「大和物語第1段」古文と朗読

「大和物語」一段古文

 亭子のみかど[宇多天皇(うだてんのう)(867-931)]、今はおりゐ[天皇の位を次に譲るという事]させ給ひなんとする頃、弘徽殿(こきでん)[皇后や中宮の住む所]の壁に、伊勢の御(いせのご)[下参照]の書き付けける。

わかるれど
   あひも惜しまぬ もゝしきを
 見ざらむことの なにか悲しき
          伊勢 (後撰集)

とありければ、みかど御覧じて、そのかたはらに書き付けさせ給うける。

身ひとつに あらぬばかりを
   おしなべて ゆきめぐりても
  などか見ざらむ
          亭子の帝 (後撰集)

となむありける。

現代語訳(解説込)

 亭子院(ていじのいん)と呼ばれる屋敷に住むため、今では亭子院と呼ばれるかつての宇多天皇(うだてんのう)(867-931)(在位887-897)が、息子である醍醐天皇(885-930)に天皇の地位を譲ろうという頃。皇后や中宮の住む、弘徽殿(こきでん)の壁に、宇多天皇の妻の一人で、歌人としても知られる伊勢(いせ)が、和歌を書き記した。

別れるというのに、
 惜しんでもくれない宮中を、
  それでも私の方では、
 見ることが出来ないということが、
どうしてか悲しいのです。

 そのように書かれていたのを、宇多天皇がご覧になって、その横に自らの和歌として、配下の者に書き付けさせるには、

 ここで〆の和歌が来るのだが、その和歌がきわめて解釈がむずかしく、伊勢が詠んだ仮想の恋人、つまり「ももしき(宮中)」そのものに対して、宮中というものは「身一つ」である訳ではないのだから、どうしてふたたび巡り会わないことがあるだろうか。と詠んでいるようにも思われるが、同時に「ももしき」と別れるのはお前一人ではないのだから、(実際は別れるわけではないが、宇多天皇も気持ちとして、)共にゆきめぐり会わせて、どうして見ないことがあるだろうか、と言っているようにも聞こえる。

「ゆきめぐりても」には生まれ変わってものような、仏教の輪廻転生に由来するような意識が感じられ、すると「身一つにあらぬばかりを」には、今限りのいのちではないのだから、すべての者が行きめぐるうちには、どうして逢わないことがあるだろうか。と述べているようにも思われる。

 また天皇というのは特別なものなのだから、わたしと関わった者は等しく、恩恵は続くだろうというような意図も感じられもするのだが、全体が伊勢の和歌の返歌として、あるいは横に並べるべき和歌として、「そうでなければならない」というほどの、明確な解釈には至らずに、つまりは現在のところ、自分なりの解釈はしきれていない。

酔いどれの脱線

 ただ一つ言えることは、たとえば西欧の作曲君主などの音楽は、芸術的価値として他に類は見ない、類いないある種の価値、つまりは芸術的な価値を、有してなどはいないように思われるが、(というより耳で聞くとそうとしか思えないが、)この時期の和歌においては、「帝王の和歌」のようなものが確かに存在していて、それは他の歌人の和歌では、代用がきかない、独自のセンスを、持ち合わせているということで、最高のパトロンとしてではなく、自らが文芸の担い手として、「他の芸術者と同類的であり、しかも独自の何ものかを有している」ということは、きわめて驚異的なのではないかと……

いうのは、ちょっと酔っ払った落書きではあるけれど。

 少なくとも、この包括的なおおらかさ、全肯定的にして「のほほん」とさえしていて、揺るぎないような精神は、当時の天皇などの作風として、しばしば見られる傾向であり、この和歌もまた、その代表であるように思われる。

 もっとも、こんな記述はきわめて適当で、フィーリング任せではあることから、いつか理屈を踏まえた何ものかを、わたしも残せたらいいのだけれど……

 わたしの中での、ブログの意義は、しょせんは即興のたわむれには過ぎないものなのです。あしからず。

伊勢について

 伊勢(いせ)(872-938)。伊勢の御(いせのご)とも呼ばれる。伊勢守であったことのある藤原継蔭(つぐかげ)の娘であったことから、伊勢と呼ばれる。女流歌人として知られ、三十六歌仙の一人にも数えられる。勅撰和歌集に多くの和歌を収める他、家集として『伊勢集』がある。

[ウィキペディアから部分引用]
・藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務を生む。宇多天皇の没後、摂津国嶋上郡古曽部の地に庵を結んで隠棲した。

 小倉百人一首に次の和歌を収める。

なには潟
   みじかき芦の ふしの間も
 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
          伊勢 小倉百人一首19番