「逆説のバラッド」フランソワ・ヴィヨン

「逆説のバラッド」フランソワ・ヴィヨン

 書籍を整理しようと書棚をあさっていたら、「フランソワ・ヴィヨン」の文庫本が出てきた。「逆説のバラッド」という名は知っていたから、つい眺めてみたら、開始部分、

空腹の時より外に 心配はなく、
仇敵に仕へるより外 奉公はなく、
一束の秣草(まぐさ)の外に 噛むものもなく、
寐込んだ男の見張りより 確(しつか)りとした見張りはなく、
忠誠の誓に叛くより外に 寛仁大度(かんじんたいど)はなく、
臆病者の保証より外に 確かな保証はなく、
神を否認する者の信仰より外に 信仰がなく、
恋愛に夢中の者より 盲目でないものはない。

   岩波文庫
   1965年初版「ヴィヨン全詩集」(鈴木信太郎訳)より

とつづられていた。もしこれが面白いと、素直に感じたら、むしろ奇人の部類に入るのではないかと、心配されるくらい。詩とも落書きとも、まとまりのある文章とも思えない。そこで、翻訳のせいか、それとも、もともと現代にはそぐわないような、言葉遊びの詩なのかと考えて、ネットで調べてみた。

 すると、次のサイトで紹介がなされていた。

 「フランス文学と詩の世界」というサイトの、「逆説のバラード:フランソア・ヴィヨン」のコンテンツ。

 ここからやはり、はじめの段を抜き出してみると。

世に飢えてる時ほど安心な時はなく
優しくしてくれるのは敵ばかり
食うものば秣に如くはなく
見張りはみな居眠りばかり
寛大な奴ほど無信心で
確かなのは臆病さだけ
信仰は異端の心に宿り
頼りがいのあるのは女たらしだけ

 いつもながら、訳によって印象が大きく異なるものだが、先ほどのよりは、今に近い翻訳であることもあり、ほとんど解説的なへりくつ(より正確に言えば詩情を持たない者が記したもののように聞こえるもの)に聞こえた岩波文庫の言葉も、ずっと詩らしく響いてくる。

 けれども、シェイクスピアの詩でも、戯曲でもそうだが、どれほど言葉を選び抜いても、原意に従って翻訳をするという行為が、結局は意味だけを抜き出した、言葉の形骸化へ走るのは避けられない。これは逆に、和歌を英語に訳しても、本質的には変わらないとは思うけれど。

 だったら、おおざっぱな意味だけを受けて、翻訳された内容を適当にまとめて、詩として整えてしまったらどうだろう。ふと浮かぶままに、最後までやりきるつもりもなく、落書きを始めたところ、その行為の中でようやく元の詩の面白さの片鱗に気がついた。

 つまりこれらの逆説は、愛の不条理を中心にもてあそんだ逆説の詩ではなく、むしろ愛の不条理、逆説的に述べれば愛の賛歌をテーマにして、詠まれているのだということ。それがどうしても、翻訳された日本語を読んだ時には、理解できなかったから。

 それでちょっと冗長気味に、そのままのノリで、最後までたどり着いたのが次の落書である。

   「逆説のバラッド」
おなかが空くほどの幸せもなければ
大嫌いに逢うくらいのやすらぎも
残り物を与えられるくらいのごちそうもなく
恋人を付け狙う、警察にすらなれません
広い心の人ほどうつろで満たされて
臆病という名の勇気も持てず
無信仰という名のいのりも出来ないくらい
愛に生きる人たちに、素敵な助言などないのです

結局、トイレに入っても子供は生まれないし
捨てられ犬に拍手する、高評価さえ得られない
殴られた後におとずれる哄笑はヒーローじみて
金を踏み倒す勇気すら称えられるのが真理なら
結局、おもねりの中にしかまことの愛はなく
不幸な出会いでなくちゃ、激情だってあがらない
飾り言葉でなけりゃ、真実は伝わらないくらい
愛に生きる人たちに、素敵な助言などないのです

こうして不安のうちに幸せを感じ
舌打ちをしなくては、立派な姿でいられない
お買い求めの品々でしか、わずかな自慢も出来ないし
悩みに膨れた心でなければ、すこやかな思いは伝わらない
すばらしく見せようとするほど卑怯になり
でたらめな奴からの忠告以外に、神の啓示すらないのだから
すぐなびく女の軽率ほどの、やさしさはどこにもないとしても
愛に生きる人たちに、素敵な助言などないのです

真実が分らなくなった、わたしの真実と言えば
愛する元気がみなぎるのは、心が病気な時だけで
めくるめく妄言の中にしか、本当の思いなどなくって
うわっつらの紳士的態度ほど、卑怯なものもまたとなくって
安易に繰り返される流行歌以上に、嫌みなものすら無いのですが、それより……
愛に生きる人たちに、素敵な助言などないのです

 英語の劇などを翻訳すると、私が何回か量った限りでは、朗読や演じるための時間が、1.5倍くらいの長さになる。省略しないと、2時間が3時間になるのだから、劇や映画においては、かなり大きな時間軸の相違である。

 それに対して翻訳者は、元の言葉のペースに近づけようとして、どうにか短くしようとするから、結果として、意味は分っても、日本語の語りの自然さで、心情を豊かに表明するというところから、逸れてしまう場合がままある。

 だから、このような詩などは、かえって長くなっても、日本語での発声との兼ね合いを付けた方が、冗長になっても詩興においてまさる場合がある。何しろ、意味だけ通じても、それは意味が分ったと言うだけで、詩にはならないから。(シェイクスピアの戯曲が、英語を分らない人には、翻訳で、心の底からの感動は得られない場合が多いのもそのためで、別に受け止められない人が劣っているせいではない。)

 そんな考えがあるので、ここでも短くするつもりは、初めからなかった。ただ、そもそも私はフランス語なんてまるで分らないものだから、文庫を捨てる前にひと筆残すくらいの意味で、原文の参照すらせずに、ただ二つの翻訳を見比べながら、かなり怠惰に、書き出した落書には過ぎなかった。

 それで、出来上がってみたら、結局の所、わたしのものは翻訳の翻訳には過ぎなくて、おそらくはフランソワ・ヴィヨンとは何の関わりもないくらいの、落書きには過ぎないもの。かといって、先に紹介した日本語が、それよりマシという訳でもなくて、結局は上の三つとも、詩としてちっとも面白くなくて、無意味な言葉遊びには過ぎないという、わびしい気持ちに囚われた。

 ようやく、そもそもの原詩に触れてみようと思い立って、紹介サイトにある、フランス語の原詩を眺めてみると、

Il n’est soin que quand on a faim
Ne service que d’ennemi,
Ne macher qu’un botel de fain,
Ne fort guet que d’homme endormi,
Ne clemence que felonie,
N’assurance que de peureux,
Ne foi que d’homme qui renie,
Ne bien conseille qu’amoureux.

 Ne は否定で、続く部分の逆接という訳だが、それにしても、何も分らなくても、「ne」と「que」のもたらす統一性、末尾の韻、同じ様な長さのセンテンス、原詩がどれほど詩的な面白さを込めて読まれたものであるか、一目瞭然である。

 本来は次の段へ続いているので、何度も繰り返されるはずの最後の一行は、「恋する人への良い助言はない」くらいの意味だろうか、もしくみ取った意味まで含めて翻訳してしまうと、もうそれだけで、原意が詩としてくみ取られるべく、わざと記さなかったことを、お節介にも表明したことになってしまうから、提示された表現はもはや、詩でなくなってしまうのは当然ではある。

 そのような危惧を、先の二つの翻訳は担っているように思われる。さらに、その二つに依存した私の落書きにいたっては、ほとんど原詩と何の関係もない、下手な二次創作には違いなかった。結局は、時間と言葉の無駄であったかとあきれ果て、馬鹿馬鹿しいので、さっそく抹消しようかと思ったが、しばらく時間が経つと、相変わらずの貧乏性、せっかく書いたものだから、なんらかの役には立ててみたい。

 それで、二次創作であろうと、三次創作であろうと、すくなくともこれを詩にするには、どうしたら良いだろうと考えると、もはや原意などはお構いなしに、大きく変更してしまった方が、かえって原詩の精神の片鱗くらいは、逆説的に残されはしないだろうか。

 そう思って、落書きしたのが次の詩ではあるが、結論を述べれば、原詩の面白さそのものの魅力は、ほかの言語にうつした途端に損なわれてしまい、たとえ別の詩に出来たとしても、それは意味の似通った、まったく別の精神の、別の詩には過ぎない。そんな当たり前のことを、再確認したには過ぎなかった。

 けれども、もし、原詩の持つある種の風格に触れて、言葉を格言風にしたり、あるいは古調にあらためても、最終的にはそんな語り口調で、日本語で述べるのには不自然だ、という結末にもなりかねない。そう考えるならば、あるいは、次のトーンくらいが、まだしも原意の翻案に、詩情を保っていると言えるのかもしれない……などもっともらしく述べながら、結局は、行き当たりばったりの、一筆書きには過ぎないのだけれど……

 けれどもわたしから、勢い任せの一筆書きをとったら、いったい何が残るだろう。わたしの落書きもまた、わたし自身の心地よいと感じるテンポの中でしか、記すことが出来ないものだから。

     「逆接なバラッド」
おなかが空くほどしあわせ
大っ嫌いしたやすらぎ
雑草みたいなごちそうに
付け狙われるほど安心?
約束をやぶるようなきまじめ
おっかなびっくりな勇気
こまったときだけ神だのみ
恋ほど不思議なものはない

子供はどうして出来るの
捨てられて立つうわさ
殴られたようなやさしさ
金を踏みたおすほどの勇気
こびるみたいな愛情
タブーに触れるよろこび
おだてられたら好きにして
恋ほど不思議なものはない

不安なくらい多幸感
舌打ちするほど恋しくて
お買い求めすら愛ならば
ふくれっ面だって健康的
卑怯なくらい一途でいて
サイコロ任せな忠告だって
軽率すぎるやさしさで
恋ほど不思議なものはない

見境もない真実を
歌えるような病(やまい)して
でたらめ返した本当も
うわっつらした嘘ばかり
甘えた声は嫌みでも
恋ほど不思議なものはない

おまけ、ヴィヨン略歴

 Francois Villon, まだ百年戦争さなかの1431年、パリ生まれか?
パリ大学を卒業、アウトロー的生活に、1455年乱闘の際に司祭を殺し、アンジューへ逃亡。その後も犯罪と投獄を繰り返し、ついに絞首刑となるも、1463年、追放刑に減じられ、その後の消息は不明。