『大和物語26段29段』古文と朗読
今回も、小品を二つほど。特に「二十九段 をみなへし」の段は、優れた小品になっているし、しみじみとして、難解なところのない、分りやすい段なので、初学者の導入にもふさわしいかと思われます。
最終掲載はこちら
⇒[朗読サイト「无型」内の「大和物語」]
二十六段
現代語訳
桂の皇女(みこ)[宇多天皇のむすめ孚子(ふし)内親王]が、たいへん密かに、逢ってはならない男に逢っていらっしゃった。男のもとに、和歌を詠んでお送りになった時。
それをだに 思ふことゝて
わが宿を 見きとないひそ
人の聞かくに
孚子内親王 (古今集)
[せめてそれだけでも、
わたしを思うなら誓って下さい。
わたしの家を、見たなんて言わないで、
人が聞いてうわさを立てますから。]
と、このようにあった。
古文
桂の皇女(みこ)、いとみそかに、逢ふまじき人に逢ひ給ひたりけり。男のもとに、詠みておこせ給へりける。
それをだに 思ふことゝて
わが宿を 見きとないひそ
人の聞かくに
となむ、ありける。
かつてのyoutube上の解説
「わたしの住まいを見たとは言わないでね。人が聞きますから」の後に、「せめてそれを、思うことにして」と述べるところを、思いを強めて4句、5句を始めに倒置させたもの。
それで、倒置させてまで強めた「それだけを思いとして」の真意は、「あふまじき人」と原文で説明されているとおり、恋することが許されない相手であるから、相手から恋心を告げられても、自分には答えることが出来ない。また、自分から恋心を告げることも許されない。だからせめて、ふたりのしのぶ恋を、人に知られるようなことはしないで欲しいというもの。
もちろん、うわさを立てないでと願うしか出来ない、という意図には、うわさ以上のことは叶わないのだから。という秘めた思いのの極限の心情が込められるが、同時にまた、自分が天皇の娘である立場を踏まえ、「うわさ話なんかするなよな(女)」という精神も込められている。
この和歌を聞いて、恋の和歌のくせに、幾分理知的に屈曲しているな。簡単に言えば、心情的であるより、知的な印象が感じられたなら、あなたはその思いを、無意識に感じ取った……のかも知れませんね。
和歌の解説
「わたしの住まいを見たとは言わないでね。人が聞きますから」の後に、「せめてそれを、思うことにして」と述べるところを、思いを強めて4句、5句を始めに倒置させたもの。
「せめてそれだけでも思うことにして」というのは、一つには、密かな恋なので、知られては困るという現実問題があって、「せめてそれくらいは、あなたも思って下さいよ」と、実際に水をさす意味がある。
ただそれは、階層の一段目には過ぎなくて、もう一つ根底には、「あの人が好きだ」「愛してるよ」とおおやけに語られることが不可能な恋であるからこそ、せめてあなたが、「わたしの家を見ました」より進んでは「わたしの事を知ってます」などと、軽薄に言ったりしない、その良心をせめて愛のあかしにしよう。という思いが横たわっている。
つまり「思ふこととて」には、和歌でお得意の二重の意味があって、「あなた思うことにして」と「わたしが思うこととして」が掛け合わされている。異なる意味を掛詞として操る和歌においては、このような双方に掛る意味というのも、現在の私たちのように文化の部外者的に推し量らなくても、またナチュラルに読み取ってもらえる訳である。
またその二つの意味が読み取れないと、幾分理知的な、理屈ばった和歌に響いてくるが、一度その真意が伝わってくると、なかなかに味わい深い、古今和歌集に乗せられるだけの価値を持った、和歌であることが悟られる。
二十九段 『をみなへし』
今はなき式部卿[宇多天皇の第四皇子]の屋敷に、三条の右大臣[藤原定方(さだかた)]や、他の公卿たちが、つれだってやってきて、囲碁を打って、管弦に興じながら、夜も更けてきたので、こちらもあちらも、酔われては語り合って、贈り物などもする。その時、おみなえしを頭に挿した右大臣が、
をみなへし
折る手にかゝる しら露は
むかしの今日に あらぬなみだか
藤原定方 (新勅撰集)
[オミナエシを
折る手に触れた 白露は
むかしは今日ではなく
昔の人は今日にはない
それを悲しむ涙なのだろうか
]
と詠んだ。他の人の和歌も多くあったが、良くないものは忘れてしまった。
古文
故式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)に、三条の右の大臣(おとゞ)、こと上達部(かんだちめ)など類してまゐり給ひて、碁(ご)打ち、御遊びなどし給ひて、夜更けぬれば、これかれ酔(ゑ)ひ給ひて、物語し、かづけ物[褒美として与える物]などせらる。をみなへしをかざし給ひて、右の大臣、
をみなへし
折る手にかゝる しら露は
むかしの今日に あらぬなみだか
となむありける。こと人々の多かれど、良からぬは忘れにけり。
和歌の解説
「昔の今日に」とは、直接的には、以前オミナエシを折り取った時にはなかった、白露は、という意味を持つ。そこには、以前も同じ仕草で折り取ったけれど、という意義から、以前も同じように皆で集まって、このようにオミナエシを差したりしたけれど、という含みが内包されている。
けれども今は、以前と違って、折り取る手に白露がついている。ああこれは、以前には一緒にいた屋敷の主人が、今はもういなくて、昔は今ではない、そのことを悲しむ、わたしたちの涙なのかな。という意味である。
ただここで、植物が一年中変わらない姿であったら、和歌の面白みも半減するが、オミナエシは秋だけに咲くことを、毎年繰り返しているものだから、その印象から、あるいは数年前に折り取った時には、のような年周期の観念が感じられ、聞き手に数年前には、というような印象を、かすかなものではあるが、感じさせることに成功している。
そして、より明確には、オミナエシは時期を定めて、季節の情緒性を引き出す、俳句における季語の役割を果たしていて、この宴の情景が、秋の夜長に浮かび上がってくるので、聞き手はしみじみとした思いにとらわれるという仕組みである。