「大和物語125段」古文と朗読
和歌の日常性、日常会話との親和性と、その即興性のもたらす面白みを壬生忠岑を通じて描きたかったのかも知れませんし、彼がそのような歌人であったと、紹介したかったのかも知れません。
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大和物語百二十五段
現代語訳
泉の大将こと藤原定国(さだくに)が、左大臣である藤原時平の屋敷に訪れた。よそで酒を呑んで、酔っていて、突然に訪れたのだった。左大臣は驚いて、「どこへ出かけたついでであろうか」と言い、戸を騒がしく開けると、壬生忠岑(みぶのただみね)[古今集の撰者の一人で有名な歌人]が、定国のお供に控えていた。階段の下に松を灯しながら、ひざまずいて挨拶をする。
かさゝぎの
わたせる橋の 霜の上を
夜半に踏み分け ことさらにこそ
壬生忠岑
[かささぎの
渡す橋の霜の上などと詠まれる
高貴なお方への橋を 夜半に踏み越えて
(どこかへ出かけたついでではなく)
ことさらあなたの所にこそ
やってきたのです]
屋敷の主人である大臣は、その様子を趣深いことだと感じて、その夜一夜、お酒を共にし、管弦の遊びをし、泉の大将にも授け物をし、壬生忠岑にも褒美を与えたのだった。
そんな、壬生忠岑には娘があって、ある男が「嫁に欲しい」と言うので、忠岑は「大変良い話だ」と答えたが、その男が「あの結婚お話ですが、そろそろいかがでしょうか」と言ってきた返事に、
わが宿の
ひとむらすゝき うらわかみ
むすび時には まだしかりけり
壬生忠岑
[わたしの家の
ひと群れのススキは まだ若いので
結ばれるべき時には まだ早いようです]
と詠んだ。ほんとうにまだ、小さい娘に過ぎなかったのである。
古文
泉の大将[藤原定国(さだくに)(867-906)、三条の右大臣定方の同母兄]、故左の大臣(おほいどの)に詣(まう)でたまひけり。ほかにて酒などまゐり、酔(ゑ)ひて、夜いたく更けて、ゆくりもなく[突然に、不意に]ものしたまへり[「ものす」は様々な動作に使用する。ここでは来るの意味]。
大臣驚きたまひて、「いづくにものしたまへる便り[出かけたついで]にかあらむ」など聞えたまひて、御格子(みかうし)あげ騒ぐに、壬生忠岑(みぶのたゞみね)[三十六歌仙の一人で、古今集の撰者の一人]御供にあり。御階(みはし)[寝殿の庭に下りる階段]のもとに、松ともしながら、ひざまづきて御消息(せうそこ)申す。
「かさゝぎの
わたせる橋の 霜の上を
夜半に踏み分け ことさらにこそ
この忠岑が娘ありと聞きて、ある人なむ、「得む」と言ひけるを、「いと良きことなり」と言ひけり。男のもとより、「かの頼めたまひしこと、この頃のほどにとなむ思ふ」となん言へりける返りごとに、
わが宿の
ひとむらすゝき うらわかみ
むすび時には まだしかりけり
となむ詠みたりける。まことにまだ、いと小さき娘になむありける。
解説
「夜半に踏み越えてことさらここに来たのです」や「結ばれる時期にはまだまだですよ」などと、なかば日常散文の表現を、、和歌と結びつける、詩と散文の融和性と、その即興性にたけたものとして、壬生忠岑を描き出すのがこの段の趣旨かと思われる。特に初めのものは、酔っ払っていて、和歌の途中から、半ば会話にもどってしまうような面白さが、生き生きと描き出され、和歌の日常性ということについて、大切なものを確認させてくれる段でもある。
そのシチュエーション内での、巧みな表現者として二つの和歌は並べられているのであって、ふたつの物語がバラバラに思えるのは、和歌による把握をしないで、ストーリーだけでつなぎ止めようとするからに過ぎない。
特に初めのもの、壬生忠岑の表現が生き生きとしていて面白いのは、つまりはこの段が面白いのは、推敲された結晶としての和歌の作品などを置かずに、即興性において臨場感にまさる和歌が置かれているためで、ふたつめの和歌も、やはりすぐに伝えたいことの分る、さらりと書かれたような筆の速さが、実際に手紙をしたためている様子を、浮かび上がらせてくれるからに他ならない。そうして執筆者は、そのような意識を働かせて、和歌を並べただけでなく、物語を描き出しているように思われる。