歌う百人一首033番「ひさかたの」

歌う百人一首033番「ひさかたの」

 散り急ぐ花を「あはれ」に思う心もあれば、枯れきった花を見て、かつての心を取り戻せない和歌もあります。『大和物語』の「とこなつ」の和歌の結句「いかで咲きけむ」には、どうして咲いていたのか、今はもう分らないような思い、ある種の不思議感覚が込められていて、百人一首の「ひさかたの」の結句とはまた異なりますが、どちらもつかみとれないような、不可解な心情を宿しているようです。

小倉百人一首 033番「ひさかたの」

ひさかたの
   ひかりのどけき 春の日に
  しづこゝろなく 花の散るらむ
          紀友則

[(ひさかたの)
   ひかりものどかな 春の日なのに
     なぜ穏やかでいられずに
   花は散ってゆくのだろう]

 あるいは小野小町の「花の色は」(9番)と共に、もっとも知られた百人一首の和歌でしょうか。紀友則(きのとものり)は「古今和歌集」の選者の一人で、名声は紀貫之に劣るかも知れませんが、他に得がたいような印象深い和歌をいくつも残していて、きわめて優れた歌人の一人にあげられます。

 ここでは「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞ですが、すでに平安時代には意味は分らなくなっていたと思われます。けれども不思議と「のどけき」と調和していて、上句全体の穏やかな春の印象に、ある種の神聖さを加えてもいるようです。

 そんな、「動」よりも「静」を感じさせる春の日なのに、どうして落ち着いた心もなく、花は散り急ぐのか、と対比を加えながら、和歌で述べたかった対象に焦点を定めたのが下句です。結句の「らむ」は「花の散る」原因を推量した助動詞で、「どうして散るのだろう」くらいの意味になります。

 この和歌の魅力は、その情景を詠んだ詠み手の心情を悟れなくしてある点で、どこまで解釈を極めても、和歌の意図は「なぜ散り急ぐのだろう」という疑問から一歩も昇ることはありません。ただ、どうして散り急ぐのかという疑問が、なんらかの心理作用からもたらされたことは、聞き手にとって明白ですから、その詠み手の心情へ近づきたいたいような欲求にかられることになる。

 ですがそれはこの和歌からは消されていて、したがって聞き手の心情や経験が作用して、静と動の対比の情景を描き出したようにも、ある種の無常観に接したようにも、何か深い悲しみを秘めているようにも、恋愛に基づいているようにも、人によって、また時によって、その印象が変わってくる。

 永遠に答えのないものを求めるようで、けれどもその詠まれた情景と、なぜという心情は明白なもので、また心地よいものなので、その定まりきれない心情とたわむれるのが、ちっとも嫌でないばかりか、かえって心地よくて、それでも明白には定まりがつかなくて、また口にしたくなってしまう。

 結局それが、この和歌を永遠に魅力的なものに見せているのかも知れませんね。