座興の句について

即興的パロディー

パロディーの質とオリジナル
    -あるいはパクリと創作について

ビアガーデンにて

 不意に酒の句を作れと言われれば、凡人であれ、乏しき知識をもてあそび、

静かさや
  岩に染み入る 蝉の声

など、ほとんど唯一の知っている俳句を元に、

ほろ酔いや
  喉に染み入る 酒の声

くらいは、誰でも詠みたくなるところ。

 なるほど、誰でも思いつくがゆえに、共感とひらめきが一致して、その場に発っせられると、酔っ払いどもには面白く、ちやほやされることもあるかも知れないが、同時に、あまりにも誰にでも詠めるが故に、オリジナルをひねったくらいの、安いパロディーとしか見なされず、紙面に残されるべき価値の、ミジンコの涙ほどもない、言葉の嘔吐物には過ぎないものである。それを、少しく逃れようとして、

酔いどれや
  喉越し渡る 酒の声

 あるいはこれくらいなら、狂句の走りくらいにはなれるかとうぬぼれるが、部分的な着想が、表現の底辺であるとすれば、底辺にはしごを掛けたからといって、低俗な領域からは逃れられず。有名な句を、もじったような露骨さからは逃れられない。

 つまりは、ちょっと俳句を試みたくらいの人なら、やはり誰でも思いつくような、塵と芥の混じり合ったガラクタの、拾い出す価値さえ褪せるような、醜態には過ぎないもの。

 それなら、もう少し吟味して、

酔いどれや
  喉越し渡る 風の音

くらいにして、酒の匂いを初句へ収斂し、フォーカスを移すことくらいは、あるいは思いつくかも知れず。するとそれがきっかけとなって、即興的な語りに相応しい、単純な季語を置いて、正式に俳句の仲間入りがしたくなってくる。すなわち、

喉越しや
  酔いどれ渡る 初夏の風

 これでようやく、安っぽい名句のパクリのような気配は消え失せ、オリジナリティを確立するように思われて愉快である。そこでやめておけば良いものを、初学者の悲しさか、謎サークルの悪影響か、添削先生の入れ知恵か、素朴な季語などでは、アイデンティティに乏しいと思い始めて、

喉越しや
  酔いどれ渡る 花火酒

 こなれないねつ造表現を持ち込むにいたった。

 尻尾に火の付いたネズミのように、ひとたび走り出したこの心理的傾向は、さらなる表現へと邁進し、いつしか読まれた刹那の心情よりも、己の表現の妙とやらが先に立つ。

喉越しや
  酔いどれ空に 一輪花

など、紐解くべきひねりを効かせたような、いつわりの表現が生みなされ、ついにはハーメルンに誘われるまま、彼らの仲間入りを果たすのだった。

 けれどもこの着想は、そもそもが、即興的な座興の精神にこそ、生命力を保つものならば、はじめの明白なパクリに対して、俳句の体裁は獲得したものの、必ずしもより心情的に、まことを得たとは言い難く、つまりは居士の述べるところの、「月並調」と命名されるのが落ちである。

 そうであるならば、かえって凡人なら、逆に月並調と勘違いするような、ありきたりの表現をつま弾いて、

喉越しや
  酔いどれ渡る 夏の月

くらいで十分過ぎるくらい。

 もっとも上等なものではない。その程度の着想には過ぎないものである。けれども時候ばかりで情景の曖昧な「初夏の風」に比べれば、おなじ陳腐な表現には過ぎなくても、夏の夜に野外で月を眺めて飲む情景が明白で、聞き手のこころに浮かび来るイメージの輪郭がしっかりしている。それがひるがえって、句の心情をゆたかに見せるという仕組みである。

 こうして素直な心情が伝わるならば、例えあまたの類似表現には過ぎなくても、一塊の独立した詩としての生命を、(その生命の価値はともかくとして、)獲得しているとは言えるだろう。そうなればもはや、月並調と言われるべき、陳腐な落書きではないのである。

 もっとも謎サークルの皆様に尋ねれば、おそらくは例外なく、これを月並調と言って罵るだろう。おおよそ彼らくらい、ナチュラルな詩情を解さない存在は、この世にもあの世にも、銀河系全体を探し回っても、見つけ出せないくらいである。

それはさておき

 けれどもし、それが花火の席の座興であれば、つまり俳句に「花火を見ながら」といった題目でもあれば、詞書きが状況を説明してくれるので、あながち唐突にはならず、多少の感興を催すことも、あるいはあるかも知れない。その時は、なるべく「空に」などの説明は止しにして、語りがそのまま対象へと結ばれたように、

喉越しや
  酔いどれ渡る 一輪花

 言い切って見せた方が上等である。とはいえ、「一輪花」に嫌みが残る傾向には変わりなく、座興としては優良なくらいのもの。けれどあるいは、

喉越しや
  酔いどれ渡る 天の川

くらい大胆にすれば、現実と空想がもつれ合って、空に銀河が渡るのか、彦星が天の川を渡るのか分らなくなって、雄大な感じが七夕に収斂されるものならば、あるいはこのあたりの句が、即興で生みなせれば、吟遊詩人の端くれくらいには、仲間入りも許されるかもしれない。それにも関わらず、着想に腐心して加えたような、結句の印象は拭い去れず、座興としての価値以上は求めるべくもない。

 どうせ座興の精神なら、かえってパロディの原型を渡らせて、即興的な面白さと、破天荒な着想の妙を取り合わせ、俳句など面倒な手続きはいたさずに、狂句のまま、

喉越しや
  酔いどれ渡る 蝉しぐれ

 とでもすれば、引用したもと句と、オリジナリティを、即興性とたわむれに掛け合わせて、酒を勇気にほざいて見せたような剛気なところが、せこせこしない愉快さと、ひねた小人ぶりを感じさせない奔放な精神を感じさせ、平安の世なら、業平(なりひら)時代の愉快にも通じ、屈託もなくて心地よい。

七夕の酔ひの渡りや三味の街
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