「大和物語86段91段」古文と朗読
ここでは、贈答歌の優れたものを二つほど紹介してみます。
86段の平兼盛の和歌は、あなたの為に若菜を摘みましょう、というのがありがちな着想なのですが、ここでは「若菜摘みに誰を誘おう」という積極性と、これも焼け原をかき分けて進むような積極性が、春の喜びを感じさせてくれるのではないでしょうか。「後撰集」の中でも知られた和歌。返歌も捨てがたい魅力を持っています。
91段の方は、秋になると、飽きられてうち捨てられしまう扇は、恋人同士には不吉なものとされていましたが、それを貸して下さいと、以前の男が言ってきたときに、「今さら不吉だと思っても、別れた後では甲斐もない」というのが女性の和歌。それに対して、「不吉ならありませんと言ってくれれば、まだ恋が続いていると思えたのに」というのが男の返答です。
もっともストーリーを読むと、切羽詰まったものではなく、むしろ別れた後も、心の通う間柄であったので、戯れたような贈答歌になっているようです。
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大和物語八十六段
正月のはじめ、つまり新春に、大納言[藤原顕忠(あきただ)。藤原時平の次男、質素を旨とする謙虚な人柄だったようだ。返歌に人柄が出ているか]の屋敷に平兼盛(たいらのかねもり)が参上した時に、話のさなかに何気なく、「和歌を詠んで」と言われたので、
今日よりは
荻のやけ原 かき分けて
若菜摘みにと 誰(たれ)をさそはむ
平兼盛 (後撰集)
[春になった今日からは
荻を焼いた野原をかき分けて
若菜を摘みに行こうと
誰を誘おうか]
[荻の焼け原とあるのは、自然の野原ではなく、枯荻を焼いておいた野原のこと。若菜を摘むためなのか、農耕のための野原で、若菜はその副産物なのか、詳細は不明。「かき分けて」というのは、焼け残りをかき分ける意味か、荒れ地を進むくらいの意味か、これも詳細は不明。ただこの三句目の動作のために、若菜摘みに行きたいという思いが、和歌からにじみ出て、最後の「誰を誘おうか」のとりまとめを、形式的ではない、心からのものにしている。
そうして、「誰を誘おう」というのは、「あなたを誘いたい」という思いを含めるというのが、当時の和歌の贈答での受け取り方になる。]
と詠むと、大納言は殊の外(ことのほか)感心して、
かた岡に わらびもえずは
たづねつゝ こゝろやりにや
若菜つまゝし
藤原顕忠
[岡の反対側に
ワラビの芽が出ていなかったら
あなたを尋ねながら
気晴らしに 若菜を摘もうか]
[兼盛の「荻の焼け原」を受けて、「わらび」に「火」(あるいは藁火か?)、「萌えず」に「燃えず」を掛け合わせている。それで、岡の反対側では「火が燃えなかったために」わらびが芽を出していないだろうから、そうしたらあなたを尋ねていって、気晴らしに若菜を摘もうかな。というもの。
あるいは兼盛が、「一緒に摘みましょう」とは言わずに、「誰を誘おうかなあ」と、期待をしつつも相手の出方をうかがうような和歌を詠んだので、こちらも「一緒に行こう」とは言わずに、岡の反対側では若菜は摘めないだろうから、そうしたらそちらに尋ねて行こうかな。と相手に合せたものかとも思われる。]
と返答した。
古文
正月(むつき)のついたち[一日目だが、ここでは初めくらい]頃(ころ)、大納言殿(どの)に、兼盛(かねもり)参りたりけるに、ものなどのたまはせて、すゞろに[これといった理由もなく、なんとなく]、「歌詠め」[大納言が]とのたまひければ、ふと詠みたりける。
今日よりは
荻のやけ原 かき分けて
若菜摘みにと 誰(たれ)をさそはむ
と詠みたりければ、になく[「二無く」つまり二つと無い、この上なくの意味]めでたまひて、御返し、
かた岡に わらびもえずは
たづねつゝ こゝろやりにや
若菜つまゝし
となむ詠みたまひける。
大和物語九十一段
三条の右大臣[藤原定方(さだかた)(873-932)]が、中将だった頃の話。賀茂の祭の勅使に任命されて出向いた際、かつて通っていたが、近頃は途絶えていた女の元に、「このような訳で出発しましたが、扇が必要なのを忘れてしまいました。一本欲しいのですが」と連絡をした。
心配りの行き届いた女性だったので、良いものを送ってくれるだろうと思っていると、やはり色もたいへん清らかな、薫りさえ良いものをよこした。ただ扇を裏返してみると、端の方に和歌が書いてあった。
ゆゝしとて
忌むとも今は かひもあらじ
憂きをばこれに 思ひ寄せてむ
(拾遺集)
[扇は秋になると捨てられるというので
恋には忌むべき物とされていますが
すでに捨てられた今となっては
気にする甲斐もありません
せめてわたしの晴れない思いを
この扇にゆだねるばかりです]
[解説込み方が分りやすいので、現代語訳で説明してしまったが、秋が来ると「飽き」られる扇は、恋人同士には不吉であるが、今となっては「扇なんて不吉ですから貸しません」と言っても、何の甲斐もない他人同士であるから、お貸ししましょう。ただまだあなたへの思いがくすぶっているような、私の中の憂いを、この扇の和歌にゆだねて。
つまりは、実際に扇を貸したことと、和歌の意味とがリンクするので、贈り物に加える和歌の、すぐれた例と言えるだろう。]
とあったので、心を動かされた定方の返し、
ゆゝしとて 忌みけるものを
わがために なしといはぬは
たがつらきなり
藤原定方
「恋には忌むべき存在だというのですか
それなら、私のためにどうして
無いと言ってくださらないのですか
(まだわたしは、捨てたつもりなど全くないのに)
はたして本当につれないのはどちらなのか」
[つまり「そんな不吉なものはありません」と突っぱねてくれたら、その返事から私も、まだ私が思われていることを知って、あなたのもとに通えたものを。それが私のためでもあったのに。という内容。
ただし、地位的に見ても、当時の男女関係のあり方を考えても、それ以前に「絶えて久しくなりにけるに」扇を貸して下さいなんてお願いする調子を考えても、実際には男の方は、女性の側ほど相手を気にしていなかったのを、このような和歌を貰ったものだから、同情の念を起こしたのである。
それで、状況を冷徹に眺めれば「わがために」ではなく、相手の女性のために「なし」と言うべきだし、「たがつらきなり」ではなく、結局は男性側の「自分がつれない」のではあるが、あえて「わたしのために」と言って、女性の心に寄り添ったと見られる。
それで、わざわざ返歌の前に、「いとあはれとおぼして」とあるのだが、これを愛情が戻ってきたため、と取るのはいささか浅い。返歌の「わたしのために無いと言わないのは、どちらが辛いのか」という、婉曲(えんきょく)的な、理知的でもある言い回しには、愛情としての熱が強くは感じられず、むしろ相手を傷つけないように、いたわったような調子が感じられるから。]
古文
三条(さんでう)の右の大臣(おとゞ)、中将にいますかりける時、祭(まつり)の使(つかひ)にさゝれて、出(い)で立ちたまひけり。通ひたまひける女の、絶えて久しくなりにけるに、
「かゝることにてなむ出で立つ。扇(あふぎ)持たるべかりけるを、騒がしうてなむ忘れにける。ひとつたまへ。」
と言ひやりたまへりける。
よしある[由有り=由緒がある、風情がある]女なりければ、よくて[良くして、良いものにして]おこせてむ[「おこす」で、こちらに寄越す、送ってくる。「てむ」は完了「つ」の未然形]と思ひたまひけるに、色などもいと清らなる扇の、香(か)などもいとかうばしくて、おこせたる。引き返したる裏の、端の方(かた)に書きたりける。
ゆゝしとて
忌むとも今は かひもあらじ
憂きをばこれに 思ひ寄せてむ
とあるを見て、いとあはれと思(おぼ)して、返し、
ゆゝしとて 忌みけるものを
わがために なしといはぬは
たがつらきなり