『大和物語27段』古文と朗読

『大和物語27段』古文と朗読

 大和物語は、なにも恋愛のしみじみとした和歌だけを描き出したものではなく、昇級の叶わなかった和歌、宴の和歌、故人をしのぶ和歌、愉快なエピソードやばくち打ちの和歌なども収められ、なかなかにバラエティーに富んだ作品になっています。あながちに閉ざされた貴族の物語でもなく、遊女が登場したり、落ちぶれて乞食のようになった者も出てきますが、かといって武士が刀を振りながら和歌を詠んだりはしません。

 また、恋の和歌にしても、女を連れ去る話、自殺する話、田舎染みた和歌を楽しむもの、ふられまくりの男の話など、一歩足を踏み入れると、急にモノトーンだった古文が、カラフルな彩色となって浮かび上がってくるようで、紹介するのも楽しくなってくるくらいですが、これは典型的な愉快ものの段。

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現代文

 戒仙(かいせん)という人が、法師になって、比叡山に住んでいる間に、洗い物などをする人がいなかったので、親の元に衣類を洗ってもらいに送っていたのが、どのような時だったろうか、親がむつかる[不快に思って腹を立てる]事があって、

「親兄弟の言うことも聞かず、出家して僧になるような人は、よくもなあ、こんなうるさいことを、させるものか」

と言ってきたので、和歌を詠んでやるには、

いまはわれ いづちゆかまし
  山にても 世の憂きことは
    なほも絶えぬか

[今はわたしは どこへ行ったら良いのか。
   山に入っても、世間の煩わしさは、
     なおも絶えないものならば]

古文

 戒仙(かいせう)[詳細不明。50段と同一人物]といふ人、法師になりて、山[比叡山]に住む間に、あらはひ[洗濯]などする人のなかりければ、親のもとに衣(きぬ)をなむ、洗ひにおこせたりければ、いかなるをりにかありけむ、むつかりて、

「親はらから[親兄弟]の言ふをも聞かず、法師になりぬる人は、かくうるさきこと言ふものか」

と言ひければ、詠みてやりける。

いまはわれ いづちゆかまし
  山にても 世の憂きことは
    なほも絶えぬか

[今はわたしは どこへ行ったら良いのか。
   山に入っても、世間の煩わしさは、
     なおも絶えないものならば]

解説

 執筆の制約もあってか、和歌物語の滑稽物は、貴族同士の和歌の掛け合いよりも、貴族社会と寄り添いながらも、異質なものとして捉えられていた、仏僧などを描き出すときに、顔を出すことが多いようです。この段の面白さは、和歌だけを詠むと「修行をしても世の雑念は払えない、どこへいったら悟ることが出来るのか」なんて、なかなか立派なことを歌っている僧が、実際は修行に出ていながら、実家に洗濯物を送りつけて、洗って貰っていながら、それを批難されたときに詠んだ和歌であるという。

 その矛盾のうちにある訳で、毎日料理を作って貰っている学生が、親に向かって、「この料理の献立は栄養のバランスが」なんて不平を言って、親に逆ギレされるような面白さにあります。これが下手な和歌だったら、全体が安っぽい俗画のようになってしまいますが、なまじ和歌の格調が保たれているからこそ、滑稽でもあり、段の意義も保たれている。なかなか絶妙なバランスで、それでいて、和歌の格調があるからこそ、この僧の矛盾が、爆笑とはまったく異なる領域、詠むたびになんとなくおかしくて、愉快だからこそ佳作です。