その夜、私は不思議な夢を見た。
船乗りである私は肌も黒ずんでたくましい大きな男で、おそらくエジプト人なのだろう、舵を操る私のことを船客達は「パピルス」とか「ナイル人」と呼んでいた。私は笑いながらこのティベリウス帝治下の地中海を、ギリシアからイタリアに船首を向け、海の神ポセイダーオーンに航海の安全を捧げつつ、エキーナデス諸島に近づいた。夢の中で私は、航海のすべも、次々に現われる島の名前もすべて記憶し、風を計って止まるべき港を心に描いた。しかし、やがて日が落ちると、帆を膨らませ私達を送る、夕暮れのきまり風が姿を隠し、波も無くなって音を忘れ、私達は暗闇の中で、おそらくパクソイ島のあたりを漂っていた。私達は皆、灯火もない島の低く広がり、水平線上にシルエットを黒く描いて、何も存在しないような暗闇を作り出しているのを、吸い込まれるように見詰めながら、近づくことも遠ざかることも出来ず、水面に揺らぎなく止まり、ついに天上の星も瞬きを忘れて時を失った。
その時だ、感覚の麻痺した私達に、大きな叫び声が投げかけられ、島の暗闇から「タムース!」と呼びかけたのだ。私は恐怖した、客達も皆驚き体を震わせ、それが言葉であることすら、初めは分らないようだった。「タムース!」時を開けて再び叫びが、海上を伝って私達の元に届く、いや、むしろ天空から舞い落ちてくるようにも聞こえるのだ。私はどうして良いのか分らず、慌てて耳をふさいだ。タムース、それは私の名前なのだ。私は震え、早く風が吹きこの場を離れることを望んだが、それきり声は消え、静かな海は音を無くし、波も揺らぎを忘れて静寂だけが果てしなく続く。私は、漸く耳から手を離した。
「タムース!」3度目の叫びがその時響き、私の小さな心は張り裂けそうになった。あまりの恐ろしさに、私はもはや我慢できなくなって、相手を確かめようと、震える声で「私だ」と叫び返した。しかし答えは無い。私は余計怖くなってもう一度叫ぼうとしたが、喉が渇いて声にならなかった。だが答えは返ってきたのだ。「汝、パローデスにおもむけば「パーン・ホ・メガス・テトウネーケ(Pan ho megas tethneke)」と報じるべし。」言葉の最後の部分と共に、急に風が吹き初め、波を荒立て、星達は一斉に瞬き始める。程なくして私達は、パローデスの港付近にたどり着いた。
私は意を決して、先ほどの命令通りに岸に向かって船縁に立ち、パローデスの街明かりが見える喧騒が、一瞬途絶える時を狙って「大いなるパーンは死せり。」と叫んだ。たちまちパローデスの岸から人々の激しい驚きと、打ちのめされたような嘆きの声が、いや、声というより悲しい叫びが、大気を漂う旋律のような歌となって、私達の元に届いた。私達はその悲哀に満ちた歌を次第に遠く聞きながら、さらに流れに乗って次の港に辿り着くことになったのだ。そして、私はこのことを皇帝ティベリウスに報告しようとしていたのだが、次第に記憶がぼんやりして来るように感じた。次第に明るさを増す外界、私の意識が覚醒され、タムースの意識は遠ざかり、タムースの意識は掠れ、遂に朝が来て私は目覚め、夢の世界にいたことを悟ったのだった。
いつになくトーンの暗い夢を見て半分寝ぼけて自分の部屋を出ると、共同部屋では、黒髪すらりさんと博識君が話しをしている。
「パンタグリュエル物語りにも出てくるわ。」
すらりさんの髪は寝起きでも寝癖が立たず光を受けてもさらさらしている。一方博識君は寝癖でなんだか鉄腕アトムの煙突が立っているようだ。
「ラブレーなら僕も読んだ。僕たちの見た夢の話しがそっくり同じように引用されて、「パーン」は牧神だけではなくすべてを表わすのだから、パーンの死は私達にとってのすべて、すなわち神の子、キリストが死んだことを告げているのだと言うんだね。」
「そう、それを聞いた主人公の巨人パンタグリュエルが男泣きに泣いちゃうのよ。でも2人揃って同じ夢を見るなんて不思議ねえ。昔読んだのを思い出したのかしら。」
むむむ、博識君の顔に己惚れの気配を感じ取った私は、お早うと間に割って入り、実は自分も同じ夢を見たのだと告げた。ほとんど同時に転がり込んできたピアスが「すげー夢見たんだよ。パンが死んだとか死なないとかってさあ。」と大声で加われば、哀れ博識君は2人きりの夢破れてガッカリ落ち込んでしまった。私の目の黒いうちは、先生の講義で恋愛ごっこなどさせるものか。そのあと順に降りてくる決死隊の皆が、それぞれ同じ夢の話しを持ち込むので、どうやら私達全員が同じ夢を見ていたことが判明した。
「またラブドスの仕業じゃないだろうか。」
私達はそのように結論を出したのだが、やがて現われた先生に尋ねても先生はすっとぼけて答えてくれないのだ。替わりに先生はパーンの死そのものについて説明を開始してしまった。
「パーンの死ですか、それはティベリウス帝時代(14-37)の逸話として、文豪プルータルコスが「神託の廃頽(はいたい・廃退は本来間違い)」の中で紹介している逸話ですが、不思議とヨーロッパ哲学などでは大きなキーワードとして何度も登場するのですよ。例えば、パスカルも「パンセ」の中に「大いなるパーンは死んだ。」とぽつりと呟いていますしね。ニーチェも大好きな言葉で、もしかしたら「神は死んだ。」の言葉はこの部分のバリエーションだったかも知れないのですよ。それより、朝食が済んだら今日はいよいよキリストの国教化のクライマックスにジャンプしますから、早く食事を済ませて十分に準備を整えておいてください。」
皆慌てて、パーンよりもパンに意識を集中させて、むさぼり尽くした。タマネギ泳ぐスープには、まだトマトもジャガイモも使用されていないが、なかなか美味しいじゃないか。
私達が食事を済ませ準備を整えると、兵士姿から普通のローマ市民的私服に着替えたオリバナムが、朝一番の講義を開始、これが終わったらいよいよこの時代を離れると言うので、私達はそちらの方に気が行って、なかなかオリバナムの講義に集中できない。
「昨日はアープレーイウスのせいでせっかくの私の講義が中途半端に途切れてしまったが、改めて考えてみると、今日のスケジュールにはこの方が良かったのかも知れないな。では、下手に時間を取ってアープレーイウスが手直しした原稿を持って、入ってこないうちに講義を終わらせてしまおう。」
遠くでくしゅんとくしゃみの音がする。時代と場所が変わっても、噂とくしゃみの因果関係は替らないらしい。昨日はローマ帝国が統制経済と軍事国家体制によって帝国を維持し新しいローマの安定目指され、ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝の時に確立されたあたりを説明しようとした所で途絶えてしまった。この辺りをざっと見て、筋だけは通しておこう。」 皆一斉にパピルスに書き込みを開始する。せっかくだから部屋での講義ではノートを取りましょうと、黄金が砂金と変えてパピルスを買い込んで来てしまったせいだ。黄金、この恨みはいつか晴らしてくれる。
「ディオクレティアヌス帝(在位284-305)は284年に帝位に就くのだが、彼は帝国を4つに分け、2人の正帝と2人の副帝によって分割統治することによって治安の回復と安定を計ったのだ。これは実際に成功し、半分独立してしまったガリア帝国を滅亡させ、エジプト叛乱が平定されるなど、帝国安定に一定の効果があった。しかしこれは、1人の皇帝ではもはや全体を治めきれないほころびを表わしていると同時に、これが原因となってさらに地方ごとの皇帝が立って、互いに正統を競い合う分散化の流れを決定づけてしまった。数多くの民族を治める連合国家としての性質は、中央集権化をどんなに進めても、常に地方分権化傾向の性質を保ち続ける。しして中央集権が力を失い、実際上の意義が無いと思われるようになると、急激に巨大な帝国もあっという間に瓦解してしまう。それは実際上の組織や軍隊の崩壊であると同時に、共通理念の崩壊という側面も持っているのかも知れない。しかしディオクレティアヌス帝の政策は取りあえずローマの秩序を高めるのに作用した。彼は、カピタティオ・ユガティオという地租と人頭税を統合したような税制を作り、これは後のローマ帝国の財政の基礎になっていくし、最高公定価格を決め違反者を処罰して、インフレを抑えようとするなどまっとうな政策を打ち出している。しかし1920年代の開けっぴろげ大国における禁酒法のように、統制経済は常に、闇市と闇価格を生み出すことに繋がった。禁酒法のお陰で、マフィアが誕生したというのは極端かもしれないが、統制を加えすぎると経済を越えて社会自体にねじれが生じてしまうのだ。さらに彼は、303年からキリスト教徒撲滅作戦を展開し、国内宗教の完成を目指した。これは共同統治をしていたもう1人の皇帝、ガレリウス帝が黒幕とも言われているが、キリスト教徒にとってみれば国教化前の最大の試練に立ち向かわなければならなかった。しかし彼らは迫害に勝利した、このガレリウス帝も311年、病気の床から迫害中止を訴え、キリスト教徒は自分の神に勝手に祈れとの言葉を吐いて亡くなったのだ。そしてこの後、共同統治が生んだ内乱を切り抜け、単独皇帝となったコンスタンティヌス帝によって、遂に運命の日がやってくることになる。では歴史上有名なコンスタンティヌスが天空に十字架を見て、マクセンティウス軍に勝利する所に、私達も出掛けることにしよう。」
そう言うとラブドスが答えて黄色く輝き宙に浮かび回転速度を上げ、私達は光の中に包み込まれて5賢帝時代のローマに別れを告げた。私は消えゆく講義部屋の中に、私達が消えると同時に「出来ました出来ましたよ」とアープレーイウスがなだれ込んで来るのを見た。私達は間一髪の所で、朗読から逃れることが出来たようだが、本当は惜しいことをしたのかも知れない。きっと今頃アープレーイウスは狐に摘まれてキョトンとした顔で、置き去りにされた「お引き取り下さい」カードを見詰めていることだろう。先生が、きっと突撃してくるからこのカードを残していきましょうと、ゴルフスーツのカードを一枚抜き取って立てかけた置き土産だ。これで黄金のロバの著述が更に付け足されていればこれ幸いだ。
遠く高台の上には、私達以外にも物見見物を気取ったローマ市民達が食料持参で各自シートを引いて、ピクニック気分で遠くティベレ川の方を眺めている。遙か遠くに河を背にしたローマ兵達が正方形の陣を横に並べ綺麗に並び立ち、どうやら遙か遠くで微かに揺れ動く敵の大軍の到来を待っているらしい。先生は私達を、コンスタンティヌス帝がマクセンティウスを破り勝利するミルウィウス橋の戦いに連れてきたのだ。
「さあ、見てください。時は312年、あの先頭でときの声を上げさせているきらびやかに着飾った男が、マクセンティウスです。この時期ローマ帝国はディオクレティアヌス帝が行った正副4帝分割政策が見事に裏目に出て、ディオクレティアヌスと共同皇帝マクシミアヌス帝(286-305)が帝位を退くやいなや、壮絶な跡目争いが沸き起こっている真っ最中でした。すでにそれぞれが帝位に付き、さらに正統性の主張と単独皇帝の野心から競い合っていたのですが、その中でコンスタンティヌス帝が抜きん出るのに重要なキーポイントとなったのが、このミルウィウス橋の戦いなのです。この時コンスタンティヌスはガリアなど西方で勢力を持ち、対するマクセンティウスはイタリアと北アフリカの軍隊を掌握して相対するのですが、ここで勝利したばっかりに、彼はキリスト教世界のヒーローとして、後の世界からもあまねく賞賛を受ける栄誉を獲得してしまうのです。そしてマクセンティウスの方はといいますと、キリスト教をないがしろにしたため足を踏み外して河に転落してしまったという、テーセウスを越えたうっかり伝説の筆頭に祭り上げられてしまうのです。ほら、もともと橋が架かっていたはずの場所が打ち壊されて、替わりに船を並べた簡易橋が取り付けられているでしょう。ああして橋を壊して背水の陣を敷くことによって危機感を高め戦意を鼓舞すると同時に、いざとなったら船の橋を自分たちで渡りきって、追ってきたコンスタンティヌス軍を河に突き落とそうという周到な作戦に打って出たわけです。それに対してコンスタンティヌス軍は遠く土煙を上げてこちらに近づいてくるのが見えるでしょう。ほら、あれです、あれです。次第に掲げている旗が見えるようになってきました。実はこの戦場におもむく途中で天上に十字架の輝くのを見て、その後「我が十字を掲げて進軍すれば勝利を与えん」と神からお告げを受けて、コンスタンティヌスはキリスト教を掲げる神軍として戦場に出掛けることを決意したのです。ほら、十字架に軍旗が付けられて、さらに軍旗の中に「P」と「X」が合わさったような文字が書き込まれているでしょう。あれはギリシャ語のクリストス(キリスト)の冒頭のカイ「X」とロー「P」を組み合わせて作った、キリストのシンボルマークの一種です。この時の様子をキリスト教学者であり、後にコンスタンティヌス伝を書き上げるエウセビオスという人が、キリスト教を救う唯一偉大な皇帝として壮大な脚色を加えて書き表していますが。・・・マクセンティウス帝の軍旗もよく見てください。」
先生が指差すままに、マクセンティウス軍に目をやった私達はその軍旗を見て「あっ」と驚いてしまった。コンスタンティヌス軍とまったく同じマークが書き込まれているではないか。
「先生、これってどういうことなのかしら。」
すらりさんが、メガネ女のメガネを奪って、更に良く覗き込みながら尋ねる。
「実はマクセンティウス帝もキリスト教に対して寛大な心を持っていたために、神は分け隔て無く2人の皇帝に同様の預言を与えておいたのです。」
オリバナムが笑いながら続けた。「どちらが勝利してもキリスト教は一層輝くという、宗教を至上に置けばこそ、正義に満ちた政策なのだ。手段よりも、結果を重んじる我々にはよく分かるが、この考えは旧約聖書の考え方でもあるわけだ。」
確かに、マクセンティウス軍も一糸乱れなく統率行き渡り、やはり神の軍隊の面持ちを持って敵を待ち受けている。橋の作戦がうまく行ってしまったら、マクセンティウスの方が有利なのではないだろうか。先生も、何だか不安な様子だ。
「どうも、マクセンティウスの方が有利そうです。このままでは歴史が私達の時代に続かないかもしれません。私達も少しコンスタンティヌス軍のお手伝いをしてあげましょうか。」
私達が一斉に「戦争反対、およびに歴史介入反対」のシュプレヒコールを上げたのは言うまでもないが、先生は「あなた方はただ一声大声で叫べばいいだけですよ。」と涼しい顔をした。
「なんだよ、一声って。」
ピアスが早速くってかかる。
「あなた方が、夢のお告げで聞いた一言をですね。マクセンティウスの軍隊に向かって叫べばいいのです。」
夢のお告げって、それじゃあ。
「大いなるパンの死だ!」
ピアスが平手を叩いて言った側から、方言さんが「そりゃパーンや!」と突っ込みを入れてしまったから、全員馬鹿笑いが過ぎて、近所のローマ人達が離れていってしまった。方言さんは出身が東京のはずなのだが、日本中至る所の方言が無頓着に口から飛び出す男勝りの姉さんだ。
「そうです、あなた方は、一斉にその言葉をマクセンティウスの軍に向かって叫ぶのです。それでうまく行くはずですよ。」
先生はそう言ったまま、人ごとのように他の教師と話しを始めてしまったので、私達は勝手に叫ぶか叫ばないかそれぞれに話し出した。しかし、最後にゴルフスーツが「やってみなはれの心」という、どこから覚えてきたのか分らないような格言を出してきて、その語呂が余りにも面白く響くので、最後には全員一致で「やってみなはれの心」に従うことにした。見ると、コンスタンティヌス軍は漸く遙か遠くの平野に軍隊を展開して、いよいよ敵に向かって陣を張って進軍するつもりらしい。双方、軍楽隊のラッパが一斉に鳴り渡り、私達はファンファーレの使用を実際に眼にすることが出来たのだ。私達も横に隊を組み、戦いに望むべく身構えた。
「やってみなはれの心」
三四郎が余計なつぶやきを入れて、私達の緊張をほどよく解きほぐせば、私達は全員首を縦に振って、やってみなはれのゴルフスーツが「3,2,1」とカウントダウンを始める。私達はありったけの声で、剣を携えて歩き出したマクセンティウス軍に向かって「大いなるパーンの死!!!」と叫んだ。
待ってましたとラブドスがその声を拡張させて、マクセンティウス軍に向けて大空より放てば、その声はトゥバの響きを打ち消し、震えとなって兵士達に降り注ぐ。するとどうしたことだろう。大地が微かに揺れ風が切り抜けたかと思うと、「我は死なん!」という重低音が地の底深くからこだまする。それと同時にマクセンティウス軍の兵士達の指揮が突然乱れだした。よく見ると小さなもやっとしたような風の固まりがマクセンティウス軍の中を走り回り、その風に触れた兵士達が突然怯えだしては、統制を失い、逃げだしうずくまり叫びだし、見方に斬りかかっては、他のものに伝染していく。そのように恐怖が兵士達の中に急激に広まって行くのが、遠くから見ている私達の手に取るように映し出された。
「パ、パニックだ。」
「パーンだ、パーンが現われた。」
近くに残っていたローマ人達が、それぞれ立ち上がっては指を指し戦場に見入っている。先生は私達の方に戻ってきた。
「あなた方が、パーンが死んだなどと言うから、ふざけるなとパーンが出てきてしまいました。パーンは普段は陽気な牧神なのですが、怒るとああして人々に触れ、恐怖心を起こさせ、人々の正常な行為を無に帰する恐ろしい神でもあるわけです。ギリシアがペルシアに踏みにじられたマラトンの戦いの時にも、多くの人がパーンが現われペルシア人達の間を駆け抜けるのを見ています。パニックという言葉は、パーンから来ているのですよ。あなた方も、死んだなどと失礼なことを言わない方がいいと思いますよ。本当に。」
やっぱり、夜中に見た夢からすでに私達は、先生の掌の内で走り回っていただけなのだ。私は三四郎が「孫悟空」と呟くのを聞いて、彼も同じ気持ちを感じていることをしった。
「あっ、船が。」
ますます恐怖した兵達が暴動気味に我先にと、船の橋を渡し出すと、遂にマクセンティウス自身にもパーンの手が伸び、勇気をくじかれた彼は急に橋に向かって馬を走らせ、兵達を押しのけて自ら橋を越えようとする。しかしパーンの手は早くも船に控える橋を崩壊させるための兵士達にまで到達し、恐れ思考の停止した兵達は、あろう事か自分たちの軍隊が渡る橋を罠に掛け、橋を落としてしまった。一斉に馬が、兵達が、武器と武具の重さに負けティベレ川に沈んでいく、特に重い豪華装備満載のマクセンティウス帝は川に流されながら必死の思いで小さい木片に掴まり、必死になって浮かび上がろうとしているようだ。一度も剣を交える前に崩壊した謎の軍隊を半ば放心したように眺めていたコンスタンティヌスだが、この時ついに「神のご加護により敵は闘う前に滅んだ!」と叫び残党を討ち果たしながら川にたどり着いたのだが、やがてぷかぷか見え隠れするマクセンティウスを発見したようだ。コンスタンティヌスはきょろきょろとあたりを見渡すと、ちょうど良い大きさの岩が転がっている。狙い定めてえいっと岩を投げれば、百勝錬磨の石投げ術に岩は的を違えず弧を描き、あわれマクセンティウスの脳天にどかんと腰を下ろした。コンスタンティヌスが人差し指でマクセンティウスを指差し勝利を宣言したのが見えたか見えないか、マクセンティウスは川の流れに消えていったのだ。私達は、何か悪いことをした小学生が知らないふりして気を紛らわせようと勤めるように、オリバナムの説明に懸命に耳を傾けた。
「エウセビオスによると、この戦いに勝利したコンスタンティヌス帝(在位306-337)はキリスト教を容認するだけでなく、重要な国家宗教と考えるようになったという。実際の所は彼の父親がそうであったように、ローマ帝国の最高神として太陽神を中心に置くのがこの時代の皇帝達の認識だったが、余りにもキリスト教学者達がキリストこそ太陽のごとく人々を照らしと説明するので、キリスト教と太陽神が次第に接近してしまったのだという意見すらあるのだが、コンスタンティヌスはローマに入ると直ちにキリスト教会と密接に関わるようになっていく。そして翌年313年に、もう1人の皇帝であるリキニウス帝との間の合意文章である「ミラノ勅令」を発し、これが世界史上で一般的に皇帝のキリスト教公認の瞬間であるとされている。内容は、迫害中に没収された教会財産の返還に重点が当てられ、その理由として最高神の意向に添うためには、他の宗教同様にキリスト教も自由になされるべきだと説明が加えられている。少し前に「勝手に祈れ」と叫んで亡くなったガレリウス帝の勅令よりも、さらにキリスト教を認める内容になっているのが分る。さらに皇帝は、この時期キリスト教会を分断していたドナティズム紛争という内部争いにも首をつっこみ、幾つかの手紙を書いてるが、その中ではローマ教会の聖職者を国家義務から解き放ち礼拝に専念させることは、国家のために大きな利益を与えると言っている。どうやらコンスタンティヌスの心の中では、次第に最高神とキリスト教が近づきつつあるようだが、このキリスト教を特に特別な宗教とする傾向は後の皇帝達を通じてますます強まり、遂に国の宗教にのし上がってしまうのだ。この後、キリスト教は急激にローマ帝国ないでの地位を高め、聖職者に特権が与えられ、国費により教会が建設され、その教会には裁判権などが付与され、ついに日曜日がローマの定休日となる。後になると日曜日に他の宗教を祭ることも禁止され、かつてのさばった様々な神々の神殿が打ち壊されていった。同時に、神の恩恵のためには、全員が一致して一つの宗教、一つの教義を持って祈りを捧げることが必要なため、異端と正統を巡る論争と礼拝や式典の儀式化が、急激に進行することになった。コンスタンティヌスは324年に、つい領土内のキリスト教迫害を開始してしまったもう1人の皇帝、リキニウスを討ち果たし単独皇帝に到達すると、翌年325年、初めて皇帝の命令によって帝国各地の主要教会代表者を集めた公会議を開催したのだ。これが歴史に名高い、ニケーア(ニカイア)公会議だ。ついにキリスト教は皇帝自らが首をつっこむ皇帝公会議時代を迎え、聖書の福音の選別から式典の執り行い方、根幹をなす神と精霊とキリストの関係などが定められ、そこから外れた物が異端とされていくのだが、取りあえずこのニケーア公会議では、キリストは神の恩恵により神の子であるとする聖子従属説と、さらにそれを推し進めてキリストの神性を否定したアリウス派を異端と見なし、父なる神とその子キリスト、そして精霊は同質ホモウジオス(ギリシア語)であるという信条が採択された。この教会であまり使用されたことのない奇天烈(きてれつ)言語ホモウジオスに対しては、反対意見も多かったが、以後はこの信条に従わない者は異端とされることになるのだ。この教義は、この時アリウス派糾弾の筆頭に立ったアレクサンドロスの司祭であるアタナシオス(c295-373)の名前を取ってアタナシオス派と呼ばれることもある。これと同時に、20箇条あまりのカノン(公会議規定書)が出され、迫害による棄教者の再キリスト教化問題や、司祭の婚姻について、金貸しの禁止についてなどが細かく定められた。」
オリバナムはそこまで言うと、いきなり先生が単旋聖歌の冒頭を歌い出した。
「クレ~ドォ~・インウ~ヌムデェ~ェ~ウ~~ム」
どうやら先生はミサの固有文の「クレド」の部分を単旋聖歌で歌っているらしい。オリバナムが慌てて「そのぐらいで十分だ」と突っ込みを入れなかったら、先生はきっと最後まで歌いきってしまったことだろう。
「さて皆さん、信条と言う言葉が出てきましたが、これは簡単に言い換えると信仰の告白を意味し、信仰のを短い言葉でまとめたて、洗礼や礼拝式典で唱えるために作られたもので、ラテン語でクレード(Credo)と言います。あなた方もミサ曲を聞く時にキリエとグローリアの後に控えている言葉の詰まった部分として記憶にあるかも知れませんね。後にミサの中に取り入れられたクレードは、実際にはこの時のニケーア信条とは関係の無い別の洗礼用の信条で、381年のコンスタンティノープル公会議で公布されたものが採用されたのですが、非常に長い間このニケーア公会議の信条を元にしたと考えられてきたために、ニケーア=コンスタンティノポリス信条、略してニケーア信条として私達の耳にする形で式典の中に取り入れられたものです。それではその全文を黄金にやって貰うことにしましょう。」
→黄金省略
「さらにコンスタンティヌス帝は330年、異教徒伝統渦巻くイタリアを離れてか、リキニウス帝の立てこもったビザンティオンの防御力と貿易中心地としての役割に目を付けてか、新首都コンスタンティーノポリスを建設。貿易の交差点を首都にすると同時に、異民族侵入の激しい東方と帝国中心の距離を縮め、効率化を図りました。そしてキリスト教国教化への長い道のりが、さらに加速していくわけです。しかし私達はもう一度時代を遡って、音楽史の立場から、もう一度このコンスタンティヌス帝のキリスト教公認前後を覗いてみる必要がありそうです。ちょうど時を同じくして、詩編唱の波が東方から怒濤のように押し寄せていたからです。」
先生はラブドスを乱暴に振り回して、形振り構わず私達を時代に吹き飛ばしてくれた。ティベレ川では、まだ戦後処理が続いているようだ、さらばミルウィウス橋よ、さらばパーンよ。
気の遠くなるような巨大な川の流れを前に、オリバナムの言葉をパピルスに写し取る。直ぐ近くにはそのパピルス、日本名カミカヤツリが茂り、ラブドスを介して農夫に聞いたところ、パピルスというのは「河に生まれるヴィーナス」という意味が込められているそうだ。私達はエジプトに飛ばされて昼食を取った後、またしても音楽史とは何の関係もないパピルス紙の作り方講座で楽しい一時を過ごした。その後オリバナムがこの地方の説明をしてくれたのだが、今書き込みをしているのは黄金が買ってきてくれた既製品のパピルスだ。オリバナムの話しによると、「エジプトはナイル川の定期的に繰り返す増水が豊な土壌を形成し、肥沃な大地が穀物の恵みを与える。その川の両側には、水を利用した灌漑設備が整い、木々が茂り草花が萌え穀物を育む緑のベルト地帯が連なっている。しかしその外側に足を踏み出してみよ、そこにはひたすら不毛の砂漠地帯が広がっているのだ。」という話しだった。この時の楽しい逸話については、いつか暇があったら書き記すことにしよう。
「楽しい?パピルス講座とエジプト案内。」
次の日寝袋をたたむと、私達は先生に従って緑のベルト地帯を抜け、その外に広がる砂漠地帯に足を踏み入れた。浮かれ走る三四郎が砂の穴に棒をつっこんだら、サソリが飛び出してきて私まで巻き沿いを食らいそうだった。何てことをしやがるのだ。替わりにラブドスが刺されて、真っ赤になって唸っている、きっと後で三四郎には杖の罰が下るに違いない。先生はラブドスをいたわりながら歩行講義を行うことにしたが、灼熱の太陽の下で浮かれ走った三四郎は、すでに息も絶え絶えだ。愚か者め。
「さて、砂漠と言ってもまだ森林のベルトが見えるぐらいで、ぽつりぽつり低い木が立っていますが、それでも人の住む環境から急速に遠ざかっているのが分るでしょう。しかしもうしばらく歩いていくと、ほら、粗末ながら建物が見えます。」
私達はその建物の方に近づいていくと、次第に歌声が私達の耳に入ってきた。
「これはいい、あれは200年代に書き留められたものが運良くカイロの近くオクシュリンコスで発見されて今日まで残されたこの時代唯一の聖歌「三位一体への讃歌」です。200年代後半からこの地方で、荒野に出掛け修行を行う沢山の者達が現れ始め、遂に修道院が誕生するのですが、彼らは皆神に祈るために聖歌を歌いまくっていたのです。」
→<<これ>>
そう言うと今度は別の所から、やはり楽器も何もない声だけのグレゴリオ聖歌とはかなり違った豊かな声の震えを持った単線律の歌が、有節のメロディーも持たず、曲線が絶えず移り変わるような息の長い歌を唱え始めた。1人が曲を終えると、今度はそれに答えて別の所から次の歌が聞こえてくる。そうかと思うと、その向こうでは声の高い修道士が歌っているのか、いつまで経っても保続されたような変化に乏しい歌が、どこまでも続けられて途切れない。とうとう私達の周りは姿無き沢山の聖歌に充たされて、秋の虫の大合唱のように調和せずに鳴り響いた。
「前にオリゲネスの所で言いましたが、東方では今よりずっと昔からキリスト教の学校が建てられ、キリスト教の教義が練り上げられ、ヘレニズム世界の思想と混じり合い、下層の人々だけでなく知識人達をこそ虜にしかねないような練り上げられた思想が洗練され始めていました。数多くの神学者も多くが東方出身者で、後にヨーロッパに取り込まれるキリスト教の大きな部分は、極言すればオリエントの人々、東方人によって成立したと言っても構いません。このことはキリスト教公認時のキリスト教分布図を見れば、一目瞭然です。ですから、キリスト教の音楽を含めた儀式や、歌の形式自体の多くの部分が、母体となったユダヤ教を含めたオリエントの伝統と影響から出発していて、後に西方的なもので改めていった後にも、根幹として存在しているのです。元来キリスト教は白人達の宗教でも何でも無かったのだということは、知っていて損はありません。」
「はい。」
黄金が、ゴルフスーツのカード集から「一句出来ました」カードを取り出して、プラカードのように掲げて、先生の話を中断する。何を思ったか黄金は、朗々として下らない川柳を朗読してしまったのである。
「独自性
ほんとは乏しい
白い奴」
天罰が下った、天空から一枚の紙切れが降り注ぎ、アーンドラ朝が3世紀半ばに崩壊して、以後中南部インドは群雄割拠の長い歴史に突入したと書いてある。時の彼方から、不定期時空新聞が配送されてきたのだ。新聞と一緒に配送されたサソリに刺されて、黄金はぎゃっと叫んで、その場に倒れ込んだ。顔が真っ青なのは、滅亡事件の衝撃か、はたまたサソリの毒か。
「私は、もう駄目であります。もう黄金アーンドラではないのでありますから。」
分けの分からないことを呟く黄金を無視して、先生が手際よく注射器を取り出すと、傷口を握りつぶして血を出し、ぷすりと注射を打って、ひ弱な黄金を泣かせてみた。私は仕方がないので、黄金の新しい名前を考えることにしたのだが、シグマリオンの中に治められているオリジナル世界史ファイルを覗くと、幸いちょうどよい王朝がインド北部に成立しているのを発見した。
「これからはグプタ朝がいいでしょう。ちょうどアーンドラ朝と同じ頃滅びたイラン系民族によるガンダーラなクシャーナ朝の跡を継いで、拡大したような王朝で、統一王朝としては350年頃からですが、すでに320年頃チャンドラグプタ1世が王位に付いています。ええと、バラモン教を国教としてサンスクリット文学が花開き、最高文学「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」にカーリダーサの戯曲「シャクンタラー」が沸け出でて、マヌ法典も完成だ、グプタ朝美術とアジャンターの石窟寺院も忘れるな。と書いてあります。」
自分で纏めておきながら、こんなことはシグマリオンを開くまですっかり忘れていた。先生はポンと手を叩いて、「それじゃあ、一層のこと黄金チャンドラグプタにしましょう。はい、治療は終わりです。」
黄金は名前を貰って起きあがりこぼしのように丸くなって立ち上がってきた。
「ありがとうございます。チャンドラグプタ、また550年まで頑張らせて貰います。」
あら、さすがにちゃんと知っていらっしゃるようだ。
「さて、どこまでお話ししましたっけ。」
黄金のせいですっかり話しが断絶してしまったが、先生は大して困った様子はない。
「こうして思想界から一般下層民にいたる東方地域のキリスト教の熱気のようなものが、小アジアからエジプトあたりを覆い尽くし、1人の農夫の元にも伝わって行きました。彼の名はアントニウス、司教に昇進したアタナシオスの書いた『聖アントニウス伝』によると、251年中部エジプトに生まれ、両親の死んだ20歳の頃、慣れ親しんだキリスト教の教えに確信を得て、一切の財産を投げ出し、やがて地下墓地で、さらに砂漠にいたり壮絶な修行生活を開始したのです。悪魔があらゆる手段で妨害に打って出ます。論理で攻め、肉体的に攻め、それでも駄目な時は裸の女性の幻影をじゃんじゃかじゃかじゃか投入しましたが、アントニウスはロシュグロッスの花の騎士のように己惚れ上向き見向きもしません。とうとう猛獣まで投入してアントニウスを切り裂こうとしますが、遂に神の光が差し込み悪魔は退散していくのです。悪魔に勝利した彼は、人前に現われると噂を聞きつけた沢山の弟子入り希望者と共に、初めての修道院を建設。一般信者のための礼拝施設ではなく、聖職者達が自らを鍛え祈る場所としての修道院はアントニウスによって始まったのだと、後々考えられるようになっていきました。そして彼はキリスト教が公認されると、紅海近くに移動し、コルズム山の「聖アントニウス修道院」を建設して、256年に亡くなるまで、堂々たる威厳を持って過ごしたのだと、アタナシオスは締め括っているのです。果たして実際は誰が開始したものか分りませんが、この時期大量の修道士達が荒野で砂漠で修行僧として己を鍛える、荒野の修道士運動が一大ブームを巻き起こしていました。そして先ほど見たように、この修道士達は、不毛の大地でひたすら祈りを唱え、聖歌を歌いまくっていたのです。そして彼らの多くが、、あらゆる聖歌の中でも本来祈りの歌である詩編の部分をひたすら歌うという、連続詩編唱によって祈りを全うしようとしましたから、一日に何十もの詩編を連続で、あるいは初めから終わりまでの詩編をひたすら歌い続けるという詩編唱ぶっ通しライブが、至る所で繰り広げられたわけです。こうしたゲリラライブは、聞きに来る聴衆もいませんでしたが、毒をもってオーリーオーンを追いかける夜空の真っ赤なサソリでさえも、心を落ち着かせ怒りを静め、アンタレスの深紅の瞬きさえも、青くなったという伝説が残されています。こうした修道士運動は、この時代に急激に広まりつつあった禁欲主義と手を携えるように拡大したのですが、すでに100年近く前にテルトゥリアーヌスやキプリアヌスが生涯純潔を守り己の欲望に身を任せないように説いていますし、オリゲネス(c185-c254)は自分の大事な一物を、生まれながらに切り分けて天上に献上することによって、生涯の禁欲主義を全うするなど、キリスト教内での禁欲主義は熟成されつつありました。少し後になりますと、おしゃべり上手の、あるいは雄弁の「黄金の口」ラテン語で「クリュソストムス」とあだ名されたヨハネスが、結婚して子供を産むことによって古代都市文明の生き残りであるローマを助けるなと叫んでいます。」
「あら、モーツァルトの名前だわ。」
すらりさんがそう言うと先生は脱線街道をひた走る。
「良いところに気が付きましたね。このヨハネス・クリュソストムス(c347-407)はコンスタンティノープルの大司教を務め後生まれ故郷のアンティオキアで司教とキリスト教解釈に命を捧げた人物で、後に聖人となりましたが、これが洗礼などを通じて付けられる守護聖人の名前として誕生したばかりのモーツァルトの上に乗っかるわけです。さらに聖ヴォルフガングという聖人の名前も加わったため、ヴォルフガングの聖人祝日である10/31はモーツァルトの命名の祝日となりました。こうしてヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルトという名前が出来上がるわけですが、ついでに言っておくとテオーフィルスとは「神が愛する」という意味で、ギリシア語系の言葉ですが、もしドイツ語で同じ意味を表わすと「ゴットリープ」となります。モーツァルトは後になってこの部分をラテン語に変えて「アマデウス」としましたが、実際はイタリア語風に「アマデーオ」と呼んだり、「アマデー」と書いたりしています。まあ「ゼウスに甘ったれた」とでもいったところでしょうか。それにしてもクリソストムス自身は音楽に対して「アウロスあるところにキリスト無し」とか「舞踏も戯曲も音楽も合わせてみんな悪魔のくず」などと酷い言葉を吐いていますから、彼が音楽の神童の名前にすっぽり納まっているというのは、なかなかアイロニーに溢れていて面白いですね。・・・あれ、もとは何の話しでしたっけ。」
先生は今日はいつもより会話復元力が鈍っているようだ。面倒になったササン朝オリバナムが講義を奪い取ってしまった。
「とにかくクリソストムスの考えるような禁欲主義は、やがてキリスト教内を越えて、広くローマ帝国内に広がっていった。実際に結婚を拒否し純潔を守り抜く女性の皆さんも少なくない有様だ。開けっぴろげ夫人のメッサリーナやアグリッピーナが聞いたら驚いて毒を盛るに違いない。そして禁欲と修道士運動の熱気の真っ最中に、なんとキリスト教がコンスタンティヌス帝によって公認されてしまったではないか。更に高まる宗教熱の中で修道院が制度化され成立し、急激に数を増やし東方から西方に向けて拡大していく、これに合わせて取り込まれた詩編唱の荒波が、ローマ全土に向けて広がり始めた。そして教会制度が整えられ、ミサや聖務日課が儀式化される中に、詩編唱を中心とする音楽儀式が、豊かな雨となって降り注ぐのだ!」
ササン朝は勢いづきすぎてNHKの独善的スペシャルドキュメントに陥ってしまった。ドライバーを天高く突き上げて、先生が復活して交代しなかったら、きっと面白いシーンが見られたはずなのだが、ちょっと残念だ。
「さて、コンスタンティヌス帝のキリスト教公認と、続く全国統一公会議決議によってキリスト教は急激に組織化されていくことになります。すでに313年には皇帝がローマの教皇に対してサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会を与え、コンスタンティヌス帝時代にさらに8つの教会がローマの中に成立、地下墓地(カタコンベ)もゆとりを持って地上墓地に替わり、大聖堂で行われる聖職者達の日々の日課(聖務日課)も整えられ始めるのです。これに合わせて3世紀中頃に漸く各地に教会の存在を見て取ることの出来るガリアや、一部地域を除きほとんど知られていなかったスペインでも、急激にキリスト教が浸透していくわけですが、皇帝が宗教の統一を目指していたために、各都市の教会での聖務日課も統一が取れたものになっていきました。かつてオリゲネスが「各母国語を用いて神に祈り、褒め歌を歌う」と云っていた各国語の聖歌も、ヒエロニムス(c347-c420)が新約聖書・旧約聖書のラテン語訳であるヴルガータを完成させ、これが教会で使用される聖典となっていくと、次第に地方でもラテン語による聖歌が行なわれるなど、聖書自体の整備も進みました。さらに、397年のカルタゴ教会会議では福音書と聖書に記載する大体の聖典の範囲が定められるなど、活発な議論と共にキリスト教の練り直しが行われ、今日に連なるキリスト教の様相が形成されていくわけです。この聖書と教義の確立した時代と、後のヨーロッパ人達が確立された箱の中で必死に教義をこねくり回す様子を見ていくと、中世の公会議が酷く馬鹿げたものに見えてくるから気を付けましょう。さて、この時定められた聖務日課は、エジプトで始まった修道院の影響を受け、1日に二回朝と夕方に行われました。これには教会の頭である司教と付き従う聖職者に一般信者も交えて行われ、祈りの方法や何を祈るか、そして詩編や詩編以外の聖書の歌であるカンティクムの歌われ方などが、細かく定められたのです。こうした聖務日課の遣り方は何度も変更を加え、530年頃に成立するベネディクトゥスの「戒律」でおおよその形が決定したとされているわけです。ではこの頃の聖務日課で詩編唱が活躍する様子を、イェルサレムにおけるアナスタシス大聖堂に関する修道女エジェーリアの著述から覗いてみましょう。このアナスタシス大聖堂は、コンスタンティヌス帝が建設した教会で、すっかり追い出されてユダヤ人のいなくなったイェルサレムはキリスト教徒の都市になってしまったわけです。そういえばコンスタンティス帝の母親ヘレナも大のキリスト教信奉者で、自らイェルサレムのキリストが磔にされた場所から、十字架を探し出して聖墳墓教会を建設するなど、この時期のイェルサレムにはキリスト教的な熱気が溢れていました。ではそんな熱いアナスタシス教会の様子をエジェーリア扮するチャンドラグプタにやって貰いましょう。」
新たな名前で立ち上がったチャンドラグプタは女性の役でも難なくこなすマルチタレントだ。
「鶏が朝一番に鳴く頃、司教は下ってアナスタシス教会の洞窟に入っていく。すべての門が開けられ、群がった人々がそこを通り抜けるのです。数え切れないほどの明かりが灯る教会に人々が到着すると、やがて司祭の1人が一編の詩編を唱え、一同がそれに答えて歌を歌い、その後で祈りになります。これが別の詩編によってもう一度繰り返され、3回目の詩編が終わり祈りに達すると、全員で記念祈祷(きとう)コンメモラツィオ続きます。これが終わると、見なさい、吊られた香炉が教会の洞窟の中に運ばれて、堂内が香で満たされるのです。司教が福音書を手に主の復活の部分を読み上げると、どんな固くなな心の人も泣かないではいられません。主よ、あなたは私達一人ひとりのためにどれほどお苦しみになったことでしょう。福音が終わると司教は離れ、すべての人々と共に賛歌に導かれながら十字架の前に行く。そこで新たに一遍の詩編が唱えられ、その後に祈りが続きます。最後に司教が信者達を祝福すると、私達は皆解散していくのですが、司教が去る前には、大勢に人が彼の手に接吻をしようと近づいていきます。」
黄金は自らの朗読にうっとりして涙さえ浮かべている。ポロージアスじゃないが、頼むから止めてくれと突っ込みを入れたくなってしまった。
「ハムレット」三四郎がまた一言呟いた。余りにも私の心を見透かしたようなつぶやきなので、ちょっと驚いてしまった。なんだか要注意な奴かもしれない。三四郎はこっちを見てにやにや笑っている。幸い黄金には聞えなかったようだ。
「さあ、ここでの詩編唱はどのように歌われたのでしょうか。」
先生はまた黄金を押しのけて講義を再開する。
「この時代は、詩編唱自体は独唱で歌われて、行が替わる部分に当たる各詩節の後で、修道士や修道女らが新しく考えられた短い応唱句レスポンススや、もうすこしまとまった行を持つアンティフォーナ(アンティフォナ)を付けて歌っていたらしいのですが、一般信者がいる場合には彼らもこの部分を歌っていたようです。レスポンススというのは、今日の英語のレスポンス(response)の語源となった言葉ですから、「返答」を意味して分かり易いのですが、一方アンティフォーナという言葉は、ギリシア語で「対して歌うように」という様な意味を持つ「アンティフォーノス」という言葉から来ているラテン語で、やはりレスポンススと同様に「応答歌」のような意味あいを持っています。前に見た荒野の詩編連唱では、1つの詩編が終わるごとに祈りを唱え、また次の詩編を唱えると云うものでしたが、これが教会に取り入れられると、祈りの部分が詩編を唱えるものと別の者に渡され、それが儀式的に聖歌の一種になっていた事が、この黄金の例からも分かると思います。そしてもう一つ、この時代東方では、後にすっかり排斥される修道女が男達と共に重要な役割を演じていることも見逃せません。実はこれ以前の初期教会に置いても女性は重要な役割を果たしてきましたが、後にすっかり教会から閉め出されてしまうのです。これには元々のユダヤ教の影響が大いに関わっているのかも知れませんが、より直接的にはパウロが「集会の時は夫人は沈黙せよ。彼女たちがそこで話すことは許されていないのです。」と書いた手紙などが影響していることでしょう。
それはともかく、これまでは聖務日課の中に規則的な詩編唱などが取り入れ始めたのを見ましたが、このキリスト教公認時期のミサはどうだったでしょうか。ミサに置いてもやはり、音楽の使用が規則的に行われ始めたことが分っています。ミサの中では、まず固有文の最初の1つサンクトゥスが初めて姿を見せています。これは元々は司祭が唱えることになっている、パンとブドウ酒の儀式である聖体拝領の祈祷の冒頭叙唱を締め括るための会衆の応答として始まったもので、4世紀を通じて帝国内に広まっていったようです。もちろん他の固有文であるキリエやグローリアなど、影も形もありません。一方詩編唱も4世紀に入って初めてミサの中に取り込まれていったことが分っていますが、それは福音書の朗読の前に歌われたグラドゥアレ詩編と、パンとブドウ酒の分配の時に歌われたコンムニオ詩編の2種類だったようです。おそらく聖書の前の詩編唱は初め福音書の朗読とその後の説教に合わせて歌われ始めたものが儀式化して広まったようですが、それがローマに受け入れられたのはさらに下って432年頃教皇ケレスティヌス1世によってだとされています。アウグスティヌスの記述によるとこれがカルタゴでいち早く採用されているのが分りますので、黄金にやって貰うことにしましょう。」
立ち上がった黄金が高らかに述べる。
「護民官階級でカトリック信者だったヒラリウスというものが、そのころカルタゴで始められた新しい習慣に腹を立て、神々に使える聖職者達に怒りをぶつけた。私は許せない。なぜ、パンとブドウ酒を奉献する前と、それが人々に分けられるあいだに、祭壇で詩編を使用した賛美の歌を朗誦するのだ。止めろ、そんな秩序を乱す行為は止めてしまえ。」
黄金は熱が入りすぎて、地面を踏みならすジェスチャーまで交えて大いに怒り狂っている。なるほど、この熱演の言葉を見ると、確かにグラドゥアレ詩編とコンムニオ詩編の2種類がそのまま見て取れるようだ。
「おそらく東方では早く始まっていたコンムニオ詩編が、この時期カルタゴで採用され、同時にグラドゥアレ詩編がカルタゴで本格的にミサの中に規則的に取り込まれたのかも知れません。こうして音楽においても漸く儀式化された聖歌の使用が始まるわけですが。その音楽自体は、・・・・・やっぱり行方知れずなのです。」
先生の流れる涙はかれた大地に落ち、滴る水滴はやがて湖になるかと思わせるほどだったが、ここは砂漠の真ん中だ。大地が拾っては直ぐに乾燥させる。こう言う時はオリバナムに先を続けて貰うしかない。
「どけ、没薬!おれがやる。」
先生はよろけてはじき出される。
「その後の歴史は皆さんご存じの通りだ。この後ユリアヌス帝が最後のキリスト教否定運動を起こすが、やがてテオドシウス帝(在位379-95)が登場し、380年にキリスト教を国教化、392年にキリスト教以外の宗教を禁止するに及んで、キリスト教はローマ帝国の宗教に上り詰めるのだ。この4世紀の間に、貴族層は逆にキリスト教徒でなければ出世の望めない状況に変化、また教会ポストはあらゆるポストの中でもっとも恵まれた高い地位に上り詰めた。皇帝はキリスト教に転身した高官や軍人に世襲の認められる称号セナトールを与え、新しい貴族階級が誕生。キリスト教は一躍時代の寵児に上り詰めた。もはや教会は貧しいもの同士が互いに共同生活を行う場所ではなくなって、金と地位と名誉の渦巻く組織として、貧しき人々の思いとはお構いなしに先に進んでいく。皮肉なことにローマが巨大化する間に失ったものを、キリスト教もまた失ってしまったのかも知れない。しかし統一した典礼や教義があまねく帝国に行き渡り組織が更に巨大化する時代には、遅すぎた。ローマ帝国自体が立ちゆかなくなってしまったのだ。そのお陰で、これからまたキリスト教はまた一般の民を懸命に取り込み、護ることによって自らのアイデンティティを全うする道をもう一度歩むことが出来た。これは果たして、不幸なことだろうか。375年、遙かモンゴル平原の方から進軍を重ねたフン族がゲルマン人達の地域に圧倒的軍事力で突撃、ゲルマン民族の大移動が始まるのだ。皇帝ウァレンスは戦死し、軍隊が壊滅。テオドシウスは撃退を諦め、帝国内に居住を許可。半ば独立国家が帝国内に虫を食うように生まれる中、弱体化を見て取った各地方が叛乱と独立をかかげ立ち上がり、テオドシウスの死後395年、ついに二人の息子が東西2分割相続、分断された東西ローマはこの後2度と統一されることはなかった。大帝国は滅んだのだ!」
こうして、講義は結局独善的な番組のようになって幕を閉じてしまった。
2004/12/25