大和物語120段122段
贈答歌のアクロバット。というほどでは無いかも知れませんが、時間軸をずらした贈答歌の様相の120段と、ニュアンスの良くも悪くもなるような、デリケートな表現を、わざと別の意図で読み合うような122段を紹介します。
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大和物語120段
現代語訳
太政大臣である藤原忠平(ふじわらのただひら)(880-949)は、大臣になってから随分経つのに、枇杷(びわ)の大臣と呼ばれる藤原仲平(なかひら)(875-945)[二人とも藤原基経の同母息子]は、なかなか大臣になれないでいた。しかし、ついになることが出来た祝賀に、藤原忠平は梅を髪に挿して、
遅くとく
つひに咲きける 梅の花
たが植ゑおきし 種にかあるらむ
藤原忠平 (新古今集)
[遅く早く
ついに咲きました 梅の花は
誰が植えておいた 種なのでしょうか]
と詠んだ。
その日の様子を、和歌と共に手紙に記して、斎宮である柔子内親王(じゅうしないしんのう)[宇多天皇の皇女]に差し上げる時に、藤原定方(さだかた)の娘である能子(よしこ)が、これに和歌を加えて、
いかでかく
年きりもせぬ 種もがな
荒れゆく庭の 影と頼まむ
能子 (後撰集)
[どうかしてこのような
実をつけないような年のない
種があればよいのに
荒れてゆくこの庭を
照らす頼りとしたいから]
このように願った甲斐があって、藤原実頼(さねより)(900-970)[上の藤原忠平の長男]が通ってくるようになったので、能子の家の一族は、その後繁栄することとなった。そんな時、斎宮から、
花ざかり
春は見に来む 年きりも
せずという種は 生ひぬとか聞く
柔子内親王 (後撰集)
[花ざかりの
春には見に行こう
実を結ばないことが
ないという種が
生えたと聞いたからには]
古文
太政大臣(おほきおとゞ)は、大臣(おとゞ)になりたまひて、年ごろおはするに、枇杷(びは)の大臣は、えなりたまはでありわたりけるを、つひに大臣になりたまひにける御よろこびに、太政大臣、梅を折りてかざしたまひて、
遅くとく
つひに咲きける 梅の花
たが植ゑおきし 種にかあるらむ
とありけり。
その日のことゞもを、歌など書きて、斎宮(さいぐう)に奉(たてまつ)りたまふとて、三条(さんでう)の右の大殿(おほとの)の女御(ぎようご)[藤原定方(さだかた)の娘、藤原能子]、やがてこれに書き付け給ひける。
いかでかく
年きりもせぬ 種もがな
荒れゆく庭の 影と頼まむ
とありけり。御返し、斎宮よりありけり。忘れにけり。
かくて、願ひたまひけるかひありて、左の大臣の中納言[先に登場した藤原忠平の長男藤原実頼(さねより)(900-970)]渡り住みたまひければ、種(たね)みな広ごりたまひて、かげ多くなりにけり。さりける時に、斎宮より、
花ざかり
春は見に来む 年きりも
せずという種は 生ひぬとか聞く
柔子内親王 (後撰集)
和歌について
初めのものは、藤原基経の息子である忠平(ただひら)、仲平(なかひら)が、咲く時期はずれたけれど、共に咲くことが叶ったのを、誰が植えた種であろうかと、自分たちの両親を称えるような内容。
普通ならそれに対する返歌でまとめそうなところだが、藤原定方(さだかた)の娘能子が、その時のことを斎宮の手紙に執筆するという物語を進行させる。さらにそれに対する斎宮の返歌が置かれるべきところで、斎宮の返歌は忘れたとして、また物語に差し替える。
その後、能子が、はじめの和歌の詠み手でもある忠平の、長男である実頼(さねより)と結ばれて、その結果家柄が栄えて、つまりは種が広がった時の、斎宮の和歌で、先ほど忘れられた返歌を全うするという内容。
つまり、返歌の置かれるべきところで、物語の時間軸と事象を移しながら、同時にそれぞれの次の和歌は、ちゃんと一つ前の和歌に対して、内容上返歌の意義を全うしているという、ストーリー性と贈答歌のアクロバットのような小品になっている。
したがって、途中に出てくる「御返し斎宮よりありけり。忘れにけり。」とあるのは、冗長を避けるために、わざとそのように記した可能性がきわめて高い。これによって藤原基経に撒かれた種が、稔り、さらに繁り広がっていく様子が、きわめて短編であるのにも関わらず、順次時節を代える和歌のおけげで、十分に気分を味わいながらも、最小限度の表現で次の場景へと橋渡す、見事な小品になっている。
また同時に、主人公としてのヒロインは能子であり、彼女の独り芝居として成り立つ点、その構成感は見事であり、しかもちっともそれを気づかせないくらい、さらりと着流されて物語を終えていて質が高い。
大和物語122段
現代語訳
藤原千兼(ふじわらのちかぬ)の妻である「としこ」が、志賀寺にお参りをした時、増基(ぞうき)[歌人で「いほぬし」という家集がある]という高僧と逢って、一夜を共にして、別れるとき、増基の方から、
あひ見ては
別るゝことの なかりせば
かつ/”\ものは 思はざらまし
増基法師 (後撰集)
[出会ってから
別れることがないならば
満ち足りないようなあれこれと
思い悩んだりはしなかったのに]
としこの返し、
いかなれば
かつ/”\ものを 思ふらむ
名残もなくぞ われは悲しき
としこ (新続古今集)
[いったいどうして
あれこれと思い悩んだりと
中途半端な感慨にふけるのでしょう
一点の曇りもなく
わたしは悲しんでいるというのに]
とあった。手紙には他の言葉も多く書かれているのだった。
古文
とし子[藤原千兼の妻]が志賀(しが)に詣(まう)でたりけるに、増喜君(ぞうきゞみ)といふ法師ありけり。それは、比叡(ひえ)に住む、院(ゐん)の殿上(てんじやう)もする法師になむありける。
それ、このとし子詣でたる日、志賀に詣であひにけり。橋殿(はしどの)[谷や崖に橋のように渡した建物]に局(つぼね)[部屋]をしてゐて、よろづのことを言ひかはしけり。
今はとし子、帰りなむとしけり。それに、増喜のもとより、
あひ見ては
別るゝことの なかりせば
かつ/”\ものは 思はざらまし
返し、としこ、
いかなれば
かつ/”\ものを 思ふらむ
名残もなくぞ われは悲しき
となむありける。言葉もいと多くなむありける。
和歌の意味
この贈答歌も面白くて、「かつがつ」の意味が、「十分満ち足りないながらもともかくも」くらいのニュアンスであることを、増基法師は「満ち足りない」思いで悩むこととして和歌を詠み、としこは「満ち足りなくてもともかくも」なんて、そんな中途半端な気持ちで悩んでるなんて、信じられない。わたしは、もっと切羽詰まっているのに。と返している。
ちょっと違うけれど、「まあまあの成績」だと喜ぶ子供と、「まあまあの成績だなんて、そんなことで一流大学に入れるの」と鬼のように燃えさかる教育ママの、おなじ言葉のニュアンスの違いのもたらす、贈答歌の面白みくらいに、今は感じ取っておいても良いだろう。