人に打ちのめされて囚われ人の生活を強いられる、というこの物語は、士師としてのサムソンの物語ですが、この士師というのは王ではなく部族を率いる長のような役割でした。しかしユダヤの民も、やがては他の国々のように国王が欲しいという思いが強くなり、とうとう神様にお願いしたら預言者サムエルに国王を選別させてやるというありがたいお達しが出て、この後いよいよユダヤは王国時代に突入します。こうしてまずサウルが最初の王に選ばれて、次の国王ダビデ王(在位BC1000頃ーBC960頃)からソロモン王(在位BC960頃ーBC922頃)の時代に一番の繁栄期を迎えることになるのです。こうして目出度く歴史の実在の王に完全に到達したわけですが、ごく大雑把に言いますと、キリスト教で使用する場合の旧約聖書では、この辺りまでの輝かしい歴史を扱った旧約聖書の前半部分が終わる中間部あたりに、お待ちかねの話題作、詩編150編や、どう読んでみても恋愛の詩である「ソロモンの歌」などが収められています。問題の詩編は取りあえずラブドスに預けて、まずは旧約聖書について最後まで見てしまいましょう。」
 先生がラブドスを軽く前に放り出すと、ラブドスは光り輝きながらくるりと空中で一回転し先生の右上あたりを勝手に浮遊している。もうどうにでも勝手にしてくれ。一々驚いていたのでは到底身が持たない。しかし我慢できなくなった、泣き虫のくせに好奇心旺盛の三つ編み眼鏡がラブドスにうっかり手を伸ばすと、触れた途端に火花が飛び散って「あちぃ」と泣き叫んでしまった。誰も「あーん、どれぇ。」と言って同じ過ちを繰り返さなかったのがせめてもの救いだ。
 「我に触れるな。ラブドスはきっと口がきけたらそう言っていたことでしょう。さて、気にせず先を続けますと、この詩編やソロモンの歌などの収められた中間部以降は、時代的にはソロモン王の息子レハブアムに対して北の諸部族が反乱を起こし、王国がイスラエル王国とユダ王国に分裂し、やがてサマリアを首都とするイスラエル王国が前722-721年のアッシリアの攻撃に征服し、民の強制移住に次いで異民族が植民されすっかり民族知れずになってしまいます。その後、ユダ王国も前597年に新バビロニアによって降伏させられ、前586年にはイェルサレム神殿を崩壊され、民族がバビロンに捕囚されてしまう事になるわけです。このような激動と危機の時代には、イザヤ書やエレミヤ書など預言者と呼ばれる者達が、神の言葉を預かって人々に伝える数多くの預言書を残しています。周辺大国の危機が迫り国内が乱れる中、神の言葉をないがしろにするお前達に災いが降りかかるであろうと悲惨な調子で叫ぶイザヤ書や、とうとう新バビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕虜としてユダヤ人がごっそり連れて行かれた時のダニエルという預言者についての書物など、衰退と激動の時代を神の言葉で預かって言うという遣り方で提示しているような部分が続いていくのです。そうそう、この預言者ダニエルは人妻スザンナの裁判で一番よく知られていますね。裁判判事を務めるご老体2匹が揃いも揃って水浴中のスザンナにちょっかいを出そうとしたところ大声で叫ばれ人が集まってしまったために、この女が旦那以外の男と会っていたのを捕まえようとしたのだと逆に居直ってしまいました。そこにダニエルがご登場、2人を別々に尋問して、どの木の下にその男が居たのかと聞いて矛盾をついたというストーリーです。しかしダニエル書もこうした楽しいお話もある伝記的部分は前半だけで、後半は旧約聖書唯一の本格的な黙示文学として機能しています。そんなわけで、この預言書の部分は激動の時代に対応して危機的であり、しきりに将来、民族の救い主が現われることを書き記しているのです。この救世主を待ちわびる思想はバビロン捕囚などの危機感から拡大を見せたのかもしれませんが、イエスが生まれた頃の、ローマに怯え反感を募らせるユダヤでも、やはり絶大なメシア思想が人々の心を渦巻いていました。そうしたなかに、私が救世主であると宣言してしまったのがイエスなのです。つまりそれを信じて旧約聖書の世界を越えて新約聖書のイエスの教えに至る者達がキリスト教徒で、イエスをメシアと認めずに救世主を待ちわび続けるのがユダヤ教徒であるとお茶を濁しておいても良いかもしれません。さて、あなた方は旧約聖書と呼んでいますが、もちろんこれは新約聖書を前提とした完全にキリスト教側の呼び名です。ユダヤ教側では全体を3つに分けて呼んでいますが、まず初めの5つの文章がモーゼによって記されたモーゼ5書とされて、法的な記述を多く含むために「律法、トーラー」と呼ばれています。続いて「預言書、ネビーイーム」が来ますが、これは「申命記」「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」「列王記」までのバビロン捕囚前のユダヤの歴史を記した部分と、「エレミア書」「イザヤ書」「エゼキエル書」などの捕囚前後の危機の提示と救世主の到来などがテーマになっている後半部分からなっています。そして、3番目に「諸書、ケスービーム」があり、詩篇やら、雅歌やら、哀歌に知恵文学などの様々な文章を含んでいます。ユダヤではこの3つの部分の頭の言葉を取って聖書全体を「タナク」と呼ぶこともあるのですが、あなた方もカトリック信者ですらないのですから、この書物をむしろユダヤ教聖書とか、ヘブライ語聖書とか呼んだ方が正しいかもしれません。もっともあなた方がこれに触れる機会は、新約聖書側から入ってくるぐらいしかなさそうですから、どうしてもキリスト教側の見方になるのでしょうね。先ほどちょっと言っておいた通りに、キリスト教側の旧約聖書では、諸書に当たる部分が、丁度後半の預言書にあたる部分の前に入っていて構成が違います。この本来のユダヤ教聖書は、現在では36の書物として纏められていますが、これが正式に決まったのは実はユダヤ戦争によってとうとうイェルサレム神殿が完全に破壊され、再建が禁止された後の紀元後90年になってからなのです。もちろん大元はソロモン王などがイェルサレム神殿を築くと同時に、民族史の編纂をもくろんで形作られたものらしいのですが、バビロン捕囚によって大量の資料が失われ、自らのアイデンティティが危機にさらされた時に、旧約聖書の大枠が編纂され、誰もが学ぶ宗教集会シナゴーグで使用されるようになっていきました。しかもこの時期すでに急激にアラム語が人々の話し言葉になってしまっていたのですが、この旧約聖書はかつてのユダヤ人達の言葉ヘブライ語で書かれていましたから、丁度俗語に対するキリスト教会のラテン語のような興味深い関係を持って、シナゴーグで教え込まれていたわけです。このヘブライ語聖書が、イェルサレム神殿滅亡後に正式に制定され聖書として定められたわけですが、今日の元になっているのは更に時代が下って、ようやく1008年に書かれたマソラ本文というものが、原典資料として挙げられています。一方、同じ頃エジプトのアレクサンドリアでは70人訳というギリシャ語翻訳の旧約聖書が編纂されています。これはアレクサンドロス大王以後急激にギリシア化したユダヤにおいて、ギリシア語の使用頻度が増加したり、国を離れギリシア語しか話せないユダヤ人達が出てきたために、かなり前から行われていたギリシア語訳聖書の集大成で、後にキリスト教世界で使用される旧約聖書の内部配列などは、多くの場合こちらの70人訳によっています。つまりユダヤ教側とキリスト教側で配列に違いが見られるわけですね。さてこれで大体の旧約聖書の話しは済みましたので、先ほど置き去りにしておいた詩編の話しに立ち返ってみましょう。」
 先生がラブドスを呼ぶと、取って置かれた(reserved)詩編の話しを携えてラブドスが先生の手元に返ってきた。なんだか、ペットみたいだ。こうして漸く詩編の方に話しが移っていきそうなのだが、余りにも壮大なストーリーになってきたので、一度改めて次の章に記述することにしよう。

2004/10/17

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