大和物語31段35段40段 古文と朗読

大和物語31段35段40段 古文と朗読

 前回に続いて、31~40段から、すぐれた和歌の小品を三つほど。

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三十一段

現代語訳

 今は亡き、右京の大夫(うきょうのかみ)[源宗于(みなもとのむねゆき)]が、監の命婦(げんのみょうぶ)[詳細不明。主要登場人物の一人]におくった和歌。

よそながら 思ひしよりも
  夏の夜の 見はてぬ夢ぞ
    はかなかりける
          源宗于 (後撰集)

[よそから思っていたよりも
   夏の夜の、見終わらずに覚めてしまう
  みじかい夢は、はかないものですね]

古文

 おなじ右京(うきやう)の大夫(かみ)、監(げん)の命婦(みやうぶ)に、

よそながら 思ひしよりも
  夏の夜の 見はてぬ夢ぞ
    はかなかりける

和歌の意味

 源宗于(みなもとのむねゆき)は、小倉百人一首の「山里は冬ぞ寂しさまさりける」の和歌でも知られる三十六歌仙の一人。「大和物語」の別の段では、位が上がらないことを、宇多天皇に和歌で嘆いたら、「なにを意図するやら、さっぱり分りませんね」とあしらわれてしまった逸話でもおなじみ。

 ただし宗于は、光孝天皇の皇子である是正親王(これただしんのう)、その息子にあたる人物で、天皇の孫にあたりながら、結局は「源氏の名」を頂戴して、皇族から離れざるを得なかった経歴を持つ。そのような立場をふまえると、宇多天皇の分らないフリをした逸話も、背景に複雑なものが感じられなくもない。が、それはさておき、

 ここでは、そんな源宗于が、大和物語内でしばしば登場する「監の命婦」と呼ばれる女性に贈った和歌。

「よそながら思ひしよりも」には、外で聞いて、一般情報として考えていたよりも、という意図もあるが、思いの中心は、

まだこのように結ばれずに、あなたのことを慕っていた頃、悩みながらすぐに明けてしまうように思われた、夏の夜よりも

 あなたと逢って、満ち足りない思いで、覚めてしまう夢というものは、はかなくて頼りないように思われます。というもの。「見果てぬ夢」というのは、「最後まで見るまえに覚めてしまう夢」のこと。

 表面上の意図としては「よそで考えていたよりも、明けやすく短い夏の夜の夢は頼りない」と言っているだけだが、二句目を「思ひし」と表現すれば、考察よりも心情において勝り、ただの夢を「見はてぬ夢」とすれば、最後までひたっていたかった、という無念が含まれる。また、「短かかりける」といった事実でなく、「はかないものですね」とまとめれば、やはり心情をメインに詠まれた和歌であると、聞き手に感じさせる。

 つまりはそのような語り口から、読み手の思いを推し量るのは、あくまでも聞き手に委ねられていて、聞き手は表の意味だけを、浅はかに感じ取っても構わないし、読み手以上の深読みをしても構わない。

 だからこそ、聞き手は、読み手のエゴに従うことなく、自らが主体となって、言葉を解釈することが出来るのであって、解釈する課程において、詠み手の心情を自らに写し取って、感じ取ることが出来るから、詩興が起こるという仕組みである。

 もしこれを、

頭では 知っていたけど
  夏の夜の 君との恋は
    はかないものでした

と意図を前面に押し出して詠んだとしたら、その瞬間の思いを表明したものとしては、真摯に聞こえてくる一方、心情の含みがなくなった分、以前から恋い慕っていた経緯が結ばれた、その継続的な心理状態が抜け落ちて、底の浅い感想へと落ちぶれてしまう。

 常にそれが悪くて、含みを持たせた方がよい訳ではないが、婉曲(えんきょく)したり、明示しない表現にも、それによってかえって、心情を深く悟らせる戦略が込められていて、それだからこそ、千年後でも楽しく読めるという訳。

おまけ「山里は」

山里は
  冬ぞさびしさ まさりける
    ひと目も草も かれぬと思へば
          源宗于朝臣 百人一首28番

[山里は
   冬こそ寂しさが 増さるというもの
     人は離(か)れ 草木も枯れてしまうと思えば]

三十五段

現代語訳

 堤の中納言(つつみのちゅうなごん)[藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)(877-933)]が、宮中の使いとして、大内山[京都市右京区御室大内町にある御室山のこと]に宇多法皇がいらっしゃったので、出向いていった。法皇は心細そうにしていらっしゃるので、しみじみとした同情が湧いてくる。高いところなので、雲は下から、たいそう立ちのぼってくるように見えるので、(励ます意味で、)中納言はこのように詠んだ。

白雲の
  こゝのへに立つ 峰なれば
    大内山と いふにぞありける
          藤原兼輔 (新勅撰集)

[白雲が
   九重にも重なる 峰ですから
     宮中の山という意味を込めて
   大内山と 呼ばれているのです]

古文

 堤の中納言)、内裏(うち)の御使(つかひ)にて、大内山(おほうちやま)に院(ゐん)の帝(みかど)おはしますに、まゐり給へり。もの心細げにておはします。いとあはれなり。高き所なれば、雲は下(しも)より、いと多く、立ちのぼるやうに見えければ、かくなむ。

白雲の
  こゝのへに立つ 峰なれば
    大内山と いふにぞありける

和歌の意味

 藤原兼輔もまた「みかの原わきて流るる泉川」の、小倉百人一首の和歌で知られるが、大和物語内でも「人の親の」(四十五段)の和歌は、かなり知られたもので、当時の代表歌人の一人である。そんな彼が、大内山に「大内」つまり宮中を掛け合わせて詠んだ和歌。

 つまり「白雲が九重にもわたる峰だから、大内山と呼ばれるのでしょう。」と山の高さを驚くように見せながら、「ここはまるで、あなたが高見にいらっしゃる、宮中のようですね」と称えている。

 それでは、なぜ称えているのかというと、もし院に「さすがあなた様、宮中のトップでございます」などと媚びるつもりなら、もっとおめでたく、「君がためここのへに立つ雲なれば」くらい詠みそうな所だが、この和歌の調子は、もう少し静かでひたむきである。

 そのトーンがどこから出てくるかと言えば、始めに本文に記してあって、法皇が「もの心ぼそげにておはします」ので、法皇に「いとあはれなり」と同情が芽生えて、相手の心情を慰めようとして、

 内裏から離れていらっしゃることを、しみじみと思っておられるのでしょうか。白雲が幾重にもかさなって、その上にいらっしゃるあなたは、まさにこの山の名前の通り、国の内裏に立っていらっしゃるというのに。

 そんな、励ましを込めたという訳である。これがもし、もっと明白になぐさめの表現にあふれていれば、天皇や法皇に向かって、「そんなにしょげんじゃねえよ」、ポンポンと、肩を叩くような不体裁になってしまう。けれども、あくまで表向きは、「まるでここは内裏のもっとも高いところみたいですね」と、大内山への感慨を述べただけには過ぎなくて、そっと励ましと同情を含ませるだけだからこそ、法皇の方も、「こいつ何様」と不快感を起こすことなく、配下の和歌に身を委ねられる。ここでも、婉曲的な含みが、存在意義を持っている訳だ。

おまけ「みかの原」

みかの原
   わきて流るゝ いづみ川
 いつ見きとてか 恋しかるらむ
          中納言兼輔 百人一首27番

[みかの原を
   分けるように流れる 泉川(木津川)
  あの川をいつ見ただろう……
    そんな風に、いつあなたを見たろうと思って
   わたしはこんなに、恋しさに囚われているのだろう]

 3句目の「いづみ」が4句目の「いつ見」と、音を同じくしながら、「あの川のように、いつ見たのだろう」と比喩も込めて、表現の中心である下の句を導き出す。つまり上の句は、序詞(じょことば)として機能している。

 ところで、三十一段の源宗于の「山里は」が百人一首の28番で、こちらが27番。なかよく並んでいるので、一緒に覚えてしまうと良いだろう。

四十段

現代語訳

 桂の皇女(かつらのみこ)[宇多天皇の皇女、孚子内親王(ふしないしんのう)]のもとに式部卿の宮(しきぶきょうのみや)[宇多天皇の皇子、敦慶親王(あつよししんのう)]が通っていた頃、式部卿の宮に使えていた少女が、密かに宮を思っていたのを、宮は気づかなかった。

 ある時、蛍が飛び交っているのを、「あれを捕らえてきて」と、この少女に命じると、「かざみ」の服の袖に蛍を捕まえて、包んで差し出すときに、お伝えした和歌。

つゝめども 隠れぬものは
   夏虫の 身よりあまれる
  思ひなりけり
          少女 (後撰集)

[つつんでも 隠しきれないものは
   蛍の からだからあふれ出てしまう
     思いの火ではないかしら]

古文

 桂の皇女に、式部卿の宮、住み給ひける時、その宮にさぶらひけるうなゐなむ、この男宮(をとこみや)を、「いとめでたし」と思ひかけ奉りたりけれるをも、え知り給はざりけり。

 蛍の飛びありきけるを、「かれとらへて」と、この童(わらは)にのたまはせければ、汗衫(かざみ)の袖(そで)に蛍をとらへて、包みて御覧ぜさすとて、聞こえさせける。

つゝめども 隠れぬものは
   夏虫の 身よりあまれる
  思ひなりけり

和歌の意味

 夏虫は、夏の虫の意味だが、歌の趣旨と本文から、おのずと「ほたる」であることが分る。といっても「夏虫」で「蛍」を表現することも、しばしばあるので、当時の人にはより自然に「ほたる」と感じられたことだろう。この和歌、

包んでも 隠せないものは
   蛍(ほうたる)の 身よりあふれ出る
  思いなのかな

とすれば、意味がそのまま分るくらい、現代語の表現によくなじんでいる。さらに「蛍の」を「わたくしの」と置き換えれば、読み手の思いがダイレクトに表明されるところを、かろうじて蛍に置き換えて、でもあふれる思いは、誤魔化しきれなくて、明確に相手へと伝わってしまう。

 表現のされ方自体が、身からあふれ出る、隠しきれない思いをよく表わしていて、ひたむきな心情と、それを表現する言葉、さらには少女ならではの、技法に寄らないストレートな比喩のありかたなど、すばらしい作品になっているのは、何も詠み手が才人だからではなくて、ただ心から伝えたい思いを、もっともよく伝えるにはどうしたらよいか、素直に考えた結果のように感じられる。

 そうして、そのようにしか感じられないからこそ、佳作なのであって、わずかな意図や、我を込めたなら、素直な表現のなかの傷となって、たちまち駄作へ落ちぶれてしまう。今日、そんなガラクタも、ずいぶん巷には転がっているようですが、君、そんなもの見ませんでしたか?

 ただ、今日の感覚と大分異なるのは、「思ひなりけり」の「思ひ」には「火」「灯」が掛け合わされていることで、和歌の意味は、「蛍からあふれ出るのは思いの灯でしょうか」という意図を込めて、「隠せないのはわたしの思いの火なのです」と詠まれている。

 このような掛け合わせは、和歌社会の伝統から離れたところにいる私たちは、掛詞の残骸としての、ダジャレくらいしか持ち合わせていないので、どうしても心情から離れた、あそびのように感じてしまいがちである。けれども、当時の人々は、「思い」と「火」を掛け合わせて、ダジャレみたいに使おうとしたのではなくて、「思ひ」という表現には、はじめから「思いの火」というイメージが、内包されていた。そう捉えると、次第にナチュラルに思えてくるもの。

 そして、慣れてくるに従って、掛詞とダジャレの違いも、言葉遊びで使用している場合と、心情表明のかなめである場合の違いも、知識ではなく、心情で捉えられるようになってくる。そうなれば、和歌の味わいも分ってくるし、逆に当時の和歌にも、随分ひどいものがあることも、分ってくるだろう。

 それはさておき、ここでは「蛍の火」に「恋の火」を隠して読むのではなく、みずからの思いを表現することを、押し隠すことが出来なくなって、あふれ出る恋の表明を、かろうじて蛍の比喩で、交わしたくらいのところに、比喩のイメージでより豊かになった恋心が、かえってストレートな心情として返される。その隠し果(おお)せない心情表明が、蛍の光となってまたたいて、隠しきれない魅力を醸し出している。(とまやかしの呪文みたいなまとめをしてみる。)