「ちはやぶる神代もきかず竜田川」
和歌の時代もっとも知られた歌人の一人、在原業平(ありわらのなりひら)は、『伊勢物語』の主人公ともされ、彼の和歌として取られた「ちはやぶる」も優れた和歌ではあります。ただこの頃、殊に知名度が上がったのは漫画の「ちはやふる」のおかげかも知れません。
おなじ竜田川の紅葉を詠んでも、『大和物語』の柿本人麻呂(とされている)和歌は、空想ではなく実景に委ねて詠まれたもので、写実の方向へと聞き手の心理をいざないます。また『大和物語』の二首目の和歌は、日常的虚構へといざないますから、それぞれ和歌の印象を異にします。味わいを比べてみるのも面白いかも知れませんね。
小倉百人一首017番「ちはやぶる」
ちはやぶる
神代(かみよ)もきかず たつた川
からくれなゐに 水くゝるとは
在原業平朝臣 (古今集294)
[(ちはやぶる)
神の時代にも 聞いたことがない
竜田川を 唐から来た紅色で
くくり染めにするということは]
「ちはやぶる」は神に掛る枕詞で、上句は「神の時代でさえ聞いたことがない」と、竜田川を流れ、あるいは映し出された紅葉の素晴らしさを例えたものです。「からくれなゐ」の「から」は「唐」のことで、外国からもたらされた鮮やかな、おしゃれな紅色(くれない色)に、竜田川が染められるような、こんな見事な光景は、神代にもなかったと詠んでいる訳です。
あるいは神代の時代には、まだ「唐の紅」なるものは存在しなかっただろうから、それに比喩されるこの光景も、神代には存在しなかったという意図もあるのかどうだか、それは知りませんが……
自然の情景を、神々の仕業とするのも、壮大な虚偽性、つまり芝居がかった誇張表現ですが、その情景が素晴らしいという心情を伝えるには効果的です。ただ「神がくくり染めにしたのだろうか」と驚くくらいなら、あるいは類型的な和歌にもなりそうで、安っぽく響きそうな所ですが、川の流れを染めていた神々の時代でさえ、こんな情景はなかったよと、実景を神に勝るものとして表現するあたり、歌人としての力量が示されています。
そうして、常に聞き手を意識して、ある種の演技性を持ち続けるのが、在原業平の和歌の得がたい魅力でもあるようです。