虚偽の哲学
一
虚偽は虚構を共として
偽善をロマンスと風に乗せ
羽ばたく夢さえ餌まみれして
太ったきらびやかにあふれてた
現実はむさぼるみたいな
虚構をつなぐ時の釣り糸にして
怒りも笑いもいつわりにかどわかされ
セピアに褪せて揺らめいていた
日常は与えられた快楽の
代償として支払う贄(にえ)となり
目の前の人さえもはや
コマーシャルの合間にしか思われなかった
さっさとすませて快楽の
約束された豊かな仮想空間で
いつわりの勇気や希望やら
愛やら、あるいはおぞましいくらいの……
ジェスチャーさえも虚言定理の
不気味な塗りたくったコメディアンどもの
あらゆる動物がなし得ないほどの
穢れた雄叫びと、その嘲笑をばかり賛美した
虚構は常態へと取って代わり
日常は塗りたくられながら結晶化した
いびつなかたちの現実は
嬰児(みどりご)のクレヨンの落書きのような
ぐちゃぐちゃを演繹したままで
ただひたすらに、虚構を賛美するような
やがては、セピアの枯れてうずくまる
枯れ野の果てのみじめさへと消えて行くのだった
それな汚辱にみちたスナップを
枯葉を眺めるのが辛くていつわりの
多彩なかざりした虚偽のかなたへと
人々はますます邁進するのだった
それにしたがって益々あたりきは
むなしいものへとおとしめられていった
虚構ばかりがどす黒くて
我が世の春を謳歌するのだった
いつしか日常的肌感覚から辛うじて
いのちの意義を信じられたはずの僕たちは
ただ染めらながらはしゃぎまわる
本当の意志などどこにもない
哀れなモルモット
あるいは島離れした猿山の
キーキーはしゃぐお猿さん
累計的な快楽動物へと
自らをおとしめてはそれを誇りとし
バナナとリンゴの快楽の違いばかりを
個性やら多様性の時代などと……
ハウス栽培の規格品へと
みずからを落とし尽くした奈落の底で
それさえ気づかずにはしゃぎまわるのだった。
二
そんないにしへのむかし話も
人で無したるこの頃はもう
すっかりはやらなくなりました。
そうして人は愛し方も
殴り方も、ののしり方も
つまりはなみだの流しかたも
信任やら尊敬の仕方さえ消え失せてしまい
虚構から与えられた
それらしいしぐさは
誰もがおなじジェスチャーで
ピエロみたいに大げさにはするのですが
それは与えられた仕草には過ぎなくて
自発性やら情緒との一体感のないような
なんとも応用の利かない
無個性なからくり人形のなりをして
同一的な仕草をもてあそぶばかりで
それを常態とは信じ切って
少しでも情緒と結ばれた真実の
表現やら行為を見ると
まるでおぞましい者でも眺めるみたいに
みずからがそぎ落とした符号でないものを嫌うみたいに
つまりはみずからがエックスで無くなるのを恐れるばかりに
ベルトコンベアーから落とされるみたいに
隣の規格とわずかにでも違うことを
あらかじめ定められた、色彩やパーツの違いのみを個性とし
それから外れるくらいの、ほんのわずかな人としての
個性と呼ばれていたはずのものたちを
恐れて毛嫌いするのでした。
そうして、くだされる作為的な創造物から
形作られる虚偽の世界にみずからを形成したつもりになり
そこから逃れるくらいの人の意識さえも
もはやもたなくなりました。
もはや、そんな行動をすることは、
怖いどころの情緒ではなく、ただ単に、
きたならしく、おもうばかりなのでした。
そうして人の世はみずからの意志により終焉を迎え、
今は符号の世の中となりました。
人は人類が滅びるよりもずっと前に、
みずからの低俗なドラマのうちに埋没して、
せっかく芽生えた駄菓子のおまけくらいの
情緒に結びついた本当の言葉というものを
わずかな世紀で失っていったのだと云います。
そうして損なわれた符号どもは
符号の果てにその名称ばかりを継続させ
それを自らと疑わずに
永続的な名称ばかりを継続して
それを永遠のいのちと信じて疑わなくなりました
そんなものは符号のアルファベットの
アルファーやベータの違いに過ぎなくって
情緒的動物に言葉をつなぎ合わせたくらいの不思議な動物
人間の姿では
もはや無くなっていたというのに……
それが第二次宇宙時代の
辺境の地球で起こった些細な
記すべき価値もないコメディの
一顛末ではありましたとさ。
めでたし。
めでたし。
作成
2016/8/7 落書
2016/12/02 酔って手直
すなわち 完成された作品にはあらず