以上の総括として

言えることは

 一番はじめの詩は、その刹那に信じた真実を唄ったものではなく、言葉の虚飾をもてあそんで、それらしい体裁に整えたからこそ、虚飾の体裁の似合うお化粧の世の中には、ありきたり詩らしく思われ、それ以外のものは、素朴な心情の吐露より出発したが故に、虚飾にあふれたお化粧の世の中には、不体裁なものに思われて、ひからびちまった情緒をもてあそび、与えられたお涙に酔いしれる鶏どもからは、倦厭されるというだけのことなのです。

 けれどもしはじめの詩を、もう少しだけその場で感じた喜びとして、生きた言葉で同じように提出出来たなら、それは虚偽ではなく、虚飾ではなく、本当の詩になると言うこと。そしてその違いを見抜くためには、本当の情緒を、本当の言葉で表現し続けるくらいの、本来なら当たり前のこと。たわいもないことを、その瞬間だけでなく、あたりまえにいつも出来るくらいの、あたりまえの人々でなくっちゃ、鶏小屋では到底叶わないと言うこと。

 これが自戒なのか、他戒なのか、それはあなたがた一人一人が、勝手に決めるだけのことには過ぎなくて、わたしの本心は、永遠に澄んだ水に溶かされて、自らでさえ取り戻せないような、はかないところにあるいは詩というものは、息づいているものなのかも知れませんね。

 以上で風変わりな詩の定義づけは終わりです。
   それでは皆様さようなら。時々はアルコールに感謝です。