「大和物語第4段」古文と朗読

大和物語 古文と朗読

 いつの間にか、再掲裁版。

古文

 野大弐(やだいに)[=小野好古]、純友がさわぎの時、討手(うて)の使(つかひ)に指されて、少将にてくだりける、おほやけにも仕(つか)うまつる、四位にもなるべき年にあたりければ、正月(むつき)の加階賜(かゝいたまは)りのこと、いとゆかしう[聞きたい、知りたい]おぼえけれど、京より下る人も、をさをさ聞えず。

 ある人に問へば、「四位になりたり」ともいふ。ある人は「さもあらず」ともいふ。「さだかなること、いかで聞かむ」と思ふほどに、京の便りあるに、近江(あふみ)の守(かみ)公忠(きんたゞ)の君[=源公忠]の文(ふみ)をなむ持てきたる。

 いとゆかしう、うれしうて、開けて見れば、よろづのことゞも書きもていきて、月日など書きて、奥の方(かた)にかくなむ。

たまくしげ
   ふたとせあはぬ 君が身を
 あけなからやは あらむと思ひし

 これを見てなむ、かぎりなく悲しくてなむ、泣きける。四位にならぬよし、文の言葉にはなくて、たゞかくなむありける。

解説込現代語訳

 野大弐(やだいに)こと小野好古(おののよしふる)(884-967)が、ちょうど「純友の乱」があったとき、天慶三年(940年)に山陽道追捕使(ついぶし)にされ、討伐の任に付いた。ちょうど四位に昇級できる時期だったので、正月の昇進発表を知りたくてしょうがなかった。

 それで、めったにいない都から来る人に尋ねるのだが、ある人は「たしか四位になったかも」と言い、別の人は「四位にはなれなかったかと」とも言う。はっきりしたことが、知りたいと思っていると、源公忠(みなもとのきんただ)(889-948)[三十六歌仙の一人]のもとから手紙があった。

 期待して見てみると、様々なことが記された後に、月日が書かれていて、その奥に和歌が記されている。

玉くしげ
  ふたとせあはぬ 君が身を
 あけながらやは あらむと思ひし
          源公忠 (後撰集)

櫛を入れる化粧箱の蓋が合わないように、
 二年(ふたとせ)も逢わなかった、あなたの身の上を
  箱を開けながら眺めるようにして、
   朱(あけ)の色の姿で見ようとは、
  思いもしませんでした。

 これをみた野大弐は、あまりにも悲しくて泣いてしまった。四位になれなかったことが、文章ではなく、まだ五位の朱色の服の姿で見ようとは、と和歌にしてあったからである。

ちなみに、「後撰和歌集」にはこの和歌の返しとして
     あけながら 年ふることは
       たまくしげ 身のいたづらに
      なればなりけり
               小野好古
とある。

小野好古

 百人一首で参議篁(さんぎたかむら)と記され、

わたの原
   八十島かけて 漕ぎ出でぬと
 人には告げよ あまの釣船
          小倉百人一首 11番

の和歌でも知られる小野篁(おののたかむら)(802-853)は、遣隋使の使者であった小野妹子(おののいもこ)の子孫で、閻魔大王の裁判の補佐をしていたなどという伝説まで残す、生真面目な筋を通す男だったようです。

 その小野篁の孫に当たるのが、小野好古(おののよしふる)(884-968)で、同じく三跡(さんせき)と呼ばれ、日本スタイルの書道の道を切り開いたともされる小野道風(おののみちかぜ/とうふう)の、兄にあたる人物です。また、一説には小野小町もまた、従姉妹(いとこ)の関係にあったともされています。(ちょっと疑わしいようですが。)

 そんな小野好古は、歴史上、939年の天慶の乱(藤原純友の乱)の鎮圧のため、追捕使 (ついぶし) として西国に派遣され、これを撃退したことで知られています。947年には参議として中央の政権運営に関わり、962年には従三位になっていますから、それなりの出世をしていると思われますが、『大和物語』では、四位になることが出来ないで、嘆くストーリーが展開されます。

 ちなみに、彼の登場する段がもう一つあって、これも追捕使として派遣された九州でのストーリー。檜垣の御(ひがきのご)と呼ばれる女性との関連で、126段に収められているのですが、収められた和歌が、好古のものではなく、好古が聞かされる側という事まで含めて、この四段と似た構成になっていて、『大和物語』の多様性と統一性への構成的配慮がうかがわれます。

 後撰和歌集には、おそらくこのストーリーのもととなった、現実に近い方の詞書きが、「たまくしげ」の和歌とともに紹介され、そこには源公忠の和歌の返歌として、小野好古の和歌が、

あけながら 年ふることは
  たまくしげ 身のいたづらに なればなりけり
             小野好古

 と記されているのですが、ストーリー上の効果として、蛇足になるものとして、あるいは却下されたものかと思われます。つまり、源公忠の和歌の提示まで、物語的配慮で高められた、「四位になれたかどうか」の期待と不安が、夢破れて悲しみのエンディングで物語を閉ざすには、それを開いて詠んだ、嘆きの瞬間に閉ざす方が効果的で、この返歌を加えると、後日談を加えるような結果になってしまいますから、ショートストーリーとしての結晶性を弱めます。もちろん、後日談が効果的な状況もありますが、この場合は、返歌のない方が、優れているのではないでしょうか。

源公忠(みなもとのきんただ)

 三十六歌仙の一人。光孝天皇の孫にあたり、紀貫之とも親交のあった歌人で、最終官位は従四位下で、小野好古のこの逸話の少し前、938年についている。勅撰和歌集に21首を収めるほか、家集に「公忠集」がある。香道・鷹狩にも秀でていた。やはり三十六歌仙の一人である、源信明(みなもとのさねあきら)は彼の息子。

 特に次の和歌が有名。

ゆきやらで
  山路くらしつ ほとゝぎす
    今ひと声の 聞かまほしさに
            源公忠 (拾遺集)