「大和物語60段62段66段」古文と朗読
今回は小品を三つ。
歌物語で、ほとんど詞書くらいの散文が加えられたものは、特にその和歌をこそ書き記したかったものだから、なかなかおもむきのある和歌が、置かれている場合が多いと言えるでしょう。同時に、和歌と密接に結びついて、全体がひとつの詩文になっているような、結晶性において勝る小品が多いのも、「大和物語」の特徴です。
ここで、60段のものは、自分で燃える女の絵を描いて、そこに和歌を書いたという散文のシチュエーションが、和歌の情念をデフォルメがちに、読者に聞き取らせる作戦として生きています。
一方で、66段のものは、鳥声が戸を叩く音に似てたんで、君が来たと思ってしまったよ。と、基本的に和歌だけで内容が完結しているので、軽やかに補足を加えるに止まっている。必要以上に無駄話を加えたりはしません。
62段は、密度の高い小品で、わずかな散文で「何でも言い合える仲であった」ことを提示しておいて、「あなたがすべて」という思いを伝える女性に対して、男の方が「昔の男にもやっぱり言っていたのだろう」とちょっとからかっている。全体を通じて、ほのかに悟れるくらいのからかいだからこそ、何度読んでもしみじみとしたおもむきがある訳です。
大和物語六十段 『燃ゆる思ひ』
現代語訳
五条の御(ごじょうのご)[藤原山蔭の姪。後に在原業平の息子、在原滋春(ありわらのしげはる)の妻となる女性]と呼ばれる女性がいた。男のところに、自分の姿を書いて、女の燃える姿を書いて、煙を大変多くくすぶらせて、次のように書いたのである。
君を思ひ
なま/\し身を 焼く時は
けぶりおほかる ものにぞありける
五条の御
[あなたを思う心の火で、
恋しさの宿るこの身を焼いたなら
恋い焦がれるという言葉もありますから
さぞかし煙が一面に立ち上ることでしょう]
古文
五条(ごでう)の御(ご)といふ人ありけり。男のもとに、わが形(かた)を絵(ゑ)に描きて、女の燃えたる形を描きて、煙(けぶり)をいと多くゝゆらせて、かくなむ書きたりける。
君を思ひ
なま/\し身を 焼く時は
けぶりおほかる ものにぞありける
解説
「思ひ」には「思いの火」のイメージが内包されている。(決してダジャレなどではなく。)あるいはそれを、もっとも分りやすく教えるのにも便利な和歌。「なまなまし身」というのは、「思いが生々しい」ので「決してきれいでない生の恋の心情」のように捉えればよいが、和歌全体の意味も、書かれた絵も、それよりはるかに、生身の人間が焼けながら迫り来るような、狂気のようなものが感じられる。
詠み手が、激しい情念の人であったことを示すような和歌で、これほど「なまなましい」和歌は、大和物語の中でも他にはない。小品ながら、紹介された意義も大いにあるというものだが、送られた方は、冗談にしてはおどろおどろしすぎて、逃げるか、進んで束縛されるか。二者択一を迫られる気分だったろう。
大和物語六十二段
現代語訳
「のうさんの君」[詳細不明]という女性は、浄蔵(じょうぞう)[学者であった三善清行(みよしのきよゆき)の息子で、天台宗の高僧]という名の僧と、他に比べる物がないくらい、思い合っている仲だった。かたく結ばれあって、どんなことでも言い合うほどだった。それで「のうさんの君」が、
思ふてふ
こゝろはことに ありけるを
むかしの人に なにを言ひけむ
のうさんの君
[思うという
気持ちは こんなに違っていたのね
昔の恋人に
伝えた言葉はなんだったのでしょう]
と言ってやると、浄蔵からの返事に、
ゆくすゑの
宿世を知らぬ こゝろには
君にかぎりの 身とぞいひける
浄蔵大徳
[将来の
運命など顧みないのが恋心ですから
あなただけがすべてと
やはり伝えていたのでしょう]
古文
のうさんの君といひける人、浄蔵(じやうざう)とは、いとになう[「二無う」で二つと無い]思ひかはす仲なりけり。かぎりなく契(ちぎ)りて、思ふことをも言ひかはしけり。のうさんの君、
思ふてふ
こゝろはことに ありけるを
むかしの人に なにを言ひけむ
と言ひおこせたりければ、浄蔵大徳(だいとく)の返し、
ゆくすゑの
宿世を知らぬ こゝろには
君にかぎりの 身とぞいひける
解説
和歌は、女性が「あなたと逢って本当の恋心が分ったの、昔他の恋人に伝えていた言葉はいったいなんだったのでしょう」と読んだのに対して、男の方が「今の気持ちを知らない恋心は、やっぱりお前がすべてだと言っていたのだろうよ」と答えている。
などと説明すると、たわいもないことに過ぎ去りそうだが、非常にきめ細かく描ききっているので、なかなか侮れない小品である。というより、『大和物語』の段はそのような歌物語の宝庫ではあるのだけれど。
まず和歌を眺めてみると、女性の方は心情をそのまま述べているのに対して、男の方は僧であるから、仏教的であり格言的な調子で、「将来の運命を知らない心は」なんて、わざと形式張った、一般論的な調子で述べている。そのあらたまった語調で、「結局は君がすべてと言っていたのだろう」と、ちょっとしたからかいを述べている。
もし、二つの和歌だけを並べたら、これが冗談なのか、以前の彼氏の話をされた浄蔵が、ちょっとふて腐れて、わざと中立的な表現で牽制したのか、どちらとも取れるような内容だが、ちゃんと物語の部分で心理状態をつかみ取れるようになっている。
つまり、むしろしつこいくらいに、「いとになう思ひかはす仲」「かぎりなく契りて」「思ふことをもいひかはしけり」と、二人の仲をこれでもかと言うくらいに、描ききってから、この和歌を提示するわけで、これによって、女性の方は何でも話せるくらい安心しきった上で、「以前の恋なんてみんな嘘」と思いを述べたのである。それに対して男は、もちろん多面性を内包するのが和歌の常であるから、ちょっとした嫉妬も含まれていて差し支えないが、詠んだときの心理としては、わざと自分の僧の立場で諭すようなフリをして、「宿世を知らない心というもの」などと大げさに初めて見て、結局は「きっと以前もあなたがすべてと言っていたんでしょう」と戯れて見せた。そんな恋の蜜月の、からかい合うような贈答になっているのは、述べたとおり、散文の部分でちゃんと保証されているという仕組みだ。
また、僧であろうと、まだ僧でなかろうと、物語るように、この贈答の時は「思ひかはす仲」にあるのだから、僧となって離れたとか、修行のためとか、僧が以前の男であるなどというのは、執筆者の心をくじく蒙昧には過ぎない。この場景としては、物語られたことがすべてである。
このように密接に和歌と文が結ばれているとき、もはやこれは和歌が詩なのではなく、全体が詩文であると考えた方が、はるかにふさわしいと思う。それにしても不愉快なのは、(ここに限ったことではないが、)文学をたしなんだ上で研究を行っているはずの、したがって人より文章を知っていなければならないはずの、学者などと呼ばれる人物が、しばしば古文の現代語訳で見せる、読解力の欠落と日本語の作文不体裁で、わたしの参照にしているものでも、この浄蔵の和歌の現代語訳に、
おたがいの将来の運命がどうなるとも考えず、ただひたすらあなたのことを思っておりますので、あなただけを思っておりますと、あなたにいったのでした
あまたがぼやけて、何を言っているのかよく分らない。
そもそも「ゆくすゑの宿世を知らぬこゝろには」とは「将来の宿命を知らない心というものは」くらいのことしか述べておらず、「ただひたすらあなたのことを思っておりますので」などとはひと言も述べていない。それはさておき、中学生の現代語訳の添削にしたところで、「この、おんなじ文章になんの意味があるの?」と先生に突っ込まれ、
おたがいの将来の運命がどうなるとも考えず、あなただけを思っておりますと、あなたにいったのでした
くらいに出来なかったのかと注意されそうなくらい。これでもまだ「なんであなたを二度も繰り返す必要があるの。何の表現上の効果も魅力もなくて、小学生が必要以上に主語を繰り返すみたいに」と、先生が思っていそうな気がするが、いずれにせよ、たどたどしい日本語ではある。
ただ、日本語が下手なのは、まだしも許されるとしても、この謎の現代語では、女性が「以前言っていた言葉はなんだったのでしょう」という問いかけの答えに、まるでなっていないから、贈答歌として成立していない。交互に自分の思いをつぶやいているだけで、コミュニケーション能力の欠落を題材したという、なぞの段になってしまう。
女性が和歌で、「むかしの人になにを言ひけむ」と言っているのが問いかけで、「君にかぎりの身とぞ言ひける」というのが答えで、この贈答の核心部分である。それ以外の読解があるだろうか。これをわずかに変更すれば、「むかしの男になにを言ひけむ」に対して「やはり君にかぎりの身とぞ言ひける」と答えている。単純明快で、間違いようのない、初学のテストくらいの内容ではないだろうか。ただ上の句に、「心というものは将来の宿命など知らないものだ」という、客観的かつ普遍的な表現を加えて、その内容をユニークなものにしているものの、
「心というものは将来の宿命など知らないものだから、
やはりあなたがすべてと言っていたのでしょう」
と女性に切り返しただけのこと、いったいどう読み解いたら、
おたがいの将来の運命がどうなるとも考えず、あなただけを思っておりますと、あなたにいったのでした
なんて、意味不明な現代語訳が導き出されてくるのか、情けないくらいの不始末である。そればかりでなく、解説でも、男の和歌を「恨む気持ちを表わす」としているが、この和歌の本意は、執筆者が絶対にあやまらないように、うちとけた関係であればこそなされた応答であると、執拗に冒頭に提示したはずである。「恨む気持ち」を暗に含むとしても、それは第一義ではなく、あくまでも裏に込めるくらいのものである。
いったい、当たり前の読解を当たり前に行って、当たり前の日本語にまとめることすら出来ないような者が、平然と学者として執筆を行っているような、亜空間的流儀が、他の国でも成り立つのだろうか。そんな悲しい疑問さえ湧き起こり、ただただ、むなしい気持ちにさせられる……
せっかく楽しいはずの和歌の解説が、残念なことになってしまったようです。気を取り直して先に進もうか。
大和物語六十六段
現代語訳
「としこ」[後に藤原千兼(ふじわらのちかげ)の妻。大和物語に時折登場する人物]が、千兼を待っていた頃の夜、来なかったので、
さ夜ふけて
いなおほせ鳥の なきけるを
君がたゝくと 思ひけるかな
としこ
[夜が更けて
稲負鳥が鳴いているのを
あなたが戸を叩くと
思ってしまいましたよ]
古文
としこ、千兼(ちかね)を待ちける夜(よ)、来ざりければ、
さ夜ふけて
いなおほせ鳥の なきけるを
君がたゝくと 思ひけるかな
解説
稲負鳥(いなおおせどり)は謎の鳥で、しかもあるいは詠まれた時には、謎の鳥になっていたのではないか。あるいは具体的な鳥の種類を指すのではないのかもしれない。とも思われるが、わたしには分りようのないこと。一般には、稲刈りと関連する、何らかの秋の渡り鳥と考えられるが、それさえ絶対に確かとは言えないくらい。『古今伝授(こきんでんじゅ)』でも、百千鳥(ももちどり)、呼子鳥(よぶこどり)、と並んで秘伝の「三鳥」とされている。
ただ和歌の意味は、その鳥の声が、戸を叩く音に似ていたので、「あなたが来たと思ってしまいました。それくらい待っているのですから、来て下さい」という催促の和歌になっていて、鳥が具体化すれば内容も深まるには違いないが、かといって分らなくても、「あんまり来ないから、鳥の声まであなたに聞こえちゃった」くらいの趣旨は、心地よく伝わってくる。