大和物語108、109、111段
今回は技巧的、理知的な和歌といっても、それが心情に結びつくものから、遊び心によるものまで様々で、掛詞や縁語などと聞いたからといって、身構えるほどのものではない。そんな和歌をいくつか紹介してみましょうか。
最終掲載はこちら
⇒[朗読サイト「无型」内の「大和物語」]
大和物語百八段
現代語訳
「南院のいま君(ぎみ)」という女性は、源宗于(みなもとのむねゆき)の娘である。彼女は、太政大臣藤原忠平(ふじわらのただひら)の娘貴子(きし/たかこ)のもとにお仕えしていた。
そこに、藤原師尹(ふじわらのもろただ)(920-969)[藤原忠平の五男]が、まだ「あや君(きみ)」と呼ばれていた頃、彼女の部屋に、しばしば通っていた。その後、来ることがなくなったので、「いま君」が常夏(とこなつ)[=撫子・なでしこ]の枯れたことに掛けて、詠んだ和歌。
かりそめに
君がふし見し 常夏の
ねもかれにしを いかで咲きけむ
源宗于の娘
[ほんのひと時
あなたが私と床を共にして
伏しながら眺めた なでしこの
根も枯れてしまい
あなたも寐なくなってしまったのに
あの頃、どうやって咲いていたのか
分らないような枯れたなでしこに
あなたへの思いだけが咲いたのはなぜ?]
古文
南院(なんゐん)のいま君(ぎみ)といふは、右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)の君(きみ)のむすめなり。それ、太政大臣(おほきおとゞ)の内侍(まいし)の督(かん)の君(きみ)の御方にさぶらひけり。
それを、兵衛(ひやうゑ)の督の君、あや君(きみ)と聞こえける時、曹司(ざうし)にしば/”\おはしけり。おはし絶えにければ、常夏(とこなつ)[なでしこ]の枯れたるに付けて、かくなむ、
かりそめに
君がふし見し 常夏の
ねもかれにしを いかで咲きけむ
となむありける。
和歌の意味
「ふし見し」には「あなたが伏す」「なでしこの節」、常夏には「寝床」、四句目は「根が枯れる」と「寐ることが離(か)れる」が掛っているだけでなく、「音(ね)も涸れる」つまり「涙さえ涸れて」の意味を三重に掛け合わせる。また「節」「常夏」「根」「枯れ」「咲き」は縁語という、超絶技巧の和歌。
さらに結句の「いかで咲きけむ」も、かつてはどうやって咲いていたのかしら、という意味と、どうして今頃あなたへの思いが咲いたのかしら、という意図を掛け合わせている。
さて、学生時代には、こんな紹介ばかりをされて、和歌が嫌いになる人も多いかも知れませんが、それはお受験と一体化した、不気味な教育システムのせいで、当時の和歌に責任がある訳ではありません。
これまで見てきたように、和歌にも心情の前面に出たもの、語りに近いものから、理知の戯れまで、あらゆる表現の幅があって、技巧的なものであっても、それが遊び心である場合から、技巧が和歌の心情表明のためにのみ奉仕している作品までさまざまです。
これなどは、別に詳細が分らなくても、「あの頃は、あなたと伏して見た撫子が、すっかり枯れてしまって、もうどうやって咲いたら良いのか分りません」だけでも、撫子にかつての恋が掛け合わされているのが理解できますし、その生真面目な心情が、あそびではなく思いを伝えたものであることは分ると思います。
その上で、掛詞の意味が分るほどに、土台としての生真面目な心情が、きめ細かく解きほぐされはしますが、逆に知的なあそびとしての嫌みは、感じられないのではないでしょうか。感じさせるのは、そういうことをばかり、第一義のように教えて、わざと和歌を嫌いにさせている、どこぞの不気味な輩のせいなのかも知れませんね。
大和物語百九段
現代語訳
おなじ源宗于の娘が、源巨城(みなもとのおおき)[[源宗城(みなもとのむねざね)]]から牛を借りて、その後また借りようとした時に、「お貸ししたあの牛は死にました」と言われたので、その返事に、
わが乗りし
ことをうしとや 消えにけむ
草にかゝれる 露のいのちは
源宗于の娘 (後撰集)
[わたしが乗った
ことが憂うつで 消えてしまったのでしょうか
草を頼りにする 露のようなはかない命は]
古文
おなじ女、巨城(おほき)[[源宗城(みなもとのむねざね)]]が牛を借りて、またのちに借りたりければ、「奉(たてまつ)りたりし牛は死にき」と言ひたりける返しに、
わが乗りし
ことをうしとや 消えにけむ
草にかゝれる 露のいのちは
となむありける。
和歌の意味
これも先ほどの、「常夏」の和歌とおなじ詠み手で、ここでもまた、「うし」に「牛」と「憂し」を、下の句は「草に掛けて命をつなぐ」つまり「草を食べている」の意味と「草にかかった露のような」はかない命は意味を掛け合わせている。「消え」「草」「露」「命」は類想的キーワードとしての縁語。
だが先ほどとは違って、牛を貸してよ、という相手に送られたこの和歌は、生真面目よりも、ダジャレの戯れを感じさせるのは、「わたしが乗ったのが憂うつで牛は死んだのかしら」という、詠み手のデフォルメが、心情よりも洒落を感じさせるからには他なりません。
つまりは彼女が乗ったのが原因で、愁いに満ちた牛が、それがけがれであれ、恋わずらいであれ、煩悶して死ぬわけはない。という事実との乖離が、「牛」と「憂し」という品のない、露骨なダジャレめいた掛詞と一体化して、わたしたちに面白さを先に、呼び起こすという仕組みで、だからこそ私たちは安心して、「あな面白」と感じてしまう訳です。
さらに深読みすると、「わたしが必要なのは、以前と同一の牛じゃなくって、ただの牛なの。そんなの分りきってるのに、さては貸さないつもりなのね」といった、静かなる恨みが、「どうせ私が乗ると牛は憂いに満ちちゃうんでしょ」というすねた調子として、まるで通奏低音のように、かすかに聞こえてくる。
すると二人の関係が、ますます面白くなって、場景が生き生きとしてくる。生き生きとしてくると、このシチュエーションがまますます面白くなって、詠まれた和歌がますます面白くなってくる。
こんな短すぎるくらいのショートストーリーなのに、これだけの面白さを発揮するのは、それが和歌と物語で構成されているからには違いありませんが、この密度はある意味では驚異的だとも、言えるのかも知れませんね。
そしてもっと面白いことは、「大和物語」の作者が、狙ったように一つ前の段と、この段を対比させていることで、まるで技巧の効果の二つの側面を、教えるための和歌の学校のような気さえしてきます。
大和物語百十一段
現代語訳
橘公平(たちばなのきんひら)の娘たちは、「県の井戸(あがたのいど)」と呼ばれる所に住んでいた。長女は、醍醐天皇の中宮である穏子(おんし)のもとに、「少将の御(しょうしょうのご)」という名称でお仕えしていた。三女にあたる娘は、備後国の守(びんごのかみ)を務めていた源信明(みなもとのさねあきら)が、まだ若かった頃に、彼を初めての男として付き合っていたが、やがて男が通ってこなくなった時に、和歌を詠んで送った。
この世には
かくてもやみぬ わかれ路の
淵瀬をたれに 問ひてわたらむ
橘公平の三女
[この世では
こうして別れてしまいましたが
命の別れ路の 三途の川を誰に
たずねて渡りましょうか]
古文
大膳(だいぜん)の大夫(かみ)公平(きんひら)[橘公平]のむすめども、県(あがた)の井戸(ゐど)といふ所に住みけり。おほいこ[長女]は、后宮(きさいのみや)に「少将の御(ご)」といひてさぶらひけり。
三[三女]にあたりけるは、備後(びんご)の守(かみ)信明(さねあきら)[源信明]が、まだ若男(わかをとこ)なりける時になん、はじめの男にしたりける。住まざりければ、詠みてやりける。
この世には
かくてもやみぬ わかれ路の
淵瀬をたれに 問ひてわたらむ
となむありける。
和歌の意味
理知的な力を借りるにしても、こちらは時代が異なるので、わたしたちに知識が必要になる例。当時は死後に三途の川を渡るのに、はじめてむすばれた男に手を引かれていく、という迷信のようなものがあったので、それに基づいて詠まれているようです。
けれどもそんな俗信さえ消え失せた世の私たちには、そうだと思って詠まないと、理解できない和歌で、その意味では理知的な助けが必要ですが、かといって一度説明されれば、寄り添うことは出来そうです。
ただ同時に、この和歌の意味は、必ずしも明快なものではありません。今から死にますが、誰が三途の川で手を引くのかしら、と切羽詰まった威しをするようにも、結局また、あなたが私の手を引くことになる、という恋の呪縛のようにも、さまざまな解釈が出来るのですが、物語の方がわざときわめて淡泊なしるし方をしているために、定めることが出来ません。
それにも関わらず、ただの思いつきや、恋の冷めた回想ではない、もっと生々しいなんらかの心情が、和歌を詠ませたように思わせることに成功しています。はたして「大和物語」の作者は、どこまで計算しているものやら、ちょっと気になる所ではあります。