「大和物語71~75段」古文と朗読
71段から75段は、登場人物として、堤の中納言こと藤原兼輔(かねすけ)を据えた段で、和歌も彼ものもが中心ですが、72段は和歌としては平兼盛のものだけが紹介されています。全体的に紹介したくなる和歌が並んでいますが、特に72段と75段の和歌が秀逸です。
比較的分りやすい小品が並んでいるので、今回は若干の解説は、現代語訳の和歌のところに加える程度で済ませましょう。
代わりに、主人公的役割の藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)(877-933)について少し書いておきます。彼は、前にも登場しましたが、最終官位が従三位で中納言であったこと。また茂川堤(かもがわつつみ)に屋敷があったことから、堤中納言(つつみのちゅうなごん)と呼ばれます。百人一首の「みかのはら」でも知られる歌人で、三十六歌仙の一人にもされています。
やはり、「大和物語」にしばしば登場する、三条右大臣(さんじょうのうだいじん)こと藤原定方(ふじわらのさだかた)は、兼輔と従兄弟であり、さらには妻の父にあたる人物です。二人とも、紀貫之や凡河内躬恒などの歌人たちの集うサロンを形成し、和歌社会の中心的人物でもあったので、共に覚えておくと、「大和物語」を読み解くのに、何かと便利です。
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大和物語七十一段
現代語訳
式部卿の宮[宇多天皇の第四皇子である敦慶親王(あつよししんのう)]が亡くなったのは、陰暦二月の終わり、桜のさかりであったので、堤の中納言[藤原兼輔(かねすけ)]が詠むには、
咲きにほひ
風まつほどの 山ざくら
人の世よりは ひさしかりけり
藤原兼輔 (新勅撰集)
[咲き誇って
散らせる風を待つほどの山桜ですが
亡くなってしまったあの人の一生よりは
今は長く感じられるくらいです]
三条の右大臣[藤原定方(さだかた)]の返歌、
春々の
花は散るとも 咲きぬべし
またあひがたき 人の世ぞ憂き
藤原定方 (続古今集)
[春がくるたびに
花は散ったとしても また咲きますが
ふたたび逢うことが叶わない
人の命こそ悲しいものですね]
古文
故式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)失(う)せたまひける時は、二月(きさらぎ)のつごもり、花の盛りになむありける。堤(つゝみ)の中納言の詠みたまひける。
咲きにほひ
風まつほどの 山ざくら
人の世よりは ひさしかりけり
三条(さんでう)の右の大臣(おとゞ)の御返し、
春々の
花は散るとも 咲きぬべし
またあひがたき 人の世ぞ憂き
大和物語七十二段
おなじ式部卿の宮[敦慶親王]が生きていた頃、宇多法皇の院に住んでいて、平兼盛(たいらのかねもり)が宮のもとを訪れたりしていた。宮が亡くなられてから、その院を眺めると、しみじみとした気持ちにさせられるのだった。池がたいそう風情を保っていて、昔のことが思い起こされるので、詠んだ和歌。
池はなほ
むかしながらの かゞみにて
影見し君が なきぞかなしき
平兼盛
[池は今も
昔のままの 鏡のようなのに
そこに姿を映していたあなたが
もう居ないことが悲しい]
古文
同じ宮、おはしましける時、亭子院(ていじのゐん)に住みたまひけり。この宮の御もとに、兼盛(かねもり)まゐりけり。召(め)し出(い)でゝ、ものらのたまひなどしけり。失せたまひてのち、かの院を見るに、いとあはれなり。池のいとおもしろきに、あはれなりければ詠みける。
池はなほ
むかしながらの かゞみにて
影見し君が なきぞかなしき
大和物語73段
地方の国守として赴任する人に、「うまのはなむけ」[旅への餞別。贈り物。また別れの供宴]を準備して、堤の中納言[藤原兼輔]が待っていたが、日が暮れるまで来ないので、言ってやる。
別るべき こともあるものを
ひねもすに 待つとてさへも
嘆きつるかな
藤原兼輔
[分かれるというだけでも
嘆かわしいのに
一日中 待つことまで加えて
なおさら嘆かわしい]
[ただの知人でなく、目上の者、上司などが配下を待ちわびるシチュエーションと考えられ、それゆえ国守は「まどひ来にけり」つまり「取り乱して」やってくることになる。そう捉えると、「別れるべき事もあるのに」なんて、ちょっと事務的に述べた上の句と、ちょっと上の立場らしい調子が、生き生きと感じ取れるのではないだろうか。]
とあったので、国守は取り乱してやってきた。
古文
人の国の守(かみ)の下りける馬(うま)のはなむけを、堤の中納言して待ちたまひけるに、暮(く)るゝまで来ざりければ、言ひやりたまひける。
別るべき こともあるものを
ひねもすに 待つとてさへも
嘆きつるかな
とありければ、まどひ来にけり。
大和物語七十四段
堤の中納言[藤原兼輔]が、彼の屋敷の正殿(せいでん)の前に、すこし遠いあたりに立っていた桜を、近くに移し植えたところ、枯れそうに見えるので、
宿近く
うつして植ゑし かひもなく
まちどほにのみ 見ゆる花かな
藤原兼輔
[家の近くに
移し植えた 甲斐もなく
かえって待ち遠しくなったように
見える花ですね]
[ただ移し植えたのではなく、待ちわびる花の季節を、もっと近くで見たいものだから、遠くから近くに移し植えたもの。それなのに、木は近づいたのに、花の頃はかえって遠ざかってしまった。そんな残念が「まちどほにのみ」には込められている。]
古文
同じ中納言、かの殿(との)[あの屋敷の意味で、知られた彼の屋敷くらい]の寝殿(しんでん)の前[寝殿造りの正殿の前の庭園]に、少し遠く立てりける桜を、近く掘(ほ)り植(う)ゑたまひけるが、枯れざまに見えければ、
宿近く
うつして植ゑし かひもなく
まちどほにのみ 見ゆる花かな
藤原兼輔
と詠みたまへりける。
大和物語七十五段
おなじ堤の中納言[藤原兼輔]が、蔵人所[天皇の秘書が機関化したような役職]にあった人が、加賀(かが)[石川県南部あたり]の国守として赴任する時に、別れを惜しむ夜、中納言が、
君がゆく
越のしら山 知らずとも
ゆきのまに/\ あとはたづねむ
藤原兼輔 (古今集)
[あなたが向かう
越(こし)の白山は 知らなくても
ゆくのにまかせて 雪の間に
あなたの後を追っていきたい]
[「しら山知らず」で、おなじ発音でつながる。「ゆきのまにまに」には「雪の間に」の意味と、「行きの途中途中」の意味を掛け合わせる。別れの席での趣旨としては、途中途中にも手紙を送りましょうくらいのニュアンスになるか。]
とお詠みになった。
古文
同じ中納言、蔵人(くらうど)にてありける人の、加賀(かゞ)の守(かみ)にて下(くだ)りけるに、わかれ惜(を)しみける夜(よ)、中納言、
君がゆく
越のしら山 知らずとも
ゆきのまに/\ あとはたづねむ
となむ詠みたまひける。