20章 20世紀ヨーロッパの主流

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20世紀ヨーロッパの主流

 先生は20世紀ヨーロッパの歴史をごくおおざっぱに概観した後にこう言った。「こうして調性と機能和声で一つに括られていた長い時代が、20世紀前半に終焉を迎えたわけです。その後の音楽状況は、戦争や政治的要因、さらに情報化社会の到来などが要因となって、様々な傾向が同時多発的に、あるいは一つの影響が無頓着に異なる地域に時間のずれを持って波紋を広げたりする有様。これまでのように年代を追って説明するよりは、大きな枠を区切って、その中で音楽の流れを説明した方が分かりやすいでしょう。」先生は、まず、民族的な文脈から20世紀の音楽の説明を始めることにした。

民族的文脈

 「中央、東ヨーロッパの民族音楽を調べている内に進んで影響を受けた作曲家達は、民族語法を取り入れた音楽を作曲し始めました。それでは、君、ヤナーチェクに続いたハンガリーの2人の作曲家とは誰ですか。」先生は眠りかけていた窓際のノッポにいきなり質問を浴びせかけた。慌てふためいて筆箱を落とした彼がどうにかバルトークの名前を挙げると、「コダーイも聞くのです。今すぐにです。」と大声で言い返されたので、ノッポはあまりにも驚いて立ち上がってしまった。

ベーラ・バルトーク[ハンガリー風発音ボルトーク・ベーロ](1881-1945)

・「ボルトークは、」先生は話を進めた。「いいですか、皆さん。」良かろうが良くなかろうがお構いなしに、先生は話し続けるのである。「2千曲もの民族的旋律を収集出版し、論文を書きその音楽を編曲したバルトークは、まるで音楽学者のようにも見えます。ですが同時に彼は順次難しくなっていく練習的意味合いを込めた「ミクロコスモス[小宇宙]」(1926-37)を通して音楽教育にも高い関心を持っていたのです。現にブダペスト音楽院でピアノを教わった生徒達の中には、小宇宙にまで登り詰めたものが何人もいます。彼の音楽に触れてみたい人は「ミクロコスモス」を1巻から順番に弾いてみると良いでしょう。大丈夫、始めの巻はピアノを昨日始めたばかりの子供達の練習曲となっていますから、ゆっくりツバメで演奏すれば何てことはありません。しばらく楽譜を見詰めていれば、ピアノを旋律至上主義の楽器から解き放つ20世紀の打楽器化の運動にバルトークが関わっていたのを見つけることが出来るでしょうし、バルトークが民族的旋律に基づく対位法や和音の響きを、それまで培われた西洋音楽の流れにうまく結びつけていることを発見するわけです。その力強いリズムは不規則拍子やシンコペーションリズムに特徴付けられ、ぼんやりしているとさっき窓際君がやったように、リズムに驚いてうっかり立ち上がってしまいかねません。そして彼の和声は対位法的な旋律の動きの結果生まれた副産物です。」
・さらに続けて先生はトゥン・クラスタ(音の房)が使われている曲や、多調性(ポリトナリティー)が使用されている部分を上げていった。ここではバルトークのおすすめの曲としてオペラ「青髭城」と「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」を上げておこう。この曲のアダージョ楽章では順次進行の音楽をちょうど逆から演奏する形になる鏡形式の技法が使われているのだそうだ。

ゾルターン・コダーイ(1882-1967)

・「音楽教育のコダーイ」バルトークの説明ですっかり疲れ果てたのか、先生はぽつりと呟いた。「移動ドのソルフェージュ、難易度に沿っての子供のための音楽教育を作り上げたのは、彼なのです。ヨーロッパの他の国々から、アメリカに至るまで、さらには君たちのようなとるに足らない、いやいや失礼、口が滑った、そうじゃない、つまり、肩を並べ損ねた東洋の大国でさえも、その恩恵を被っているわけです。」
・先生の非常の言葉を聞き逃さなかった最前列の三つ編み眼鏡が驚いて「あうっ」と泣いた。そんなことは気にしないで、コダーイの有名曲として歌芝居「ハーリ・ヤーノシュ」(1926)と独唱テノール、合唱、管弦楽のための「ハンガリー詩編唱」(1923)を上げておこう。

ソビィエト圏

 ロマノフ家が終焉を迎えた後、共産主義の名を借りた文化統制付きの絶対独裁体制国に成り果てたソヴィエトで、凍えながらの音楽家達はどうしていたのだろうか。先生はこの方面に話を移していった。

セルゲイ・プラコーフィエフ(1891-1953)

・1918-34年までピアニストとしてヨーロッパを走り回りソヴィエトの外に生活していた初期頃の傑作として、先生は「ピアノ協奏曲第3番」を、もっとも有名になってしまった曲として交響的童話「ペーチャと狼」(1936)を上げた後、ソヴィエト定住後の悲惨な話を始めた。「作曲家における悲惨の極致とは何でしょう。それは自分の作品のアイデンティティを徹底的に打ちのめされることに他なりません。プラコーフィエフは1948年にソヴィエト党幹部達からみんなで輪になって囲まれて、かごめかごめごっこをさせられました。これは共産主義のイデオロギーを植え付けるための切ない子供遊びで、迫り来る幾重もの輪の中で彼はシャスタコーヴィッチとともに形式主義の烙印を押されたのです。」何を思ったのか、その話の途中に唐突に割り込んで「その日以来、2人の額の真ん中には形式主義と焼き付けられた文字が・・・。」と続けた私の友人は、一人かごめの極刑に処され、現在廊下に立たされている。先生は後半の傑作として、明快性の勝利である交響曲第5番(1944)と第7番(1951-2)を上げたが、友人は帰ってこなかった。

ドミートリイ・シャスタコーヴィチ(1906-75)

・「もう彼の生まれた年代になると、作曲家としての活動はソヴィエトの組織と共にあったと言えるでしょう。先ほどプロコーフィエフと一緒に48年の熊いじめにさらされる前にも、36年にオペラ・マクベト夫人が徹底的に叩かれたシャスタコーヴィチですが、基本的に彼は日陰者にならずに済みました。」先生は続けて、問題のオペラ「ムツェンスク郡のマクベト夫人」の批判さえも後になって取り消されたこと、交響曲第5番(1937)はそのオペラの批判に怖じ気づいて社会主義的作品に逃げ込んだという人もいるが、そうではなく、力の入った傑作であることを説明した。その最終楽章の説明に来ると先生は「十全アッレグーロ・ノン・トロッポ」と黒板に書き込んだ。「大管弦楽を十全に用いたためにこの最終楽章はこう呼ばれても差し支えありません。他の注目するべき交響曲として第7番リェニングラト(1941)と、シャスタコーヴィチが自分の名前からD-S-C-Hの音型を取り出して作曲した第3楽章を持つ第10番(1953)を上げておきましょう。この第10番はコンスタンティノポリスの陥落500周年の哀悼を捧げるべく作曲されました。なお、君たちの中にはまだ名前の発音がショスタコーヴィチになっている人たちが居ますから、十分に注意して正しい発音を心がけてください。」といって、全員に正しい発音を「シャスタコーヴィチ」と一斉に3回ほど唱えさせた。

ソヴィエト後の音楽

 「1870,80年代に文化統制が緩むとそれまで徹底的に押さえられていた外国の20世紀的な作曲に接することが出来るようになりました。この年代の作曲家達は ”開放政策グラスノスチってウォッカよりもっといい!”と叫びながら、より自由な作曲を行うことが出来たのです。やがて、1991年になるとソヴィエトそのものが崩壊するのは皆さんご存じの通りですね。」ここでは試験対策として2人の作曲家の先生お奨め曲を上げておこう。

アリフレード・シニートケ(1934-98)

・弦楽器のためのコンチェルトグロッソ第1番(1976-77)は、何でも取り込む複合的な作風が生かされた作品。
・8曲の内、交響曲第3番(1981)
・攻撃的なチェロ協奏曲(1986)

ソフィーヤ・グーバイドゥーリナ(1931-)

・タタール共和国で生まれ、宗教的霊感を曲にする乙女として登場した彼女も、今ではすっかり老婆になってしまった。
・ヴァイオリンとチェロのためのソナータ「喜べ!」(1981)
・オッフェルトリウム{奉献誦}(1981-86)・・・音符が1つ1つ生け贄としての使命を全うするギドン・クレーメルの為のヴァイオリンコンチェルト。

イギリス

 先生は次ぎにイギリスの作曲家達に目を向けた。

ラルフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)

・新しいイギリス賛美歌集の音楽編集者に抜擢された折りに、自分の旋律をこっそり忍ばせたというのは半真半虚であるが、先生の上げた曲名から幾つかを上げておこう。
・弦楽4重奏あるいは「ほとんどどんな楽器編成でもいい!!!」家庭音楽(1941)
・トマス・タリスの主題によるファンタジーア(1909)
・交響曲「ロンドン」(1914,改訂1920)・・・第3楽章にスケルツォなのに夜想曲というロンドンの風情を織り込んだら最終楽章が霧の中に消えていった。
交響曲「南極」(1948-52)・・・スコット隊長が呼ぶと全員落ちてくる。

グスターヴ・ホウルスト(1874-1934)

・「イギリスの民謡だけでなくインドはヒンドゥー教の神秘思想にまで到達したホウルスト。彼は管弦楽組曲「惑星ども」(1916)の最終楽章において、異国の香り溢れる和声を使用して「海王星」を作曲しました。ですが、ああ、いけません、作るのが早すぎましたよホウルスト。亡くなる前の1930年に冥王星が発見されてしまったじゃないですか。これでは最終楽章が未完成のままです。私は意を決して、冥王星を小惑星に転落させるように天文学者達に掛け合いました。しかし、冷徹な彼らはそのような意見には耳を傾けてくれなかったのです。私は若い指揮者であるケント・ナガノに、こうなったらもう、冥王星を作るしかないのではないかと話をしました。するとどうでしょう、彼はコリン・マシューズに作曲を依頼して、とうとう冥王星を仕立て上げてしまったのです。これには私も本当に驚いた。丁寧な冗談のつもりだったのですが、愛好家というものは情熱的なものですね。」こうして現在ではHYPERIONから冥王星まで入ったCDが出ているそうである。

ウィリアム・ウォールトン(1902-82)

・朗誦と室内アンサンブルのための「ファサード」(1921-22,改訂1942)だけでも聞いてみたらどうです。先生は、聞かずの生徒達が長い耳を折ったまま眠りほうけているのに、少し自信をなくしたのか、そんな奨め方をした。

マイケル・ティピト(1905-98)

・合唱指揮者としてのキャリアがオラトーリオ「我々の時代の子」(1939-41)など数多くの声楽曲を生み出す一方で、ピアノ協奏曲(1953-55)では先生が自ら冒頭の部分を引きながら解説を加えた。そこにはティピトが敬愛していたジャバの音楽が例えば”ガムランのアルペッジョ”などに見て取ることが出来るという。

ドイツ

 第2次対戦に世界中を引き込むナツィがドイツで文化統制を強めると、ユダヤ系でない音楽家の知性までもが流出してしまった。ナツィ休みという言葉はこの時初めて誕生したのである。

パウル・ヒンデミト(1895-1963)

・ヴァイオリンやビオラを初め数多くの楽器を自らの手で操ることの出来たヒンデミトは、音楽教育機関において自分の生徒達も自由闊達に導くことが出来た。「それに対して私は何て不甲斐ないのだろう」、先生は自分の教師としての至らなさを嘆き、ヒンデミトが初期に書き上げて後に改訂したソプラーノとピアノのための連作歌曲「マリーアの生涯」(1923)を聞きながら物思いに耽っていたそうである。それは生徒達の知らないことであったが、同じくヒンデミトの初期の代表作で後に改訂された喜歌劇「きょうのニュース」(1929)で取り上げられていたのを私は見てしまったのである。先生が威圧的な耳を持った生徒に対する教師の役割を考え悩んでいたように、ヒンデミトも1930年代に圧政が横行する時代に生きる芸術家の役割に思い悩んでいた。ヒンデミトは1525年の農民戦争の時に農民と合流するためアトリエを離れた画家のマティーアス・グリューネヴァルト(1470/80-1528)の生涯にその答えが隠されている事を知り、グリューネヴァルトの描き上げたイーゼンハイムの祭壇画の前で霊感の降臨するのを待っていたという。「こうして出来上がった作品が、オペラ「マティス」(1934-35)と交響曲「画家マティス」(1934)なのです。」先生は力を込めて黒板に「和声変動」と書き込むと、「和声の重力を自由自在に操る事により緊張と弛緩の間を行き来する新開発の語法が、お披露目を兼ねてこの曲の中に見られます」、と話を続けた。続いてその方法を説明し始めたのだが、あまりの情報量について行けなくなった窓際のノッポは、「なんだそりゃ!」と叫ぶとまたしてもついうっかり椅子から立ち上がってしまった。先生は彼の気持ちを何とか落ち着かせようと、ヒンデミトが大量に書き残した音楽教育用の作品の中から「音遊び(ルードゥス・トナリス)」(1942)の楽譜を取り出したのだが、その内容を見たノッポは頭の中が言いようもなく大混乱に陥り、とうとう教室から走り出すと階段から転げ落ちてしまった。僕はそんな風景を横目に見ながら、ヒンデミトの後期作品の試験対策として、「ヴェーバーの主題による交響的変容」(1943)とウォールト・ホイットマンの詩「この前ライラックが玄関先に咲いた時」の言葉による「レクイエム」を視聴することを心に決めたのである。

カルル・オルフ(1895-1982)

「ボイロンの歌(カルミナ・ブラーナ)」(1936)は丁度ヒンデミトのオペラ「マティス」が書き上げられた直後、まだ初演されるより前に作曲された。ヒンデミトのように教育に命を燃やす使命感から作曲した「子供のための音楽」(1950-54)は今日コダーイのように多くの教育機関で使用されている。丁度先生の著述した新西洋音楽史のようなものだ。

クルト・ヴァイル(1900-50)

・「劇作家のベルトルト・ブレヒト(1898-1956)と共に戦ったタッグマッチのすばらしさを、私は忘れることが出来ません。」先生は2人のタッグマッチを何度も見物に出かけ、ヤジと声援をとばしたのだそうだ。その過激なパフォーマンスが受け入れられそうもないベルリーンを避け、ライプツィヒで初演されたオペラ「マハゴニ市の興隆と凋落」では、サクソフォンからバンジョーに至るまでの楽器に交流電流を流し、自由快楽の都市が崩壊する様を舞台上に繰り広げたという。一方はるか昔ゲイ(1685-1732)が作成した「乞食オペラ」の詞に基づいて興行された「三文オペラ」(1928)では、隠し味として当時ペイプシュ(1667-1752)の作曲した曲をアレンジした合わせ技が炸裂し、初演から5年以内に19カ国語で1万回以上も上演される見せ物となった。「あまりのパフォーマンスに、」先生は嘆いた。「この作品は1933年にナツィによって退廃的のレッテルを貼られ、ヴァイルはパリを経由してアメリカ合衆国でブロードウェイ作曲家になってしまいました。」

ラテンアメリカ

・試験には出ませんと先生が言ったので、名前だけを書いてしばらく眠ってしまおう。

ブラジルのエクトル・ヴィッラ=ロブス(1887-1959)
メキシコのシルベストレ・レブエルタス(1898-1940)
メキシコのカルロス・チャベス(1899-1978)
アルゼンチンのアルベルト・ヒナステーラ(1916-83)
先生はヒナステーラの上に重要マークを付けて、オペラ「ボマルソ」と書き込んだ。

フランスにおける新古典主義

 「皆さん平気で新古典、新古典と言いますが、実は古典派だけでなく様々な過去からのリバイバルと再構築なのです。とくに機能調性そのままではないにしろ何らかの調的な中心を持ち、旋律線や楽曲形式に過去との繋がりの見られる曲を書いた20世紀前半の作曲家達は、一時期みんな纏めて新古典の名前を付けられてしまいました。そうした作曲家のフランスの例として、フランス6人衆とストラヴィーンスキイを見て行きましょう。」こう言うと先生はフランスで仲良く集まっていたら6人組みと呼ばれるに至った一連の作曲家の代表選手の名前を挙げていった。

アルテュール・オネゲール(1892-1955)

・スイス人を両親としてクロード=モネの都市ル・アーヴルに生を受けたと思ったら、交響的運動「パシフィック231」に乗っかってパリに向かった。彼は1923年のオラトーリオ「ダヴィッド王」で一躍名前が知れ渡り、誤って「ホネガー」と呼ばれることが無くなったという。

ダリウス・ミヨ(1892-1974)

・エクサン・プロヴァンスの生まれを同郷の作曲家アンドレ・カンプラ(1660-1744)の旋律まで取り込んだ管弦楽のための「プロヴァンス組み曲」(1937)で讃えたら、シュトックハウゼンから「未だにこのようなお優しい曲を書いている人間が居るとは!」と面と向かって言われてしまったのだと、泣きながら自伝に白状している。

フランシス・プランク(1899-1963)

・生粋のパリジャンとして下町に生まれた彼は名前がクプランと似ているため、私の前の耳ピアスがうっかり「フランシス・クプラン」と呟いて先生に校庭1周を命じられた。喜歌劇「ティレジアス(テイレシアース)の乳房」では一時期女性に転換して神殿娼婦を経験することによって偉大な予言を手に入れたギリシア神話のテイレシアースから劇の名前を貰い壮大な子作り賛歌を生み出した。中でも主人公が子作りのために乳房を外したり装着したりする変身場面は、現代の子供向けの変身シリーズのルーツになっている。一方チェンバロまたはピアノと小管弦楽のための「田園コンセール」(1828)ではラモやスカルラッティから精神を受け継いでいて優雅である。一方断頭台から首が転げ落ちるオペラ「カルメル会修道女の対話」は痛ましい。

イーガリ・ストラヴィーンスキイ(1882-1971)

 「それじゃあ、またワンポイントカードを配るから、それに目を通しておくように。」先生はまたしてもジョス缶カードを配り始めた。
<<ワンポイントジョス缶>>

 「パブロ・ピカソがそうだったようにストラヴィーンスキイは20世紀全般の作曲家に多大な影響力を行使してしまったのです。生まれ故郷のロシアに別れを告げて、作曲したばかりのバレ音楽「火の鳥」(1910)を鞄に押し込んでパリに現れたストラヴィーンスキイ。彼はセルゲイ・ディアギーレフ(1872-1929)の率いるロシア・バレ団と共にパリにやって来たのです。」先生は続けて、今世紀初めのパリの芸術活動そのものとまで言われたディアギーレフとロシア・バレ団について説明し、ストラヴィーンスキイが「火の鳥」に続いて「ペトルーシカ」(1911)と20世紀影響力筆頭作品「春の祭典」(1913)をこのバレ団のために作曲したことを教えてくれた。さらに先生はピアノの前に座るとなかなか流暢な鍵盤さばきで、「ペトルーシカ」の一部を引用して演奏し始めた。「ここです、この部分です。」先生はスピードを落としてもう一度演奏すると、今度は和音を鳴らし始めた。「ここが曰く付きのペトルーシカ和音です。皆さんはこの部分を2つの調の併置として説明することも出来ますが、また、8音音階の一種として解釈できるわけです。」先生はしばらく説明を続けた後、今度は「春の祭典」をピアノで演奏し始めた。「ジャン・コクトが先史世界の牧歌と呼び、初演の劇場を大混乱に落とし入れたこの曲のプリミティブな力はどこに隠されているのでしょう。ある人は和音と管弦楽がリズムに導き出されていると言いましたが、それはどういう意味なのでしょう。それを確かめるために、もっとも並外れた第2景の「思春期の少女達の踊り」を例にとって説明を加えましょう。」そう言うと、少女達が集団で飛び跳ねる第2景を演奏し始めたのだが、あまりのリズムに押さえきれなくなってしまったのか、窓際のノッポがついつられて一緒に飛び跳ねてしまった。一方、先生の方も演奏が白熱するに従ってだんだん感情の高まりを押さえきれなくなってきて、ついには立ち上がると教室を飛び出して、何かを叫びながらグランドを何十周も走り回ってしまった。

 次の時間、先生は自らが飛び出したため授業が終了になってしまった先ほどの続きから、平然と話を進めた。「その後第一次大戦で大編成の管弦楽を楽しむ機会が減ったことも一因でしょうか、ストラヴィーンスキイはしばらくの間小編成の楽曲に生き甲斐を見いだすのです。」そうして、ストラヴィーンスキイがペルゴレーシの音楽と思われた楽曲の中に没頭することによって過去からの遺産との対話を試みたバレ音楽「プルチネッラ」(1919-20)あたりから、一般的にイーガリの新古典主義時代と呼ばれる時期にさしかかることを述べた。ストラヴィーンスキイは過去の西洋音楽のリバイバルを均衡を持って幾分客観的に扱ったそうだが、話を聞いている内に過去の様式との対話が新古典なのか、ある種の均衡と客観性が新古典なのかだんだん分らなくなってくるのである。ああ、そういえば、新古典という名前よりも、何らかの調性に依存した新調性と定義した方が相応しい、そんな意見もあったはずだった。だんだんぼやけて重くなっていく私の頭は、辛うじて「交響曲ハ調」(1940)を聞けという先生の言葉を了解した。なんでも、イーガリが一番莫大な影響を被ったのは18世紀の古典時代の音楽で、その精神が隅々まで行き届いているのだそうだ。更に突き進む説明の奥の深さに付いて行けなくなってきた私は、もうこうなったら、ウィリアム・ホウガース(1697-1764)の版画を元にしたオペラ「道楽者の成り行き」(1951)を自ら実演するしかないと腹を括った。それを見つけた先生は、どうせマネをするならオペラ=オラトーリオ「エディプス」(1927)の態度で臨んで欲しいと私に告げると、「詩編交響曲」(1930)が20世紀最大級の傑作であることを教えてくれた。「汎全音階法が使われているのです。」先生は目を輝かせながら言った。「全音階が縦横無尽に語り尽くされた万華鏡のように交響曲を形作るのです。」疲れ果てた耳が最後に聞き取ったのは、イーガリが50年代に12音にも手を染めてみたという衝撃の事実だった。次の日、知らない間に20章は終了して、21章が始まっていたのである。

2004/4/2
改訂2004/4/4
色付2004/4/26

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