144段について覚書
じっくりまとめようと思ったけれど
やることが沢山あって、すぐに過去へ流されてしまうので、コンテンツを作ったときに走り書きしたままに残しておきましょう。途中まで執筆して、お別れとなったので、このような見出しに。本文の朗読は、こちら。
http://tokino-koubou.net/wp/2018/02/10/191741/その一 色好みの女
現代語で読んでも分る通り、この段の主人公は、筑紫から来た新妻、あるいは後妻(ごさい)、妾(めかけ)とでも言った方がよいかも知れないが、その「筑紫の女」であり、この女性に対して、対比されるべき純真そうな本妻が、友人となって登場する。そして二人よりやや背景に、ストーリー上二人をつなぎ止める意義を持つ、夫が存在している。見知らぬ男たちも記されてはいるが、それは具体的な登場人物としてではないので、この段は三人芝居であると言える。
しかも、登場させがちな船頭なども排除する傾向は、ドラマのような開かれた形式であるよりも、舞台のような閉ざされた形式を指向し、オーケストラではなく、トリオやカルテットでの、音の紡ぎ合いをこそ指向するもので、これは、余分なものをそぎ落として磨き上げる、和歌の価値観とも通じるものがあるようだ。
そしてテーマは「恋に生きる女」(いわゆる「色好みなる女」)であり、その生き生きとした行動力と、その結末が描かれているのは、本文はもとより、この段の和歌がすべて「筑紫の女の恋の和歌」だけで成り立っていることからも明らかである。
しかもその和歌が非常に生き生きと、「色好みの女」の精神を描き出していて、他の男を作って「月さえ見てなければ知らないふり」と詠んだと思ったら、夫から尋ねられたら、「つい風みたいに他の男になびいちゃったけど、こころはあなたになびきます」なんて、しれっと詠んでみたり。
また別の男に言い寄られて、「情けないと思いながらも、こりない私」なんてこりないで詠んだり。(しかも本文にちゃんと「こりないで」と書いてあったり。)
さらに男に言い寄られたときに、一度は止めようとしながらも、やっぱり自らの性質には逆らえないで、新しい男を求めてしまうような、まさに現代でもありがちな、あるタイプの女性を、四つの和歌を基軸にしながら、本文で描き出していて、なかなかユニークな作品になっている。
特に、二首めと三首めには、心の揺らぎが描かれていて、この恋多き女性が、一首目の和歌のように、単純に男を楽しむような、ステレオタイプ的な描写ではなく、恋に悩みながらも恋多き方へ向かってしまう、あるタイプの女性の心理を、教訓や観察的な倫理学者のような立場ではなく、ストーリー上の共感を込めた、今日なら流行作家のような立場で記している。
しかも後述するように、はじめは単純そうに見えるこの恋多き女性が、実際は夫によって今の立場につなぎ止められているものだから、浮気がばれて夫から「どっちが好きなのだ」と尋ねられると、「あなたです」と事も無げにうそぶいてみせた、ように思われながら、実際は動揺していて、三首目になると、あきらかに恋への逡巡が見られる。けれども、動揺しながらも、恋に生きて「こりずまに」和歌でたわむれる、彼女の持つあっけらかんとした陽気さを失わない。など、きめ細かい、心理的推移が、さらりと読み取れるようになっている。
その心の揺らぎが、最後の四首めの和歌につながる訳で、寄せては返すような思いと、その遍歴の最後の結末として、寄せては返す波に委ねられて、そのような女性が決して幸せではないことを、悲しいエンディングにまとめているようである。
ただそこには、教訓めいた態度はまったくなく、恋に生きたこの筑紫の女は、あくまでも、恋の遍歴を生き抜いた結果として、最後の悲しみへと至るのであって、決して最後の教訓のために全体が構成されているのではないことは、詳細に解説をしなくても、読んでいて感じられるのではないだろうか。
その二 本妻について
しかし、それだけでは、舞台の登場人物は、主人公でさえも十分に動き出さない。そこで重要な役割を果たしているのが、「もとの妻(め)」と書かれた本妻である。
彼女は本文の中で、前面に出てくることはないが、このような恋多き筑紫の女に、夫を半分は奪われた立場でありながら、筑紫の女の事が好きで、友達のように思っている。(可愛らしいと慕う調子から、あるいは親子ほど年齢が離れているかとも思われる。)もし本妻が、「そのような事」と浮気を軽蔑したり、彼女をいじめるような役だったら、この恋多き女も「類型的な色好み」や「嫌ったらしい恋狂い」として受け取られそうだが、ここでは、本妻の善良さを際立たせることによって、かえって本妻と親しいこの「恋多き女」も、善良でチャーミングな人なのではないか、と思わせることに成功しているようだ。
それは、八割方の独り芝居に、相の手としての脇役が、ほとんど台詞もないままに存在するだけで、主人公の演技がすばらしく引き立ってくるようなもの。と考えると分りやすいかも知れない。
作者は明確に、本妻のキャラクターにも意識を持っていて、主人公に掛けるだけの注意を、まとわりつくこの影にも払っている。特に、他の男に言い寄られて、結局恋に生きてしまった主人公が、本妻にこりない和歌を送ってしまう所などは、「こりずまによみたりける」など、親しい彼女だからこそ、気を許してこんな和歌を記してしまった。文章の記述自体から、二人の仲がクローズアップされていて、本妻はまったく表に登場しないのに、本妻のキャラクターまで描かれているように感じられる。
その三 夫について
つまりこの段のメインテーマは「恋に生きる女」ではあるものの、もう一方でサブテーマとして「女同士の友情」というものが、一貫して描かれていて、その二つが絡み合って、最後のエンディングでは、「恋に生きる女の最後」と「二人の友情の結末」が共に描かれていることになる。
この二人に対して、夫である男はより背景に存在するが、作者は決してそれをおざなりにはしておかない。もとより女は男に導かれて登場し、男に見送られて別れていくし、彼女の存在が、夫によって成り立っているには違いないが、もちろん、それだけでは、キャラクターとしての夫を保証しない。類型的な人物として提示され、まるでオブジェのように置かれていても、主人公と脇役の二人でも、この作品は、それなりに面白い舞台にはなっているように思われる。
ただもしこれに、さらなる脇役を、一瞬でもオブジェではなく、生きた人間として提示できたなら、この舞台はずっと奥行きのあるものになるには違いない。執筆者は、現代人の遣るように、綿密なプランを組むのとは異なって、おそらくは和歌的なきめ細やかさでもって、それを無意識に感じ取っていたのだろうか。夫である彼が女らの添え物でなく、何らかのキャラクターを持った人物であることは、二首目の和歌のところで明らかになってくる。
ここで男は、登場しない誰かから、女が忍んで浮気をしていることを聞いて、「こんな話を聞いたんだが、どうなんだ」と筑紫の女に尋ねる。それで二首目の和歌が出される。それだけなら、もちろんオブジェに過ぎないが、ここで、ただ筑紫の女の和歌を出させるための装置なら、まったく必要の無い記述がなされている。それは、
この男、思ひたりけれど、心にもいれで、ただ、さるものにておきたりけり。
つまり話は聞いたが、たいして気にもとめないで、そのまま放っておいた。とひと言加えているのだが、この表現は、男と会っている女をとがめるという、一首から二首目への流れにおいては、ストレートではなく、ひっかかるところがある。
簡単に言えば、読んだときに、「おやなんでこんなひと言が入っているのだろう」と立ち止まるように仕組まれていて、この引っかかるところから、男への推察願望のようなものが芽生えてくる。すると、はじめの方に記された、
かくてこの男は、ここかしこ人の国がちにのみ歩きければ
というひと言も、ただの状況説明ではなく、この男のキャラクターを内包して、ここに置かれているような気がしてくる。つまり、舞台を眺めている観客に、登場人物としての好奇心を持たせることに成功している訳で、このような関心が芽生えたところに、筑紫の女に愛想を尽かした男が、「心かはりにければ」となるので、単純に浮気女に愛想を尽かしたのではなく、それより前に筑紫の女への関心が薄れているような、ただし明記はされないものだから、このキャラクターにも独自の思いがあって、カップル二人の葛藤の果てに、段のエンディングを迎えるような印象がしてくる。
このように、オブジェを登場人物に変える策略が、一首と二首の間に仕組まれていて、そのために私たちは、二人の背景に、時折姿を見せながら、でもしっかりと生きた俳優として活躍している、夫の姿を認めることが出来る訳で、これによって掛け合いの定まった二人舞台が、糸のもつれるような、より複雑なものに思われてくる。
その四 エンディング
このように、三つの糸が絡み合って、最後のエンディングを迎える訳で、夫が見送りに来るのはもっともであり、本妻だけでなく、夫もともに涙を流すのは、きわめて自然なことのように感じられる。つまり、わたしたちの知らされていないドラマが、それとなく暗示された後であればこそ、何の不自然もなく、臨場感をもって、最後のクライマックスを迎えられるという仕組みだ。
逆を返せば、このエンディングは、ある程度、これらの意図が、論理的認識によるものではないにせよ、込められていなければ、きめ細かいフォーカスの設定など、このような記述にはまとめることは出来なかったとは言える。
さて、現代の作家なら、これらを複雑に絡み合わせて、すべてのキャラクターを描き出して、心理戦でも描き出しそうなところではあるが、もちろんこれは歌物語であって、舞台の台本ではない。
一番大切なところ、提出された和歌と、それにそった主軸は決して損なわない。一方で、もし無駄に冗長を極めれば、物語としての糸は、もっと明快に描き出せるかもしれない。しかし、和歌が三十一字の閉ざされた空間で、豊かな心情を表明するのと、おそらくはおなじ価値観で、きりつめた最小限度の装置と、最小限の記述を使用して、簡素にとりまとめられた段であればこそ、このストーリーの価値は、完全無欠では無いかもしれないが、なかなか侮りがたい段を形成しているように思われる。
一方で、この段が冗長になるところがある。それは最後のエンディングの描写で、ここでは作者はまるで現代の執筆者のような、きめ細かい配慮で、これまで淡泊に切り詰めて進行した描写を投げ捨て、冗長気味のきめ細かい情景を描き出す。
これもまた、この段の魅力であり、この段はまさに歌と物語であって、和歌を中心とするならば、最後も淡泊に記されようものだし、物語を中心とするならば、全体がこのように、冗長気味に執筆されたであろうに、(そのような段もあるのだし、)その二つが有機的に絡み合って、一方をおざなりにする事は決して無く、ストーリーとしての魅力を損なわない。
もし最後を仮に「泣きながら舟を見送るのであった」くらいでまとめてしまったら、完全に和歌にもとづいた、ショートストーリーになってしまうが、これによって物語としての面白さが引き立ち、物語があってこその和歌であるように思わせることに成功している。
同時に、定期的に置かれた和歌が基軸となって、物語全体を動かし、形成しているところから、仮に和歌が抜けても、物語が成り立つような、しばしば見られる冗長型の歌物語とは異なり、ストーリーと和歌、それらが分離したら、無機物に落ち入って、意味をなさなくなってしまう。という意味で、有機的に絡み合っている。
それにしても、最後の舟での別れの描写はきめ細かで、互いの別れの悲しさを、見事に描き出しているのは、やはりこの段が、三人の芝居として、描き抜かれたからこその結末には違いない。それで、こんな短いストーリーであるのに、長い遍歴の果てのエンディングのような印象を感じて、心地よく(あるいは悲しみを共有してか)段を閉ざすことが出来る訳である。
和歌について
ところで、和歌と物語なので、内部における和歌の存在は、きわめて重要である。和歌が文脈のつじつまと合っていなければ、そこでストーリーは分断されるし、動的に進行するこの段のような和歌に、もし抽象的にして言葉の結晶をきわめたような、芸術作品的な和歌をもし置いたとしても、和歌だけが浮いてしまい、前後関係が切断されるような、むなしい結末を迎えかねない。
以下は詳細を記さず、今は覚書
その点、『大和物語』全体の傾向だが、時には後拾遺姿(ごしゅういすがた)などとけなされることもある、後拾遺和歌集的な和歌が使用されている。これによって、日常的な語りと、作品としての和歌のバランスが、日常のあいさつから損なわない程度に、うまくまとめられた和歌が、使用されることにより、もし芸術作品として眺めるなら、後拾遺集を眺めるときのような、中途半端な作品と、厖大な量付き合わされる時の、徒労さえ感じてしまうが、その代わり、登場人物の会話のなかに織り込まれたような場合には、日常の語りが、おしゃれな和歌に彩られるような、ストーリーを遮らない魅力を持つことになる。(もちろん『大和物語』でも芸術的な和歌の表明を目的にした段も多いが。)そのような意味で、ここに登場する和歌を眺めると、どれも、ストーリーと親和していて、しかも魅力的であることが分ってくる。
というような内容を、具体的に和歌を紐解きながら説明しようと思ったのですが、もう朗読を終えたら、次の朗読の作業へ移らなければならないので、好奇心が、さようならを言っています。いまはこれまで。
おまけ 併置
男は心かはりにければ、ありしごともあらねば、かの筑紫に親兄弟(おやはらから)などありければ行きけるを、男も心かはりにければ、留めでなむやりける。
この文章、「心かはりにければ」を二度繰り返しながら、
「男は心かはりにければ、ありしごともあらねば」
「男も心かはりにければ、留めでなむやりける」
と意識的に対置した文章を形成してて、その構造から、前半が女の側から、後半が男の側からのフォーカスであることが悟れるようになっている。つまり、はじめは女側から「男の心が変わったので筑紫に帰る」と記しているのが、繰り返しの「男も」でフォーカスが変わって、「心が変わったので留めなかった」とまとめている。あまり多くは見られない、遊び心のある表現方法になっている。つまりは、ストーリー全体の構図も非常にしっかりしていて、このようなディテールにもこだわりがあるものだから、なかなかに練り上げられた段になっている。
エンディングのクライマックス
についても、考えてみたら、面白いかなあと思って、見出しだけは作ったのですが、やっぱり今はさようならです。はい。さようなら。
P.S.
どうでもよいが、どうでもよくない。どうでもよくないが、どうでもよい。小学館の「新編日本古典文学全集」の「大和物語」には、142段の説明の欄に、「141段は本妻の幼子のような純白な心を中心とし」とあるが、和歌物語においてすべての和歌が、筑紫の女の詠んだものであり、上に説明したようなストーリーであるのに、どこをどう詠んだら、本妻の純真を中心とした段に読み取れるのだろうか。
中学生レベルの読解力のテストで考えても、先生が高熱を発するくらいの滅茶苦茶であり、100年前に書かれたものだとしても、あり得ないレベルの、基礎的文学能力の欠落が有り余る一文で、他の解説カ所にも、どれほど壮大な失態がなされているかと、危ぶまれるほどの、蒙昧にあふれた失言である。
もっとも、わたしが同じ事をしても、もちろんわたしは、わたしを許しますが……許せないのは、これが専門的に文学を突き詰めるべき学問にあたる人間が、有料どころか、高価で権威もあるような出版物に、責任も無責任も考察するよりはるか以前の、浅はかにも浅はかを加えたほどの失態を、よりによって専門的に文学を突き詰める学問にある人間が、平気で演じていることが許せないのです。もちろんわたしは、わたしが同じ事をしても、わたしを許しますがね。