「大和物語134-136段」古文と朗読
少女とのタブーの恋を描いたような134段。好きとも嫌いともつかず、それでもあなたが必要みたいな、アンニュイな心情を描き出した135段と、その続編に当たる136段を紹介。特に135段の和歌は、むしろ現代人の心理状態を描いたような和歌になっていて、ちょっとユニークな気がします。
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大和物語百三十四段
現代語訳
先の醍醐天皇の時、宮中のある部屋に、可愛らしい少女がいた。それを帝が見止めて、ひそかにお呼びになった。このことを誰にも知られないように、時々お呼びになるのだった。そうして、このように詠んだ。
あかでのみ 経(ふ)ればなるべし
あはぬ夜も あふ夜も人を
あはれとぞ思ふ
醍醐天皇
[飽き足りない思いで過ぎればだろうか
逢わない夜も逢う夜もお前を
愛おしく思うよ]
と詠んで差し上げれば、少女の心にも、とても深い思いに感じられたので、我慢出来ないで友達に、「こんな風におっしゃってくださったの」と話してしまったら、少女の主人にあたる御息所(みやすんどころ)[天皇の妻の一人にあたる]の耳に入って、少女を追い出してしまったらしい。ひどい話である。
古文
先帝(せんだい)の御時に、ある御曹司(みざうし)に、きたなげなき童(わらは)ありけり。帝(みかど)御覧(ごらん)じて、みそかに召(め)してけり。これを人にも知らせたまはで、時々召しけり。さて、のたまはせける。
あかでのみ 経(ふ)ればなるべし
あはぬ夜も あふ夜も人を
あはれとぞ思ふ
とのたまはせけるを、童の心地(こゝち)にも、かぎりなくあはれに思(おぼ)えければ、忍びあへで友だちに、「さなんのたまひし」と語りければ、この主(しゅう)なる御息所(みやすどころ)[もと「みやすみどころ」で、「みやすんどころ」の撥音「ん」の無表記]、聞きて、追ひ出(い)でたまひにけるものか、いみじう。
解説
御息所に仕えていようと、適齢の女性であれば、たちまち追い出す流れにはならないはずで、天皇にもそれをさせないだけの力はあるわけで、密かに通わせて、それが露見しても何も言えないあたり、タブーの気配が濃厚で、わざわざ「童(わらは)」と書かれた意義も生きてくる。
未成年なんちゃらの法律に関わらず、慣習的にまだ子供だとしか思えないような相手と、男女の関係になることには、生理的に忌避するような感覚が存在し、そのようなタブーの感覚が存在するからこそ、法も整備されるようなもの。
和歌の「あかでのみ」は「飽きないというだけで」の意味で、「ふれば」には「時を経る」と「相手に触れる」の意味を掛け合わせる。ただ飽きることなくの意味なら、下の句だけで十分で、わざわざ上句を置く必要が無い。それを、あえて冒頭に理由を述べたニュアンスから、相手が若いので「触れていて飽きない」という心情が垣間見える。
ただこの段を覆うようなタブーの気配からすると、むしろこの和歌の「あかでのみ」には「開かでのみ」つまり「女性として開く状態の前の」ような意図が込められている可能性さえありそうで、そうでなくても「開かずに隠した状態でこっそりと」の意図が込められているように思われる。そんな意図にも気づかずに、少女は単純すぎて、ただ熱烈に愛してくれている和歌だと思い込んで、友だちに話したところ、その和歌が御息所に伝えられたのではないか。
すると、この友だちが軽薄なおしゃべりだった訳ではなく、御息所はただ和歌だけを口ずさんでいるその「友だち」の三十一字に、裏の意味を読み取って、聞きとがめて「その歌誰に教わったの」などと言って、追求していった結果、少女が追い出されたのかも知れない。
もちろん和歌の意図から、御息所がまず感じるのは、「飽きることなく」思われている女性、対比される「飽きられた自分」、とそこまでは明白では無いけれど、自分よりは飽きられていない状態にある女性への、嫉妬の心には違いない。
けれども、御息所が少女を追い出したのも、ただ嫉妬くらいに捉えたのでは、この段の意義が無くなってしまう。まだこんな子供なのに、というある種の生理的嫌悪感と、嫉妬が一体になって、本来なら天皇と少女、両方に向けられるべき感情が、天皇には向けられないので、少女の方にすべて掛って、追い立てたのかと思われる。
そのような、聞きとがめて、追い出す経緯が、記されないながらも、行間に感じ取れるからこそ、最後に倒置されておかれた「いみじう」(この場合、悪い方に程度が激しい、つまり「ひどい」「悲惨な」くらいの意味)が生きてくる。
ただ、執筆者としての「いみじう」は、この御息所への批難から生まれたものではなく、結局はタブーに巻き込まれた少女の、境遇そのものにあるわけで、そう考えると、わざわざ倒置させて「いみじう」と閉ざされた段の、執筆されなかった先の心情には、天皇への批難という執筆者にとっての別のタブーが、隠されているのかも知れない。
またこの和歌、「あかで」「あはぬ」「あふ」「あはれ」と、「あ」を韻頭に置いていて、特に類似の発音を重ねて思いをまとめる三句以下には、言葉のリズムと内容の結びついた、優れたものを感じさせる。
大和物語百三十五段
現代語訳
藤原定方(さねかた)の娘が、堤の中納言こと藤原兼輔(かねすけ)と逢い始めた頃は、男は内蔵寮(くらりょう)の役職にあって、宮中に通っていた。女の方は、また逢おうという気持ちになれなかったのだろうか、心を掛けるようにも見えなかった。男もまた、宮中に仕えていたので、常には女のものとには居られなかった頃、女の方から、
焚きものゝ
くゆる心は ありしかど
ひとりはたえて 寝られざりけり
藤原定方の娘 (新拾遺集)
[焚き物にするお香の
けむりのようなおぼつかない
後悔のこころはあるけれど
今は香炉は絶えてしまい
一人ではねむることも出来ません]
と和歌を贈った。兼輔は和歌の巧みであるので、優れた返歌があっただろうけれど、それは知らないので、ここには書かない。
古文
三条(さんでう)の右の大臣(おとゞ)のむすめ、堤(つゝみ)の中納言に逢ひはじめたまひけるあひだは、内蔵助(くらのすけ)[内蔵寮、天皇の財宝や日用品を管理。助は「長官(かみ)次官(すけ)判官(じょう)主典(さかん)」の四等官のうちの次官のこと]にて、内裏(うち)の殿上(てんじやう)をなむしたまひける。
女は逢はむの心やなかりけむ、
心もゆかずなむいますかりける。
男も宮仕(みやづか)へしたまひければ、
え常(つね)にはいませざりけるころ、女、
焚きものゝ
くゆる心は ありしかど
ひとりはたえて 寝られざりけり
返し、上手(じやうず)なれば良かりけめど、え聞かねば書かず。
和歌の意味
「くゆる」にくゆらせる煙の意味と、「悔ゆる」後悔を掛け合わせ、「ひとり」には「火取り(ひとり)」意味を掛け合わせる。この「火取」は暖房などではなく、お香を焚くための香炉(こうろ)のこと。
薫りのお香の煙は、明確な後悔とは反対の、アンニュイな、ぼんやりとした後悔を表わし、三句目の「ありしかど」は「そのような気持ちはあったけれど」くらいで、下句の今の気持ちへと移り変わる。
下句の意味は、「香炉が絶えて眠れません」が主意だと、アロマが無いと眠れない女性の和歌になるが、ここでの主意は「一人では息絶えて」今では「眠ることが出来ません」くらい。あるいは類似の発音の「耐へて」の意図も籠もるか。
つまり、逢っておきながらも、お香の煙のような、ぼんやりとした後悔があったけれど、気がついてみれば、今ではあなたがいないと眠れなくなっていました。というのが和歌の趣意。
物語の方は、この和歌が詠まれた瞬間に、はじめて女性がその気持ちに気づくように、「あひはじめたまひけるあひだ」「あはむの心やなかりけむ」「心もゆかずなむ」など、女性の「くゆる心」を描き出しておいて、その状態の上に、男も「え常にはいませざりける頃」と、自らの気持ちを悟る下準備を付けておいて、はじめてこの和歌を登場させる。
着想としては、小説家なら誰でも思いつきそうと感じるかも知れないが、和歌も散文も、大切なのは心と姿であって、頓知や着想にある訳ではない。物語が和歌を演出し、和歌が物語を補い合いながら、全体の行間を十分読み取った時、ようやく真意が悟れるくらいの、ミニマムな執筆を駆使するような作品は、むしろ尊敬に値するべきもの。そうであるならばこの作品は、文芸としての価値を保ち続けていると言える。「なんてか物語」みたいに、万華鏡を気取って言葉数を増やすなら、「羅生門」くらいの間延びした作品は、おそらく現代の作家なら、いくらでも作れるのではないかしらん。
大和物語百三十六段
現代語訳
(前段に続いて)また男が、「この頃いそがしくて行けません。このように駆け回っている中でも、どうして来ないのだろうと、あなたが思っているかと、限りなく心配しています」と伝えてきたので、女の和歌に、
さわぐなる
うちにも物は 思ふなり
我がつれ/”\を なにゝたとへむ
藤原定方の娘
[いそがしい
うちにあっても恋の もの思いとか
わたしの持て余すような毎日を
なんて表現したらよいかしら]
とあった。
古文
また男、「日ごろさわがしくてなむ、え参(まゐ)らぬ。かく急ぎまかり歩(あり)くうちにも、え参り来(こ)ぬをなむ、いかにと、かぎりなく思ひたまふる」とありければ、女、
さわぐなる
うちにも物は 思ふなり
我がつれ/”\を なにゝたとへむ
となむありけり。
解説
前段の男女関係の続きで、男の方が「いそがしくて行けませんが、どうして来ないのかと、あなたが心配していないかと思って」と、とりあえずの連絡を送ってきた時の女性の和歌。
いそがしい最中でも、私のことを思ってくださると言いますが、することもない毎日を過ごしている私が、あなたのことをあれこれと考えてしまうのを、一体何に喩えたら良いのでしょう。
というのが和歌の内容で、つまりは、「さわぐなるうち」の心情が「ものを思ふ」という状態であるなら、わたしの「つれづれ」のうちの心情は、そんな言葉では喩えられないくらいだというもので、聞き流すと「一途な恋煩い」の和歌にも過ぎ去りそうだが、むしろ相手を突き放すような印象がこもるのは、伝聞推定にも断定にも使用される助動詞「なり」が二つ使用された上句のあり方によるものかとも思われる。