あるいはにせものの詩について
真の心情からではなく虚飾の生ぬるい精神から生みなされた詩の、本質的な嫌みということについて説明しようと思って、わざと作ってみた詩。それを作りっぱなしで、どのように説明しようとしたのか、すっかり時期を踏み外してしまったので、とりあえず掲載だけして置こうというもの。化粧品まみれのこの手の落書きなら、今の世こそ大量にあふれているには違いありません。そうして本当の心などというものは、どしどし損なわれて、愚弄されて、汚泥の中にまぜこぜにされて、触れても誰も気づかない、芥のように落ちぶれてしまいましたとさ。めでたし。めでたし。
君とあるいは草原で
さわやかな初夏が
僕らの笑顔を運ぶみたいな
駆けてゆきますそよ風が
草の香りを巻き上げる時
おいしそうな雲が
機械化して舞い踊るような
紙飛行機の憧れです
子犬がくわえたクローバーが
鬼ごっこするような情熱で
きらめく山川のまなざしです
ハムとタマゴがけんかして
作り置きするようなサンドなら
マヨネーズ付けた指先の
触れ合う君がすべてです