大和物語の朗読 その一

大和物語 その一

 はじめてながし読むとて、十ずつ朗読してみんとてすなり。あらすじのみして、テキストはあらざるべし。

 途中で止めています。全文朗読は、「无型」の「大和物語」で掲載。

あらすじ

 亭子の帝(ていじのみかど)、つまり宇多天皇が、天皇を譲って譲位するころ、女流歌人の伊勢(いせ)が、壁に和歌を記せば、宇多天皇もその横に和歌を書かせる。

 宇多天皇が譲位して、出家して山を歩き回るとき、天皇に合わせて出家した橘良利(たちばなのよしとし)がお供をして、日根(ひね)というところで和歌を詠むと、みな感動して、次を詠むものはいなかった。

 今はなき源大納言(げんだいなごん)、つまり源清蔭(みなもとのきよかげ)(884-950)が宰相の地位にあったころ、京極の御息所という、宇多院に使えていた女性(左大臣藤原時平の娘)が、60歳の祝賀のためのものを作りたいと言うので、源大納言は「としこ」という女性に作らせた。彼女は源大納言の義兄弟にあたる藤原千兼(ふじわらのちかげ)の妻に当たり、しばしば大和物語内に登場する。

 十月一日に、としこが源大納言に頼まれていたものを送り届ける際に、「ちぢの色に」と始まる和歌を添えて送ったが、宇多院の祝賀が終わると、源大納言からの連絡も来なくなってしまったので、ちょっと恨みごとした和歌を送ったら、翌年に宰相から返歌があった。

 野大弐(やだいに)こと小野好古(おののよしふる)(884-967)が、ちょうど「純友の乱」があったとき、討伐に任命されたが、ちょうど昇進の時期にもあたっていたので、期待して待ちわびていたら、京からの源公忠(みなもとのきんただ)からの手紙に、和歌で「以前の階級の服装であなたを見ようとは」とあったので、昇進が叶わなかったことを知って、泣いて、泣いて、泣きまくってしまった。

 話の前に、醍醐天皇の妻の一人が藤原穏子(おんし・やすこ)で、保明親王を生んでいたが、若くして亡くなってしまう。しかし亡くなってほどなくして、穏子は923年、中宮となって、事実上の皇后となった。それをふまえて……

 前の皇太子であった保明親王が亡くなったので、親王の乳母の娘であった大輔(たいふ)が嘆きまくっていたが、穏子が中宮になられるので、新たな后になる日には不吉であると、姿を隠させたので、大輔は和歌を詠んでよこした。

 藤原朝忠(あさただ)(910-66)が、他人の妻と恋仲だったが、その女性は夫と一緒に地方に下ってしまったので、女のもとに別れ歌を詠んだ。

 恋仲の男女が、知り合って年を過ごしたが、ささいなことで別れてしまった。しかし嫌いになって別れたのではなかったので、、男の方もしみじみとした思いに囚われて、和歌を送ると、女性もしみじみとした感慨に囚われた。

 監の命婦(げんのみょうぶ)(しばしば登場する)という女性のもとに、式明親王(907-966)が通っていたころ、「片違(かたたが)え」で方角が悪いので、今日はいけませんと連絡した。「どうせいつも方角がふさがっているんでしょう」とすねた和歌を送ったら、占いをものともせず、やってきて泊まっていった。またしばらく逢えなくて、狩りに言ってましたと連絡したら、「うらみはしませんが……」という裏のありそうな和歌が帰ってきたとか。

 克明親王がなくなって、一周忌が行われた際に、藤原千兼(ちかね)の妻「としこ」が、親王の北の方であった、藤原時平の娘に和歌を贈ったら、そのお返しがあった。

 監の命婦が、かつて売った家の前を通るときに、「かは」(これは)という言葉に「川」を掛けて、川の渕瀬の変わる思いを和歌に詠んだ。